私は1971年、ソ連のミチューリンスク市で生まれました。その頃は、ソビエト連邦のまっただなかで、たとえお金があったとしても店には買うものがなく、トイレも風呂もないアパートで育ちました。町から450キロ離れたモスクワに、サラミやら何やらの食料を買いに、よく夜行列車で母と買い出しに行ったことを覚えています。幼い私でも、腕がちぎれるほどの食料の入ったかばんを両腕に持っていたのですから、母はどれだけの荷物を背負っていたことでしょう。それでも、食料のためには、行かずには生きられなかったのです。
5歳頃から、市場でりんごや野菜を運ぶ手伝いをして、稼いだお金で鉛筆やアイスクリームを買っていました。そしてアパートに水や暖炉のための薪を運ぶ手伝いをする合間に、絵を描いていました。
11歳の時、美術学校に入学するため、母は私の絵をモスクワとレーニングラードの美術学校に持って行きました。そこで言われたのは、「デッサンはいいですね。しかし、色のついた絵はどこですか?」ということでした。私の町では、まともに描くことのできる絵の具が存在しなかったため、鉛筆でしか絵を描いたことがなかったのでした。母はモスクワで私に絵の具を買い、それから一年後に、私はレーニングラードの美術学校に入学しました。
美術学校では寮生活で、よく夜中に二階の窓から綱をつたって抜け出し、白夜のレーニングラードを友人と散歩したり、映画に行ったりしたものでした。

18歳のときに芸術アカデミーに入学し、20歳の時にソ連が崩壊しました。しかしソ連の時も、その後も、私たちの生活は厳しいものでした。私は友人たちとネフスキー大通りで、レーニングラードを描いた絵を外国人旅行者に売って、生活をたてていました。
どの時代も絵を描く事が好きで、これは私の一生のテーマです。
アンドレイ ヴェルホフツェフ

ロシアの若い画家アンドレイ ヴェルホフツェフのギャラリー島田初登場です。象徴派というよりはアレゴリー(寓意)によって自らの世界観を真っ直ぐに描く作家だと感じます。「生と死の境界線」を見れば、今や枯れようとする純潔、無垢を表徴する百合を右手に持つ貴族・王族のような襞襟を纏った髑髏の男。生と老いと死をメタファー(暗喩)とする絵画は単に仄めかしを超えて直裁に迫るものがあります。大作を交えて見応えのある構成でご覧いただきます。
島田誠

1F deux 4/12(土)— 4/17(木) 12:00 — 19:00
*火曜日は —18:00、最終日は —16:00