尊敬する白洲次郎と白洲正子の住まいは武相荘である。不愛想な蝙蝠。
そして永井荷風の断腸亭日乗。それに倣い今回は蝙蝠亭日常。
イチローが引退した。
オリックス時代にイチローは結婚し、オリックスから「記念に絵を贈りたい」と相談があった。
私は即座に西村功さんを思いうかべた。まさにぴったり。駅長さんが頭上にある時計を右手を上げ人差し指で高々とさしている「出発合図」。即座に決まった。イチロー、一番、世界へ。
縁あって須田剋太さんの「街道をゆく」の未発表作品の展覧会が実現することになった。最初の頁の「須田剋太展」、美の散歩道の児玉えり子さんによる「須田剋太と私」、そして同封するご案内「友とゆきし街道 須田剋太と長谷忠彦」をご覧ください。
私と須田剋太さんとの思い出は1993年11月に遡る。この時、こうべまちづくり会館(元町)が開館。「須田剋太後援会」の代表であった前川吉城さんの御縁で、開館記念企画展「生命の讃歌 須田剋太展」を海文堂ギャラリーがプロデュースした。
須田先生はギャラリーでの展覧会をされていなかったが美術館での図録、画集などをいつも一筆を添えて贈って下さった。
3年間、思い続けてきた画家の出版プロジェクトが人との不思議な出会いによって一気に進み始めた。いままで私が出版社に持ち込んでは断念してきた。実現できるとすれば、これしかないと思っていた実験的な試みが形を成してきた。作家の思い、優れたプロデューサーと理解ある出版社。そして資金の目途。年内に形を成せばうれしい。
誇るべきものはない。ギャラリーの40年。基金の25年。ギャラリーのコレクション。私の書き物。どれも高みを目指したものではない。
従って執着も・・・誇るほどの自負もない。
宮沢賢治の「童話集 注文の多い料理店」の序文に
「わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。」
自分の書いたものがだれかの「たべもの」になり、その人の中にあるそれぞれの思いや力と混ざり合って、また新たな形に生まれかわることを願い、だれかのエネルギーになることを願っていたのだ・・・。
(これらの引用は松田素子さんの『絵本で読みとく宮沢賢治』から(P15))
ささやかな私の願いも、そうありたい。