2020年10月「出来る事、出来ない事」

パンデミックの今、私は78才を迎えようとしている。77才をゴールと公言してきた。

やり残したことは何もない、あとはすっと逝くことである。でもこれは思うほど簡単ではなさそうだ。

ギャラリー島田は、それなりの役割を果たしながら巡航するだろう。その40年におよぶ航海日誌が周遊の記録として開示されるのを待っている。それは決して豪華客船ではない。日常の往来の中で、白髪一雄、元永定正、津高和一、嶋本昭三など現代アートの巨匠たちのリラックスした姿が見えてくる。中島由夫、武内ヒロクニなどが暴れた海文堂ギャラリー時代を終えて、神戸・北野に3つのギャラリーがパンデミックで沈没かと思えば「現場の力」で新しい生き残る道を見出しているように感じる。生き抜く知恵は何処にあるのか。なにかが沸沸と起こるところ。それは何故起こるのか。今、振り返って思うこと。それは権威学識から自由であることかもしれない。世界中で模索されているパンデミック時代の生き方、極めて興味深い、時代を変えるキーワードが私の周りにはあるように思う。私も残り少ない日々に堀尾貞治さんの「あたりまえのこと」のように、何食わぬ顏で彼岸にいたい。

「書く」という行為

 

神戸ゆかりの美術館「無言館 遺された絵画からのメッセージ」へ足を運んだ。

窪島さんはかつてこう書いていた。「この歳になって、何となくわかってきたのは、「書く」という行為はどこにいるか知れぬ未知の相手にむかって手紙を書くということ。わたしにとってそれがだれかは今もわからないのだが、かつて瞼にえがき探しもとめた生父もその一人だったのだろう。」(窪島誠一郎『日暮れの記「信濃デッサン館」「無言館」拾遺』から)

私にとっての書く行為もどこかその気配を抱く。

会場で会った満身創痍の窪島さんが私に放った言葉は、どこか弱気の私を見抜き「島田君、何が何でも生き抜こう」だった。

その言葉は聖セバティアンの矢のごとく私を貫いた。

 

グリーンの頃、返しきれない思い出の日々

 

印象深い記憶があります。

「君はグリーンやな」

三木谷良一さんが言った言葉です。なぜか様々に長くおつきあいいただいた方なのです。

三木谷さんと、ある方と三人で席を共にすることになった。向かいに座っていたのが、柔道で名を馳せた猪熊と互角に戦った巨漢、当時の日銀神戸支店長。私はその方の振る舞いを許せないと激していた。その時、ぶん投げられて大怪我でもしたらと割って入ったのが三木谷先生。そこで呆れて放った言葉が 「君はグリーンやな」でした。ところが私はその意味が分からないできょとんとしている。「青二才め」。おかげでぶん投げられもせず笑いのなかでおさまったのでした。

古武士の風格のある三木谷先生は、そのころわたしが見境なく当時の神戸を覆っていた風土を変えたいと怒りをもって行動していたのをよく知っていました。

長く生きてきたなかで、多くの記憶から消えない皆さんがおられる。圧倒的に、一方的にお世話になった皆さんです。返し切れない思い出の日々が鮮明に蘇ります。熱きが故に事は起こり、その熱さゆえに事は成すのでしょうが、そのすれ違いざまの傷跡が今となれば、申し訳なく、振り返っても幻のように姿がみえず、謝る術も知れません。

私は一体、何に惹かれて爆走してきたのか。長く、自ら設定してきたゴールが今、見えてきたようです。

来し方行く末、思いは巡る

 

間もなく「蝙蝠日記クロニクル2000-2020」を刊行する準備に入っています。

シアターポシェットの館長で自死された佐本進さんのこと、座礁船の刊行を託した服部正さんのこと。もう30年も前のことなのに、今も鮮明に立ち上がってきて、私を捉えて離さない。それは何故だろうか。それは「生きる」という誰も逃れられないことを強く私に語り続けるからではないか。

不思議なことに、佐本さんのシアターポシェットの全記録も服部正さんの座礁船も私のクロニクルも、伊原秀夫(風来舎)さんの手によることとなりました。このことが暗示することは誠に興味深い。この冊子が、すべての人々が「静かに等しく生きること」「人が人であること」の問い直しをする今に恥ずかしくないものでありたいと心底、願います。