2001.03「遠藤泰弘さんからの伝言」

今年の12月に遠藤先生の没後5年を記念して先生の代表作を集めて回顧展をひらく計画を進めています。遠藤せんせいは1988年を最初に三回の個展をさせていただきました。残念なことに、1996年12月17日に脳出血で倒れられ、27日には帰らぬ人となられました。その遺作展は1998年5月に神戸阪急で開催されて、私も拝見し、改めて先生の気品のある、心に響く抽象作品に感銘を受けました。先生の画暦を拝見していても、先生本来の仕事の発表の場は、必ず海文堂ギャラリーを選んで下さっていたことがわかります。今回の回顧展は、新しいギャラリー島田のスペースを先生が元気でおられたなら、どんなに喜んで下さっただろうとの思いから奥様と相談して企画しました。
 この計画にあたって、奥様から遠藤先生が自分の人生について、芸術について語った言葉のメモを大量に託されました。ほとんどがカレンダーの裏であったり、スケッチブックの切れ端であったりするのですが、几帳面で流麗な、そして極めて詩的な、すばらしい文章です。たぶん、アトリエで筆を止めて、深い沈黙と思索の中で書き付けられたものと思われます。こうした文を心情を吐露するというのでしょう。
 作家が創造する苦しみ、孤独、自負と懐疑の間をゆれる心。ああ、何と私は作家と表面を撫でる付き合いしかしていないのか、と自己嫌悪に陥りました。
 今、津高和一先生のご本も読み直している。「美の生理」「騙された時間」。お二人には共通する資質があり、今回、お二人の文を同時に読みながら、是非とも、これらの文章を皆さんに読んでいただく術はないかと思案しています。
1994年7月10日
これでいいのだとは思はないが・・・・・
ともかくやってみようと思う
白と黒。 もう一度も二度も チョウセンしてみようと決心した
モノクローム もう一度、やってみる
そこに 大きな世界が切り開かれればよい。
 そして又、自然さが出ればと
今はその白と黒の世界に夢をみる(かける)
きびしい色 しかしこんな美しい色がどこにあるだろうかこれが最終の色かもしれない これが最後の色(活字にしただけでは伝わらない遠藤さんの言葉である。美しい字で、墨で配された文字は、それ自身で作品である)
このような、遠藤先生の心の内を覗かせるような言葉が限りなくあります。夜、密やかに読み続けて、ゆっくりとパソコンに打ち込みはじめています。「詞華集」として残すための準備です。

<西村先生のデッサン>

 先生のお宅の片隅から1960年前半のキュビズムの影響の濃い、優れたデッサンを発見し、久美子ママと長男の泰利さんにお願いして先生のデッサンを捜していただいている。
 先生が2月末からご自宅での療養となり、なにかと大変な時だけど、先生がご存命中に私が是非、しなければならない三つの使命があると思っているので、急いでいる。こんな大言壮語して、恥じをかくかもしれないが、敢えて口に出すことによって自分に言い聞かせている。その一つは「私と妻とモンマルトル」を公的な美術館に収めることである。鴨居さんに、亡くなられる3年前の大作「1982年わたし」という、何も描いていない白いカンバスの前に座る画家と、その回りを、今まで鴨居さんが描いてきたモデルたちが首をうなだれるようにしてとりまいている絵と(石川県立美術館が制作中に買った)、西村先生の、この200号がだぶって見えてしょうがない。1990年の二紀会の本展に出した作品で、この頃、建築家である長男の泰利さんの設計で天井の高い、彩光ののいい、快適なアトリエが完成。
 とても喜ばれた先生が、画業の集大成として、またこれからの決意を込めて取り組んだ作品である。画面の右下に赤いストライプのお洒落なシャツをきてスケッチをする先生。左下にモデルとなる久美子ママ。中央のメトロのアベス駅の先生の大好きなアールヌーボーの出入口。鴨居先生の絵と同じように、これを囲むようにサクレクール寺院、テアトル広場、モンマルトルの階段、「洗濯船(バトー・ラボアール)」「跳ね兎(ラパン・アジル)」があり、遠くにパリの街並み、そしてエッフェル塔も見える。制作動機の近似性に対して、鴨居先生と決定的に違うのは、画面に横溢する描く喜びであり、光に満ちた透明感である。聴覚障害というハンディーを持ちながら、純真な少年の心を失わず、素晴らしい家族にも恵まれ、その幸福感を画面一杯に漂よわせて、人を幸福にしてきた先生の傑作だと思う。しかし、先生の幸福は長くは続かない。1994年の年末、恒例の海文堂ギャラリーでの個展を終えた寒い朝、ゴミを出しに行こうとされて足をとられたようによろめいたそうである。軽い脳梗塞。それから回復されたけど、再び旺盛な創作欲は戻らなかった。しかし、私の一つ目の願いは、どうやら果たされそうである。
二つ目の願いは、1990年に先生の昔の名作を纏めて発見した時に簡単ではあるけれど画集に纏めさせていただいた。作品は個人の収蔵となれば多くの人の目に止ることはない。そうした作品があったことすら忘れられる。だからこそ画集として残しておかねばならない。今回、私が発見したデッサン群にしても同じことである。なんとか画集として残せないかと考えています。じっくりと、何度もながめ続けて、画集に収録する作品を選ぶ、あとは私の決断だけである。
 最後の願いは、これだけの画家を単なる神戸の画家にとどまらせたくない。その最上の成果を東京で発表したい。手を尽くして努力していますが、これが一番難しい。今、一つの美術館と交渉中である。しかし、これは半端ではなくハードルが高い。だれか、手を貸して下さい。

2001.02「初めての二人展」

「木下晋・ラインハルト・サビエ 初めての二人展」は、とても良い展覧会となった。
 それぞれが大きな作品で、一日がかりの飾り付けは、爪を割り、手を怪我しての重労働となったが、インパクトの強い二人の作品が空間を引き締め、お二人の作品の近似性と、また差異を際立たせた。
皺だらけのお婆さんのどこがきれいなの、気味が悪いとの声もあったけど、ぼくは改めて木下さんが描く越後のごぜ「小林ハル」さんの100才の姿に打たれた。この三点のハル像は、木下さんの最高傑作として後生に残るのもだと思う。幼少のころからデッサンの天才と言われてきた木下さんなので、技法としての進化のことではない。青木新門さんが言ってらした「死と向かい合うことの美しさ」を素直に感動している木下さんの姿がここにある。常にそうであったとしても、今までの作品と明らかに次元の違うものを感じる。それは木下さんがハルさんを「キューリー夫人やマザー・テレサに勝とも劣らない素晴らしい女」と言った、その思いが素直にこちらに伝わるのです。
 突然「針生一郎です」と電話の主が言った。「誰?」と一瞬ためらう。あの美術評論家の?。「今、県民会館にいます」。存在感のある針生氏はこうしてギャラリー島田に現れた。氏はサビエを日本に紹介した人で影響力のある評論家である。この展覧会の案内を木下さんが送って岡山大学で講義をされた帰りに尋ねられたよし。しかし、その案内状を持ってこなかったので、ともかく県民会館に行けば分かるだろうと思ったとのこと。針生さんは木下さんの絵の実物を見るのは初めてとのことで熱心にご覧いただき「いい展覧会だ。来てよかった」とぽつりぽつりと話される。サビエや木下さんのアウトサイダーアーティストの話しになり画壇の話になった。彼等こそ時代を動かす可能性がある。そして藤崎孝敏さんの絵をお見せすると、じっと見つめられ「良い作家ですね」。
長い髪の毛をした独特の風貌がニッコリ笑う。ギリヤーク尼崎さんだ。もう7~8年前に神戸ではじめてギリアークさんの大道芸を湊川神社で披露するお手伝いをして以来のお付き合いである。1997年の木下さんの池田20世紀美術館のオープニングでも「津軽じょんがら節」を激しく踊った。震災後は毎年、菅原市場で1月17日に踊っておられる。氏は根っからの大道芸人で、その生活はすべて芸を披露して「投げ銭」によっている。70才だというのに顔の色艶はとてもいいけど、地べたに石ころの転がるところで激しく飛ぶ、体を打ち付けるで、椎間板損傷など体中怪我が絶えないという。津軽の100才のゴゼさんと、大道芸で「じょんがら節」を踊るギリヤークさん。この空間に厳しい北の海鳴りが聞こえてくる。背をこごめて人が行く。雪が舞う。見上げれば降りしきる雪。見つめれば天に吸い込まれるようにぼくの体が浮く。ギリヤークが天空で舞う。
 三味線が鳴る。ハルさんの声。ハルさんの白髪。皺。
 1月28日にTV「知ってるつもり」で、101才の小林ハルさんの特集があった。木下さんがハルさんの年をとって段々と俗世の芥(あくた)を洗い流していったように美しくなることを説き、今回の作品も紹介された。私も木下さんの作品を通じてしかハルさんを知らなかったので、あの強靭で人生の重みのいっぱい詰まった歌声と、皺だらけだけど、なんか瑞々しいお顔には驚いた。木下さんの「マザー・テレサに匹敵する美しさ」と言った意味が誇張ではないことを知った。ここまで書いて、私はハット気がついた。
 マザー・テレサに感動する世界と小林ハルに感動する世界の違いが、まさにサビエと木下さんの世界の違いだと。このことは兵庫県立美術館の学芸員の江上ゆかさんが、インターネット上の超人気メールマガジン「ART SCAPE」2月15日号に書いてくださる内容と同じ意味だと思う。(この美術雑誌は60万ヒットという人気。ぼくも愛読している。インターネットで誰でも無料で読める。ぼくも愛読している。この人気サイトと兵庫に画廊ではギャラリー島田とだけがリンクしている)
 初日13日のトークは「神戸塾・特別例会」でもあり、普段と違う顔ぶれも見え、また東京、長野、富山、高知、福岡からも駆けつけて盛況であった。とりわけ富山からベストセラー「納棺夫日記」を書いた青木新門さんがきてくれたのがうれしかった。青木さんは5年前にも私がコーディネートした「戦後美術の軌跡」(神戸まちづくり会館)のシンポジウムに信濃デッサン館の窪島誠一郎さん、兵庫県立近代美術館の中島徳博さん、木下晋さんのパネリストとともに飛び入りでゲスト出演して下さり、死と向かい合っていきることの大切さを含蓄のある言葉でしゃべって下さった。
 昨年10月22日にNHKのBSで1時間にわたり山根基世アナウンサーと「死と向き合うとき」という話しをされている。富山の、昔の死体焼却場の小屋の横での話しが実にいい。ご希望の方に貸出しいたします。

2001.01 「閑話休題」

 年末、年始の休みが6日もあるのは27年ぶりのことである。もっとも、たいていの年は1月5日ころから10日~14日くらい海外へ行っていたから、前の方が豊かであったのだろう。
 年末は京都に行ったのと、フジ子・へミングさんのカウントダウンコンサートへ出かけ、年始はテレビスポーツ観戦と、ひたすら読書であった。
 久し振りに古巣、海文堂書店をたずね、皆と挨拶を交わしながら本を漁った。お目当ては、話題の猪瀬直樹の「太宰治伝・ピカレスク」で、あとは久し振りの本屋を楽しんだ。結局、文庫の新刊コーナーから沢木耕太郎の「壇」加藤周一「読書論」、新書コーナーから岩波新書2冊、そして大江健三郎の「取り替え子」を選んだ。
 全く無意識の選択であったが、結果として関連しあった選択であることに驚いた。それは、前回の通信でゴッホと鴨居先生の「死」、それも自殺をめぐる考察について触れた。「ピカレスク」は、従来の太宰のイメージを覆す、真迫のミステリーに満ちた評伝で改めて猪瀬の力量に驚いた。自殺(心中)未遂を繰り返し、その都度、ある種のしたたかな計算の上に生き延び、最後は計算違いで死んだ太宰と、文豪面をした井伏鱒二の小心さと犯罪的悪辣さが余すところなく描かれていて実に面白い。そして、ここにも壇一雄がしばしば太宰の友人として登場する。沢木の「壇」は、壇の代表作「家宅の人」のモデルである作家の妻としての壇夫人の立場に徹した評伝小説である。合わせて、彼等の生きてきた時代と芸術家の凄まじい生き方、それらに翻弄される周囲に身をつまされて読む。さらに驚いたことに壇が昭和46年秋にポルトガルのサンタ・クルスの町に住み着きその壇さんを訪ねていった画家・関合正明さんのことがでてくるけど、この関合さんは十数年まえに海文堂ギャラリーで個展をさせていただいた鎌倉の作家で、そういえば壇一雄との交際についても聞いたことを思い出した。関合さんの「随筆・狸の話」を書棚から探したが、本のケースだけが入っていて肝心の中味がない。この本は皆美社という出版社からでているけど、檀さんが最も親しくしていたのが皆美社で、関合さんのポルトガル行きはこの社の関口弥重吉さんたちと同行であった。一足先に帰国した関合さんが体調を崩した壇さんのことを奥さんに「壇はアル中だ」と報告し、奥さんがポルトガルを訪ねるきっかけとなる。この4年後に壇は他界するので結果としては二人にとって、大切な時間を共有することになるのだが、関合さんもいい加減なことを言ったわけではないだろう。「狸の話」になにか書いてありそうな気がする。
 もう一冊の「取り替え子」は、小説を中断していた大江さんの久々の新刊だけど、高校以来の親友で大江夫人の兄である、衝撃的な自殺をした伊丹十三さんとの交流を大江さんらしい、重層的な、手のこんだ語り口で書いているが、実は当事者しか知り得ない暴露的な内容を含んだ誠に痛ましい小説である。まだ、半分しか読んでいないが、あの大江さんにしてと、深い嘆息を憶えながら読んでいる。人の世の生き難さを思う。これらの本に共通するのは異常な死ということである。

閑話休題

ついでながら、この年末年始は実によく泣いた。なんでこんなに涙もろくなったのか。
 映画でいえば、息子の陽から「これだけは見ときよ」といわれた“ダンサー・イン・ザ・ダーク”に泣いた。テレビの「中国少数民族の少女」の可憐な愛しさにも、昨日の浅田次郎の「鉄道員・ポッポ屋」泣いた。(もっとも家内に言わせれば途中でイビキかいてたとのこと)
スポーツ観戦。箱根駅伝で2度涙ぐんだ。ひたむきに生きる人間の姿の美しさに勝るものはない。そんな姿に励まされて私も生きている。

2000.12「プレゴ北野」

 北野町にギャラリーを移して、一月半が経った。日常のいろんなことが変わった。
何より、閉鎖空間から、開放空間に移り、毎日の天候や、時間の推移に敏感になった。
ここは地下一階なんだけど、安藤忠雄さんの不思議な空間設計で、自然光がふんだんに
入ってきて、空も見える。物理的時間は人類平等なのだけど、ここの体感時間は透明感に溢れ、さらさらと流れる感じなのだ。ならば、いままでどんな時間をすごしていたのか思い出せば、もっとゴツゴツして、ねっとりしていたように思うのだ。(脳梗塞寸前だ!)
58才にして、こんな困難な時代に、よく冒険への旅に出れるなと皆さんが心配して下さる。その通り、海図なき航海に帆を上げた心境である。
友人の精神科医が「貧乏強迫症にかかっていませんか?」と電話をくれた。訪れる人がなければ、すぐに「やっていけないのではないか」と弱気になり、家賃が払えるのかとすぐに心配になる。ぼくも立派な貧乏強迫症の患者なのだ。友人は「誰もがかかる病だから心配するな」と励ましてくれるのだが、患者としては「誰でもかかる風邪でも、こじれれば命を落とすこともある」とやはり心配なのだ。(これって重病なのかな?)
それでも、やはり予測のつかない旅に出るというのは「ワクワク、ドキドキする」。
ここを城と定めて、新しい海図を自分で描く喜びがある。いままで重い荷物を積んできて、よたよた進んできたのが、荷を下ろして軽快になった実感がある。でもこの船は老朽船で、どこかに穴があいていて、浸水、沈没せんかいな、と怖れながら船長は舵を握っています。(ああ、これは重体や!)
でも画廊の仕事と、アート・サポート・センター神戸のことに集中できることは、私にとって、何にも代え難い喜びなのです。朝、5時や6時に起きだしてきて、9時15分の出勤時間までのゆったりとした時間に、本を読んだり、真理子に向かったり、調べものをしたり。ギャラリーでもお客さまとゆっくりお話ができる。ホームページも類例のない、面白いものにしたい。そのために改めて調べ物をしたり、思索にふけったり、ともかく毎日が面白くて仕方がないのです。寝ている時間が惜しい。でも歳が歳ですから、
そうもいきません。仕方なくセーブしてます。そんなことで神戸経済に全く貢献していない、私です。
遠くなって、おっくうだとおっしゃる方。だまされたと思って、是非、一度、訪ねて下さい。プレゴ(いらしゃいませ・ウエルカム)。とてもいい空間に、いい作品があり、いい時間がお待ちしています。かけがえのない貴方の時間に豊かな何かを加えていただけると思います。実は隣りのレストランが「プレゴ」というお店です。良い店ですよ。但し、夕方5時からの営業で、無休です。078―332―1770

2000.11「蝙蝠北野を飛ぶ」

 北野にきて、一ヶ月が経とうとしています。環境が全く変わり、まだリズムが掴めません。でも海文堂では、ギャラリーは閉鎖空間で、中にいれば、雨も、風も、光もほとんど感じることがありませんが、ここでは、絶えず、自然を感じ、光を感じ、時間の移り変わりを感じています。ぼくのささくれだった神経を、いつもなだめてくれます。
今までは、小さな書斎の窓からみえる、朝、暗闇から、だんだんと空が明るくなっていくのを眺めながら真理子(女のことではありません。ぼくの古いパソコンに嫉妬した家人がつけた名前です)に向うのが、唯一のぼくの自然との関わりでした。そんな些細なことにも世界の広がりを感じ自分の選択をほめたくなるのです。
疾風怒濤の日が続いています。26年間の仕事に決着をつけ、新しい仕事を始めるのに、こんなにもエネルギーがいるとは想像もできませんでした。
ながい人生を生きてきてこんな形での体験をするとはね。人の心の温かさと冷たさ。表面からはうかがいしれない人間性の機微。人間認識に限りがないことを実感しました。それは私自身の未熟さを含めてのことです。こんなにぼくの感情が揺れるとは、新しい発見でした。
新しいスタートを、こうありたいと言うイメージを追及するあまり、大きく構えすぎています。そして自分を苦しめているんですね。
でも、三日間のオープニングは、雨にたたられた日も含めて、沢山の人が集まって船出を祝って下さいました。呼びかけ人を引き受けていただいた諸先輩、ゲストで演奏や、ダンスやパフォーマンスを演じてくれた友人たち。そして、忙しい中、駆けつけていただいた皆さん。その思いを受け止めて、励まされて、ようやくスタートできました。
ありがとうございます。
私を励ます会をやってやろうというお誘いをお断りしてのパーティーでした。お一人、お一人にお礼をいうべきですが、日記上でのお礼をお許し下さい。

藤崎さんの展覧会からのスタートです。この大きな空間で作品と対峙することをずっと夢見てきました。実際にはじまるまでには、じつにスリリングな体験をしました。でも作品が飾られ、一点一点をじっと見入ると改めて、藤崎さんの凄さを思い知らされています。この絵を一人占めにして、誰もいない夜の画廊でマーラーの「大地の歌」を大きく鳴らしながら一人でしみじみとお酒を飲みたい。展覧会の二日目の今日は、まだ実現していないけど、必ずやります。大雨に祟られてのスタートでした。でもそのお陰でゆっくりとお客様とも藤崎さんとも話ができてよかったです。当然のこととして作品は作家の分身ですから、作家をよく知りたいと思うのは当然です。しかし、藤崎さんの場合は謎めいて、なかなか自身を明かしません。それも当然です。作品が全てというわけですから。でも、私の顔を描いてやろうということになり、一気にカンバスに向かう時の気迫に圧倒され、またその技法の秘密も垣間見させてもらいました。氏はほとんど人間しか描かないといってもいいのですが、溢れるほどの才能と、人間洞察の深化によって、一段と突き抜けた境地に到達したときに、凄い作家になるという予感がします。

 友あり、遠方より来る。何よりの喜びです。まったくのところ、不安一杯の旅立ちを励ましてくれる暖かい、多くの知人の存在がなければ、挫けてしまうような局面が幾度とありました。自分の脆さに気付き愕然とする思いでした。

2000.10「蝙蝠北野を飛ぶ」

蝙蝠北野を飛ぶ

 毎日が、飛び去っていく。おいおい、待ってくれと、歳を自覚しながら弱音を吐いても、時間だけは万人に等しく、私だけに優しくはなれないようだ。
 海文堂を去ることが知れてから、ほんとうに多くの人から励ましをいただいた。そんなに晴れがましいことでもないのに、身に余ること夥しいのである。身が引き締まるのである。自分では忸怩(じくじ)たる点、多多あり、その深い自省のなかでの再出発である。
 ぼくのようなタイプは多くの人を傷付け、また我知らず、人を踏み台にしてきているに違いない。そうしたしがらみを捨てて、原点に回帰する時でありたい。とはいえ、実際にぼくがやろうとしていることは、新しい“しがらみ”を構築しているだけなのだから、ぼくの業は相当に深い。
 新しい画廊との出会いは、運命的なもので、海文堂を離れると決まった時には、こんな形では考えてもいませんでした。いわば、私を取り巻く状況が、どんどん背中を押して、ここまで連れてきたのです。
 最初は、もっと小さな規模で、元町界隈を探しました。お金はないし、状況は悪いし、でも、どうせやるならいい空間をと、探し回りました。
 とても気に入ってます。ここで自分の最終的にやりたい仕事を追求します。ロケーションを心配して下さる方も多いです。しかし、そのハンディーを超えるトポス・場所にします。
 9月17日、海文堂ギャラリー最後の日に「海文堂ギャラリーとは何だったのか」というシンポジウムを3人のゲストを、お迎えして開きました。みなさんが私の転機を、1998年の生死に関わる頭部の手術と、震災を上げられました。どちらも私自身の死生感に関わることです。そして、今回の転機による、新しいギャラリー島田とアート・サポート・センター神戸のスタートは、その回答を書くということに他ならないという気がしてきました。どこまで高い志で貫かれるか、それが課題です。
ここで多くの優れた作家をご紹介出来ることを楽しみにしています。また、作家とともに育っていきたいと願います。私には絵は単なる売り買いの対象としての商品ではありません。結局のところ自分の思想を表現する場なのでしょう。今までは、まさに私の妥協的で曖昧な性格丸出しの画廊でした。これから、少しずつ研ぎ澄ましていきます。ご期待下さい。
 オープニング記念展の第一弾は、11月1日から、パリから藤崎孝敏さんを呼んでの展覧会です。昨年から、日本での作品の発表は当ギャラリーが受け持つことになりました。その力量、制作への態度などを含めて、大変な逸材だと確信しています。飾って楽しい絵ではありませんが、私の魂の深奥を揺さぶるものがあります。ぜひご覧いただきたい展覧会です。
 そのあと、7月まで記念展が続きます。
その詳細については、現在、構築中の、このHPをご覧下さい。11月初めに完成予定です。このHPは、読むHPを目指します。