2018.6「託されたものを」

これを書いている今、いや、このところずっと、なにものかに憑かれたようなエネルギーが周りを支配しているようです。

この数十日では、「こぶし基金」の記念誌を作るというチームが熱を帯び、小さいとはいえ曲折のあった複雑な歴史を基金を貫く魂を軸に織りなす大変な作業を続けていてメールが早朝、深夜を分かたず飛び交っています。この日々に既視感がある。二年前に、これも膨大な作業を短い日々で「加川広重 巨大絵画が繋ぐ東北と神戸2015 — フクシマ」の記録集を刊行した。いや、その前のプロジェクトそのものの準備から憑かれていたのだ。
ギャラリー島田の40周年を記念する展覧会が続いています。マラソンに喩えれば折り返し点に差し掛かったあたり。ランナーに喩えればベテランで華々しい実績もないけど走りつづける市民ランナーでしょうか。でも続いているだけでも「ありがとがんす」を何度くりかえしても足りません。
若いスタッフやインターン、不思議な形で関わってくれる人たちが、作家のみなさんの目指すこと、全てを形としていくために力を尽くしています。様々にいままでになかったことに挑んでいることを感じて下さっているのでしょうか。
私たち自身が、商業的なギャラリーの運営としては明確な意図のないままに、類例のすくないありかたに挑んでいるのですが、それはとても困難な道という他ありません。行方はだれも保証できないことです。地域やアーティストと真剣に向き合うことだけを重ねてきた14,600日。そのふれあいの中から生まれたものだけが私たちのかけがえのない喜びであり、今を支える礎です。

強者にはなりえない

その日々に私を絶えず律してきた言葉があります。

多分に強者になりえないという、自分自身の実感と虚構や覇者を排すべきであるという明確な自覚は、今なお、ぼくを暖めつづける体温そのものであり、かっていささかの苦渋と挫折に色どられた春の日の体感に由来する陰影が、今日、なお執拗にぼく自身をドン=キホーテさながらに理由なく困難な状況へと立ち向かわせているようである。「わが心のシノプシス」「天の劇場から」(P130)

私が尊敬する兄のような存在だった佐本進さん。佐本さんがいて下さったら・・・と折に触れて思い出します。1983年、自宅の庭に「小劇場シアターポシェット」を開館。1990年2月28日、治療を担当していた男児が治療中に急死したことから「死んでお詫びをする」と遺書を残して自殺。私は佐本進さんの伝言を「天の劇場から」(風来舎)として出版し、シアターポシェット公演全記録(1983〜1990:吉田義武編)を纏めました。天も涙しているような雨の中での追悼式で私へ呼びかける佐本先生の声を聞いたのでした。
今、このことを書いていて、初めて気づき、手が止まり、厳粛な思いへと引き込まれています。それは、

1989年8月。私は難病の頭部手術から生還。
1990年2月28日。佐本進さん亡くなる。
1990年5月28日。亀井純子さん亡くなる。

再びの生を享けた私を「天の劇場」から見守る二人の眼差し。

力を尽くして —— 受けています

展覧会それぞれに今までにない取り組みをしています。作家のみなさんもそれぞれに力を尽くされ、ここまでやるの??
それをチームとしてのスタッフが支えます。関わってきたプロジェクト。今、燃え上って編集している「記念誌」の制作。これらも挑戦的、実験的な試みで、新しいモデルを作ろうとしているのかもしれません。
榎忠さんが私に「自分で作品を作ってみろ」と言っています。ギャラリストとしてはギャラリーという空間、スタッフの存在、日々の営みなどが発するものが、島田が作った作品で、それは作家・鑑賞者・関わる人たちで初めて出来上がるものなのでしょう。
薄れていく記憶をしっかりと心に届くものとして記録していくこと。関わることにおいて、出来るだけそのようにしてきました。そのこと全てが自分の存在そのものを成していくことです。
榎忠さんが残している膨大な記録は作品と共に自身の存在証明です。今回のために整理された資料などをご覧いただくことも大きな目的の一つです。
今年の蝙蝠日記は「記憶から記録へ」「見えざる手に導かれるように」「ありがとがんす」「サザンクロス駅へ」「ふたたびの『ありがとがんす』」でした。ふり返ってみれば関わることの全てが私の思いを超えていくことばかりです。明けても暮れても、そのことを考えつづけています。今またあり得ないことを託されています。そのことはとてつもなく重いことのように感じます。こぶし基金からのお知らせをお読みください。

「天の劇場」から眺めているお二人へ、「もういいかい」と聞いてみたい。「もういいよ」と言って欲しい。