記憶から記録へ
海文堂ギャラリー時代が22年。ギャラリー島田が17年の時を刻んできました。
書店とギャラリーの併設の時を経てきたことにも深い意味を感じます。なぜならいまある「存在」は、そこで種を蒔かれ、日々を重ねることによって育てられたものですから。その意味を振り返ってみます。
私たちの三つの装置
ギャラリー 島田(企業) アート・サポート・センター神戸(非認定NPO) 神戸文化支援基金(公益財団法人)
ギャラリー島田という「場」を拠点としながら、普通であれば別個の組織としてあるものが、同時に存在し、関わりあっています。ギャラリーは企業に違いありませんが、この三つの装置ともにNon Profit、またはそれに準じていて、多くのSupporterの皆さんに支えられています。
ギャラリーの記録としてのMemorial Book
Memorial Bookとは。
ギャラリーで展覧会をされる作家に私たちがMemorialBookと呼ぶものに絵を描いていただくことを始めたのは1992年1月28日のこと、25年前になります。
1992年は多くのことが、生まれた年で、1995年の阪神淡路大震災が私たちの航路を定めました。
このアイデアはジャンムーランの美木剛・陽子さんから教わりました。最初はランセル(パリ)の革装の芳名帳でした。それが入手できなくなるとポンピドーセンターで何回か求め、そのあとはイタリア、スペインへ行く都度に求めました。最近は、海外へ行く友人に買ってきていただいたりしていて、今が13冊目になりますが、全て革装のもので大きさや紙質も様々で、いつもの「建て増し」の精神です。
1992年からのほとんどの作家が絵を添えていて、ギャラリーの生きた歴史であり、証言なのです。データ化を進めていて、40周年の幕開けにはご覧いただきたいと思います。多分、900点ほどの作家の趣向を凝らした作品をご覧いただけると思います。
津高和一、嶋本昭三、白髪一雄、村上三郎、元永定正、浮田要三、堀尾貞治、川島猛、荒木高子、吉増剛造、木下晋、西村功、中西勝、中島由夫、重松あゆみ、植松永次などに加えて、黄鋭、ARMAN(ニースにて)、CEZAR(ニースにて)、Fernand Montes、Geert van Fastenhoutなどの外国の作家、海外在住の作家たちにも多数描いていただいているほか、文芸関係の方も含みます。Memorial Bookは、このために描いていただくので、即興的であったり、本音や、別の面が表れたり、とても興味深いものです。
ぼくが蝙蝠であるということは、どうゆうことか
蝙蝠は、コウモリ目(翼手類)の哺乳類の総称。獣なのに鳥のように飛ぶ。鳥からも獣からも仲間外れにされる。
文化人でも、経済人でもない私を自ら蝙蝠と呼んでいる。
蝙蝠といえば「気持ち悪い」「吸血鬼」「夜な夜な遊んでいる?」など、評判はさんざんである。しかし、私が自らを蝙蝠と呼ぶのは自嘲ではない。自負であると言ってもいい。
どちらの陣営にも属さず中間でいること。日和見でなく、毅然とした中間であることに誇りを持ちたい。毅然として選ぶ中間である。時に両者を繋ぎ、時に両者を糾す。
それほど恰好よくは行かないが、中国では蝙蝠は幸福の象徴、英語ではバットマン、すなわち、あのスーパーマン、正義の味方である。余計に気持ちが悪い?ううう んん‥
ギャラリー島田が北野にきた2000年10月のgallery—Informationから蝙蝠日記の連載がはじまった。
「蝙蝠北野を飛ぶ」を第1回として207回のarchiveをHPでお読みいただけます。
もう一つの蝙蝠日記
通称メルマガ(Gallery SHIMADA & Art Support Center KOBE Info)として1388号(12月16日現在)を重ね、3088人(12月9日現在)の方が受け取って下さっています。第1号は2002年1月29日の「こんにちは!ギャラリー島田」でした。すべてのarchiveをHPでお読みいただけます。
もう一つの装置として アート・サポート・センター神戸
1995年に始めた「アート・エイド・神戸」を7年で閉じ、その志を継ぐ形で発足しました。
認定を受けていませんが活動はNPOで、理念はHPに掲げています。
運営は会費をいただいていますが、「場」があり「スタッフ」がいてこそ可能なことです。2000年11月7日の 井上和雄音楽談義 その1「ベートーベンの弦楽四重奏とその思想」を第1回として332回(11月28日現在)を数える「神戸塾」は、さまざまな連続講座や美術談義は勿論のこと、古典芸能、映画、音楽、講演、シンポジウムなどを重ねてきました。これもすべてのarchiveをHPでご覧いただけますが、ほとんど記憶から消えていて、頭がクラクラしました。
そのほか、加川広重巨大絵画プロジェクト、東日本大震災の志縁にもかかわり、出版物も多く手掛けました。
多分、「神戸塾」に限っても1万人ほどの方が参加されたのではないでしょうか。
もう一つの装置としての公益財団法人「神戸文化支援基金」
1992年に公益信託「亀井純子文化基金」が誕生。現在、公益財団法人としてあります。小さな基金ですが、絶えず前例なき道を突破し、その歴史そのものが物語を紡いでいます。HPが「亀井純子文化基金」時代と現在が分かれていて見ずらいかと思いますが、過去の助成事業194件のすべてをご覧いただけます。
また簡素な運営組織もモデルたりえるものを目指しています。
今年が25周年。すべてが皆さまのご寄付によっています。ありがとうございます。
このように三つの装置が有機的に関連しあっているのです。