2020年2月「震災から25年」

その一日
震災からの日々を振り返る寄稿をまちづくりNPOから求められ、気が付いたことがある。
文化的土壌の変革に関わってきて神戸市での会合に呼ばれたのはこの25年の間で昨年の活字文化普及に関する研究会の一日だけ。
そうした距離感を改めて実感した。
25年、9000日の「一日」の意味には深い理由がある。
1942年、神戸で生まれ、幼稚園から大学まですべて「神戸」が冠され、職歴も含め神戸を離れていない。現在は北野で仕事をし、市内を見はるかす住まいにいる。
美しく暮らしやすい神戸が大好きかと問われれば、そうだとも思い、でももの足りないとも思ってきた。
神戸は「山、海へ行く」の卓抜したアイデアでまちづくりに成功した。その成功体験が、すべてにおいて行政主導となり、縦構造に見事なまでに組織化された。
その神戸を地震が撃った。
新しく変わるべき神戸の姿を求めて厳しく行政や組織化された文化組織を批判してきた。それを外部に発表し、行動に移してきた。

神戸 という街
そしてアートシーンに関わりながら、元町商店街の改革や「神戸芸術文化会議」の組織改革を担ったが、それぞれ、内部のTOPの要請に応じたもの。神戸ビエンナーレのSTOP&CHANGEについてもその組織内部からの要請と言ってもいい。でもそのことによって、そこに依る多くの方々の場を失わせることになった。批判的に見たり語ることはたやすいが、改革はむずかしい。
「アート・エイド・神戸」「兵庫ア-トウィークin東京」や「アーツエイド東北」「加川広重 巨大絵画が繋ぐ東北と神戸」などの震災に関わるプロジェクトを手がけてきた。これらのすべては新しいモデルとして生まれ、数多くのアーティストが関わり、多くのプロジェクトと繫がってきた。何れも実行委員会を組織して私は事務局長、いまでいうプロデューサーである。その組織に行政は誰もいなく、内容も計ってもこなかった。今、振り返れば失礼なことを重ねてきた。

“御政道批判すなわち打首の昔を今になすよしもがな―現代の権力者―”   多田智満子

季村敏夫さんたちが創刊した瀟洒な文芸誌「たまや」の冒頭に掲載された「人知れずこそ ―ざれうた六首」のうちの一つです。2003年1月23日午前8時58分にお亡くなりになった。72才。
この日、神戸から東の空をながめると六甲山系から大阪湾にかけて見事な七色の虹が壮大に掛かった。
多田さんは2001年の神戸市長選で私が批判派の責任者であった時の陣営におられました。そのこと自体が驚きですが、お亡くなりになられる前にこの言葉を残されておられます。文学者として、そこまで覚悟を決めておられたことに胸打たれる。

行政もフェア
私の行動は覚悟あってのことだが、先に挙げた私が手掛けた多くのプロジェクトに対し、緊張関係の中で県・市は相応の支援で応えてくれた。「もっと仲良くしていれば」は愚問だ。そういう人間は、そもそもこういうプロジェクトなど手掛けない。そうした関係であるからこそ、「共にある」のに打合せにしろ庁内には入れない。でも、多くの困難な事態を現場で解決しながら成功させてきた。

多分に強者になりえないという、自分自身の実感と虚構や覇者を排すべきであるという明確な自覚は、今なお、ぼくを暖めつづける体温そのものであり、かっていささかの苦渋と挫折に色どられた春の日の体感に由来する陰影が、今日、なお執拗にぼく自身をドン=キホーテさながらに理由なく困難な状況へと立ち向かわせているようである。

「わが心のシノプシス」

今、私の自邸から数分のところにある実験劇場「シアターポシェット」を自邸に建て若い人たちに開放した歯科医師 佐本進さんの言葉(1990年2月28日、自死された)。ともに神戸の文化の風土を変えていくはずであった。

私は佐本メモリアル実行委員会を組織し様々なイベントで飾り、劇場の全公演記録や佐本進の残した文を「天の劇場から」として出版した。30年前のことである。今、手にすると永六輔さんが関わり、本のデザインは林哲夫さん。装幀の仕事を始めた最初。出版が風来舎(私の本を出版していただいている)。

神戸芸術文化会議の改革を佐本さんと私に託そうとしたのが当時、議長であった服部正さん。そのころ病を得られ服部正詩詞集「座礁船」を海文堂ギャラリーが刊行(2000年)。その後に改革し、伊勢田史郎議長が誕生した。
9000日のうちの「一日」であっても、多くの試練を超えてきた継手にはかけがえのない強度が与えられていると私は思っている。この 9000日を営業日に換算すれば6400日。少なめに来場者を30 名/日として20万人が来てくださっていることになる。三宮から徒歩15分。ショッピングゾーンでもない。だからこそ来てよかったと思っていただく場でありたいと願っている。
これからの日々も絶えず何事かが起こり続ける場でありたい。

2020.1「居場所」

1989年。臨死体験をした。脳脊髄鞘腫だった。死を覚悟した。目覚めた集中治療室のことは今でも蘇る。

それからの日々は自分を捨てることを目指した。あれから30年。

その2年前にオランダ領事館におられた亀井純子さんと出会い日蘭文化交流に携わった。私の手術の翌年に亀井さんが40才で亡くなられ、託された遺贈を基に1992年、公益信託亀井純子基金の誕生。それから一般財団法人、公益財団法人とステップを踏んできた。託された思い(信認)に応えるのが務めである。

1995年の震災を期に、「アートエイド神戸」に取り組み、2011年に「アーツエイド東北」の設立に関わるなど多様な文化拠点としての活動を拡げてきた。石井一男、井上よう子、木下晋、重松あゆみなど、今につながる多くの作家とその前からの付き合いである。

人の居場所とは何だろう。心や精神のすみかはどこだろう。

時間が流れ、風景が変わっていくことだけは不変なのだが、神戸をいとしいと思う。

人付き合いの苦手な私が、ようやくどこかに居場所を得ているのは、

島田さんのように作品と人とをつなげてくださる人がいるおかげである。

重松あゆみ「ギャラリー島田 30年目の透視図」 P39から

40年をこえた日々、単なる個展会場ではなく、作家にとっても、来られる方にとっても、私たちにとっても、何かが生まれる場でありたいと願っている。一つの場からはじまり、’03にdeuxが生まれ、’15にtroisを持った。それぞれが多くの作家の居場所であるように心している。

「映画を観る場所」に留まらず、どの劇場で「何を」体験するか、という時代が到来した(略)。

劇場は「箱(劇場)」自体の魅力というのが非常に重要になってくる。

   わざわざ劇場に出向いてもらうというためには、「京都みなみ会館」で「時間をすごしたい」と

思っていただけるような空間づくりと体験の企画を行わなければならない。

吉田由利香(京都みなみ会館館長)の言葉から引用。

(新建築 2019年11月 タトアーキテクツ P154-161)

この劇場は小さいながら三つの場をもつ。思いは私たちと重なる。KOBE ART AWARD 2018の地域貢献賞をお贈りした元町映画館、映画資料館が輝いている。

作品の居場所

作家を紹介し、その作家と歩む。そして、ここから作品の居場所を探す。それはお客とつなぐことであり、時にはギャラリーが、または島田が買う。または作家から、遺族から託されコレクションをテーマごとに招待作品とともに「+」した展覧会も企画している。

今を生きる作家が展覧会を通じて顧客のところに居場所を得るのは最も幸せであり、そのために私たちは心を尽くす。しかし、そうでなくとも作家、作品の居場所を考え続けている。

そうした作品を、最適の居場所として公立、私立美術館、公共施設、ホールなどに納める(寄贈する)。寄贈といってもその審査のハードルは極めて高い。10月号で寄贈及び寄贈仲介を320点と報告。今回15点を加えて335点となりました。詳細は追って報告いたします。

自立であること

ギャラリーの経営、様々なプロジェクトにかかわり神戸塾などを行う「アート・サポート・センター神戸」、そして「財団」が私た ちの三本柱です。それらについて、「自立」であり公 的な助成を受けることはありません。例外は阪神と東北の震災に関わる大きなプロジェクトを除いてですが。こうした在り方に心を寄せる無名の人々の信に応えたいと願っています。 この財団の簡素なモデルが次々 と地域に埋め込まれていくことを願っている。

TRANS-(天)

「ART PROJECT KOBE 2019」は 11 月 10 日をもって終了した。TRANS-  は「越えて」「向こう側へ」の意味ですが、その余韻に 浸るように私もTRANS-  をした。11月19日。転倒し「意識 が飛び」搬送された。 私の TRANS-  は「天上」だったかもしれません。3週間後の今も精査途上である。30 年前に続き。またしても「脳」が疑われた。状況を考え れば大事に至らなかったのは神の導きとしか思えない。 いますこし。与えられた日々を、大切に生きよと内なる声を聴いた。

結びに

志が繋がっていくどこにもない有機体としての結びつき

一人の思いをこえて 大きな、大事なことが

数知らずに生まれていくなによりも自由であり簡素であり

真実である

居場所