始発TERMINALを出た「鈍行こうもり号」の旅の日々が静かに進んでいきます。次の停車駅はサザンクロス(南十字星)駅でしょうか。目指す「幻のような駅」が終着駅でしょうか。
私の乗車券はカンパネルラの「小さな鼠色の切符」でしょうか。
それともジョバンニの「四つに折った葉書くらいの緑色の紙」でしょうか。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は第4次稿まであり、それも未完でした。
最終章が「ジョバンニの切符」で全体の半分を占めています。
たしかなことは、旅の日々を重ね、どこかの地へと向かっていることだけです。
いまこそわたれわたりどり いまこそわたれわたりどり Now’s the time to go!
印象的なシーンでミニアチュール・神戸展 2016のテーマでもありました。
私たちは上方への志向、中心への指向とは違う、自由であること、境界を越えていくこと、marginalを生み出すことを大切にしています。
窓からそとを見ながら思いに耽っています。
一人の寛い服を着て赤い帽子をかぶった男が、両手に赤と青の旗をもってそらを見上げて信号しています。
オーケストラの指揮者のように青を烈しく振ると幾万という鳥の群れがそらをまっすぐにかけていくのを見ながら、私は蝙蝠だから赤の信号で渡っていくな、などと思っています。
賢治の軽便鉄道も私の「鈍行こうもり号」もゴトゴトと刻みながら進んでいきます。
あと二駅、何事が待ち受けているのでしょうか。
いまはまだ 春まだき ですが
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
*このところ続いている宮沢賢治に触れているところは「銀河鉄道の父」(門井慶喜)「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子)
と宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読(鎌田東二)に拠っている。鎌田さんは神道研究家。阪神大震災のあと「神戸からの祈り」で
ご一緒し大重潤一郎(映画監督)と東京自由大学を設立、大重さんの映画をプロデュースされその紹介に尽力されています。
ダッシュ
藤本由紀夫さんに展覧会をお願いした時に、即座に稲垣足穂の名前がでました。そして少し驚きました。
なぜタルホなのかはお楽しみにしていただくことにして、驚いた訳をおはなししましょう。
私たちの「こぶし基金」のKOBE ART AWARD 2017の大賞が藤本由紀夫さん、優秀賞が季村敏夫さん。贈呈式をギャラリー島田で行いました。お二人はその時、初対面でした。式が終わったあと展示されていた作品を藤本さんがガイドされ、熱心に季村さんがお孫さんと遊んでおられました。
そして2018年の財団の助成に季村さんは「稲垣足穂と竹中郁の背後の鉱脈ー1920年代神戸のアバンギャルド群像」の企画で応募されました。そのことそのものは偶然ですが、それに重なるようにお願いした藤本さんから足穂の名がでました。足穂の「一千一秒物語」は1923年(佐藤春夫序文、金星社)。「タッチとダッシュ」は1929年(文芸レビュー)。さて藤本由紀夫さんのダッシュとは?
最初に紹介した「SILENT ET LISTEN 2007」(canvas)は、寝室の南向けの大きな窓に立てかけられ、私はベッドに横になって、その作品から漏れてくる時さまざまな微細な光が誘うものにこころを預けています。
藤本さんが1997年から10年間、毎年一日だけ西宮市大谷記念美術館で開催された「美術館の遠足」には、驚くほど多くの方が楽しみに訪れた。そして藤本さんに、どんどん話しかけたそうです。藤本さんに解説を聞くというより自らの新鮮な体験を語っていたのですね。
今回、皆さまのお手元にお届けしたご案内状は、ご来廊の際忘れずにお持ちください。 なぜ? はお楽しみに。
・須飼秀和さん
前号の作家往来は東影智裕さんでした。そこに登場した須飼秀和さんについて。京都造形芸術大学で学び、ギャラリー島田による初個展が2004年12月。その後、明石市立文化博物館での「いつか見た蒼い空ー須飼秀和展」、毎日新聞の2008年から2012年にわたる全205回の連載「私だけの故郷」(岩波書店)など、その誠実な人柄と仕事は確実に見る人の心をとらえてきました。そして「日本の風景をみつめて 須飼秀和 ふるさとの詩」がBBプラザ美術館で開催されることになりました。4月10日 〜6月17日です。途中、展示替えを行います。 ◆ 4月22日(日)14:00〜15:30 対談 須飼秀和×島田誠 「須飼秀和のカラーについて」 BBプラザ美術館にて*詳細は同封チラシをご覧ください。
・窪島誠一郎さん。
3月号の「旅にしあれば」は窪島さんに書いていただきました。信濃デッサン館とギャラリー島田は同志であると。そして先日、ご挨拶状が届いた。「3月15日をもって無期限休館」とあって衝撃を受けた。もちろん窪島さんがまだまだやりたいことがあってのことと分かってはいる。でも、言葉になりません。