書くということ、読むということ
「執筆に忙しい」など、思わせぶりで文士気取りがいやらしい。でも気分的には、いつも書き物に追われている。やっと前号を送ってほっとしていると、鶯さんから2月は短いので、「今月は早めに」と釘をさされた。この文でも、ざっと書いてそのままというわけにはいかない。石井一男さん後藤正治さんとの出会い、本の誕生も、この通信が関わっている。ギャラリーのHPの執筆の記録(ブックレビューでご覧いただけます)の訂正をしていると、大学1年の時の「ぼくのアメリカ覗き」に始まって、「塵も積もれば」の類で、よくもまあと我ながら驚く。でもエッセイは文学ではない。せいぜいがブランチか珈琲ブレイクである。作家には偉そうに言っておきながら、自分はクロッキーや水彩スケッチをしているみたいなものでタブローは描いていない。昨年から私にとってのタブロー(画家の評伝)に取り組んでいるのだが、書いては消しての連続で遅々として進まない。メールマガジン(読者が2千人を超えて驚いています)が頻繁であるのは、この執筆の苦しさから逃れる、私にとっての珈琲ブレイクみたいなものだなと、気がついた。画廊通信、メルマガ、展覧会のDM文。この短い文でも、作家を理解し、意図を汲み、読む方のことを考え、そして、すべてがARCHIVESとして記録され、引用されることを考えるとおろそかに出来ない。書こうと思って地下水を汲みあげようとすると、枯渇しかかっていることを実感し、今度はやたらと本を読みたくなる。いただいた本、読みたくなった本、資料として買った本。みんないとおしい。ギャラリーと家を往復しているだけなのに、どうしてこんなに時間がないのか。「モモ」の時間泥棒は我が内にありだ。
昨年末から1月末までは、本年末に刊行される「災害対策全書」(ひょうご震災記念21世紀研究機構)の「芸術と文化の復興」に引っかかってしまった。気安く引き受けたものの、読み直してみて、これでは駄目だと気がついた。誰のために、何のために書いているのかと問えば、たちまち難渋してしまった。神戸の震災を総括して、次世代に引き継ぐ書にふさわしいものでありたいと、8千字の原稿に推敲を重ねた。今ほど、書くこと、読むことが、自分が今、ここにあり、呼吸し、感じ、人とつながり、生かし、生かされ、伝え、伝えられながら、それぞれのターミナルへの一歩を日々、踏み出していると実感したことはない。書いておきたいことが増え、読んでおきたい文が増え、それぞれに、ゆったりとした時間を割きたいと思い、よって積み残しの文が増え、読み残しの本が増え、際限もない。
「奇蹟の画家」と「情熱大陸」と石井一男現象
大きな反響に驚くばかりでした。「奇蹟の画家」の初版1万部は2ヶ月で重版、重々版に。画集「絵の家」「絵の家のほとりから」(各1000部)も重版しました。感動の渦ばかりではなく、様々な波紋や批判もあるでしょう。石井さんがスポイルされないか?と心配される方も多い。 石井さんとの出会いは偶然であり、必然、神の配剤とも思えます。
「埋蔵画家発掘」というコピーを考え紹介したのは私ですが、それ以降のことは「起こした」のではなく「起こった」のです。それが静かに繋がっていった軌跡が「奇蹟」と名づけられた意味ではないでしょうか。昔なら、普通にあった佇まいが、今では美しく、稀有に感じる。しつけとは「身を美しく」すなわち「躾」。混沌として行方の見えない「今」という時にあって、人々の琴線を激しく鳴らした石井さんの日々。その姿が表現であり、それを浮き彫りにした、後藤正治さん、茂原雄二さん(情熱大陸のディレクター)の作品の力でもあります。
私は特別に石井さんに密着し、売り出したわけではない。たまに電話する程度でクールに接してきました。それが流儀で、人間を、仕事を見れば分かる。他の作家たちとの付き合い方と変わらない。
「一人の人間はとてもちっぽけなものだが、その一人の存在は、世界に意味を与えることができるという意味でちっぽけどころか大変大きい」という加藤周一さんの言葉を記憶していますが、石井さんは、まさに「その一人」だ。心惹かれたことを、深く掘り下げていけば、普遍に至る。後藤正治さんが「普遍を書こうと思った」と神戸新聞のインタービューに答えているのもこの意味だと思う。石井さんが掘り下げたところには29年間の孤独、沈黙が蓄えた豊かな鉱脈があった。石井さんの作品は、静かに、優しく、ひっそりと、どこか命に触れている中世の石工の仕事や、野の仏、無名の仏師、民芸の仕事、職人の仕事に通じ、それらに出会って、魅せられた経験に似ている。船越保武さんが「巨岩と花びら」で、繰り返し触れておられることだ。
今回のことは、石井一男現象といってもいい大きな流れだが、どうか、そっとしておいて欲しい。
このあとは石井さん自身の問題であり、私自身の問題です。私の愛する作家たちが認められる努力を続けていきたい。作家に課すだけでなく、画廊主としても問い続けていきます。