2018.12「賞を受ける」

電話一本から様々なことが起こる。

「石井一男さんの連絡先を教えて下さい」と神戸市の方から私に電話がかかってきた。そして石井一男の文化賞受賞のことを知らされた。私は耳を疑い、それを伝えた石井さんは、なんのことか分からなかった。

私は1992年に神戸市文化奨励賞を受賞しているが、阪神淡路大震災のころから、私は神戸市とは対立関係にあり、こうした賞がどんな経過で候補者が選ばれるか、そして受賞された方にも関心がなかった。今回、はじめて市のHPでその仕組みを知った。私が受賞した年に公益信託「亀井純子文化基金」の設立を目指していて、その賞金が基金誕生の背中を押した。同年に石井一男という埋蔵画家を発掘した。出会いは一本の電話だった。石井さんは初個展の売り上げを全て基金へ寄付を申し出られたが、それはお断りした。私の受賞の戸惑い、石井さんとの出会いは「不愛想な蝙蝠」(1993:風来舎)に書きました。

私がその他の賞を受けたのは、企業メセナ大賞奨励賞(1996年:海文堂書店)、神戸凮月堂が主催するロドニー賞(第12回、2002年)があります。神戸市文化奨励賞も想像もしていなかった。企業メセナの場合は前年度が「ジーベックホール」が受賞され、「アート・エイド・神戸」の活動を評価くださり、先方から申請をするよう声掛けいただいた。ロドニー賞は、歴代の受賞者が審査員に加わるというユニークな仕組みで2003年に受賞し、しばらく審査員を務めさせていただいた。

1992年の私の受賞については面とむかって「皮肉」「あてこすり」をいろいろと言われた。言われた方はよく覚えているものだ。要は「画策したのでは」、「なんでお前なのか」と匂わされたり。石井さんの今回も、その意外性においていろいろ言われるかもしれません。私もただ驚いたのです。そして淡々と感謝をして変わらない石井さんを知っています。

兵庫県文化奨励賞を受賞した須飼秀和の時は助言を受けて推薦しました。公的な賞に関わったのはこれくらいです。多くの頑張っている皆さん、それぞれに励まし、寄り添う者として誰を推すのかは悩ましいことです。それで結局、誰も推してこなかったのです。いろいろな審査に関わりましたが、一定年度を務めてすべて退かせていただきました。

 

賞を贈る

 

賞がインフレを起こしているのが残念ですが、文化を支え、人を育て、贈るに相応しいところが、相応しい人に贈る賞には大切な役割と価値があります。同時に賞を贈る側の勘違い(下心)と受けたい側の思惑が見えると心がざわついてしまいます。

このように賞について愛憎交々な私がKOBE ART AWARDを創設して賞を贈る立場になりました。2011年に「神戸文化支援基金」が一般財団法人から公益財団法人としての認可を受けたことを期にはじめました。1992年に兵庫県下での芸術文化活動への助成をはじめ、年間100万円から200万円へ、そして300万円とステップアップする段階に来ていて、役員のみなさんと相談して、より長期的な活動への取り組みへの助成を大賞、優秀賞、地域賞をとして合計100万円を贈ることにしました。

形を変えた助成の仕組みなので、賞そのものに権威をもたせないことを貫いています。賞を贈りながら、まことに変なこだわりですが、譲れないところなのです。財団の基金はすべて市民の(無名といっていい)寄付によっています。財団はその志を活かすことを使命としています。贈呈式はそのことを全てフラットな形で表現する場です。賞の価値にふさわしく、もう少し重みがあったほうがいいと思う方もおられます。私たちの拘りはなぜか。すべては亀井純子さんの志を受け継いできたからです。それなしにはこれだけの寄付を寄せていただくことはあり得ないです。

 

 

40周年のしめくくりに

 

石井一男の文化賞の受贈式が11月14日に開催されるそうだ。何と、私の誕生日ではないか。

40周年、最後の展覧会は「林哲夫展」と「蝙蝠料理エトセトラ」となった。40年の航海は日曜大工で建造した小舟で出帆し、何度も難破の危機に直面しながら優秀なクルーの力で航海を続けることが出来た。ふり返れば、私なりの志を形にしてきた航跡が遥か彼方へと続いているのを感慨深くながめています。船も建造、改造を繰り返し、些か身の程をこえて進路を変えかねています。私がギャラリーを始めたころ、今のスタッフ、インターンの皆さんはまだ生まれていないか、せいぜいヨチヨチでした。作家やお客さまの皆さんが蝙蝠を自在に料理していただくことになりました。

 

心の痛みとともに

 

とはいえ、ギャラリーを取り巻く環境は厳しくなるばかりです。私たちの作家、作品への拘りは時の風潮に2周遅れくらい離されているようです。時代を読むことは大切です。でも時流に乗ることには抵抗があります。私たちが為してきたこと。それは「抗う」ことでした。未来図は私たち自身を見失うこことであってはなりません。今回の、ギャラリー島田の存在そのものをauction marketにかけてみる。そんな捨て身は「井の中の蛙」だと思いますが、試してみようと思います。海外のauctionへの挑戦、今回の試み。共に、単なる作品の競売を目指しているわけではありません。ギャラリー島田の目指すところも問い、続く作家たちのマーケットへの道を探しています。ご支援をお願いいたします。

2018.11「遺言」

買いたい本があってジュンク堂へ行った。書評を見て養老孟司の「遺言」(新潮新書)と松原隆一郎の「頼介伝」(苦楽堂)、書斎に見当たらなくなった加藤周一「夕陽妄語」(ちくま文庫)のⅢがあればと探したが、これは無かった。
そして志村ふくみ、石牟礼道子の「遺言 対談と往復書簡」(ちくま文庫)などを買った。
樹木希林さんが亡くなった。75才。この頃、訃報を我が身と重ねることが多くなった。目立たない会社員で勤めあげた最後の日に帰宅してポックリと亡くなった父。この父も75才だった。それにしても私も大病をし、「探求心」や「野心」というものが希薄なのに、よくここまで生きてきた。
おいしいものを食べることはだれでも好きだ。でも私は朝食は簡単に、昼食は自分で弁当を作ることが多い。自分で笑ってしまうのはランチでもワインやお酒も少ししか飲まないのに「安い」ことを基準に選んでいて、あまり美味しくないと、自嘲することになるが、そのことを懲りずに繰り返している。山田風太郎に「あと千回の晩飯」(1997年4月1日:朝日新聞)がある。私もそんなものだろう。そんなにケチってどうするのと友は呆れ、自分も毎日呆れる。
上記の2冊の「遺言」ともに味わい深い。遺言は遺書ではない。これだけは言っておきたいということだ。ならば、この頃、私が書くことは遺言ともいえるかもしれない。

聴くということ

養老孟司の「遺言」によれば脳は棒の先に丸い飴玉が付いたかたちで、それが脳。それを包む丸い紙が大脳皮質である。その棒が脳幹・脊髄だという。その棒に乗っかった脳は視覚、聴覚、触覚として情報処理を司どるという。中心域には言葉があり、分かれた先の左の「目」の領域が絵画であり、右の「耳」の領域が音楽である。その理屈を解説しているわけではない。私が障害を感じている聴覚は脳幹・脊髄を通って脳で情報処理をしていることを教えられた。(「遺言」5章)私は1989年8月27日に脳脊髄瘍腫という大手術をした。そういえば、その時、傷ついた神経は恢復することはないと聞いた。ふたたびの命を与えられ、そこから不思議に多くのことを託され、今の私を成していることに思い至る。加齢により難聴になるのは誰にでも起こりえる。29年前に折れそうに震えていた神経が今、ふたたび脳脊髄のなかで衰えていることなのかもしれない。いままで、よくぞ耐えて下さったと労いたい。今の命があるのも何かの思し召し。今のこともそのように受け止め、今までのように在り続けたいと願う。狂った音楽も私の人生の大切な一部だと思える気がしてきた。
記憶の中の音楽が蘇ってきたことを書いた。そして正しい音程での演奏を聴きながら誤差を正していこうと考えてみた。でも、ここで書いたように失われた機能は戻らないようだ。そこでさらに考えた。ふり返れば私はアマチュアとはいえ40年近く指揮者で初演曲も手掛けてきた。それは楽譜を読み込み音楽を一から創っていく作業だ。聴いたものを再現するのではなかったことに思い至った。とはいえ合唱指揮だからせいぜい4部、8部のパートで繰り返し練習できるから可能なことだった。これからは楽譜を読み自分のためにだけの音楽を自分で創造することに向かいたいと思う。
耕すということ=agriculture

田を耕し種を蒔き日々の手入れを怠ることのない「農」とゆう「業」。報いられることは少ないが大地を耕すだけではなく人の心を耕す。そのことに眼を届かさないといけないと思ってきた。「根っ子」「根底」といわれる。今回「美の散歩道」に書いていただいた柳原一德さんは小出版を率い(といっても一人で)、農地も文化も耕しながら絶望的な戦いに挑み続けている。出版・写真・農業の三役である。私の挑んでいるのも三本柱である。「みずのわ出版」は神戸で創業したが、見切りをつけて故郷である周防大島へ戻った。彼の全てにまっとうに真剣に生きる姿に共鳴し、手がける本の全てを買っている。柳原は公的な図書館が寄贈を求めた時に、それを断った。飲み会、交流会の会費なら出すけど「本は寄贈」、これは筋が通らない。高村薫「土の記」(新潮社)にも心揺さぶられた。
私の仕事も文化という土壌をcultivate(耕す)ことであり、 distributor(流通の担い手)であったりchef(料理人)であったりは出来ないのです。そう考えれば「アート・サポート・センター神戸」も「こぶし基金」にも通底している精神だと思い至ります。

多分に強者になりえないという、自分自身の実感と、虚構や覇者を排すべきであるという明確な自覚は、今なお、ぼくを暖めつづける体温そのものであり、かっていささかの苦渋と挫折に色どられた春の日の体感に由来する陰影が、今日、なお執拗にぼく自身をドン=キホーテさながらに理由なく困難な状況へと立ち向かわせているようである。
「わが心のシノプシス」からの抜き書き (佐本進「天の劇場から」)

佐本先生の精神は私そのものである。でもこのスピリットが自分を縛り、佐本先生は自死を選んだ。「天変地異で農業は全滅する」とかあちゃんは言う(美の散歩道から)。でも天変地異だけではなく時代の風潮にも抗することをせずに失われるものもある。