2019.11「画廊の役割と将来」

現代陶芸の優れた仕事をされてきた、GALERIE POUSSE(銀座)が32 年の歴史を閉じられた。そして「Frarnz Kafka『変身』-息子より」という ArtBook を刊行されました。 画廊主である市川文江さんの文、建畠朔弥さんの絵によるもので、ここに込められた思いに打たれます。それにしても見事な引き際です。市川さんのお手紙によると30 年前には銀座に古美術を交えて300 軒くらいあった画廊が、現在は100 軒に満たないとあります。

観光客の賑わいと芸術文化状況との著しい乖離を指摘されながら、それでも“ひとの出会いほど素敵なことはない! の一言に尽きる” と結ばれています。

私たちの42 年の歴史を振り返れば、海文堂ギャラリーに比して規模は3 倍になり販売は最盛期の三分の一ほどです。それでも今も多くの「出会い」に支えられ存続出来ているのは、絶えず何かが生まれ、なにかが起こっていることかもしれません。それを可

能にしているのは「場」を大切にして下さる作家のみなさん、遠い道を歩んで下さる皆さん、チームをなすスタッフです。 それは、「私の」、「画廊の」ということを超えた「その向こうの」さらに「彼岸への」への眼差しを共に追うことへと繋がっているのでしょうか。「 後がない」は「先がない」という思いにつながります。全ては誰かに託され導かれて起こっていることです。私がなにかを誰かに託そうとしたことが、さざ波のように伝播されていくのを感じます。ふとRugby のことを思いました。 でも私は相手に勝つことを目指しているわけではなく、現実世界に「ノーサイド」はないのです。

 

恥ずかしくないですか

16 才のグレタ・トゥーンベリの国連気候サミットでの全身怒りのスピーチを聞きました。

1992 年のリオサミット(1992 年)で12 才の環境活動家セヴァン・カリス=スズキは「どう直すのか分からないものを、壊し続けるのはもうやめて下さい」と訴えた。 壊れているのは自然だけではない。人間が壊れている。メディアに溢れる美談は醜さを中和し、

我がことであることを忘れさせる。

8 月に「クリスチャン・ボルタンスキー ― Lifetime」と「塩田千春展:魂がふるえる」を見た。塩田は早い時期から泥をかぶり土

中に裸身を埋める捨て身の表現に震撼としてきたが、今回はさらに時代の危機を血や神経やNet を想起させるインスタレーション

で血や死や不在や行先なき旅として立ち眩む衝撃をうけた。ここにも境界を超えることがあり、猶予亡き危機の自覚がある。港大壽ライブパフォーマンス(神戸塾:11 月12 日)は「苦界浄土ー音楽的省察」を予定していたが急遽、「トゥーンベリへの応答」

に変更された。(P4 をご覧ください)

スポーツもカジノも、五輪も万博も、そして日々報じられる美談。その過剰さは大切なことへの目をくらます。怒り捨て身の行動を若い女性たちに任せておいてはいけない。

香港だけではない、各地で「抗議」に立ち上がる人々は日本の比ではない。日本人の礼儀ただしさ、穏やかさは美くしいけど、なんどでも騙されることにつながっている。

 

どろあしのままで

いやなこと きいたら

その“みみ” をあらえ

いやなものをみたら

その“ひとみ” をあらえ

いやしいおもいわいたら

その“こころ” をあらえ

そして あしは どろあしのままで

どろあしのままで いきてゆけ

Go With Muddy Feet !

 

震災直後 公園のボランティア基地の窓ガラスに貼られていた一篇の詩から(「蝙蝠、赤信号をわたる」P74)