2021年1月「パンデミックの時代に」

天地萬物は無始無終の「時」というものの上に動いている。生々流転。一日一日の時は移り、一月一月の時は轉ずる。そして一年一年が過ぎていく。何処からきて何処へ去るのであるか知らぬが、「時」というこの大きな流れの上に私たちは生きている。

「日」も旅人だ、「月」も旅人だ、「年」も旅人だ。私たちもまた「旅人」でなくて何であろう。

『声の記憶』はいわば私の「老いの細道紀行」といった趣である。

           「この道や行く人なしに秋の暮れ」芭蕉

命あるものはみな不思議を生きる。目くらましに見ないで済ませてきたことがあからさまになるパンデミックの今。私たちは微力であっても、他人事ではない我事として考えたいと願ってきました。それはメディアで知る、読むではない、もう一つの「声の記憶」でもあります。昨年末で17人の寄稿をいただき、その多くが私たちと繫がる海外の「声」です。イタリア、フランス、ドイツ、アメリカ、イギリス、デンマーク、チェコ共和国、ベオグラード、韓国、フィンランドなど。2021年夏には計30名ほどの寄稿と、それを受けて、私達はこの時代をどのように生きるのかを纏めたいと思っています。

私達は日々の感染状況、経済、財政動向に振り回されている。でも私たちはそこから外れた新しい道を歩まねばなりません。

1995年1月17日 阪神大震災

2011年3月11日 東北大震災

2020年        コロナ禍

25年の日々の狭間で大きな天変地異と共にあった。しかし今回は特別だ。コロナ禍は国境を人種を超え、時空を超える。

日本にあり神戸に生きるにしても、歴史を抱き、世界に広がる友と語り、人としての明日を共にあゆみたい。

老いるという幸せ

私の手元にシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『老い』がある。その刊行から50年がたつ。

私は「脳」の不規則な応答を友として長くある。経済成長を至上とする社会の中で若さ、効率、生産性ばかりが謳歌される時代が続いてきた。しかし死を視野に入れて年齢を受け入れれば、老いることが出来るという幸せをかみしめることは可能なのではないか。世俗の価値観を脱して本質を見つめ、美しさにいっそう敏感に、自分より他者に向かう時期としての老年期は、決して、惨めでも悲しくもない。老人の中には全ての年齢が閉じこまれている。

時と場によって心の年齢を変えられる。それは老人だけがもつ特権であり豊かさであるかもしれない。

新しい時代を生きるために

 

2020年はコロナ禍の渦中から新しい挑戦を続けてきました。

7月に2つの部屋とオンラインミュージアムを使って85名の作家が参加する「未来圏から」。この後、リアルな個展とオンラインギャラリーが連動することになり、作家とギャラリーが一体となることが多くなった。

情報発信としては、画廊通信(月1回)メールマガジン、展覧会案内(各2,3回)など、密度、頻度の高い発信を行った。スタッフ、アシスタントスタッフ、インターン、ボラテンィアの総勢11名がチームを成し、出勤調整し、モチベーションは極めて高い。ほとんどが書ける人だ。

そして、『声の記憶「蝙蝠日記」2000-2020 クロニクル』を出版。

2021年も、さらなる挑戦を続けます。

「特別寄稿 パンデミックの時代に」出版、アート・サポート・センター神戸の神戸塾サロン(コンサート・トークなど)を多彩に。公益財団法人神戸文化支援基金の取り組み、プロジェクト「こどもたち、若者たちの未来へ」に主体的に取り組みながら年間1000万程度の事業を検討しています。

留まることなきコロナ禍ですが、それでも皆、アートに関わる人としてなすべきことをなさねばなりません。

2020.12「混迷する世界での希望の灯り」

世界全体がパンデミックに晒され多くの命が失われている中、超大国アメリカのリーダーがこの2020年の11月7日に選ばれた。全米を挙げてリーダーを選ぶこの国の在り方を見るにつれ、合衆国の深い意味を学ぶ思いである。

副大統領のハリスさんの来歴と発言のなんと魅力的なことか。

「皆さんは票を投じて明確なメッセージを送った。希望、結束、品位、科学への信頼、そして真実を選んだ。最初の女性副大統領だが、最後にはならない」

ハリスさんはカリフォルニア州オークランドの出身である。この街はlocationとしても我が町 神戸と似ているうえに私にとっては忘れることの出来ない思い出と繫がっている。

神戸高校合唱部がシアトル、サンフランシスコの南海岸を縦断しハワイにいたる一か月間に及ぶ演奏旅行を行った。遥か昔のこと。

私はOB(当時大学1年)アシスタント指揮者として同行していた。次がサンフランシスコでのホームステーがオークランドでよく覚えている。

新大統領バイデン氏は78才とのこと。私もちょうど78才になった。

縁を感じさせる今回の米政権。お前ももう少し頑張れと励まされる思いだ。

私たちの希望はどこにあるか

さかのぼること17年、2003年の9月21日、加藤周一さんをお招きし「加藤周一講演と対話のつどい」を神戸朝日ホールで開催したのを思い出す。当時、加藤さんは84才だった。

加藤さんは言葉の力を信じ、言葉の力に賭け、美しい言葉を好み、美しい言葉で表した。

声高の大言壮語を嫌い、狂信的な物言いを拒んだ。

語るときはいつも声低く語った。

そして、人間の可能性を信じ、人間のつくりだしたことを敬し、人間がつくりだしたものを愛した。

権力に近づかず、弱者を理解しようとした。

それは一貫して変わらなかった。

2020年を振り返って

2020年は1月の木下晋展に始まりました。

長い長い木下さんとの交流の一つのゴールがこの危機の渦中であるという巡り合わせが象徴することに慄然とします。

1月 木下晋・25年目の1.17・トゥーンベリさんへの応答

2月 黒川伸輝・金子善明・永田耕衣・藤崎孝敏

3月4月5月は延期・中断

     上村亮太・桑畑佳主巳

6月 オンラインストア・緊急支援

7月 未来圏から!

8月 友定聖雄・鴨居玲

9月 大森翠・小谷泰子・松原政祐

10月 田鎖幹夫・沢村澄子・きたむらさとし・南輝子・藤飯千尋

11月 再び上村亮太・アートの架け橋・石井一男・須飼秀和

そして12月の締めくくりは井上よう子・林哲夫・戸田勝久です。

それにしても存続を危ぶまれる経営危機とコロナ危機を反転させつつある力は何処にあるのでしょうか。

個性的なスタッフ達がチームをなし、作家とともに、時代の転換期にあたり、何より、伝えるべきものに専心する潔さが伝わってくるのです。

2020年11月「水際を歩く」

人が人であること、あたりまえのことが当たり前ではない。

生きているだけでもありがたい。

1935年 東北大飢饉(母、セツルメントに携わること4年間)

私は1942年、戦中生まれ

阪神淡路大震災 1995年1月17日

東日本大震災 2011年3月11日

日本に生まれ、平穏に暮らしを重ねるだけでも生死の水際を歩いてきたことを知る。

そしてそれらの出来事に、なにがしかの関わりをもってきた。

いままたコロナ禍のうちにパンデミックの世界を生きる。

日本では今に至ってなお「経済と文化の回復」を主体に語られているが、それは「地域と経済」を巡る話であり、今こそ必要なのはそれを超えた人の在りようを考えることではないか。

私達は幸い、世界に繋がる皆様とのネットワークがあり、パンデミックに面しながらどのように感じ、どのように生きようとしているのかのエッセイを寄稿していただいています。現在は15名の方にいただいていますが、最終的には30名ほどの皆様からいただきブックレットとして刊行したいと願っています。

音楽との再会

南輝子展 ROY-CWRATONEⅡ 板橋文夫オープニング・コンサート 冒頭挨拶より-

 

「島田さん、10年ぶりやなぁ」と、板橋さんと強く抱き合いました。

コロナ禍、このパンデミックの時代に、いまここで板橋さんをお迎えして、南輝子さんの展覧会をできるということは、私にとって、実は特別な意味がありました。

震災から25年。

たくさんの展覧会に関わらせていただくなかで、南さんの導きで、岩岡へはもちろんのこと、沖縄に行ったりした。

リハーサルで板橋さんの音を聴きながら、以前松方ホールで、板橋さんが演奏された曲を、ずっと思い出していた。

海は広いな大きいな・・・という童謡。

板橋さんが弾くと、本当に、静かに、静かに、海の情景が浮かんできて、それが、だんだん、だんだん、荒れた海になって、その荒れた海が、また、静かにおさまってくる。

その感動的な曲が、ずっと、心の中によみがえってきた。

ずっと、思いが繰り返していた。耳の状態が悪く、音楽が実は聴けない。

けれども、ある日、気がついた。音楽というのは、外から聴こえてくるものを受け取る。だから、コンサートに行ったり、CDを聴いたりする。

でも、自分の心の中にある音楽というのは、そこから聴こえてくるわけではなくて、自分の心の中に感動として、残っている、ということなのですね。

私は、大好きな音楽を聴けなくなったことに対して、がっかりしていたわけですが、

音楽でも絵画でも、ある意味、『今見ている、あるいは、音で聴いている、ということよりも、感動として自分の心の中にしっかりと刻みこまれたものは、時を越えても、その感動を呼び出すことができる』ということを発見した。

それ以来、『この感動というもの、自分の心の中にあるものは、いつまでも、繰り返し呼び出すことができるということを知ることによって、身体的な状況でがっかりしたり、落ち込むことはないのだ』『今、目の前にある、出会いとか、色んなものについて、リアルに感動として自分の中に留めておく、ということが出来るんだ』ということを、発見したのです。

今日も、また新しい感動を自分の心の中に留めて、新しい出会いが生まれるのではないかな、と思っています。

2020年10月「出来る事、出来ない事」

パンデミックの今、私は78才を迎えようとしている。77才をゴールと公言してきた。

やり残したことは何もない、あとはすっと逝くことである。でもこれは思うほど簡単ではなさそうだ。

ギャラリー島田は、それなりの役割を果たしながら巡航するだろう。その40年におよぶ航海日誌が周遊の記録として開示されるのを待っている。それは決して豪華客船ではない。日常の往来の中で、白髪一雄、元永定正、津高和一、嶋本昭三など現代アートの巨匠たちのリラックスした姿が見えてくる。中島由夫、武内ヒロクニなどが暴れた海文堂ギャラリー時代を終えて、神戸・北野に3つのギャラリーがパンデミックで沈没かと思えば「現場の力」で新しい生き残る道を見出しているように感じる。生き抜く知恵は何処にあるのか。なにかが沸沸と起こるところ。それは何故起こるのか。今、振り返って思うこと。それは権威学識から自由であることかもしれない。世界中で模索されているパンデミック時代の生き方、極めて興味深い、時代を変えるキーワードが私の周りにはあるように思う。私も残り少ない日々に堀尾貞治さんの「あたりまえのこと」のように、何食わぬ顏で彼岸にいたい。

「書く」という行為

 

神戸ゆかりの美術館「無言館 遺された絵画からのメッセージ」へ足を運んだ。

窪島さんはかつてこう書いていた。「この歳になって、何となくわかってきたのは、「書く」という行為はどこにいるか知れぬ未知の相手にむかって手紙を書くということ。わたしにとってそれがだれかは今もわからないのだが、かつて瞼にえがき探しもとめた生父もその一人だったのだろう。」(窪島誠一郎『日暮れの記「信濃デッサン館」「無言館」拾遺』から)

私にとっての書く行為もどこかその気配を抱く。

会場で会った満身創痍の窪島さんが私に放った言葉は、どこか弱気の私を見抜き「島田君、何が何でも生き抜こう」だった。

その言葉は聖セバティアンの矢のごとく私を貫いた。

 

グリーンの頃、返しきれない思い出の日々

 

印象深い記憶があります。

「君はグリーンやな」

三木谷良一さんが言った言葉です。なぜか様々に長くおつきあいいただいた方なのです。

三木谷さんと、ある方と三人で席を共にすることになった。向かいに座っていたのが、柔道で名を馳せた猪熊と互角に戦った巨漢、当時の日銀神戸支店長。私はその方の振る舞いを許せないと激していた。その時、ぶん投げられて大怪我でもしたらと割って入ったのが三木谷先生。そこで呆れて放った言葉が 「君はグリーンやな」でした。ところが私はその意味が分からないできょとんとしている。「青二才め」。おかげでぶん投げられもせず笑いのなかでおさまったのでした。

古武士の風格のある三木谷先生は、そのころわたしが見境なく当時の神戸を覆っていた風土を変えたいと怒りをもって行動していたのをよく知っていました。

長く生きてきたなかで、多くの記憶から消えない皆さんがおられる。圧倒的に、一方的にお世話になった皆さんです。返し切れない思い出の日々が鮮明に蘇ります。熱きが故に事は起こり、その熱さゆえに事は成すのでしょうが、そのすれ違いざまの傷跡が今となれば、申し訳なく、振り返っても幻のように姿がみえず、謝る術も知れません。

私は一体、何に惹かれて爆走してきたのか。長く、自ら設定してきたゴールが今、見えてきたようです。

来し方行く末、思いは巡る

 

間もなく「蝙蝠日記クロニクル2000-2020」を刊行する準備に入っています。

シアターポシェットの館長で自死された佐本進さんのこと、座礁船の刊行を託した服部正さんのこと。もう30年も前のことなのに、今も鮮明に立ち上がってきて、私を捉えて離さない。それは何故だろうか。それは「生きる」という誰も逃れられないことを強く私に語り続けるからではないか。

不思議なことに、佐本さんのシアターポシェットの全記録も服部正さんの座礁船も私のクロニクルも、伊原秀夫(風来舎)さんの手によることとなりました。このことが暗示することは誠に興味深い。この冊子が、すべての人々が「静かに等しく生きること」「人が人であること」の問い直しをする今に恥ずかしくないものでありたいと心底、願います。

2020年9月「私の座礁船」

今、私は服部正さんの遺言の如き詩集「座礁船」と再会し衝撃を受けています。

          地球は青く闇無限 我はただ

          臨終告知をまちいたり

          銀河系よ その方向を誤るなかれ

                       (服部正「座礁船」(風来舎)より)

誰もが揺らぎ、先を予測できないパンデミックの時代を、服部さんのことばが照らす。

目を凝らせば、多くの人が神戸の未来へと繋いできた航跡が見え、耳を澄ませば、未来へと向かうエンジンの力強い音が聞こえないか。

服部さんとのご縁は、「神戸芸術文化会議」。名議長と言われ長く「神戸芸術文化会議」を率い、神戸市の文化基盤の改革を志し、推進された。前号の佐本進さん、服部正さんはじめ、多くの方々と出逢い、つながるなかで、志を託されてきた。

その出逢ってきた人々と、託されてきた忘備を、インデックスのごときメモランダムとして、遺したいと思っています。

軌跡のようなきれいごとでは語れない、痕跡のような記録になりそうであるが、とにかく、その準備を始めました。

生きるための免許更新

 

「無言館 遺された絵画からのメッセージ」が9月12日から神戸ゆかりの美術館で始まります。

無言館は、窪島誠一郎さんと野見山暁治さんが、戦没画学生の遺された絵を蒐集され、1997年に長野県上田市に開館しました。

戦後75年の節目を迎えますが、コロナの渦中にある現在、過去だけでなく「今」も命、あるいは「生きる」ということの切実さをわたしたちは等しく抱いているといえます。

実は戦没画学生の遺された絵の展示は神戸からはじまりました。海文堂ギャラリーでした。

阪神大震災は 50年目の戦場神戸と言われましたが、その後の三宮の復興支援館などでも、このプロジェクトに継続的に支援を続けてこられた、いや、今も続けておられるのは凮月堂さんです。

先日、このことで窪島さんと電話で話をしていました。お互い、長く生きてきたけど、様々に不調を抱えている。

でも、窪島さんとはまだご一緒する大きな仕事がある。来年9月11日が画家松村光秀さんの没後10年になる。

沖縄・佐喜眞美術館、窪島さんの残照館(旧信濃デッサン館)とギャラリー島田の三館で、それぞれ違う作品と独自のコンセプトで一ヶ月間という稀有な展覧会を計画しています。

窪島さん曰く、「生きるための免許更新を忘れないで!」あと一年。何としても生き延びねば。

今回の神戸ゆかりの美術館での展覧会「無言館 遺された絵画からのメッセージ」はしっかり応援したいと思っています。

鴨居玲に想う

 

私も鴨居玲に心を鷲づかみにされてきた者たちのうちの一人だ。そしてその執心が多くの貴重なものを私に引き寄せてきた。それらはしかるべきところへ寄贈して今はない。

たとえば最初の自殺未遂の時のものと思われる自筆の遺書のような書き付け。

それは医師であり小説家であった原口ちからさんから託されたが、他人に見せるわけにもいかず、折り畳んでファイルに保管していた。原口さんも亡くなり、さて私が死ねば永久に日の目をみることはなくなる。ふと気がつくと、原口ちからさんが「書き付け」と共に私に残していかれた叢書が、津高和一さんの装画で、書名が「厄介な置き土産」(兵庫のペン叢書1、1982)とある。 なんという符合であるか。長く苦しんできたが、石川県立美術館に相談して寄贈させていただいた。今回の石川県立美術館での没後35年展でも資料展示されているのではないかと思う。そして、榎忠さんの前で切り裂いたカンバスは鴨居さんが在学した関西学院大学へ。

今、私の手もとにあるのは… 鴨居さんが愛した伝説のバー「デッサン」(武田則明設計)に置かれ、鴨居さんも座した石彫のオブジェ(山口牧生)。そこに集う心許す友と交わした手紙。魅力あふれるポートレート。鴨居さんが使い込んできたサイン日付入りのパレット。 そして、鴨居さんが恰好いいドン・キホーテであれば、終生、サンチョパンサであり自死の発見者であった岩島雅彦さんが、最後の個展でギャラリー島田に遺した代表作「芸人の一家」(200号)。これは岩島さんから鴨居さんへのオマージュです。

この作品も鴨居玲作品とともに神戸で永眠させてあげたい。

今年は鴨居玲没後35年。私どものコレクションもこの期に公的な場に纏めて寄贈するつもりです。

2020年8月「私たちは信ずるに値する日を生きているのだろうか」

明確な記憶にないずっと以前から、ぼくの心は、いわれなく、ひたむきに「弱きもの」に対して魅せられ続けてきたようである。弱者に対する、たとえようのない共感、愛着心、親近感。それは、多分にぼくの理念ではなく、思想や信条でもなく、おそらくは拭い去ることのできないぼく自身のしからしめる所以なのかもしれない。多分に強者になりえないという、自分自身の実感と、虚構や覇者を排すべきであるという明確な自覚は、今なお、ぼくを暖めつづける体温そのものであり、かっていささかの苦渋と挫折に色どられた春の日の体感に由来する陰影が、今日、なお執拗にぼく自身をドン=キホーテさながらに理由なく困難な状況へと立ち向かわせているようである。

 「わが心のシノプシス」  佐本進「天の劇場から」(風来舎)

1989年2月27日 自死した佐本進さんの言葉です。親しくさせていただいていた私は「お前に託したぞ」という声を聞いたのです。

1989年7月27日 私は「脳脊髄鞘腫」の手術。

1990年5月28日 亀井純子さん亡くなる。  私が後を託されたと思う二人。

多分、私は当時、先端医療であったMRIで「脳装置」をお二人の「魂装置」と入れ替えられこの世に戻されてきたのではないか。

小さな花

 

加藤周一さんの「小さな花」を覚えておられるでしょうか。

私たちが差し出した「志縁」も「小さな花」でしたが、とてもうれしいことですが、前号(2020.06/07)をお読み下さったみなさんから、続々と声とともにご寄付を届けていただいています。中にはビックリする額も。

パンデミックの時代は、まだ始まったばかりです。もっともっと厳しい時を迎えるのです。私たちは、それでも、すべてを共に受け止め未来へと歩まねばなりません。

「未来圏から!」は松田素子さんから託された宮沢賢治の言葉に応答するように、85名を超える作家が三つのギャラリー空間とオンライン・ミュージアムとで参加されます。すべてが新しい挑戦です。3月から7月にかけて、誰もが息をひそめるように「今」を見つめ「これから」を自問してこられたと思います。国境を越え、世代を越え、人が人としてあることはどのようなことなのか。私たちの希望は何処にあるのか。

 

私自身もしきりに自分の人生のかたづけに入っています

 

下手で散らかり放題であった周囲も整理が出来てきた感じがします。

もともと何に対しても執着がなかったのですが、ないないずくしの日々。そういえば最近の天空、夜空が美しいし、空気も綺麗です。皆さんの思いも純粋です。そのことを忘れない。伝えたい。

そんな30日。86点の作品が時空を超えて皆さんの思いが繋がっていく。

2020年6月「緊急支援助成にあたって考えたこと、どう取り組んだか」

あらゆる芸術文化活動が休止に追い込まれ、先行きも見通せなくなっていく4月。

もともと地域に根差し経営基盤が強くない団体や拠点の存続を心配し、出来ることは何かと自問を繰り返す日々。

まだ政府、自治体からの支援策など何も発表されぬままに休止・中止。先が見えませんでした。

私が「緊急支援助成」の趣旨と仕組みについて財団の役員の皆さんに諮ったのが4月6日。

政府が緊急事態宣言を出したのが4月7日。

緊急事態宣言へと向かう、緊迫した状況のなかで、するとしても「その規模は」「ありかたは」と心惑いました。

私たちは公益財団の認可を受けていますから厳密に定款や規則に則って運用されねばならない、ということも大きな課題でした。

「いつも通り淡々と」いや、「こんなときこそ」など議論を重ね、助成の仕組みを発表したのが4月16日でした。

緊急支援助成の規模としては1000万円。財団の全役員16名が関り、兵庫県下を6地区に分け、それぞれ2名のノミネータが担当し深堀りするように調査し、本部には6名が属し、全員で審査をしていきました。

これを三段階に分けて「志縁」を決めて行きました。第1回4月25日、第2回5月9日、第3回5月23日とノミネートし、それぞれの1週間後に決定していきます。第1回で23件、第2回で23件、第3回で7件。合計53件 総額930万円。

選ぶことは選ばぬこと。辛い作業でもあり、選考委員全員が悩み抜きました。

私たちは何気なく「支援」という言葉を遣いました。「支える」「援ける」。でもそれは違うのではないか。

私たちが頂いている「ご寄付」そのものが「志」と「ご縁」によるものなのです。

そして、今回、選ばれて助成を受けられる皆さまには私たちの申し出を「応じる」「諾す」すなわち「応諾」していただくこととしました。

アップスタンディングな心

1989年、私は生死を分かつ脳の手術を受けた。その時、心配され励ましてくださったのが亀井純子さん。その9か月後に亀井さんが40才で亡くなられた。それから30年。亀井さんに続く「冠名基金」の皆さんや多くの「志縁者」が紡ぎだしてきた物語。すべて、そっと差し出されたもの。

予期せぬコロナ禍に囲いこまれ立ちすくむ文化。今に留まらず繰り返し襲われるという。

コレラ、ペスト、スペイン風邪など昔話としか思っていなかったパンデミックに直面する今。

「目の前に苦しんでいる人間がいるとき、治療するほかないじゃないか」。大江健三郎さんが「広島 ―1963年夏」の取材で、重藤文夫の言葉として書き、その姿を見て、自分がやっていかなければいけないこと、やってはいけないことがよくわかった。

人に償うということは相手のためではなくて、

自分の心を清めるために、あるいは自分のこころのためにそれをするのではないでしょうか。

どういう心にかというと、アップスタンディング( 自分の背骨で立つ )なこころになるためです。

大江さんの1995年1月号「世界」(岩波書店)の特別対談から

 

2020年5月「パンデミックの危機に」

今回は「パンデミック」特集のようになりました。

世界中がコロナ戦争の渦中にある。こうした有事にこそ本性が露呈する。 今、日本が直面していることは事々に予見されてきたのに様々な目くらましの熱狂のうちに有耶無耶の崖っぷちにある。

歴史は繰り返す。馬鹿げたことには惜しみなく浪費し、富む者、貧しい者は極端に上下に分離し、糾すべき為政者は恐ろしく空虚だ。

ウイルス禍は遅すぎる緊急事態宣言で慌てふためいている日本より早く、国を挙げて取り組んできたドイツ(藤野一夫)、英国(きたむらさとし)、フランス(松谷武判)、イタリア(武谷なおみ)について報告いただきます。(特集  P2,P3)

そして私たちを取り巻く全ての芸術文化の休止状況に対し「何をなすべきか」を悩み、議論しながらたどり着いた、「こぶし基金による緊急支援助成」について説明いたします。(P4)

この取り組みが小さな「希望の灯」であることを祈っています。

予定した展覧会は次々と中止、延期に。開催に漕ぎつけても中断(予約者のみが入場可)となりました。

3月の「小谷泰子展ー青の断片から青い闇へ」「加川広重展 3.11 夜が明けるまで」、4月「アートの架け橋」5月「片山みやび展」「里井純子展」は延期に。これらは全て準備が整っていました。

それ以降も、坪田昌之、長沢秀之、佐藤有紀、須田剋太、金井和歌子・・・など予定していた展覧会の目処が立ちません。狼少年のように、こうしたことを何度も繰り返してきていますので、確定出来るときを待ちたいと思います。

皆さんと共に

私たちが取り組んだ時代の危機を伝える『アネモネ戦争』プロジェクトは、まさに今の危機を撃つものでしたが、出版記念展の半ばで政府の緊急事態宣言で休止になりました。プロジェクトを率いた松田素子さんに毎年恒例の、交流を軸にした「ミニアチュール神戸展 」に代わる、この危機の今に向かいあう作家としての表現を求める企画のテーマをお願いしました。

最近のテーマは、 「ホワイボン」「いまこそわたれわたりどり」「ありがとがんす」「わたしのカフカ」「わたしの万有引力」など、ユニークで宮沢賢治に繋がるものでしたが  今、私たちが直面している危機は国境も人種も階層もこえて「生きとし生きるもの」を脅かし続けています。

「未来圏から!」

諸君はこの颯爽たる 諸君の未来圏から吹いて来る 透明な清潔な風を感じないのか     (最初の一節)

新たな詩人よ 雲から光から嵐から 透明なエネルギーを得て 人と地球によるべき形を暗示せよ     (最後の一節)

宮沢賢治 「詩―生徒諸君に寄せる」より

 「今、伝えなければ」という思いに溢れた場でありたいと願っています。

成すべきこと

私にとって第2次大戦、すなわち敗戦は3歳の時。阪神大震災は53才。東日本大震災は69才。今ある危機は77才。敗戦時は幼く、ただ立つことを覚えただけだが、その後の大きな体験では芸術文化の復興の活動に関わってきた。『アネモネ戦争』は危機を伝えるものだったが、その危機が更にこの国を分断し、何よりも「人が人としてある」ことを失った日本のリーダーの姿。

コロナ危機の先には大恐慌が待っていると言われています。そして社会の分断へと続くことが懸念されます。

身を捨つるように、問うこと、そして行動に移さねばならない。

2020年4月「小さな花」

私たちが差し出すアネモネの花はこの世の破滅へ向かうことを止めることに役立つのだろうか。

私は戦中に生まれながら、戦争を知らず、敗戦を知らず、終戦後は自覚せぬままに自らは経済成長のなかにあり、世界中で起こっている不平等や貧困や紛争については関心はあっても対岸の火事だった。

77年の日々への遅ればせの責任を果たさねば・・・

1960年代の後半に、アメリカのヴェトナム征伐に抗議してワシントンへ集った「ヒッピーズ」が、武装した兵隊の一列と対峙して、地面に座りこんだとき、その中の一人の若い女が、片手を伸ばし、眼のまえの無表情な兵士に向かって差しだした一輪の小さな花ほど美しい花は、地上のどこにもなかったろう。その花は、サン・テックスSaint-Ex の星の王子が愛した薔薇である。また聖書にソロモンの栄華の極みにも比敵したという野の百合である。

  (略)

私は私の選択が、強大な権力の側にではなく、小さな花の側にあることを、望む。望みは常に実現されるとは、かぎらぬだろうが、武装し、威嚇し、瞞着し、買収し、みずからを合理化するのに巧みな権力に対して、ただ人間の愛する能力を証言するためにのみ差しだされた無名の花の命を、私は常に、かぎりなく美しいと感じるのである。

(加藤周一「小さな花」P36 , 38からの引用)

私たちは今こそ、私たちの小さな花を差し出そう。

 

自由よ Liberte

生徒の手帳に  /  学校の机や樹々に  /  また砂の上雪の上にも  /  ぼくは書くお前の名を

よんだすべての白い頁の上に  /  すべての白い頁の上に  /  石や血や紙 灰の上にも  /  ぼくは書くお前の名を

(略)

ただ一つの言葉のおかげで  /  ぼくはもう一度人生をはじめる  /  ぼくは生まれた  /  お前を知るために  /  お前をよぶために

自由よ。

(ポール・エリュアール「Liberte」からの抄訳 加藤周一による)

エリュアールが「詩と真実、1942」を書いた年に、私は生まれた。「Liberte」は童謡のように単純な形式と日常的な単語で書かれている。
しかし、これこそが「抵抗」の詩であった。
「アネモネの花」も、これこそが私たちの「抵抗」の詩であることを確信している。

(注)プーランクがエリュアール の詩による合唱曲「人間の顔」を作曲。その終曲が「Liberte」です。私はアカペラ(無伴奏)合唱団タロー・シンガーズの「Liberte」にいつも深く心を揺さぶられます。今回、個展で登場する里井純子さんは指揮者の里井宏次さんのパートナーです。

2020年3月「呼びかける人」

人生に於ける最後の跳躍に入っている。

学生時代を助走とすれば会社勤め(Hop)、海文堂(Step)、ギャラリー島田(Jump)。今は着地(Finish)姿勢に入っているようだ。そしてなぜか、それぞれの段階がまた三段跳びなのが不思議だ。

いずれにしてもプロではない。だから大志がない。それがために「託される」ことを生きているのかもしれない。

チーム・アネモネ

上村亮太さんとは27年前の六甲アイランド・野外彫刻展で出会い、震災の2年後の「兵庫アートウィーク・イン東京」に登場していただき、森美術館のオープニング「六本木クロッシング展(第1回)」で注目してきた。毎年の個展も独創的な内容で、理解に苦しむこともあり、聞いても「なになのでしょうね」と笑顔で言うばかり。8年前の個展に9冊の美しい絵本というよりもアートブックを展示された。ストーリーから製本に至るまで素晴らしく、それを自由にみていただくことになった。深いメッセージに惹かれ、とりわけ『アネモネ戦争』はまさに今の時代にこそ出さなければと悶々としていた。

1年前の12月の仕事納めの日に、編集者の松田素子さんが尋ねてこられ初対面のご挨拶をした。宮沢賢治、まど・みちおをはじめ150冊の素晴らしい本を世に出した方で北野に越して来られたばかりでした。松田さんも何かの縁を感じて尋ねて来られたのでしょうが、私はこの方こそ神が遣わせた使者だと思えたのでした。このプロジェクトは上村亮太の深く強い思いと松田素子の出会いが形を成し、それをチームがリードし、サポーターが支えるという奇蹟のプロジェクトだ。

私はといえば、そうしたプロジェクトの形を伝え、あとは全てをチームに任せ資金をはじめとする責任を引き受けることだけを伝えた。

この『アネモネ戦争』出版プロジェクトはまことに不思議です。「チーム・アネモネ」のHP(https://www.team-anemone.com/)を見ると物語りの全文が読めて、絵もラフで見ることができる。

―とてもよく晴れた、ある朝のことです。  晴れて、遠くのほうまで見える朝、  だれかを呼んでいる人がいました。

いなくなった人たちに、はなれていった人たちに  なにかを、呼びかけているのでしょうか・・・・

 

「ここにいるよ」「答えて」「声を出して」と

 

私たちが行っていることすべてが「送り手」「受け手」に留まらず、そこで何かが起こることを大切にしています。このプロジェクトがこのような形で実現することは、とても嬉しい。

出版記念の上村亮太展をこころまちにしている。

なお、当初は事務局を担っていただいているBL出版さんから刊行していただく予定でしたが、この限定版は島田からというプロジェクト・チームの結論で迫られ、ギャラリー島田でもアートサポートセンター神戸でもなく「蝙蝠舎」から出版ということになりました。