2018.12「賞を受ける」

電話一本から様々なことが起こる。

「石井一男さんの連絡先を教えて下さい」と神戸市の方から私に電話がかかってきた。そして石井一男の文化賞受賞のことを知らされた。私は耳を疑い、それを伝えた石井さんは、なんのことか分からなかった。

私は1992年に神戸市文化奨励賞を受賞しているが、阪神淡路大震災のころから、私は神戸市とは対立関係にあり、こうした賞がどんな経過で候補者が選ばれるか、そして受賞された方にも関心がなかった。今回、はじめて市のHPでその仕組みを知った。私が受賞した年に公益信託「亀井純子文化基金」の設立を目指していて、その賞金が基金誕生の背中を押した。同年に石井一男という埋蔵画家を発掘した。出会いは一本の電話だった。石井さんは初個展の売り上げを全て基金へ寄付を申し出られたが、それはお断りした。私の受賞の戸惑い、石井さんとの出会いは「不愛想な蝙蝠」(1993:風来舎)に書きました。

私がその他の賞を受けたのは、企業メセナ大賞奨励賞(1996年:海文堂書店)、神戸凮月堂が主催するロドニー賞(第12回、2002年)があります。神戸市文化奨励賞も想像もしていなかった。企業メセナの場合は前年度が「ジーベックホール」が受賞され、「アート・エイド・神戸」の活動を評価くださり、先方から申請をするよう声掛けいただいた。ロドニー賞は、歴代の受賞者が審査員に加わるというユニークな仕組みで2003年に受賞し、しばらく審査員を務めさせていただいた。

1992年の私の受賞については面とむかって「皮肉」「あてこすり」をいろいろと言われた。言われた方はよく覚えているものだ。要は「画策したのでは」、「なんでお前なのか」と匂わされたり。石井さんの今回も、その意外性においていろいろ言われるかもしれません。私もただ驚いたのです。そして淡々と感謝をして変わらない石井さんを知っています。

兵庫県文化奨励賞を受賞した須飼秀和の時は助言を受けて推薦しました。公的な賞に関わったのはこれくらいです。多くの頑張っている皆さん、それぞれに励まし、寄り添う者として誰を推すのかは悩ましいことです。それで結局、誰も推してこなかったのです。いろいろな審査に関わりましたが、一定年度を務めてすべて退かせていただきました。

 

賞を贈る

 

賞がインフレを起こしているのが残念ですが、文化を支え、人を育て、贈るに相応しいところが、相応しい人に贈る賞には大切な役割と価値があります。同時に賞を贈る側の勘違い(下心)と受けたい側の思惑が見えると心がざわついてしまいます。

このように賞について愛憎交々な私がKOBE ART AWARDを創設して賞を贈る立場になりました。2011年に「神戸文化支援基金」が一般財団法人から公益財団法人としての認可を受けたことを期にはじめました。1992年に兵庫県下での芸術文化活動への助成をはじめ、年間100万円から200万円へ、そして300万円とステップアップする段階に来ていて、役員のみなさんと相談して、より長期的な活動への取り組みへの助成を大賞、優秀賞、地域賞をとして合計100万円を贈ることにしました。

形を変えた助成の仕組みなので、賞そのものに権威をもたせないことを貫いています。賞を贈りながら、まことに変なこだわりですが、譲れないところなのです。財団の基金はすべて市民の(無名といっていい)寄付によっています。財団はその志を活かすことを使命としています。贈呈式はそのことを全てフラットな形で表現する場です。賞の価値にふさわしく、もう少し重みがあったほうがいいと思う方もおられます。私たちの拘りはなぜか。すべては亀井純子さんの志を受け継いできたからです。それなしにはこれだけの寄付を寄せていただくことはあり得ないです。

 

 

40周年のしめくくりに

 

石井一男の文化賞の受贈式が11月14日に開催されるそうだ。何と、私の誕生日ではないか。

40周年、最後の展覧会は「林哲夫展」と「蝙蝠料理エトセトラ」となった。40年の航海は日曜大工で建造した小舟で出帆し、何度も難破の危機に直面しながら優秀なクルーの力で航海を続けることが出来た。ふり返れば、私なりの志を形にしてきた航跡が遥か彼方へと続いているのを感慨深くながめています。船も建造、改造を繰り返し、些か身の程をこえて進路を変えかねています。私がギャラリーを始めたころ、今のスタッフ、インターンの皆さんはまだ生まれていないか、せいぜいヨチヨチでした。作家やお客さまの皆さんが蝙蝠を自在に料理していただくことになりました。

 

心の痛みとともに

 

とはいえ、ギャラリーを取り巻く環境は厳しくなるばかりです。私たちの作家、作品への拘りは時の風潮に2周遅れくらい離されているようです。時代を読むことは大切です。でも時流に乗ることには抵抗があります。私たちが為してきたこと。それは「抗う」ことでした。未来図は私たち自身を見失うこことであってはなりません。今回の、ギャラリー島田の存在そのものをauction marketにかけてみる。そんな捨て身は「井の中の蛙」だと思いますが、試してみようと思います。海外のauctionへの挑戦、今回の試み。共に、単なる作品の競売を目指しているわけではありません。ギャラリー島田の目指すところも問い、続く作家たちのマーケットへの道を探しています。ご支援をお願いいたします。

2018.11「遺言」

買いたい本があってジュンク堂へ行った。書評を見て養老孟司の「遺言」(新潮新書)と松原隆一郎の「頼介伝」(苦楽堂)、書斎に見当たらなくなった加藤周一「夕陽妄語」(ちくま文庫)のⅢがあればと探したが、これは無かった。
そして志村ふくみ、石牟礼道子の「遺言 対談と往復書簡」(ちくま文庫)などを買った。
樹木希林さんが亡くなった。75才。この頃、訃報を我が身と重ねることが多くなった。目立たない会社員で勤めあげた最後の日に帰宅してポックリと亡くなった父。この父も75才だった。それにしても私も大病をし、「探求心」や「野心」というものが希薄なのに、よくここまで生きてきた。
おいしいものを食べることはだれでも好きだ。でも私は朝食は簡単に、昼食は自分で弁当を作ることが多い。自分で笑ってしまうのはランチでもワインやお酒も少ししか飲まないのに「安い」ことを基準に選んでいて、あまり美味しくないと、自嘲することになるが、そのことを懲りずに繰り返している。山田風太郎に「あと千回の晩飯」(1997年4月1日:朝日新聞)がある。私もそんなものだろう。そんなにケチってどうするのと友は呆れ、自分も毎日呆れる。
上記の2冊の「遺言」ともに味わい深い。遺言は遺書ではない。これだけは言っておきたいということだ。ならば、この頃、私が書くことは遺言ともいえるかもしれない。

聴くということ

養老孟司の「遺言」によれば脳は棒の先に丸い飴玉が付いたかたちで、それが脳。それを包む丸い紙が大脳皮質である。その棒が脳幹・脊髄だという。その棒に乗っかった脳は視覚、聴覚、触覚として情報処理を司どるという。中心域には言葉があり、分かれた先の左の「目」の領域が絵画であり、右の「耳」の領域が音楽である。その理屈を解説しているわけではない。私が障害を感じている聴覚は脳幹・脊髄を通って脳で情報処理をしていることを教えられた。(「遺言」5章)私は1989年8月27日に脳脊髄瘍腫という大手術をした。そういえば、その時、傷ついた神経は恢復することはないと聞いた。ふたたびの命を与えられ、そこから不思議に多くのことを託され、今の私を成していることに思い至る。加齢により難聴になるのは誰にでも起こりえる。29年前に折れそうに震えていた神経が今、ふたたび脳脊髄のなかで衰えていることなのかもしれない。いままで、よくぞ耐えて下さったと労いたい。今の命があるのも何かの思し召し。今のこともそのように受け止め、今までのように在り続けたいと願う。狂った音楽も私の人生の大切な一部だと思える気がしてきた。
記憶の中の音楽が蘇ってきたことを書いた。そして正しい音程での演奏を聴きながら誤差を正していこうと考えてみた。でも、ここで書いたように失われた機能は戻らないようだ。そこでさらに考えた。ふり返れば私はアマチュアとはいえ40年近く指揮者で初演曲も手掛けてきた。それは楽譜を読み込み音楽を一から創っていく作業だ。聴いたものを再現するのではなかったことに思い至った。とはいえ合唱指揮だからせいぜい4部、8部のパートで繰り返し練習できるから可能なことだった。これからは楽譜を読み自分のためにだけの音楽を自分で創造することに向かいたいと思う。
耕すということ=agriculture

田を耕し種を蒔き日々の手入れを怠ることのない「農」とゆう「業」。報いられることは少ないが大地を耕すだけではなく人の心を耕す。そのことに眼を届かさないといけないと思ってきた。「根っ子」「根底」といわれる。今回「美の散歩道」に書いていただいた柳原一德さんは小出版を率い(といっても一人で)、農地も文化も耕しながら絶望的な戦いに挑み続けている。出版・写真・農業の三役である。私の挑んでいるのも三本柱である。「みずのわ出版」は神戸で創業したが、見切りをつけて故郷である周防大島へ戻った。彼の全てにまっとうに真剣に生きる姿に共鳴し、手がける本の全てを買っている。柳原は公的な図書館が寄贈を求めた時に、それを断った。飲み会、交流会の会費なら出すけど「本は寄贈」、これは筋が通らない。高村薫「土の記」(新潮社)にも心揺さぶられた。
私の仕事も文化という土壌をcultivate(耕す)ことであり、 distributor(流通の担い手)であったりchef(料理人)であったりは出来ないのです。そう考えれば「アート・サポート・センター神戸」も「こぶし基金」にも通底している精神だと思い至ります。

多分に強者になりえないという、自分自身の実感と、虚構や覇者を排すべきであるという明確な自覚は、今なお、ぼくを暖めつづける体温そのものであり、かっていささかの苦渋と挫折に色どられた春の日の体感に由来する陰影が、今日、なお執拗にぼく自身をドン=キホーテさながらに理由なく困難な状況へと立ち向かわせているようである。
「わが心のシノプシス」からの抜き書き (佐本進「天の劇場から」)

佐本先生の精神は私そのものである。でもこのスピリットが自分を縛り、佐本先生は自死を選んだ。「天変地異で農業は全滅する」とかあちゃんは言う(美の散歩道から)。でも天変地異だけではなく時代の風潮にも抗することをせずに失われるものもある。

2018.10「10000年 100年 10年 1年 昨日 明日」

gallery informationをお送りしたところなのに次の蝙蝠日記の原稿締め切りが迫ってきた。判断を迫られることは怒涛で、時間は疾走している。ギャラリーと自宅を行き来するだけなのになぜこんなにも余裕がないのか。

8月30日、31日。上京して大切な打ち合わせに臨んだ。ギャラリーの現状の打開を図るためだ。簡単な名案などはあろうはずもない。

その前に、東京国立博物館の特別展「縄文  1万年の美の鼓動」を見にいった。「縄文」を是非、見ておきたいと思ったのは直接的には重松あゆみ展「Jomonの面影」(9月15日~26日)と、画廊通信8月号の「美の散歩道74」に、重松あゆみが縄文土器と洞窟壁画について書いた「穴に入る」が念頭にあった。

あと3日で終わるとあって、開場30分前に行ったのだがチケットを買うのも入場も長蛇の列。チケットを手にして初めて気が付いたのだが「縄文」の会場は広い敷地内の左奥にある平成館だった。

この場には思い出がある。

平成24年(2012)3月13日、東京国立博物館・平成館で文化芸術による復興推進コンソーシアム設立記念シンポジウム「文化芸術を復興の力に」のことを思い出した。

司会:本杉省三(日本大学教授)パネリスト:紺野美佐子(朗読座)、赤坂憲雄(福島県立博物館館長)、大澤隆夫(仙台フィルハーモニー管弦楽団専務理事)、近藤誠一(文化庁長官)、それに何故か、私もその一人でした。私は「アートエイド神戸」「アーツエイド東北」へと繋がる市民が支えるメセナの役割を語りました。この時のメールマガジン715号「文化芸術を復興の力に」から引用します。

 

控え室での懇談が面白かった。なんせ、私は赤坂憲雄ファンである。季村敏夫(詩人)さんと「なんとか赤坂さんを神戸に招きたい」という願いを語り合ってきた。大澤隆夫さんの奥さんは私の神戸高校の後輩に当たるそうだ。

赤坂さんは海文堂書店の「荒蝦夷(あらえみし)出版社フェア」の時に来神されたそうだ。そして、お二人とも「神戸からの志縁は、やはり他とは違う」と話され、私は「経験しているからでもあり、志縁いただいたことのお返しでもある」と伝え、話は、私の母が関わった昭和9年の東北大飢饉での生保内セツルメントまで広がり、赤坂さんは神戸行きを快諾して下さり、がっちりと握手した。赤坂さんの「東北学」は民俗学という範疇をこえて、日本の、そして私たちのアイデンティティーの見直しを迫るものであり、それが「3・11震後」のまさに課題だと思います。多くの方に呼びかけて、単に、お話を聞くという枠をはずして、「場」と「思い」を共有できる会にしたいと願っています。

 

それが7月20日に「東北の復興、日本の明日」(神戸凮月堂)という講演会として実現し、赤坂さんの講演と季村敏夫さん私を交えての鼎談、司会は渡邊仁さんでした。(メルマガ745号で書いています。バックナンバーでお読みいただだけます)

赤坂憲雄さんから岡本太郎が50年前に発見した「縄文」についても教わりました。赤坂さんの「岡本太郎の見た日本」(岩波書店)は2007年に出版されたものですが岡本太郎の滾る情熱と、それに赤坂さんの魂が共振して、こちらも揺さぶられます。気になったところを引用すれば、膨大になってしまいます。

 

芸術は全人間的に生きることだ、わたしは絵を書くだけの職人にはなりたくない。

だから民族学をやったんだ、わたしは職業分化にたいして反対だ。

わたしは画家にも彫刻家にもなりたくはなかった、ほんとうは思想家になりたかった

(P2から)

 

長い眠りにあった縄文の発見者として岡本太郎がいます。縄文土器に出会った衝撃を「四次元との対話―縄文土器論」として『みづゑ』(1952年2月)に発表、縄文の 「火焔型土器」のような造形美、四次元的な空間性、そして、縄文人の 宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈が1万年の眠りから「目覚めよ」と呼びかけたのです。それから66年。

 

自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ。

芸術はきれいであってはいけない。うまくあってはいけない。心地よくあってはいけない。それが根本原則だ。

芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者。

無条件に生命をつき出し爆発する。その生き方そのものが芸術なのだ。

 

 

今日をどう生きるか

 

淡々と時は刻まれています。だれにも等しく。こうして、ここで「縄文」を見ながら私自身をふり返っていると阪神大震災に遡り、そこで成してきたことの源は幼少期に既にあったことのようだ。

 

刻一刻はすべて私自身のこと。今さらどうみられるかは関係のないことで、目覚めれば明日があるだけ。

今までも、今も、これからも、全てを引き受けながら小さな自分の声で語っていきたい。

まだ見ぬ、少しでも希望を繋げる明日のために。

2018.9「それでも旅は続く」

年明けから私たちの思いを込めた展覧会が続き、作家もまたそれに存分に応えた。
期間が一ヶ月であったり、三つのギャラリーを同時開催であったり、それぞれが挑戦だった。そしてそれは気がつけば「崖っぷち」での綱渡りでした、いや、ずっとそうだった。
そこで、ギャラリー40 周年の後半に差し掛かる夏季休廊の間にスタッフが計画し、バイト、インターンさんたちが総がかりでメインテナンスは勿論、膨大な資料や備品などの点検、整理、廃棄処分を徹底し、機器類も更新、ギャラリー内でのネットワーク環境も新たに整えた。捨てるに忍びないものは「なんでももってけ」のマーケットで持って帰っていただくよう試みた。来られたかたは閉店セールと思われた。
チームとしてのスタッフは気合十分。様々な改革へ取り組む。

窪島誠一郎さんの信濃デッサン館は私たちとほぼ同じ年月を経てきた。「信濃絵ごよみ 人ごよみ」(信濃毎日新聞)に「借金」(2000.7.1)というエッセイがある。
みずから「借金世代」といい、 わが人生最大の恩人といえば銀行サマサマなのだ。そして「借金さまさま。健康のモト、馬力のモト」と書いている。
しかし、閉館というつらいニュースをきいた。「無言館」が誕生する前に「戦没画学生の絵画展」を「50 年目の戦場」と 言われた神戸で手がけて以来のお付き合いで多くの大切なことを教わった。
多くのギャラリーが惜しまれながら閉じていく。さまざまな要因があるが、借金さまさまと言っておれなく、首が回らな くなることが多いのではないか。
私の場合は海文堂を離れたときにはすでに58才。借金すら難しかった。
私たちの役割を考えれば、このしんどさも引き受ける以外にない。
75年の日々を超える私の身体は耳、眼、脳の能力の衰えとして自覚し、 40年のギャラリーは厳しい局面を迎え、 25年の財団は、思いがけずに基盤が強化されたが、全て助成に使うものであり永続が保証されるものではない。
ものごとにははじまりがあり、必ず終わりもくる。私のことは執着はない。しかしギャラリーや財団がはたしてきた役割は簡単に消すことは出来ない。時代の風潮に抗しながら、売り買いでない存在として託されるものがあればいいし、そうでなければ終着駅へ到着する。

聴くということ

過ぎ去りしものは取り戻すことはできないが、これだけは取り戻したい。それは私にとっては音楽を聴く耳だ。
2年前に初めて変調を感じた。完璧な演奏が狂って聴こえた。コンサートホールでなかったので音響のせいだと思った。しばらくしてピアノのリサイタルでは調律が狂っていると指摘した。
様々に検査を受け、治療を受け、次々と機器を試している。相対する会話はなんとかなる。しかし複数の人との会話は難しい。コンサート、演劇、講演、映画など全てだめである。
治したいと思う気持ちが体調全般を整えてくれたのか、一時、頼っていた杖が不要になり、睡眠も改善された。
音楽は私の人生の一部であった。それが聴けないことはとてもつらい。
変調を感じて一年がたった昨年12月5日。いつものように朝5時に目覚めリビングに座って暁闇に沈む神戸の街を眺めていた。ふと。今日は加藤周一さんの命日でありモーツァルトの命日だと思った瞬間にモーツァルトの弦楽四重奏曲が瑞々しく流れでてきた。
呆然として聞き惚れた。それは体の隅々まで沁み込んだモーツァルトだった。翌朝はクラリネット五重奏曲が聞こえた。私は中学、高校の一年までは吹奏楽部でクラリネットを吹いていて、その後、合唱へと変わった。この曲はほぼ吹けていた。
そうか記憶の中にある音楽は聞こえるのか。そのあとはバッハのマタイ受難曲を呼び出した。まるでjukeboxみたいと評した人がいた。最近、合唱仲間と会うことがあり、愛唱歌が次々と蘇った。小さな声で歌ってみる。自分の耳には正確だと聞こえても狂っているようだ。「昴」「My Way」「思い出のサンフランシスコ」「いい日、旅立ち」。誰もいないところで口ずさむ。指揮をする。
聴くことを諦めた音楽を、聴きはじめ、記憶のなかの正しい音程と、実際に聴こえてくる音との誤差を無くしていこうと思っている。針治療、マッサージ、サプリメント、様々な補聴器などを試しているが、何より音楽を聴ける耳を取り戻したい。

誰かが見てくれている

KOBE ART AWARDについて書いて下さった8月20日の毎日新聞の「支局長の手紙」(佐竹義浩さま)のタイトルである。 ギャラリーに登場する作家も、その思いを抱き、私たちもそうした場であることを願って心を尽くして準備する。
その出会いの中から多くの作家が認められてきた。 記事は私の眼差しを言って下さっているのだが、私たちが世の風潮と抗うよう に、淡々と続けているギャラリーを支えて下さる人々、財団においては、ご寄付を寄せて下さる人々、こうした静かに見届けてくれている人々の眼差し。私たちこそがその眼差しを信じられることでかろうじて支えられているのです。

2018.8「ありがとがんす と 崖っぷち」

真夏の夜の夢のような「ミニアチュール神戸展2018」は、今年も150名ほどの作家が「ありがとがんす」をテーマに作品を寄せて下さった。

もはやグループ展の意味を超え、場を楽しみ、ふれ合いを楽しんでおられるのだと感じる。

ビジネスの感覚から遠い私たちの存在はなにによってあり得ているのだろうか。
40年の航跡は不思議に満ちている。言葉に出来ない何者かの導きを感じる。
しかし、今もまさに崖っぷちに立っていて奈落をのぞき込んでもいる。

私が選び取ってきた道はいつも崖っぷちへと続いてきた。そのことについて真迫のドキュメンタリーを3篇、4篇書けるほどのことで、記録も残しているが、何れも身近すぎて今は書けない。

こぶし基金の25周年記念誌は「志の縁をつないで そして未来へ」と題されている。
1997年の拙著「蝙蝠、赤信号をわたる アート・エイド・神戸の現場から」(神戸新聞総合出版センター)の本の扉に
「志をもって」ということは、 現代ではほとんど「闘う」という
ことと 同意義ではないか———
とある。 今井康之さん(当時、岩波書店常務)が寄せて下さった言葉だ。

今なお私は「志」に捉われ、私自身は意識せぬままいつも闘い、崖っぷちに佇んでいるようだ。安定を排し自ら危険な方へ身を寄せてしまう50年の日々は外からは窺うことは出来ない。

海文堂では同族との対立からそこを辞し、元町からも離れ行き暮れることもあった。
そして北野へ。三つのギャラリーを持つことになったが、ほとんど成り行きと言っていい。
ギャラリーもこぶし基金も思いがけずに内実を与えられて今がある。

それを成したのはスタッフによるもので、いずれも刊行されている記録が語っている。そして、ギャラリーの経営が困難になり次々と姿を消してゆくこの時代に私たちもまた崖っぷちにある。
存在することの意味

では私たちの存在価値はどこにあり、今あることを許されているのだろうか。
許されていないからこそ崖っぷちにいるとも言える。
やりたいことを貫けば、そのどれもが何かと繋がり、融合作用をおこし小爆発し、
日々がお祭りなのか暴動なのかわからない。 このタガの外れぶりは尋常ではない。
経営という底も抜けてしまっている。これは自爆というものではないか。

3月の「藤本由紀夫展 ダッシュ」、5月の「△と、」、6月の「榎忠展 MADE IN KOBE」はギャラりー島田の全体の空間で構成した。
前例なき事に挑む試みであり、現在開催中の堀尾貞治展もパフォーマンスが形を成した。
日々、CHAOSのごとく何かが起こっていて、ギャラリーを遠く離れていてもその繋がりが何処かで、何かを起こしている。見せる・見る、売る・買う、という「場」を越えた意味が私たちを励ます唯一の動機なのだろう。
同時通訳とともに

様々な困難を抱えてきたが、いまは聴覚がトラブルで普通の会話もままならない。
音楽の音程が狂い、映画は風呂の中の会話のように響くだけ、講演も聴けない。
シンポジウムや会議の時はスタッフが同時通訳のように日本語なのに文字をPCに打ち込んでそれを見ている。
姿形で元気そうに見えるのに、多くのことが頓珍漢で誤解を招いている。
聴覚の異常は脳力の低下を招くという。その自覚も大いにある。
まもなく76才。運転免許返上の齢である。ブレーキとアクセルを間違える。スタッフにもそんなにやらなくて良いと言いながらいざとなればアクセルを踏んでいるという。

私たちはギャラリー島田、アート・サポート・センター神戸、公益財団法人「神戸文化支援基金」の三つの軸を持っていて、それぞれに多くの人が織りなすように共同体のスタッフとして関わっている。この度、ギャラリーのスタッフ猪子大地が辞して外へとはばたく。多くの方にお世話になりました。私からも御礼申し上げます。
新しい場でもまた関わることもあると思います。詳しくは「うりぼう日記」をどうぞ。また柔らかい共同体として複数新しいスタッフが関わって下さることになります。これも一つの社会的実験なのだ。

2018.7「託されて」

ギャラリー島田の40周年、公益財団法人「神戸文化支援基金」(こぶし基金)は25周年を迎えた。
ギャラリーはそれにふさわしい展覧会が続き、全力で挑んでいる。
創業59年だった1973年にサラリーマンだった私が海文堂書店を託され、創業86年の2000年まで率いた。

財団は25周年記念誌「志の縁をつないで そして未来へ」を刊行した。
記念誌の「はじめに」に寄せた私の文は「託されて」と題されている。
40才の若さで亡くなられた亀井純子さんから託された思いが、連綿と繋がり同心円的に広がったこととを書いた。

ふり返れば私には野心もなく、明確な未来図はなく、託されたことをこつこつとやり続け拡張していく建て増しの精神で、くたびれたら終わるのだろう。
三段跳び

書店についても二度(’74,’75)の増床を試みたあとに新築(’81)に至った。新築工事中は仮店舗で営業。
この間、「ポートピア’81」のガイドブック販売で毎日、会場に通っていて榎忠の≪スペースロブスターーP-81≫と出会い、その威圧的な迫力に圧倒されたが37才の若者のが作ったことは知らなかった。当時、私は39才だった。

ギャラリーは’78にはじめ、’80に新築したスペースをさらに’88に拡張した。確かめながら少しづつ登ってきた。

人生そのものも大企業に務め、そして海文堂、そしてギャラリー島田。そのUn deux trois そのものが三段跳びを表している。公益信託「亀井純子文化基金」も一般財団法人「神戸文化支援基金」から公益財団法人へとステップを踏んできた。
内実を与える人たち

それを支えてきた人たちがその歩みや試みに内実を与えてきた。人に恵まれて今がある。

海文堂書店については「海の本屋のはなしー海文堂書店の記憶と記録」(平野義昌)に書かれている通りだ。
歴代店長とスタッフが成したことが、かくも惜しまれたことを物語る。

海文堂ギャラリーは後の銀閣寺花方の珠寶、歩歩琳堂の大橋信雄などが支えてきた。

ギャラリー島田でも、財団にでも、関わるプロジェクトでも、優秀なスタッフが支える。
展覧会のラインナップ内容、取り組み方、広報など、私の想定を遥に超えている。
チームにはスタッフ以外も加わりコモンズ(Commons)を成す。怒涛のように押し寄せる成すべきことも量も質もついてい行けないほどだ。その源が私であっても。
ありがとがんす。
入り乱れて

今回、思いがけない遺贈をいただいた志水克子さんは、海文堂書店で私のもとで27年間はたらき、94才で亡くなられた。万が一つにも起こらない信じがたい奇跡が起こった。
この小さな基金に無名の市民の皆様からよせられた寄付が1億5千万円となった。これを誇っているのではない。
「そして未来へ」と新しい課題を負い、戸惑っている。
それぞれに、かけがえのない日々が重なる。

私はといえば鍛えることもなく、心がけることもなく、視覚、聴覚、記憶力、判断力、そして体力に至るまで低下するに任せている。低下していなくとも自身の能力はしれている。

周りに能力に優れた皆さんが集まるのは案外、そこにあるのかもしれない。
見かねて、私の思いをデザインし、詳細設計に落とし、実施計画から施工にいたる。私は絶えず、追いかけられるように承認を与え、その責任を担う。

 

2018.6「託されたものを」

これを書いている今、いや、このところずっと、なにものかに憑かれたようなエネルギーが周りを支配しているようです。

この数十日では、「こぶし基金」の記念誌を作るというチームが熱を帯び、小さいとはいえ曲折のあった複雑な歴史を基金を貫く魂を軸に織りなす大変な作業を続けていてメールが早朝、深夜を分かたず飛び交っています。この日々に既視感がある。二年前に、これも膨大な作業を短い日々で「加川広重 巨大絵画が繋ぐ東北と神戸2015 — フクシマ」の記録集を刊行した。いや、その前のプロジェクトそのものの準備から憑かれていたのだ。
ギャラリー島田の40周年を記念する展覧会が続いています。マラソンに喩えれば折り返し点に差し掛かったあたり。ランナーに喩えればベテランで華々しい実績もないけど走りつづける市民ランナーでしょうか。でも続いているだけでも「ありがとがんす」を何度くりかえしても足りません。
若いスタッフやインターン、不思議な形で関わってくれる人たちが、作家のみなさんの目指すこと、全てを形としていくために力を尽くしています。様々にいままでになかったことに挑んでいることを感じて下さっているのでしょうか。
私たち自身が、商業的なギャラリーの運営としては明確な意図のないままに、類例のすくないありかたに挑んでいるのですが、それはとても困難な道という他ありません。行方はだれも保証できないことです。地域やアーティストと真剣に向き合うことだけを重ねてきた14,600日。そのふれあいの中から生まれたものだけが私たちのかけがえのない喜びであり、今を支える礎です。

強者にはなりえない

その日々に私を絶えず律してきた言葉があります。

多分に強者になりえないという、自分自身の実感と虚構や覇者を排すべきであるという明確な自覚は、今なお、ぼくを暖めつづける体温そのものであり、かっていささかの苦渋と挫折に色どられた春の日の体感に由来する陰影が、今日、なお執拗にぼく自身をドン=キホーテさながらに理由なく困難な状況へと立ち向かわせているようである。「わが心のシノプシス」「天の劇場から」(P130)

私が尊敬する兄のような存在だった佐本進さん。佐本さんがいて下さったら・・・と折に触れて思い出します。1983年、自宅の庭に「小劇場シアターポシェット」を開館。1990年2月28日、治療を担当していた男児が治療中に急死したことから「死んでお詫びをする」と遺書を残して自殺。私は佐本進さんの伝言を「天の劇場から」(風来舎)として出版し、シアターポシェット公演全記録(1983〜1990:吉田義武編)を纏めました。天も涙しているような雨の中での追悼式で私へ呼びかける佐本先生の声を聞いたのでした。
今、このことを書いていて、初めて気づき、手が止まり、厳粛な思いへと引き込まれています。それは、

1989年8月。私は難病の頭部手術から生還。
1990年2月28日。佐本進さん亡くなる。
1990年5月28日。亀井純子さん亡くなる。

再びの生を享けた私を「天の劇場」から見守る二人の眼差し。

力を尽くして —— 受けています

展覧会それぞれに今までにない取り組みをしています。作家のみなさんもそれぞれに力を尽くされ、ここまでやるの??
それをチームとしてのスタッフが支えます。関わってきたプロジェクト。今、燃え上って編集している「記念誌」の制作。これらも挑戦的、実験的な試みで、新しいモデルを作ろうとしているのかもしれません。
榎忠さんが私に「自分で作品を作ってみろ」と言っています。ギャラリストとしてはギャラリーという空間、スタッフの存在、日々の営みなどが発するものが、島田が作った作品で、それは作家・鑑賞者・関わる人たちで初めて出来上がるものなのでしょう。
薄れていく記憶をしっかりと心に届くものとして記録していくこと。関わることにおいて、出来るだけそのようにしてきました。そのこと全てが自分の存在そのものを成していくことです。
榎忠さんが残している膨大な記録は作品と共に自身の存在証明です。今回のために整理された資料などをご覧いただくことも大きな目的の一つです。
今年の蝙蝠日記は「記憶から記録へ」「見えざる手に導かれるように」「ありがとがんす」「サザンクロス駅へ」「ふたたびの『ありがとがんす』」でした。ふり返ってみれば関わることの全てが私の思いを超えていくことばかりです。明けても暮れても、そのことを考えつづけています。今またあり得ないことを託されています。そのことはとてつもなく重いことのように感じます。こぶし基金からのお知らせをお読みください。

「天の劇場」から眺めているお二人へ、「もういいかい」と聞いてみたい。「もういいよ」と言って欲しい。

2018.5 ふたたびの「ありがとがんす」

1978年に応接室を日曜大工で改造して始まったギャラリーが、海文堂で3回の拡張。2000年9月に北野でギャラリー島田として開設。

un、deux(2003)、trois(2016)と順次拡がりましたが、いわば成り行きでした。そして40周年を迎えることになりました。

慎重というよりは臆病、大志がないと言えばその通りの歩みです。
私たちの日々。その微細な刻々にも自由な眼差しと意志を込めて、ひとつひとつ重ねてきて今を迎えました。それらに通底する思いが交響し何事かを静かに伝え、そのどれもが先例のない誰でもが使える小さなモデルでありたいと思います。

成り立ちから地域との関わりを大切にし、まちや社会との接点、その境界を探ってきました。自分の出自を選べないように、それを引き受け、そのために有機的な共同体を試み、挑戦的、実験的な在り方を探っています。
皆さまも感じておられると思いますが、それぞれの作家の皆さんからおそわり、ワクワクし、ドキドキしながら、ともに展覧会を、場を、作り上げていくことが楽しく、他の事はどうでも良くなってきました。40年も経って今さらなんだ、と言われそうですが、スタッフ共々に、とても新鮮な日々を過ごしています。

ここままで来られたことだけでも「ありがとがんす」としみじみと思います。「鈍行こうもり号」の静かな旅が続いています。「タルホ」「タルホ」とアナウンスが聴こえてきます。こうもり号の次の停車駅はTERMINALのようです。だれが、何が待っているのでしょうか。

きみたちはどう生きるか

吉野源三郎著「きみたちはどう生きるか」(マガジンハウス刊)を久方ぶりに読みました。

懐かしい中学校での教室の思い出が蘇る。シンとした教室で蝉の声を聞きながらノートに日々のことを書く。正面には厳しいN先生が背を伸ばし、瞑目している。ある日、この本の感想を記した。それに先生はまた感想を記して返してくれる。
その日々「きみたちは・・」を繰り返し読んだ。

立候補もしない生徒会長だった日々。振り返れば、いささか力んでいたのはコペル君のせいだろうか。

誰かのためにっていう 小さな意志が ひとつひとつ つながって
僕たちの生きる世界は 動いてる

ジョバンニもコペルも私の中で通奏低音basso continuoとしていまも微かに響いている。

はるかに歳を重ねたこのごろ、知ることが辛い、聞くことが苦しい。そのことを体全体で拒絶しているような思いにとらわれている。
政官の見るに絶えない振る舞い。それからさきは底しれぬ闇としかおもえない。
メディアに溢れる美しい話は「米の飯に砂糖をふりかけて食べるような、不道徳な感じがする」(「悼詞」鶴見俊輔P250)。
しかし、とまれ。
危険地帯だといって、危険を冒さなければ新しいことは生まれない。方向を持った精神の推進力をいつも愚直に自らを問いつつ。「人間らしさを世界の中で再生させる」という加藤周一の最後に残された声。なにげない日々刻々に自分を晒すことにしか心が動かない。死の在り様も様々に多くの人を亡くし、、自らに比して思い遥かへと辿る。

何か守るものがなければ、何もかも失ってしまう。
You’ve Got to Stand for Something or You’ll Fall for Anything.
あなたたちに言いたいことは、自分が正しいと信じるもののために立ち上がるのを恐れるな、ということではありません。
そうではなく、誰ひとりとして味方がいなくても、自分だけはいつも自分の味方なのだ、ということなのです。

テネシー州の極めて保守的な町のハイスクールの18才の生徒、キャスリン・シンクレアが生徒総代の一人として語った。その原稿はチェックされ、様々に誹謗されたが、阻止されることはなかった。終わって静寂を破る勇気ある生徒が現れた。一人の男子生徒が立ち上がり、拍手を送った。(保守的な小さな町の出来事)(「アメリカ、自由の名のもとに」ナット・ヘントフ(岩波書店)P25「良心の自由と国家」から)

私も立ち上がる。

2018.4「サザンクロス駅へ」

始発TERMINALを出た「鈍行こうもり号」の旅の日々が静かに進んでいきます。次の停車駅はサザンクロス(南十字星)駅でしょうか。目指す「幻のような駅」が終着駅でしょうか。

私の乗車券はカンパネルラの「小さな鼠色の切符」でしょうか。

それともジョバンニの「四つに折った葉書くらいの緑色の紙」でしょうか。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は第4次稿まであり、それも未完でした。

最終章が「ジョバンニの切符」で全体の半分を占めています。

たしかなことは、旅の日々を重ね、どこかの地へと向かっていることだけです。

いまこそわたれわたりどり  いまこそわたれわたりどり  Now’s the time to go!

印象的なシーンでミニアチュール・神戸展 2016のテーマでもありました。

私たちは上方への志向、中心への指向とは違う、自由であること、境界を越えていくこと、marginalを生み出すことを大切にしています。

窓からそとを見ながら思いに耽っています。

一人の寛い服を着て赤い帽子をかぶった男が、両手に赤と青の旗をもってそらを見上げて信号しています。

オーケストラの指揮者のように青を烈しく振ると幾万という鳥の群れがそらをまっすぐにかけていくのを見ながら、私は蝙蝠だから赤の信号で渡っていくな、などと思っています。

賢治の軽便鉄道も私の「鈍行こうもり号」もゴトゴトと刻みながら進んでいきます。

あと二駅、何事が待ち受けているのでしょうか。

いまはまだ 春まだき ですが

いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾し はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

(風景はなみだにゆすれ)

*このところ続いている宮沢賢治に触れているところは「銀河鉄道の父」(門井慶喜)「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子)

と宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読(鎌田東二)に拠っている。鎌田さんは神道研究家。阪神大震災のあと「神戸からの祈り」で

ご一緒し大重潤一郎(映画監督)と東京自由大学を設立、大重さんの映画をプロデュースされその紹介に尽力されています。

ダッシュ

藤本由紀夫さんに展覧会をお願いした時に、即座に稲垣足穂の名前がでました。そして少し驚きました。

なぜタルホなのかはお楽しみにしていただくことにして、驚いた訳をおはなししましょう。

私たちの「こぶし基金」のKOBE ART AWARD 2017の大賞が藤本由紀夫さん、優秀賞が季村敏夫さん。贈呈式をギャラリー島田で行いました。お二人はその時、初対面でした。式が終わったあと展示されていた作品を藤本さんがガイドされ、熱心に季村さんがお孫さんと遊んでおられました。

そして2018年の財団の助成に季村さんは「稲垣足穂と竹中郁の背後の鉱脈ー1920年代神戸のアバンギャルド群像」の企画で応募されました。そのことそのものは偶然ですが、それに重なるようにお願いした藤本さんから足穂の名がでました。足穂の「一千一秒物語」は1923年(佐藤春夫序文、金星社)。「タッチとダッシュ」は1929年(文芸レビュー)。さて藤本由紀夫さんのダッシュとは?

最初に紹介した「SILENT ET LISTEN  2007」(canvas)は、寝室の南向けの大きな窓に立てかけられ、私はベッドに横になって、その作品から漏れてくる時さまざまな微細な光が誘うものにこころを預けています。

藤本さんが1997年から10年間、毎年一日だけ西宮市大谷記念美術館で開催された「美術館の遠足」には、驚くほど多くの方が楽しみに訪れた。そして藤本さんに、どんどん話しかけたそうです。藤本さんに解説を聞くというより自らの新鮮な体験を語っていたのですね。

今回、皆さまのお手元にお届けしたご案内状は、ご来廊の際忘れずにお持ちください。 なぜ? はお楽しみに。

・須飼秀和さん

前号の作家往来は東影智裕さんでした。そこに登場した須飼秀和さんについて。京都造形芸術大学で学び、ギャラリー島田による初個展が2004年12月。その後、明石市立文化博物館での「いつか見た蒼い空ー須飼秀和展」、毎日新聞の2008年から2012年にわたる全205回の連載「私だけの故郷」(岩波書店)など、その誠実な人柄と仕事は確実に見る人の心をとらえてきました。そして「日本の風景をみつめて 須飼秀和 ふるさとの詩」がBBプラザ美術館で開催されることになりました。4月10日 〜6月17日です。途中、展示替えを行います。 ◆ 4月22日(日)14:00〜15:30 対談  須飼秀和×島田誠  「須飼秀和のカラーについて」 BBプラザ美術館にて*詳細は同封チラシをご覧ください。

・窪島誠一郎さん。

3月号の「旅にしあれば」は窪島さんに書いていただきました。信濃デッサン館とギャラリー島田は同志であると。そして先日、ご挨拶状が届いた。「3月15日をもって無期限休館」とあって衝撃を受けた。もちろん窪島さんがまだまだやりたいことがあってのことと分かってはいる。でも、言葉になりません。

2018.3「ありがとがんす」

「銀河鉄道の父」(門井慶喜)を夢中で読んだ。今年の直木賞受賞作です。このなかで繰り返しでてくる言葉「ありがとがんす」が印象的でした。

私たちは今、鈍行列車「こうもり号」で40年目の旅をしています。

宮沢賢治の、みんなの幸いさがしにいく「銀河鉄道の夜」
島田誠の、日曜大工の駅舎から出発した「鈍行列車こうもり号」

積み重ねた時間は過ぎ去るけれど、決して消え去るのではありません。時間も経験も、どこか深部にゆたかにたくわえられていくのでしょう。現在が過去を喚びさまし、過去が現在を照らしだす。過去の裡に現在が見え、現在のなかに過去があらわれる。そんな綾なしこそが、多くの皆さまとともに織られたものです。Memorial Bookはその証であり、collectionのシリーズ「旅の窓」展でその姿を眺めていただきます。

始発TERMINALを出ました。
旅の日々がゆっくりと静かにすすんでいきます。これからの日々をご一緒する皆さん、とりわけ藤本由紀夫さん、榎忠さんは、ずっと願ってきて、今回、実現できたことがうれしいです。藤本さんは個展としては神戸で初めて。榎さんも今回のような形での個展は初めて。三つのスペースを使って、一ヶ月です。中辻悦子さん・元永紅子さん・川嶋守彦さんの元永定正さんに繋がる三人の皆さんも三つのスペースで2週間。疾風怒濤の書家、沢村澄子さんで動き出し、ベルリンの加藤竜さんをはじめ、多くの初登場の方々、40年を支えて下さった作家の皆さん、どれ一つとして息の抜くことの出来ない展覧会が続きます。

まさに「ありがとがんす」と伝えねばなりません。その先にしだいに見えてくるものがあります。
それは、まだ見たこともない深い光に包まれた長い長い旅での鉄路の先の「幻のような駅」です。

宮沢賢治がジョバンニに託した深い孤独のうちにみた幻視なのか現実なのか。
私の「駅」も泡沫の幻影で、気がつけばギャラリーの私の部屋でうたた寝から目覚めるのでしょうか。

そうなれば「鈍行列車こうもり号の夜」を書きましょう。
私たちが今ここにあることは、無数の細かな偶然がふりつもり綾なすことにほかならず、そのことをおもわず「見えざる手に導びかれて」と書いたのでした。「見えざる」とは特定の神、佛をさしているのではありません。声なき声。幽けし音。見えざる手は自分の心の内に棲みついた、なにかのっぴきならないものかもしれません。そののっぴきならないものが、今の世間の在り様に背を向けさせているのですが。
組織があり、地位を上昇させる欲望によってすすめられるのは、特権としての文化である。
人間が生きていくための必要によってすすめられる文化とは人権としての文化です。
この文化を学問として語ったのは鶴見俊輔さん。

「幻のような駅」は鈍行でも停車するTERMINALのようです。このTERMINALは終着駅なのでしょうか、新しい未来への列車の乗り換え駅なのでしょうか。生きていくための文化のために「見えざる手、聴こえない音」の到来を待っています。

賢治の「銀河鉄道」が未完だったように、私たちの旅も未完に違いありません。

このところの蝙蝠日記が、どこか道徳的であったり説教じみていると感じられるかもしれません。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の賢治の詩。その最後は「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」
そう。私もなりたいと思っているのです。
おらおらでひとりいぐも

もともと孤独癖があり、単独行を好む私ですが、ここまで来て更にその思いが強くなっているようです。
今年の芥川賞は若竹千佐子(わかたけ・ちさこ)さん(63)。そのタイトルが「おらおらでひとりいぐも」で、宮沢賢治の詩からです。

おらの頭(あだま)このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが。

この本はこの言葉からはじまります。そんな思いもするこのごろです。
二つの賞が岩手の賢治に関わっていることは、大切なことを伝えていると感じます。
そして私たちの40周年は、その盛岡から沢村澄子さんを迎えて幕を開いたのでした。不思議な縁を感じなら歩き続けています。
旅にしあれば

家にあれば筍に盛る飯を草枕
旅にしあれば椎の葉に盛る
有間皇子 万葉集から
この歌も旅の行先を暗示しているのですが、私たちは鈍行列車の待合室で、ふと知り合いに出会ったように書いていただくコラムとして「旅にしあれば」をはじめました。
後藤正治さんに続いて、今回は窪島誠一郎さん。「信濃デッサン館」「無言館」ニュース(季刊)の内容は充実していて素晴らしいです。
窪島さんの今年の年賀状は自筆で「朽ちて立つ」。ニュースの編集後記には、「すっかり老いたが、恥をかいてもやりとげたいものを追う 私の人生はかわらない。」とあります。
Memorial Bookの1995年9月4日に窪島さんが書いて下さっている言葉は、「絵の中の放浪」。のちに「無言館」の設立につながる「戦没画学生の絵画」を野見山暁治さんと収集されておられ、その最初の展覧会を海文堂ギャラリーで開かせていただいた。阪神大震災が「50年目の戦場神戸」と呼ばれていたことに縁ります。その縁結びは木下晋(鉛筆画家)さんでした。