2019.12「倚りかからず」

としをとる  それはおのが青春を  歳月の中で組織することだ

                       ポール・エリュアール

 

この言葉が私たちが成してきたことを刻印することへと向かわせている。

私たちの成すことの根底には、茨木のり子の「倚りかからず」がある。

その詩の最後に

 

じぶんの耳目 / じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある / よりかかるとすれば

それは / いすの背もたれだけ

 

このごろの日々、憂うることばかりだが尹東柱(ユン・ドンジュ)「序詩」 は私の「頚椎」となっている。

 

死ぬ日まで空を仰ぎ / 一点の恥辱(はじ)なきことを、 / 葉あいにそよぐ風にも / わたしはこころ痛んだ。

星をうたう心で / 生きとし生けるものをいとおしまねば / そしてわたしに与えられた道を / 歩みゆかねば。

今宵も星が風に吹き晒される。

                         (1945年2月16日獄死)

 

朝鮮語(ハングル)で詩を書いていたことで治安維持法違反で逮捕。同志社大学留学中のこと。

茨木のり子はハングル語を学び、「韓国現代詩選」を刊行。1990年の読売文学賞を受賞。茨木の賞と名の付く唯一のもの。

生前、最後の本は「言葉が通じてこそ、友だちになれる」(筑摩書房)は韓国語の師、金裕鴻との対話である。

 

 

拗ね者たらん

本田靖春の絶筆原稿から。

 

私には世俗的な成功より、内なる言論の自由を守りきることの方が重要であった。

でも、私は気の弱い人間である。いささかでも強くなるために、このとき自分に課した禁止事項がある。

それは、欲を持つな、ということであった。

欲の第一に挙げられるのが、金銭欲であろう。それに次ぐのが出世欲ということになろうか。

それと背中合わせに名誉欲というものがある。

これらの欲を持つとき、人間はおかしくなる。(2004年11月22日)

 

そのすぐあと、12月4日。本田は彼岸へと去った。

 

 

奇蹟の画家

長い空白を経て、深海でじっと真珠を抱き続けてきたアコヤ貝が海面へゆっくり浮上してきたというべきか、男はようやく絵筆へと向かったのである。(略)。画家になりたいと思ったのではない。ただ絵を描きたいと思った。生きる証としての絵であった。素直に、無心に。自分の内にあるものを見つめてそれを描けばいい。

 

絵の家で

一滴一瞬のいのち / もっと緊迫感をもって / いま 描かねば / そう 思いつつ

ぼんやりと / どこからか よんでくれるものを、 / 待っている

 

上の文はいづれも後藤正治さんの著書に依っている。

「奇蹟の画家」            2009年12月12日

「清冽 詩人茨木のり子の肖像」 2010年 11月10日

「拗ね者たらん」        2018年11月27日

 

石井一男さんは私を発見した。後藤正治さんも私を発見した(経緯は本著に)。そして一本の電話が今と繋がった。後藤さんが最初に訪ねて来られた時に手にしておられ戴いたのが「ベラ・チャフラフスカ 最も美しく」でした。「奇蹟の画家」の文庫化は2012年。そのあとがきに解説「もしも、彼に 名伯楽なかりせば」を書いておられるのが白石一文さん(直木賞作家)。

後藤さんに誘われて神戸に住まわれた白石さんに選んでいただき、新聞小説「記憶の渚にて」(342回)の挿絵を担当したのが井上よう子さんでした。

 

 

言葉を旅する

今回の井上よう子さんの個展は  -言葉がくれたもの-  と題されています。

後藤正治さんの「言葉を旅する」(2015年3月20日)と、「節義のために」(2012年10月31日)は井上さんの作品が表紙を飾っています。

つまるところ「表現」とは「生きること」です。

 

詩人と画家、それはふたつの人種ではない。

二人はある日、どこかで出会ったのだが、あとから確かめるすべもなく、

ふたつが、ひとつのもののなかで出会う。

瀧口修造「画家の詩、詩人の絵」2015年~2016年 美術展巡回カタログ(青幻舎)から

2019.11「画廊の役割と将来」

現代陶芸の優れた仕事をされてきた、GALERIE POUSSE(銀座)が32 年の歴史を閉じられた。そして「Frarnz Kafka『変身』-息子より」という ArtBook を刊行されました。 画廊主である市川文江さんの文、建畠朔弥さんの絵によるもので、ここに込められた思いに打たれます。それにしても見事な引き際です。市川さんのお手紙によると30 年前には銀座に古美術を交えて300 軒くらいあった画廊が、現在は100 軒に満たないとあります。

観光客の賑わいと芸術文化状況との著しい乖離を指摘されながら、それでも“ひとの出会いほど素敵なことはない! の一言に尽きる” と結ばれています。

私たちの42 年の歴史を振り返れば、海文堂ギャラリーに比して規模は3 倍になり販売は最盛期の三分の一ほどです。それでも今も多くの「出会い」に支えられ存続出来ているのは、絶えず何かが生まれ、なにかが起こっていることかもしれません。それを可

能にしているのは「場」を大切にして下さる作家のみなさん、遠い道を歩んで下さる皆さん、チームをなすスタッフです。 それは、「私の」、「画廊の」ということを超えた「その向こうの」さらに「彼岸への」への眼差しを共に追うことへと繋がっているのでしょうか。「 後がない」は「先がない」という思いにつながります。全ては誰かに託され導かれて起こっていることです。私がなにかを誰かに託そうとしたことが、さざ波のように伝播されていくのを感じます。ふとRugby のことを思いました。 でも私は相手に勝つことを目指しているわけではなく、現実世界に「ノーサイド」はないのです。

 

恥ずかしくないですか

16 才のグレタ・トゥーンベリの国連気候サミットでの全身怒りのスピーチを聞きました。

1992 年のリオサミット(1992 年)で12 才の環境活動家セヴァン・カリス=スズキは「どう直すのか分からないものを、壊し続けるのはもうやめて下さい」と訴えた。 壊れているのは自然だけではない。人間が壊れている。メディアに溢れる美談は醜さを中和し、

我がことであることを忘れさせる。

8 月に「クリスチャン・ボルタンスキー ― Lifetime」と「塩田千春展:魂がふるえる」を見た。塩田は早い時期から泥をかぶり土

中に裸身を埋める捨て身の表現に震撼としてきたが、今回はさらに時代の危機を血や神経やNet を想起させるインスタレーション

で血や死や不在や行先なき旅として立ち眩む衝撃をうけた。ここにも境界を超えることがあり、猶予亡き危機の自覚がある。港大壽ライブパフォーマンス(神戸塾:11 月12 日)は「苦界浄土ー音楽的省察」を予定していたが急遽、「トゥーンベリへの応答」

に変更された。(P4 をご覧ください)

スポーツもカジノも、五輪も万博も、そして日々報じられる美談。その過剰さは大切なことへの目をくらます。怒り捨て身の行動を若い女性たちに任せておいてはいけない。

香港だけではない、各地で「抗議」に立ち上がる人々は日本の比ではない。日本人の礼儀ただしさ、穏やかさは美くしいけど、なんどでも騙されることにつながっている。

 

どろあしのままで

いやなこと きいたら

その“みみ” をあらえ

いやなものをみたら

その“ひとみ” をあらえ

いやしいおもいわいたら

その“こころ” をあらえ

そして あしは どろあしのままで

どろあしのままで いきてゆけ

Go With Muddy Feet !

 

震災直後 公園のボランティア基地の窓ガラスに貼られていた一篇の詩から(「蝙蝠、赤信号をわたる」P74)

2019.10「妄想と暴走」

生来の妄想癖が直らない。実現するには多くの人を巻き込むことになる。メルマガを読まれている方は落語のごとき「根拠なき自信家」論争を思い出されるでしょう。
三つのギャラリーで今年は58を数える展覧会。 常勤スタッフがいないのに芸術文化の土壌を豊かにする散水装置としての「こぶし基金」。
いま、新たな仕組みで出版をする取り組みをはじめる。見かねて多くの人が様々に手伝いコモンズをなす。波紋が静かに多くの皆さんの心に届く。

アート・ブック「アネモネ戦争」
プロジェクトがスタートした。私は発案しただけで、すべてはチーム・アネモネが仕組みを考え実行に移している。私は上村さんの原本を出版したいと思っていたがなんと一から全て新しく描いているそうだ。アート・サポート・センター神戸が協力。林淳子がチームのメンバーです。プロジェクトのHPに編集代表の松田素子さんによるその理念が掲げられている。是非、お読みください。(https://team-anemone.com/)
松田さんは300冊以上の本を世に出した。私は十数冊しか読んでいないが、どれもが素晴らしい。
私にいただいたメールの最後“上村さんが描きつつある作品は本当に、この時代に対して、意味深い本になると確信しています。”

ART PROJECT KOBE TRANS- に向けて
TRANS-が持つ可能性について、ずっと考えてきて、頼まれもしないのに応援している。この通信をお読みいただく頃に始まる。会期は9月14日ー11月10日。誰もがやってこなかったこと。それが徐々に広がり多くの人が関わり、社会の意味を問う。私がいままでにやってきた、そしていまもやろうとしていることと同じ精神から発していることを感じている。
この期間に四つの「TRANS-に向けて」という私たち独自の企画を行います。 ギャラリー島田に初めて登場する皆さんです。
栗田絋一郎「陰 と 翳」、古巻和芳「降り積もる、言葉が見える」、島田陽「タトアーキテクツ展」 、松谷武判「アーティストが招待する堀尾 貞治、神野 立生、ダニエル ポントロー、松谷 武判 四人展」10月26日ー11月6日。

きみはどうしようというのか
破れかかった大きな封筒。表に「島田原稿」、乱雑な鉛筆文字で「テオとゴッホ」とある。忘れていた。「フィンセント・ファン・ゴッホの生涯」島田誠研究ノート、2007年11月。とある。A4 36ページ。ファン・ゴッホ書簡全集を読みながら生涯をたどった。ハラハラし、腹を立て、涙した。ちょっと有名になったり売れたり、浮草のように漂う昨今の風潮。
もう一人、私を律する画家がいる。9月11日に没後8年を迎える松村光秀さん。1986年にアトリエを訪ね、亡くなられるまでほぼ毎年、個展を続け、没後も。在日2世としてあらゆる辛苦を背負ってきた。母の自死、困窮、自宅の火災で妻、子供三人を失くす。そのことを「絵に生きる 絵を生きる」で書いた。天才的な表現力で絵画、彫刻を発表。最後まで見事に自分を律しきったその姿は尊く、フィンセントと同様に私の背骨と化している。

2019.8「ひらひらと七月の蝶」

須賀敦子『遠い朝の本たち』の章目次にあります。(P131)
須賀さんが麻布本村町に住んでいた9才のころ、隣家に俳人 原石鼎が住む。原に次の句がある。
夕月に7月の蝶のぼりけり
高々と蝶こゆる谷の深さかな
大竹明子写真展「須賀敦子のいた場所」(9月7日~12日)に向けて須賀さんを再読している。

共感と矜持
30才で書店を託され、ギャラリーをはじめ、財団を立ち上げ、神戸や東北の震災に関わるプロジェクトを行ってきた。
震災復興にかかわるプロジェクトを除いては公的な助成は一切受けていない。心の命ずるままにある無名と言っていい人々から託されていることを矜持とし、ひたむきに日々を重ねる作家たちへの共感。そうした降り積もる思いが私たちを駆り立てる。

オーラル・ヒストリー・アーカイブ
5月のギャラリー・インフォーメーションのゲストコラム「縁側にて at the veranda 1」で池上裕子さんからギャラリー島田の資料整備の必要性に触れていただいた。今回、思いがけず大阪中之島美術館開設準備室のオーラルヒストリーの調査でインタビューを受けた。錚々たる皆さんの登場のあとに「なぜわたし?」と思いながら3時間を超えるインタビューにアドリブで答えた。HPで誰にでも読める形で公開されるそうです。
OSAKA CITY MUSEUM OF MODERN ART(大阪新美術館)は2021年開館予定。設計者は遠藤克彦。

続:臍まがり
一回りした臍が考えた。世の中、案外捨てたものではない。行政だけではなく、様々に敵対してきた。しかし行政も経済界も存外フェアだ。批判された行政が距離を置くのはあたりまえのことだ。しかし「アートエイド神戸」「兵庫アートウィークIN東京」「加川広重プロジェクト」などでは行政と企業共に思いを共有した。
要は、事と次第なのだ。

2019.7「蝶々の挨拶」

4時頃に起き、朝まだきから神戸を一望し、眠る街、目覚める街、春夏秋冬に位置を変える昇陽を見ている。
隠棲を気取っているのではない。新聞や本を読んだり、考えごとをしたり、体を動かしたり。
リビング、ダイニングは3階にあり、東西南北、天井に至るまでガラスに囲まれ、大きな西の窓から北野天満宮に迫る再度山の豊かな森が折々に彩を変え美しい。
しばらく目を遊ばせ「いただきます」と手を合わせる。朝食と弁当づくりは気分転換に楽しんでいる。
深緑の森に蝶々が忙しく飛び交っている。その軽やかさのうちに見える不思議な強靭さ。「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」(安西冬衛)を思う。声は聞こえねど忙し気な知らぬ小鳥たち。
このことを書いた翌朝、なんと、窓の近くまで蝶々がヒラヒラ。 

臍のひと回り
ある会に呼ばれて対談した。地元紙の元論説委員のI氏が「それにしても行政から聞こえてくる評判は悪かった」と感に堪えたように。それはその通りだ。単に批判するだけでなく書いて公に問い詰めてもきた。
臍が曲がって、背中にきて、一回りして元に戻ったようだ。いまはごく普通の人として見えるかもしれない。
しかし、私は抗って一回りすることによって現実を知り人を知るために大切なことを学んだ。 

アンドロイドとして
ずっと訝ってきた“何かに導かれている”と。1989年7月。脳の手術を受け、集中治療室で蘇生した感覚。
いまにして思えば、その時、何か不思議な受信装置を脳内に埋め込まれた気がする。多くのことがこの日から起こり始めた。
信仰でもなく経営でもなく名声でもなく、あるがままに、なにかが命ずるかそけきものに耳を澄ませる。
聴覚の障害はそのことを伝えているのだ。

2019.6「只菅打坐」

全てを受け入れてあるがままに。今、多くの困難なことを抱えていますが、不思議な導きを感じずにおれない。
あすの命を惜しむものではない。道元の禅の神髄は身心脱落・只菅打坐だそうだ。ひたすらただやる。
振り返れば波乱万丈、艱難辛苦でもある。今も、またしかり。ただ身を尽くすだけ。

ギャラリーとして
モニュメント制作プロジェクトの竣工が6月初旬に迫ってきた。次号で報告します。
まだ孵化しないいくつかのプロジェクトの卵も抱いている。
6月22日から個展が始まる上村亮太さんの出版プロジェクトに取り組んでいる。今回、「アート あちこちまち」に寄稿いただいた松田素子さんとの出会いによるもので、長く、温めてきて、私のいつもの妄想みたいに「何処にもない」取り組みで実現できればうれしい。
展覧会を通じて作品を販売する場としてのギャラリーの役割はとても厳しい、あるとすれば何かが生まれ、生き生きとした自由な、溌溂とした何かが感じられる場であること。作家にとっても、私たちにとっても生きている喜び“la joie de vivre”を共感できることだろうか。
全国津々浦々までアートが咲き誇っているように見える。されど哀しい。何か共通マニュアルに従っての広報・デザイン・編集に感じる。評価の基準も集客、経済効果など。イベント並みの薄っぺらさを感じます。

アーカイブについて
前号の「縁側にて」で池上裕子さんが触れられていたギャラリー島田のアーカイブをさっそく掘り起こす調査があった。震災で亡くなられた津高和一さんの没後10年を期に大作作品21点がブラジルから返還された。その窓口がギャラリー島田で、修復などを経て兵庫県下の公立美術館へ寄贈。販売した収益をブラジル(サンパウロ)側に送るとともに、津高和一の「僕の呪文と抽象絵画」(神戸新聞総合出版センター2006年刊)の出版に関わった。それらの全記録が手元にあり、なるほどこれが アーカイブかと思った。

40周年記念展の一つとして昨年5月にギャラリー島田全館で「さんかくとてん」すなわち「▲と、」を開催。川嶋守彦、元永紅子、中辻悦子のお三方と「、」は元永定正先生。そのdocumentが刊行された。豊富な写真に加えて寄稿も充実していて巻頭の河崎晃一さんの「さんかくとてん ー アーティスト家族の試み」 はこの展覧会の内容と意味を余すことなく伝えていて心打たれる。この寄稿が 2019年1月8日。ご逝去が2月11日。遊免寛子さん(兵庫県美)、大槻晃美さん(芦屋市美)、竹内利夫さん(徳島県美)の執筆も素晴らしい。全て英文併記。なにより気品があり美しい。*¹

同じ、昨年6月の「榎 忠」展では記録として4冊のブックレット。9月の「住谷重光展」でも記録画集を作成。烏頭尾寧朗は画集出版記念展。三沢かずこはギャラリー島田が作品集刊行。花井正子の記録画集「虚  キョ」(2017年)も記憶に残る美しいものだった。*²
私たちと繋がる皆さんが(個別に名前を上げませんが)、それぞれにここでの個展を質の高い記録として自ら形にして下さる。
そうしたことがまた不思議な共同体としてのスタッフの心を動かしている。

*¹「▲と、」document(¥1000)、ギャラリー島田で販売中です。
*²ギャラリー島田が関わる出版物の多くをHPに掲載しております。HPのTOP、バナー右端の「出版物」をご覧ください。

2019.5「蝙蝠亭日常」

尊敬する白洲次郎と白洲正子の住まいは武相荘である。不愛想な蝙蝠。
そして永井荷風の断腸亭日乗。それに倣い今回は蝙蝠亭日常。

イチローが引退した。
オリックス時代にイチローは結婚し、オリックスから「記念に絵を贈りたい」と相談があった。

私は即座に西村功さんを思いうかべた。まさにぴったり。駅長さんが頭上にある時計を右手を上げ人差し指で高々とさしている「出発合図」。即座に決まった。イチロー、一番、世界へ。

縁あって須田剋太さんの「街道をゆく」の未発表作品の展覧会が実現することになった。最初の頁の「須田剋太展」、美の散歩道の児玉えり子さんによる「須田剋太と私」、そして同封するご案内「友とゆきし街道 須田剋太と長谷忠彦」をご覧ください。

 私と須田剋太さんとの思い出は1993年11月に遡る。この時、こうべまちづくり会館(元町)が開館。「須田剋太後援会」の代表であった前川吉城さんの御縁で、開館記念企画展「生命の讃歌 須田剋太展」を海文堂ギャラリーがプロデュースした。
須田先生はギャラリーでの展覧会をされていなかったが美術館での図録、画集などをいつも一筆を添えて贈って下さった。

3年間、思い続けてきた画家の出版プロジェクトが人との不思議な出会いによって一気に進み始めた。いままで私が出版社に持ち込んでは断念してきた。実現できるとすれば、これしかないと思っていた実験的な試みが形を成してきた。作家の思い、優れたプロデューサーと理解ある出版社。そして資金の目途。年内に形を成せばうれしい。

誇るべきものはない。ギャラリーの40年。基金の25年。ギャラリーのコレクション。私の書き物。どれも高みを目指したものではない。
従って執着も・・・誇るほどの自負もない。

宮沢賢治の「童話集 注文の多い料理店」の序文に

「わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。」
 自分の書いたものがだれかの「たべもの」になり、その人の中にあるそれぞれの思いや力と混ざり合って、また新たな形に生まれかわることを願い、だれかのエネルギーになることを願っていたのだ・・・。

(これらの引用は松田素子さんの『絵本で読みとく宮沢賢治』から(P15))

 ささやかな私の願いも、そうありたい。

2019.4「よそもの ばかもの わかもの」

46年前に何もわからぬままに海文堂を継ぎ、書店の規模を広げ元町の復権に力を注いだ。まだ30代。
斜陽元町が燃え、元町ルネサンスと呼ばれた。暴れていたのは老舗の人たちではなく、新参者の私たち。
3丁目の東西で分断されていた街が一体となって浮上する実感があった。
今、この言葉は生きている。そして神戸の大震災でのボランティアでも語られた。
改革する人は破壊する人でもあり「この男危険につき」と、だれも組織に誘わなくなっった。

スズキコージさんのように年令ではないことを思えば、私にもいまもこの精神が宿っている。
よそもの=しがらみがない。ばかもの=身をさしだす。わかもの=こころのありようである。

2月21日。NHK TVの日曜美術館のディレクターYさんから電話があり、ギャラリー を訪ねてこられた。4月7日にスズキコージさんを特集されることを告げられ、「なんで私に会いに?」と訝るわたしに、昨年、大賞をさしあげたKOBE ART AWARDの表彰状に私が書いた文章について聞きたいとのこと。ええ??。そんなん覚えていない。Yさんはタブレットを出して見せて下さった。

なるほど。私のコージさんへの思いが現れている。

今、私が新たに取り組もうとしている二つのプロジェクトがある。そのプロデューサはどちらも女性なのですが、とりかかってすぐに、その後ろにスズキコージさんの姿が「ぬっと」あらわれた。口出しをするわけでなく繋がった。その自然さが大好きだ。

よりよき市民社会をつくるためのNPO、NGOの活動が行われ、組織のありなしにかかわらず様々な試みがメディアに取り上げられている。アートにとっては既成の概念を批判し、うち破っていくことがあたりまえに大切な役割だ。

だけどアートだけではないが、

最近、巷にあふれる美談は米の飯に砂糖をふりかけて食べるような不道徳な感じがする(鶴見俊輔)

どろどろ ねばねば

穏やかな人間なのに、振り返れば絶えず、改革を目指し、阻害するものと闘ってきた。「お前は許せない」と思っている人がたくさんいる。普通はそこまではしない。

皆さんの記憶に新しいのは神戸市長に申し立てした「STOP&CHANGE」の運動かもしれない。糾さないで、美しいことを上書き(糊塗)しても、いずれ綻びがくるだけだと思う。

その時はわからなかったのだが、今、思えば市長は自ら「STOP&CHANGE」をする人だったのだ。

わが身が終りに近づくいてきてなお、追われるように日々を暮らしている。
新しいことを「こうすればできるかもしれない」と妄想する。
こことここをこう繋げばできるかも? それは「trans-」についても起こっていることらしい。
この私に取り憑いたこうした妄想こそSTOP&CHANGEしなければ私に安息はないかもしれない。
と、言いながら見回せば私よりもっともっと粘着性の高い接着人がうろうろしている。
このスピリットを自然体で放射するスズキコージさんとその周りの皆さんにも感じる。
どろどろ  ねばねば  だから何かがいつも起こる。

じたばた

多く書き散らしてきた文を、蝙蝠日記として最後の本にしようか? と、ふと思った。スタッフがデーターとしてくれたものを風来舎の伊原秀夫さんに渡して、私も読み返してみている。

私が最初に単著として出したのが「不愛想な蝙蝠」(1993年:風来舎)。帯に「面白真面目な、甘辛エッセイ」とある。このタイトルに決まるまでにいろいろ案があって、伊原さんは「生きるじたばた」を挙げたが、「不愛想な蝙蝠」に決まった。この「あとがきに代えて」は面白い。

さて、私の、最後の一冊と思って2000年からの原稿を読み返してみたが、じたばたしているだけで、伊原さんに「あんまり面白くない」と伝えたら、「そとのことには猪突猛進なのに、ご自分のこととなると、いつもためらわれますね」と笑われた。ひょっとしていまが「生きるじたばた」のクライマックスなのかもしれない。

人を取除けてなおあとに価値のあるものは、作品を取除けてなおあとに価値のある人間によってつくられるような気がする。
辻まこと(1980年11月   市 英昭 葉書随筆から)

2019.3「こども文庫に思う」

すまうら文庫が40周年。ギャラリー島田とおない年なのだ。林眞紀さんが自宅を開放して始めたのが1978年10月。

「海の本屋のはなし」(平野義昌:苦楽堂)の年譜によれば私が海文堂の社長室兼応接室(計15㎡)を自分で改造してギャラリーにしたのが1978年4月とある。

それまで専門書店のイメージが強かった海文堂書店を総合書店に変えていくのだが、今に繋がる大きなビジョンを描けない私の「建て増し」精神が遺憾なく発揮されている。

1974年にそれまでの70坪から105坪に。1976年に120坪、1982年に250坪となった。

私が就任した当時。海文堂の児童書といえば岩波書店の愛蔵版しかなかった。

ある日、私が店頭にいると高島忠夫さんが二人の子どもさんと入ってこられ「子供むけのコーナーはどこですか」と尋ねられ、そのコーナーにご案内した。

二人の少年は高島政宏さん、政伸さん。「今から船に乗って九州にいくんです。船中でこどもたちが読む本を買おうと思って」。と残念そうに「仕方ないね。行こう」と店を出られたのでした。

最初の児童書の担当は私自身でした。といって私が詳しいわけではなく、選書は専門家にお願いし、そのアドヴァイザーの皆さんが「たのしい絵本の世界」を出版したのが1995年、風来舎からでした。

「こどもの本の相談コーナー」「こどもの教育相談」を隔週、店頭で行ったり、専門スタッフも育っていきました。住吉にあった児童書専門店「ひつじ書房」が1975年に開店。残念ながら昨年閉じられました。

さて初代児童書担当といいながら、わが子に読み聞かせた記憶もない。しかし、どのような本を揃えるか、そのためにどんなスタッフが必要かはイメージしてきた。

小学校のころは須磨の潮見台の社宅でくらし、幼稚園も小学校もすまうら文庫から数分の距離にいた。戦中派の私など小学校の教科書が足りなくて、祖父が毛筆で筆写したものを使っていた。

「まことさん はなこさん さくらがさいた」から始まっていたように思う。

海軍あがりのスパルタN先生。わかくやさしいK先生。などへと思いは飛んでいく。中学は明石。そこで吉野源三郎「君たちはどう生きるか」と出会い、深く影響を受けた。

すまうら文庫の本の多くが海文堂で買っていただき今に至るときくと本当にうれしい。今は書店時代よりも本はよく読む。変わらず浅読み、飛ばし読みなのだが付箋主義、メモマニアである。

 

そしていま、絵本といっても、子供むけともいえない、心やわらかき大人たちに向けての絵物語の発刊を夢見ている。

2019.2「年の初めに」

読みたい本と読める本の距離がどんどん離れていく。分厚い本が好きなのだけど、日々の隙間にどんどん届く、ミニコミ、小冊子、報告書。そのどれもが私の末端神経と繋がっていて、読まずにおれない。PCでクリック消去とはいかない。書斎の塵箱へ投入するには決断がいる。

いままで、どれほどそうしたものから教えられてきたことだろう。

昨年末、後藤正治さんを神戸塾にお招きした。ちょうど『拗ね者たらん 本田靖春 人と作品』(講談社)を付箋を付けながら読み終えたところだった。

私は本田さんの『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)を読んでいた。市井の拗ね者を志してきたものとして。

 万年筆を持てず、モルヒネの投与で激痛を緩和し、指に、軽い水性ペンをテープで巻きつけて固定して書いた原稿の最後にこう記されている。

 私には世俗的な成功より、内なる言論の自由を守り切ることの方が重要であった。でも、私は気の弱い人間である。いささかでも強くなるために、このとき自分に課した禁止事項がある。それは、欲を持つな、ということであった。欲の第一に挙げられるのが、金銭欲であろう。それに次ぐのが出世欲ということになろうか。それと背中合わせに名誉欲というものがある。

 これらの欲を持つとき、人間はおかしくなる。いっそうそういうものを断ってしまえば、怖いものなしになる。後藤さんのP386 から

母の遺伝子

年末年始は東京から島田剛・恵美と二人の孫(高1と小6)と共に過ごした。

剛と恵美は大学時代から発展途上国の問題に取り組み、その縁でパートナーとなり、現在は二人とも大学の准教授である。

剛は国連勤務、緒方貞子秘書などを経て社会的資本を育成することによる新しい形の途上国支援のモデルに取り組んでいる。剛の家族と大阪のホテルで元旦を迎え、どこに行くかと問えば、鶴橋か通天閣という。結局、通天閣で、串カツをお腹いっぱい食べ、釜ヶ崎を歩いた。孫娘たちにとっては大晦日に紅白歌合戦を愉しんだ翌日の衝撃的な落差。2日は我が家に島田陽・容子と迪を交えて全員集合し、お祝の膳を囲み、それから墓参をした。夜はまたにぎやかに鍋を囲んだ。

様々に去来するものがあり、ふと終生を幼児教育に捧げた「母の病床日記」を読んだ。聖書の言葉が続き自身の病を「左聴神経腫瘍」とある。私は脳腫瘍と信じ込んできた。その手術を1975年、1979年、1985年と3回も受け、2008年91才で召された。私は1989年に脳脊髄鞘腫の手術を受けた。なんということだ。母も左聴覚を失っていた。こんなことを今まで気が付かないとは。

東北大飢饉が起こった時に、自ら志願して秋田県の農村にセトルメントの運動に入ったという。そこは上野駅から東北本線黒沢尻へ、そこから何度も乗り継いで、一昼夜を要する生保内という村であった。母がまだ10代の、昭和10年から12年にかけて、まだボランティアという言葉がない時代のことである。

今、改めて、私には明らかに母のDNAが植えこまれて、ここに集まったみんなにも自然に受け継がれている気がしている。

私たちの希望はどこにあるかー今なすべきこと

『拗ね者』に先だって『加藤周一はいかにして「加藤周一」となったか』鷲巣力(岩波書店)に読み耽った。著作集、自選集などを持っているが都合よく拾い読みをしているに過ぎない。でも加藤周一という生き方には強く惹かれてきた。

2003年9月21日、神戸朝日ホールで「加藤周一講演と対話の集いー私たちの希望はどこにあるか」を開催。金守良(神戸朝日病院院長)が実行委員長、私もメンバーだった。その記録を『かもがわブックレット◆148』で刊行、のちに『加藤周一 戦後を語る』(2009: かもがわ出版)に再録された。この前後、加藤周一さんを京都や神戸で囲む集いにはよく声をかけていただき、隣の席に座らせていだくことが多かったのは何故だったのだろう。無口だから善き読者であると主催者が思い込んだからに違いない。

ブックレットには加藤さんに花束を渡す林淳子の写真が掲載され、そのあとの懇親会では、加藤さんから今は亡き妻、悦子に花束をいただいた。

天下の大勢に従わず、流行を追わず、奢侈を好まず、権力に寄らず、権力者を権力者ゆえに敬さず、組織に属さず、孤立を恐れず、腕力に頼らず、愚痴をこぼさず、大口を叩かず、声高に叫ばず、女性を軽んぜず、弱者を蔑まず、不合理を尊ばず、みずから確認できたことしか信じなかった。

『加藤周一という生き方』鷲巣力(筑摩選書)  P105,106 

 加藤さんは知識をいっさい、権力のために使わなかった。知識の量は言うまでもないが、我々と接する態度は「巨人」「巨匠」といった感じとはほど遠かった。存在として、人間として、まったく対等・平等であった。常に暖かく接していただいた。及びがたく、されど学びたいと思ったのは、何よりも、この姿勢、態度である。

『ひとりでいいんです — 加藤周一の遺した言葉』凡人会(講談社)P260 

 2019年。すべてにおいてむずかしい時を迎えているように思います。私たちが出来うることを、皆さまと共になしていきたいです。スタッフ一同とともに、よろしくお願いいたします。