足し算と引き算の話を昨年12月の日記に書きました。そしてゼロの場に立ちたいと思っています。広島の詩人、井野口慧子さんからいただいた雑誌(「旬遊」Vol.6 P11)に「亀の井別荘」の談話室に坐る中谷健太郎さんと中谷太郎(現社長)さんの姿が。
「由布院がめざしてきたこと」のインタビューでした。この談話室で2013年に石井一男展を企画して下さったのがゴトウ千香子さんでした。この最後のところで太郎さんは「これまでは多様な出会いの場をつくるためにいろいろやってきましたが、こらからは、あたらしいものをさらに加えるというよりも、今あるものに磨きをかけるというのはとても大事ではないかと思いますね。足し算、足し算でやってきたものをいかに引くか。僕自身は引き算を意識して、これでいいという場所を見つけたいと思っています」と語っています。
私の今は「引き算」の果てに、新しい場に清めの塩を盛大にまいてそのあと箒で整えている相撲の呼び出しさんのイメージです。
「STOP & CHANGE」という神戸ビエンナーレとそれを担った組織の変革を求める活動の目的は果されました。不可能と思われることがなぜ成し遂げられたのか。今度は、そのこと自体への「考察」を書かねばならないですね。そこから新しい地平へと踏み出さないと何ごとも学ばないまま、次の道を歩むだけのこととなってしまいます。
神戸が抱える村社会的な風土は何処にでも存在することです。人が集まり、組織を成せば、必ず腐敗するとはよく言われることです。それを防ぐ智慧もまた社会のなかで育んできました。行政であれ、企業であれ、仕組みとして制度化され、あるいはそう試みられてきました。文化に関わる組織は、そうした仕組みを内に持たない、あるいは形式に過ぎないことが多いのです。私は神戸の文化に関わる者としてずっと企業、商店街、文化団体、震災復興などで当事者として改革に関ってきました。しかし地位や肩書きを断るので、扱いに困る人に違いありません。だからこそ神戸独特の閉鎖性の在り処や人間関係を含めて見えてしまうとも言えます。
神戸ビエンナーレは当初から、そうした基盤のうえに祝祭の衣装を纏ったあだ花で、その限界を露にしながら続いてきました。あだ花ではなく基盤にこそ亀裂や破断を入れることが出来たでしょうか。今回の皆さんとの活動はその集大成の気持ちでした。一見「不可能に見えた」ことが実現したように見えますが、このことは必然でもあり「予見可能」なこととして見えていました。様々な情報を正確に受けることが出来たのは「神戸の文化の風土をもっと豊かなものにしたい」という磁場の力だと思います。
自分のコミュニティーのなかに、市民参画型、市民提案型の草の根民主主義を拡大してほしい。 そのためにはボランティアが、 チャリティー(慈善)にとどまることなく、 ジャスティス(公正)の実現のためになってほしい。コミュニティー形成、つまり市民社会の創造や開発を、ボランタリズム(異議申し立て、主権在民)をベースに実現していくことをともに実践したい。 (草地賢一)
今、書いている「ひとびとの精神史」(岩波書店:5月刊行予定)の草地賢一「ボランティア元年を拓く」からの引用です。
大切なことは、私たちが問題の所在を認識し、その意志を表明し行動することがボランタリズムの精神だとことです。「結果」ではなく「振舞」なのです。「トップの決断」「有力者の圧力」「寄付の減少」だけが理由であれば、またしてもいつまでも主体的な市民意識は存在しないことになります。
願わくば、今回、なし遂げられたことが、神戸の文化を、アートの持つ力や可能性を信じる皆さんがもっと活き活きと活動できることに繋がって下さればうれしいことです。