としをとる それはおのが青春を 歳月の中で組織することだ
ポール・エリュアール
この言葉が私たちが成してきたことを刻印することへと向かわせている。
私たちの成すことの根底には、茨木のり子の「倚りかからず」がある。
その詩の最後に
じぶんの耳目 / じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある / よりかかるとすれば
それは / いすの背もたれだけ
このごろの日々、憂うることばかりだが尹東柱(ユン・ドンジュ)「序詩」 は私の「頚椎」となっている。
死ぬ日まで空を仰ぎ / 一点の恥辱(はじ)なきことを、 / 葉あいにそよぐ風にも / わたしはこころ痛んだ。
星をうたう心で / 生きとし生けるものをいとおしまねば / そしてわたしに与えられた道を / 歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒される。
(1945年2月16日獄死)
朝鮮語(ハングル)で詩を書いていたことで治安維持法違反で逮捕。同志社大学留学中のこと。
茨木のり子はハングル語を学び、「韓国現代詩選」を刊行。1990年の読売文学賞を受賞。茨木の賞と名の付く唯一のもの。
生前、最後の本は「言葉が通じてこそ、友だちになれる」(筑摩書房)は韓国語の師、金裕鴻との対話である。
拗ね者たらん
本田靖春の絶筆原稿から。
私には世俗的な成功より、内なる言論の自由を守りきることの方が重要であった。
でも、私は気の弱い人間である。いささかでも強くなるために、このとき自分に課した禁止事項がある。
それは、欲を持つな、ということであった。
欲の第一に挙げられるのが、金銭欲であろう。それに次ぐのが出世欲ということになろうか。
それと背中合わせに名誉欲というものがある。
これらの欲を持つとき、人間はおかしくなる。(2004年11月22日)
そのすぐあと、12月4日。本田は彼岸へと去った。
奇蹟の画家
長い空白を経て、深海でじっと真珠を抱き続けてきたアコヤ貝が海面へゆっくり浮上してきたというべきか、男はようやく絵筆へと向かったのである。(略)。画家になりたいと思ったのではない。ただ絵を描きたいと思った。生きる証としての絵であった。素直に、無心に。自分の内にあるものを見つめてそれを描けばいい。
絵の家で
一滴一瞬のいのち / もっと緊迫感をもって / いま 描かねば / そう 思いつつ
ぼんやりと / どこからか よんでくれるものを、 / 待っている
上の文はいづれも後藤正治さんの著書に依っている。
「奇蹟の画家」 2009年12月12日
「清冽 詩人茨木のり子の肖像」 2010年 11月10日
「拗ね者たらん」 2018年11月27日
石井一男さんは私を発見した。後藤正治さんも私を発見した(経緯は本著に)。そして一本の電話が今と繋がった。後藤さんが最初に訪ねて来られた時に手にしておられ戴いたのが「ベラ・チャフラフスカ 最も美しく」でした。「奇蹟の画家」の文庫化は2012年。そのあとがきに解説「もしも、彼に 名伯楽なかりせば」を書いておられるのが白石一文さん(直木賞作家)。
後藤さんに誘われて神戸に住まわれた白石さんに選んでいただき、新聞小説「記憶の渚にて」(342回)の挿絵を担当したのが井上よう子さんでした。
言葉を旅する
今回の井上よう子さんの個展は -言葉がくれたもの- と題されています。
後藤正治さんの「言葉を旅する」(2015年3月20日)と、「節義のために」(2012年10月31日)は井上さんの作品が表紙を飾っています。
つまるところ「表現」とは「生きること」です。
詩人と画家、それはふたつの人種ではない。
二人はある日、どこかで出会ったのだが、あとから確かめるすべもなく、
ふたつが、ひとつのもののなかで出会う。
瀧口修造「画家の詩、詩人の絵」2015年~2016年 美術展巡回カタログ(青幻舎)から