2018.9「それでも旅は続く」

年明けから私たちの思いを込めた展覧会が続き、作家もまたそれに存分に応えた。
期間が一ヶ月であったり、三つのギャラリーを同時開催であったり、それぞれが挑戦だった。そしてそれは気がつけば「崖っぷち」での綱渡りでした、いや、ずっとそうだった。
そこで、ギャラリー40 周年の後半に差し掛かる夏季休廊の間にスタッフが計画し、バイト、インターンさんたちが総がかりでメインテナンスは勿論、膨大な資料や備品などの点検、整理、廃棄処分を徹底し、機器類も更新、ギャラリー内でのネットワーク環境も新たに整えた。捨てるに忍びないものは「なんでももってけ」のマーケットで持って帰っていただくよう試みた。来られたかたは閉店セールと思われた。
チームとしてのスタッフは気合十分。様々な改革へ取り組む。

窪島誠一郎さんの信濃デッサン館は私たちとほぼ同じ年月を経てきた。「信濃絵ごよみ 人ごよみ」(信濃毎日新聞)に「借金」(2000.7.1)というエッセイがある。
みずから「借金世代」といい、 わが人生最大の恩人といえば銀行サマサマなのだ。そして「借金さまさま。健康のモト、馬力のモト」と書いている。
しかし、閉館というつらいニュースをきいた。「無言館」が誕生する前に「戦没画学生の絵画展」を「50 年目の戦場」と 言われた神戸で手がけて以来のお付き合いで多くの大切なことを教わった。
多くのギャラリーが惜しまれながら閉じていく。さまざまな要因があるが、借金さまさまと言っておれなく、首が回らな くなることが多いのではないか。
私の場合は海文堂を離れたときにはすでに58才。借金すら難しかった。
私たちの役割を考えれば、このしんどさも引き受ける以外にない。
75年の日々を超える私の身体は耳、眼、脳の能力の衰えとして自覚し、 40年のギャラリーは厳しい局面を迎え、 25年の財団は、思いがけずに基盤が強化されたが、全て助成に使うものであり永続が保証されるものではない。
ものごとにははじまりがあり、必ず終わりもくる。私のことは執着はない。しかしギャラリーや財団がはたしてきた役割は簡単に消すことは出来ない。時代の風潮に抗しながら、売り買いでない存在として託されるものがあればいいし、そうでなければ終着駅へ到着する。

聴くということ

過ぎ去りしものは取り戻すことはできないが、これだけは取り戻したい。それは私にとっては音楽を聴く耳だ。
2年前に初めて変調を感じた。完璧な演奏が狂って聴こえた。コンサートホールでなかったので音響のせいだと思った。しばらくしてピアノのリサイタルでは調律が狂っていると指摘した。
様々に検査を受け、治療を受け、次々と機器を試している。相対する会話はなんとかなる。しかし複数の人との会話は難しい。コンサート、演劇、講演、映画など全てだめである。
治したいと思う気持ちが体調全般を整えてくれたのか、一時、頼っていた杖が不要になり、睡眠も改善された。
音楽は私の人生の一部であった。それが聴けないことはとてもつらい。
変調を感じて一年がたった昨年12月5日。いつものように朝5時に目覚めリビングに座って暁闇に沈む神戸の街を眺めていた。ふと。今日は加藤周一さんの命日でありモーツァルトの命日だと思った瞬間にモーツァルトの弦楽四重奏曲が瑞々しく流れでてきた。
呆然として聞き惚れた。それは体の隅々まで沁み込んだモーツァルトだった。翌朝はクラリネット五重奏曲が聞こえた。私は中学、高校の一年までは吹奏楽部でクラリネットを吹いていて、その後、合唱へと変わった。この曲はほぼ吹けていた。
そうか記憶の中にある音楽は聞こえるのか。そのあとはバッハのマタイ受難曲を呼び出した。まるでjukeboxみたいと評した人がいた。最近、合唱仲間と会うことがあり、愛唱歌が次々と蘇った。小さな声で歌ってみる。自分の耳には正確だと聞こえても狂っているようだ。「昴」「My Way」「思い出のサンフランシスコ」「いい日、旅立ち」。誰もいないところで口ずさむ。指揮をする。
聴くことを諦めた音楽を、聴きはじめ、記憶のなかの正しい音程と、実際に聴こえてくる音との誤差を無くしていこうと思っている。針治療、マッサージ、サプリメント、様々な補聴器などを試しているが、何より音楽を聴ける耳を取り戻したい。

誰かが見てくれている

KOBE ART AWARDについて書いて下さった8月20日の毎日新聞の「支局長の手紙」(佐竹義浩さま)のタイトルである。 ギャラリーに登場する作家も、その思いを抱き、私たちもそうした場であることを願って心を尽くして準備する。
その出会いの中から多くの作家が認められてきた。 記事は私の眼差しを言って下さっているのだが、私たちが世の風潮と抗うよう に、淡々と続けているギャラリーを支えて下さる人々、財団においては、ご寄付を寄せて下さる人々、こうした静かに見届けてくれている人々の眼差し。私たちこそがその眼差しを信じられることでかろうじて支えられているのです。

2018.8「ありがとがんす と 崖っぷち」

真夏の夜の夢のような「ミニアチュール神戸展2018」は、今年も150名ほどの作家が「ありがとがんす」をテーマに作品を寄せて下さった。

もはやグループ展の意味を超え、場を楽しみ、ふれ合いを楽しんでおられるのだと感じる。

ビジネスの感覚から遠い私たちの存在はなにによってあり得ているのだろうか。
40年の航跡は不思議に満ちている。言葉に出来ない何者かの導きを感じる。
しかし、今もまさに崖っぷちに立っていて奈落をのぞき込んでもいる。

私が選び取ってきた道はいつも崖っぷちへと続いてきた。そのことについて真迫のドキュメンタリーを3篇、4篇書けるほどのことで、記録も残しているが、何れも身近すぎて今は書けない。

こぶし基金の25周年記念誌は「志の縁をつないで そして未来へ」と題されている。
1997年の拙著「蝙蝠、赤信号をわたる アート・エイド・神戸の現場から」(神戸新聞総合出版センター)の本の扉に
「志をもって」ということは、 現代ではほとんど「闘う」という
ことと 同意義ではないか———
とある。 今井康之さん(当時、岩波書店常務)が寄せて下さった言葉だ。

今なお私は「志」に捉われ、私自身は意識せぬままいつも闘い、崖っぷちに佇んでいるようだ。安定を排し自ら危険な方へ身を寄せてしまう50年の日々は外からは窺うことは出来ない。

海文堂では同族との対立からそこを辞し、元町からも離れ行き暮れることもあった。
そして北野へ。三つのギャラリーを持つことになったが、ほとんど成り行きと言っていい。
ギャラリーもこぶし基金も思いがけずに内実を与えられて今がある。

それを成したのはスタッフによるもので、いずれも刊行されている記録が語っている。そして、ギャラリーの経営が困難になり次々と姿を消してゆくこの時代に私たちもまた崖っぷちにある。
存在することの意味

では私たちの存在価値はどこにあり、今あることを許されているのだろうか。
許されていないからこそ崖っぷちにいるとも言える。
やりたいことを貫けば、そのどれもが何かと繋がり、融合作用をおこし小爆発し、
日々がお祭りなのか暴動なのかわからない。 このタガの外れぶりは尋常ではない。
経営という底も抜けてしまっている。これは自爆というものではないか。

3月の「藤本由紀夫展 ダッシュ」、5月の「△と、」、6月の「榎忠展 MADE IN KOBE」はギャラりー島田の全体の空間で構成した。
前例なき事に挑む試みであり、現在開催中の堀尾貞治展もパフォーマンスが形を成した。
日々、CHAOSのごとく何かが起こっていて、ギャラリーを遠く離れていてもその繋がりが何処かで、何かを起こしている。見せる・見る、売る・買う、という「場」を越えた意味が私たちを励ます唯一の動機なのだろう。
同時通訳とともに

様々な困難を抱えてきたが、いまは聴覚がトラブルで普通の会話もままならない。
音楽の音程が狂い、映画は風呂の中の会話のように響くだけ、講演も聴けない。
シンポジウムや会議の時はスタッフが同時通訳のように日本語なのに文字をPCに打ち込んでそれを見ている。
姿形で元気そうに見えるのに、多くのことが頓珍漢で誤解を招いている。
聴覚の異常は脳力の低下を招くという。その自覚も大いにある。
まもなく76才。運転免許返上の齢である。ブレーキとアクセルを間違える。スタッフにもそんなにやらなくて良いと言いながらいざとなればアクセルを踏んでいるという。

私たちはギャラリー島田、アート・サポート・センター神戸、公益財団法人「神戸文化支援基金」の三つの軸を持っていて、それぞれに多くの人が織りなすように共同体のスタッフとして関わっている。この度、ギャラリーのスタッフ猪子大地が辞して外へとはばたく。多くの方にお世話になりました。私からも御礼申し上げます。
新しい場でもまた関わることもあると思います。詳しくは「うりぼう日記」をどうぞ。また柔らかい共同体として複数新しいスタッフが関わって下さることになります。これも一つの社会的実験なのだ。