2022年7月「私が子供だったころ 」

1942年生まれ。
終戦まぢか、神戸も大空襲を受けた。
新潟の親戚の家に疎開していた写真が残る。
父は三菱重工神戸の勤労畑で、戻ってからも転々とし、そのあと潮見台の社宅に。といっても立派な洋館に2世帯が上下に住み分けて。
そこから、須磨浦幼稚園と母が始めていた幼児生活団(週に一日)と両方に行ってたらしい。
幼稚園のお絵描きで、白い画用紙をだして「雪のなかのウサギ」と言ったという話が伝わる。
西須磨小学校へ進学。
離宮道を米軍の車両が上がっていった。
一年生のとき「こくご」の教科書が足りなく「さくらがさいた どこまでさいた」と父が墨と筆で書いた。
小学校では、1,2年のときの担任が軍隊上がりだったりした。
帰りにみんながバラバラと遊びに出て、今のギャラリー&喫茶 あいうゑむ のあたりの店に行っていた朧の記憶がある。
この年頃の子供はみんな同じだと思う。
夏は潮見台の家から急坂を駆け下りて泳ぎに明け暮れ、真っ黒で「インドのカラス」と言われた。
今の、鳩山由紀夫夫人の、みゆきさんはその頃の近所の遊び仲間で、宝塚少女歌劇へ。
その後、私が「アートエイド神戸in東京」で上京した時に再会。鳩山邸に招かれたりした。
最近も「こぶし基金」に志縁を頂いたりしたのも幼馴染ゆえだ。
私はその後、神戸大學附属明石中学から神戸高校へ、その後の合唱人生で、様々な得難い体験をした。
メンバーとしても指揮者としても多くの受賞を重ねた。
そして神戸高校合唱部が1ヶ月間にわたるアメリカ西海岸のホームステーでの旅に同行したのが前半生の卒業だったかもしれない。


特別企画展 CREWS
私たちは「画廊通信」で2年にわたり世界中の皆様からご寄稿いただいた「パンデミックの時代に」というコラムの連載を終えました。
その緊張感を抱えながら今回は、パンデミックや戦争で分断されている地球全体の、私たちは乗組員CREWであるとの呼びかけの応えて、多くの方が、それぞれの思いを込めて参加されています(会期は6月21日まで)。
なにより、ここに集ってくださったみなさまの思いがうれしく、昨日も、今日も、明日も、私は、このCRUISEを楽しんでいます