後藤正治さんの自選エッセイ集、“40年目のケルン”たる『拠るべなき時代に』。
ノンフィクションを書きはじめて40年になる後藤さんの近年の時評・人物論・作家論・書評・エッセイが収められています。
Ⅰ 時評もどきの Ⅱ 人々の足音 Ⅲ 作家達 Ⅳ 書を評す Ⅴ プロムナード
「すべては往時茫々であるが、それでもいま一歩、足を前に運びたく思う」という後藤さんの言葉。
最後は「それなりに生きたよ」とある。
「過去はただ過ぎに過ぎる」。これは後藤さんが名著『天人』で描いたコラムニスト・深代惇郎の言葉。
後藤さんが40年を締めくくる自選エッセイ集に「拠るべなき時代に」とタイトルを表しておられることは、2年前に大病され死神が近くまで来たと書かれていることからも、全体を貫く強い意志が伝わります。
今、私が様々な脳の不調を抱えながらなんとかあるのは後藤さんに大きく支えていただいてきたことを思うのです。手元にあった『奇蹟の画家』を久しぶりに読み返しても、石井一男さんも私も、ここに書かれていることに恥じなく生きることを心の底で抱えて生きているのですね。
私の側から後藤正治さんとの出会いを思い出すと、その日突然かかってきた電話がはじまりでした。
神戸に関わることになり、後藤さんの周囲の人から、島田さんという人がいいと名が上がったらしいのです。
一度お会いしたいというお電話でした。後藤さんがどのような方と知らぬままお会いすることになりました。
訪ねてこられたのはソフトな紳士で、これが著書でと、文庫本を渡されました。たしか『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』だったと記憶します。
ポートアイランドに新設される大学「神戸夙川学院大学」の教授をされるという話でした。
神戸の人脈も何もしらないとのこと。
ネットで後藤さんを検索することもせず、なにかお役にたてればと思いました。そして乞われるままにまだ新設大学で生徒もまばらの大学で、いまは何を話したのか朧げですが、ギャラリーですからどんな作家を紹介しているかの話をして、すでに評判をとっていた石井一男さんのことも話したのです。まったく無名での出会いのこと、その作品が多くの人々の心を打ったことなど。
その物語が後藤さんの心をとらえた。そんな人がいるのかと。
後藤さんの『奇蹟の画家』は2009年12月に講談社創業百周年記念の書下ろし作品でした。
テレビの「情熱大陸」でも取り上げられ、知らぬ人なき人気作家、すなわち完売作家として続いてきたのは後藤さんのおかげです。今、読み返してみて石井一男さんのことはもちろん私の生まれからその後の生い立ちにいたるまで詳細に正確に書かれていて、私の人生に何一つ足すことも引くこともないです。現在「週間朝日」で集中連載されている「追想 漢たらん」に5ページにわたって書かれている「石井一男と島田誠」も(2021年7月30日号)。
とはいえ、私が後藤さんに心を寄せるのは、後藤さんの世界に魅せられたからで、多くの作品が刊行されるつど夢中になって読んできました。『清冽』『天人 深代淳郎と新聞の時代』『不屈者』『拗ね者たらん』などなど。
後藤さんの著書でひときわ深く傾倒したのは『天人 深代惇郎と新聞の時代』です。
「天に声あり、人をして語らしむ」人はそれを「天人」と呼ぶ。天声人語の書き手ですね。
我が家は朝日新聞とは深い縁があり叔父(島田巽)が論説副主幹、私の二人の従兄弟も朝日で働いていた。
そして「倚りかからず」に生きた詩人・茨木のり子の評伝『清冽』。後藤さんが茨木のり子について書くきっかけは「私が一番きれいだったとき」でさらにそれは写真家の石内都が撮影した広島で被爆して女性たちの遺品の写真に触発されたそうです。西宮大谷記念美術館でつい先日、その写真展を見ました。
清冽の流れに根をひたす
わたしは岸辺の一本の芹
わたしは貧しく小さな詩編も
いつか誰かの哀しみを少しは濯うこともあるだろうか 茨木のり子「古歌」より
『茨木のり子の家』(平凡社 2010年)は何度も見返してきました。なんといっても書棚の写真が興味ぶかく親しい神戸の詩人『安水稔和全詩集』がドンとあり、安水さんに伝えたら喜んでおられました。そしてお別れの挨拶の下書きがあり、なるほどと思いました。
今すべきでない五輪が無理やり開催されました。
『拠るべなき時代に』の一章「書を評す」に「五輪の書を読む」があります。東京五輪から失われたもの・・・肥大化、商業化、プロ化・・・大切なものを失ってきた。
その無残な形骸を目の当たりにする私たち。
1964年の東京オリンピックでの勝者モハメッド・アリとベラ・チャスラフスカはともに1942年生まれ、私と同年です。
後藤さんの2012年の自選エッセイ集のタイトルは『節義のために』でした。
チェコスロバキアの民主化運動に関わったベラ・チャスラフスカが不利益を承知で民主化運動に関わった。そのことを聞くと「節義のためにそれが正しいと信じた」と答えた、とある。