2019.4「よそもの ばかもの わかもの」

46年前に何もわからぬままに海文堂を継ぎ、書店の規模を広げ元町の復権に力を注いだ。まだ30代。
斜陽元町が燃え、元町ルネサンスと呼ばれた。暴れていたのは老舗の人たちではなく、新参者の私たち。
3丁目の東西で分断されていた街が一体となって浮上する実感があった。
今、この言葉は生きている。そして神戸の大震災でのボランティアでも語られた。
改革する人は破壊する人でもあり「この男危険につき」と、だれも組織に誘わなくなっった。

スズキコージさんのように年令ではないことを思えば、私にもいまもこの精神が宿っている。
よそもの=しがらみがない。ばかもの=身をさしだす。わかもの=こころのありようである。

2月21日。NHK TVの日曜美術館のディレクターYさんから電話があり、ギャラリー を訪ねてこられた。4月7日にスズキコージさんを特集されることを告げられ、「なんで私に会いに?」と訝るわたしに、昨年、大賞をさしあげたKOBE ART AWARDの表彰状に私が書いた文章について聞きたいとのこと。ええ??。そんなん覚えていない。Yさんはタブレットを出して見せて下さった。

なるほど。私のコージさんへの思いが現れている。

今、私が新たに取り組もうとしている二つのプロジェクトがある。そのプロデューサはどちらも女性なのですが、とりかかってすぐに、その後ろにスズキコージさんの姿が「ぬっと」あらわれた。口出しをするわけでなく繋がった。その自然さが大好きだ。

よりよき市民社会をつくるためのNPO、NGOの活動が行われ、組織のありなしにかかわらず様々な試みがメディアに取り上げられている。アートにとっては既成の概念を批判し、うち破っていくことがあたりまえに大切な役割だ。

だけどアートだけではないが、

最近、巷にあふれる美談は米の飯に砂糖をふりかけて食べるような不道徳な感じがする(鶴見俊輔)

どろどろ ねばねば

穏やかな人間なのに、振り返れば絶えず、改革を目指し、阻害するものと闘ってきた。「お前は許せない」と思っている人がたくさんいる。普通はそこまではしない。

皆さんの記憶に新しいのは神戸市長に申し立てした「STOP&CHANGE」の運動かもしれない。糾さないで、美しいことを上書き(糊塗)しても、いずれ綻びがくるだけだと思う。

その時はわからなかったのだが、今、思えば市長は自ら「STOP&CHANGE」をする人だったのだ。

わが身が終りに近づくいてきてなお、追われるように日々を暮らしている。
新しいことを「こうすればできるかもしれない」と妄想する。
こことここをこう繋げばできるかも? それは「trans-」についても起こっていることらしい。
この私に取り憑いたこうした妄想こそSTOP&CHANGEしなければ私に安息はないかもしれない。
と、言いながら見回せば私よりもっともっと粘着性の高い接着人がうろうろしている。
このスピリットを自然体で放射するスズキコージさんとその周りの皆さんにも感じる。
どろどろ  ねばねば  だから何かがいつも起こる。

じたばた

多く書き散らしてきた文を、蝙蝠日記として最後の本にしようか? と、ふと思った。スタッフがデーターとしてくれたものを風来舎の伊原秀夫さんに渡して、私も読み返してみている。

私が最初に単著として出したのが「不愛想な蝙蝠」(1993年:風来舎)。帯に「面白真面目な、甘辛エッセイ」とある。このタイトルに決まるまでにいろいろ案があって、伊原さんは「生きるじたばた」を挙げたが、「不愛想な蝙蝠」に決まった。この「あとがきに代えて」は面白い。

さて、私の、最後の一冊と思って2000年からの原稿を読み返してみたが、じたばたしているだけで、伊原さんに「あんまり面白くない」と伝えたら、「そとのことには猪突猛進なのに、ご自分のこととなると、いつもためらわれますね」と笑われた。ひょっとしていまが「生きるじたばた」のクライマックスなのかもしれない。

人を取除けてなおあとに価値のあるものは、作品を取除けてなおあとに価値のある人間によってつくられるような気がする。
辻まこと(1980年11月   市 英昭 葉書随筆から)

2019.3「こども文庫に思う」

すまうら文庫が40周年。ギャラリー島田とおない年なのだ。林眞紀さんが自宅を開放して始めたのが1978年10月。

「海の本屋のはなし」(平野義昌:苦楽堂)の年譜によれば私が海文堂の社長室兼応接室(計15㎡)を自分で改造してギャラリーにしたのが1978年4月とある。

それまで専門書店のイメージが強かった海文堂書店を総合書店に変えていくのだが、今に繋がる大きなビジョンを描けない私の「建て増し」精神が遺憾なく発揮されている。

1974年にそれまでの70坪から105坪に。1976年に120坪、1982年に250坪となった。

私が就任した当時。海文堂の児童書といえば岩波書店の愛蔵版しかなかった。

ある日、私が店頭にいると高島忠夫さんが二人の子どもさんと入ってこられ「子供むけのコーナーはどこですか」と尋ねられ、そのコーナーにご案内した。

二人の少年は高島政宏さん、政伸さん。「今から船に乗って九州にいくんです。船中でこどもたちが読む本を買おうと思って」。と残念そうに「仕方ないね。行こう」と店を出られたのでした。

最初の児童書の担当は私自身でした。といって私が詳しいわけではなく、選書は専門家にお願いし、そのアドヴァイザーの皆さんが「たのしい絵本の世界」を出版したのが1995年、風来舎からでした。

「こどもの本の相談コーナー」「こどもの教育相談」を隔週、店頭で行ったり、専門スタッフも育っていきました。住吉にあった児童書専門店「ひつじ書房」が1975年に開店。残念ながら昨年閉じられました。

さて初代児童書担当といいながら、わが子に読み聞かせた記憶もない。しかし、どのような本を揃えるか、そのためにどんなスタッフが必要かはイメージしてきた。

小学校のころは須磨の潮見台の社宅でくらし、幼稚園も小学校もすまうら文庫から数分の距離にいた。戦中派の私など小学校の教科書が足りなくて、祖父が毛筆で筆写したものを使っていた。

「まことさん はなこさん さくらがさいた」から始まっていたように思う。

海軍あがりのスパルタN先生。わかくやさしいK先生。などへと思いは飛んでいく。中学は明石。そこで吉野源三郎「君たちはどう生きるか」と出会い、深く影響を受けた。

すまうら文庫の本の多くが海文堂で買っていただき今に至るときくと本当にうれしい。今は書店時代よりも本はよく読む。変わらず浅読み、飛ばし読みなのだが付箋主義、メモマニアである。

 

そしていま、絵本といっても、子供むけともいえない、心やわらかき大人たちに向けての絵物語の発刊を夢見ている。