2016.12-2017.1「年の終わりに、年の初めに」

年の終わりに、年の初めに

今回は‘16年12月と’17年1月号と年をまたいでお送りすることとなりました。まさに「ありがとうございました」と「よろしくお願いいたします」を合わせてご挨拶させていただきます。
とは言え、世界は混沌の度を深め、私たちが目指す方向と真逆の方向へと堕ちていく気がします(私の感覚ですが)。だからこそ自分の立ち位置をひと際明らかにしながら、みなさまと共に日々を心豊かに過ごせるためにもこの場を大切に耕し拡げ育てていきたいと願っています。

たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日リンゴの木を植える
(Wenn morgen die Welt unterginge, wurde ich heute ein Apfelbaumchen pflanzen)
マルティン・ルターの言葉(伝)
日々、変わらずに種を蒔いていきましょう。

草の背を乗り繼ぐ風の行方かな

1月23日は多田智満子さんの14回目の「風草忌」です。
前号(11月)で多田さんを書いた文に誤解を与える表現がありました。市長選の中心におられたように書いてしまいましたが、私がお世話をし、多くの方が参加された「木を植える人たちの会」で、何度か発言され、そのことを驚き、多田さん自身が遺句のように「ご政道批判」「打ち首の昔」と詠まれたのでした。
その選挙は2001年10月14日でした。
2000年から2001年にかけて多田さんは豊かな実りの時を迎えられ詩集「長い川のある橋」(書肆玉田)「動物の宇宙誌」(青土社)「十五歳の桃源郷」(人文書院)「自遊自在ことばめくり」(河出書房新社)を刊行され、2001年には地中海学会賞、読売文学賞を受賞されました。
市長選の翌、11月に癌が発見され、2002年8月 六甲病院緩和ケア病棟に入院、2003年1月23日に永眠されました。

山を越ゆれば山ありて 山廻りには涯もなし さすらいのなかをさすらう一世なれば さすらう人の過ぎもゆかで影めぐりゐる すすき原ゆれ靡くしろがねの穂は 風のまにまに散りぢりに さらばよさらば 今は再びの別れぞと山また山の奥ふかくあしひきの山の媼は去りにけり あしひきの山の姥は去りにけり
謡曲「乙女山姥」の最後の地謡  から

「乙女山姥」は「智満子がその70余年の人生で交わりをかたじけなくした皆さまへの熱い挨拶である」と高橋睦郎(詩人)が多田智満子詩集「封を切ると」付録に書いている。全文を引用したいが叶わない。

多田さんを「気魄の人」と評した人も。発言者として静かに、しかし凛として示された行動、佇まいや、最後の挨拶を心深く受け止めていきたいですね。

「草の背を乗り繼ぐ風の行方かな」は遺句集「風のかたみ」の最後の句

2017年 プレ40周年 つづきの 蝙蝠日記

こつこつと長く同じことを続け、積み上げること。そんなことが、ある通過点を迎えることになりました。
2016年  神戸モーツアルトクラブが35周年(since1981)  設立発起人でした。
2017年  公益財団法人「神戸文化支援基金」が25周年(since1992)
・    公益信託、一般財団法人を経て2011年に公益財団法人になりました。
2018年  ギャラリー島田が40周年になります。(since1978)
海文堂ギャラリー から2000年にギャラリー島田(北野)になりました。

海文堂書店時代の「読書アラカルテ」(since1978)からギャラリー島田「画廊通信」に至る月報は380号(推定)。神戸塾サロン(since2000)が322回 メールマガジンが1280号(12月8日現在での推定)。

すべては日常であってイベントやニュースではありません。こつこつと積み重ね続けてきました。そのことを、古い言葉で言えば兵站(ロジスティックス)、すなわち表舞台への支援の場であり、それをお客様であり多くの市民のみなさんが支えて下さっていることに心からの感謝をお伝えしたいと思います。
2017年は「プレ40周年」として、振り返りと行き先を明らかにする試みを展開したいと思います。どうかよろしくお願いいたします。

2016.11「瞑想の時 妄想の時 迷走の時」

2016年 11月 蝙蝠日記

「瞑想の時 妄想の時 迷走の時」

皆さんがこの通信を読まれるころ、私はまもなく74才を迎えることになります。
49才の時に脳脊髄の手術から生還。生き方、考え方が変わったというか、漠然としていたことに焦点が当たりました。そして75才がゴールであると思ってきました。それは恬淡と無欲で誰にも迷惑をかけることなく、請われていた仕事を終えた日に浴槽で亡くなった父に倣いたいと思ってのことです。でもその日は自分で決められるものではありません。自死しないかぎり。

当たり前のように日々は過ぎ、残された日々は短くなっていきます。齢を重ねるということは、当たり前のことが当たり前でなくなることだと当たり前に気がつきました。

聴覚、視覚、発声、もちろん筋力など全体的に衰えを自覚しています。しかし嘆いているわけではありません。今という時間、すべての出会い、生きとし生けるものへの愛おしさは増すばかりです。
いつも脳が緊張しているのか、次々とつい考えにふけっている自分に気づきます。呼吸が浅い。健康法にも無自覚であることが治りません。
皆さんからも、スタッフからも、様々に心配をおかけし、アドバイスもいただきます。
その一つに「3分間の瞑想」の奨めがあります。これなら出来そうだ。しかし、やってみると意外に難しいのです。
「瞑想でなく、妄想や」と笑う。でも笑いごとではありません。
今の私は瞑想でも妄想でもなく「迷走している」のではないかと疑っています。

批判すること 改革すること

多田智満子さん(詩人・エッセイスト)の生涯年数を超えてしまった。
2003年1月23日午前8時58分、享年72才。しきりに思いだします。

私は2001年の神戸市長選に図らずも関わり、市政批判派として全身を晒してしまった。 全く思いがけないことに、優れない体調を押して、その中心に多田さんの姿があった。 私も、ましてや多田さんは運動家ではない。でも本気で改革を望むならば、そうする以外ないのです。

“御政道批判すなわち打首の昔を今になすよしもがな—現代の権力者—”

季村敏夫さんたちが創刊した瀟洒な文芸誌「たまや」の冒頭に掲載された「人知れずこそ—ざれうた六首」のうちの一つです。

亡くなられたのは市長選からわずか1年3か月のことでした。

雨上がりの夕刻、川向こうの東の稜線に片脚をおき、片脚を広大な桑畑の果てにおいて、ぐっと上半身をのりだしたような、すばらしくスケールの大きな、美しい虹。それは天に高々とかかる七色の巨大な円弧のなかに人の世をそっくり包みこんで、どこか遠い山の彼方、この世の彼方へ、すっと運び去るかのようであった

と「犬隠しの庭」(亡くなられる2か月前に刊行)にあります。

亡くなられた日の情景が、このままでした。

2016.10「やめときなはれの大合唱」

2016年 10月 蝙蝠日記

やめときなはれの大合唱

私のいままでの足跡をふりかえる機会をいただいた。想い返せば、脱サラ 書店の拡大 ギャラリー  独立 北野へ 改革や反対運動など
やめときなはれの大合唱を背にやってきたのだった。

長く生きてきて、思いがけず様々な波乱の航海となった。それぞれの転換を貫いている私自身の意思はどこにあったのだろう。海図なき舵とりは何に律せられてきたのだろう。

託されて

振り返れば、起こったすべてのことに通底しているのは「託される」ということだと気付いた。若き日に描いていた趣味的人生への憧れは30才にして霧消してしまった。
まずは「寄らば大樹」から海文堂書店を託され、様々な改革を、亀井純子さんからの若い芸術家への支援を。それぞれの意思(魂)を受け継ぎ、どこにもないものとしてきました。託されたものが繋がった航跡が長く曳き、出航した港も彼方へと見ることが出来ません。

建物全体の空間を考え、その空間を細分して部屋を作ったのではなく、まず部屋から作り出して、作りやめたときに、初めに想像もしなかった全体の形ができあがっていた。これは要するに建て増しの精神です。
部分から出発しておのずから全体に至る。部屋を創るのにくたびれた時に終わる。  加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」から

「託された」ことに応じて、まさに建て増しを繰り返してきました。いまや「初めに想像もしなかった全体の形ができあがっていた」のです。そして「部屋を創るのにくたびれた時に終わる」時を迎えているような気がしてなりません。

音 沈黙と測りあえるほどに

10月は1996年2月20日65才で亡くなった武満徹さんの没後20年へのオマージュが続きます。

私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。

この言葉が好きです。
「音、沈黙と測りあえるほどに」(新潮社)「樹の鏡、草原の鏡」(新潮社)「ひとつの音に世界を聴く」(晶文社)「武満徹対談集」全2冊(芸術現代社)を読み返しています。圧倒されながら、しかし痛ましさを抱きながら。

武満の生涯は意外性と伝説性に溢れていて取り憑いてやまない。その一つ。作曲家を目指しながらピアノもなく、ピアノの音がする家へ頼んで弾かせてもらっていた。ある日、何の前触れもなく一台のピアノが届けられた。黛敏郎さんが奥さんのピアノを届けた。近くに住んでいた芥川也寸志さんが黛さんに武満さんのことを伝えたという、よく知られた逸話です。
ここにも「託す」ことがあります。

私が読んでいる武満の著書には、すべて自筆の署名が入っています。それに加えて、芥川也寸志、対談集に出てくる高橋悠治、三善晃の署名本を始めレオーナード・バーンスタイン、リヒテル、カール・ベームなどの署名本が書棚に並んでいます。ずいぶん昔にO氏から私が公益財団法人を設立したら北野町の土地を寄付するから文化拠点を作って欲しいと言われていたのですが、氏自身の書き切れない顛末があって結局、何事も幻となり、「託された」のはこれらの本だけでした。引き寄せられるように元町から北野に移り、財団設立にこぎつけたのは、氏が描いた夢がどこかで引き寄せたことかもしれません。

託す

永六輔さんの「借りを返していくこと」は、託されたことを野(公共)に放っていくことだと思っています。
武満さんと永さんは脈絡がないように思われるかもしれませんが、永さんも小室等さんも武満さんの著書で思わぬかたちで出会いました。

私が建て増しを繰り返してきた、少々、奇怪な趣きのある屋敷(現代のコモンズ)は、すでに多くの人たちが、私がそうであったように「託された」とサインを送ってくれているようです。

2016.9「過ぎ去るものと 失うものと 生まれるものへ」

2016年 9月 蝙蝠日記

過ぎ去るものと 失うものと 生まれるものへ

今年に入って、息つくまもない日々を過ごしてきました。

そうは見えないようですが、私は大志を抱いたり、事業の拡大を望んだりするタイプではありません。人付き合いは苦手で、むしろ孤独を好み、書物の世界に遊びながら、ものを書き、日々の向かい合い方を探し続けています。

30歳で海文堂書店の経営者に。そしてギャラリー を創設。公益信託「亀井純子基金」から公益財団法人「神戸文化支援基金」に。
すべてのことが「ご縁」に手繰りよせられてのことです。決断は私であっても、書店であれ、ギャラリーであれ、「加川広重巨大絵画プロジェクト」などの様々な試みであれ、その思いを超えて実現させたのは、チームとしての優秀なスタッフに縁るものです。
神戸の震災の「アート・エイド・神戸」、「木を植える人たちの会」や、NGO/NPOのファンドレージングのための「ぼたんの会」、「アーツエイド東北」、「加川広重巨大絵画プロジェクト」など全て担ってくださってきたのは、多くの皆さんたちで、それぞれが、私の思いを遥かに超えて実っていくことが不思議です。

「加川プロジェクト—フクシマ」は関わった皆さんの情熱を尽くした思いを知るだけに、その記録集の刊行を決意し発刊に至って、心底、ほっとしましたし、労ってあげたいと願ってきました。そしてうれしい感想を手紙や葉書やメールでいただきました。
なによりの労いであり、喜びでありました。

小森星児(神戸復興塾・前塾頭)さんが、皆さんに伝えて下さった文の一部です。
「B5版220ページを超える堂々たる報告書で、活字がギッシリ、確かに加川さんの絵も巨大だったけれど、この報告書も記念碑的な力作です。感銘しました。(略)骨太のテーマが繰り返しヴァリエーションを展開していくのにはひたすら圧倒されます。 (略)すみずみまで神経の行き届いた見事な仕上がりは、編集に携われた皆さんの努力の結晶で、これだけ質の高い仕事は、一流の出版社でも簡単には真似できないでしょう。執筆者、編集者、カメラパーソンのみなさんに改めて敬意を表します。」
また、賛同いただいた企業さんからは「また、このようなことがあれば支援させていただきます。」とお申し出いただきました。
そして、なによりも、この記録集が、市の文化行政の変革につながるかも知れない反響があったこともうれしいことです。

多くの事が過ぎ去り、多くの人を失いました。その空白を埋めるように、書き残してきました。それは私自身の証であり、過ぎ去るものの証言であり、そこから、また生まれるものがあるとの願いでもあります。

多くの縁に支えられて

生きているということは  誰かに借りをつくること  生きてゆくということは  その借りを返してゆくこと

笹倉玄照堂の藍木綿に自筆の詩を藍染したもの。「六輔 永のお別れ会」でいただいた藍染(48×32)です。

思えば、人は皆、人から与えられ、また人に与える連環の中にあるのですね。縁をお借りした皆さんのことをいろいろと書いてきました。
佐本進(小児歯科医・シアター・ポシェット館長)さんは「天の劇場から」(風来舎)、下村光治(風月堂社長・当時)さんは「不愛想な蝙蝠」(風来舎)、亀井純子さんは「不愛想な蝙蝠」(風来舎)「純な志をつないで」(辛夷基金ブックレット)、草地賢一さん「ひとびとの精神史」(岩波書店)などで書きましたが、まだまだ多くの皆さんに贈る言葉を重ねてきました。
(まだ、不完全なデータですがギャラリー島田HPの出版物をクリック、島田誠の執筆記録をご覧ください。)

永さんとの最初の出会いは1990年2月28日、自死された佐本進さんの追悼の佐本メモリアル実行委員会のプロジェクト(私は事務局長)に永さんが来て下さり、お話しをしてくださいました。そのプログラムの裏が藍染の着物を着た、永さんのいなせな姿がある笹倉玄照堂さんの広告であったことは鮮明に記憶しています。 (「天の劇場から」には1983年7月10日から佐本進先生が自死される前日までの劇場公演の全記録が収録されています。)

永さんが放送の仕事に入るときに宮本常一(民俗学者)さんが伝えたことば
「電波のとどく先に行って話を聞き、人々の言葉を届ける仕事をしてください」
「ぼくはその約束を守り、ラジオだけでなく、活字にもしてきた」 (永六輔「伝言」(岩波新書) かきおき または あとがき から)

永さんはテレビの世界でも作詞の世界でも寵児となった。でも、みずからその世界を離れ、宮本さんの伝言を原点としてきた。
メールマガジン(1244〜1246号)に詳しく書いたのでギャラリー島田HPでお読みください。
阪神大震災のあと、私たちは神戸空港の計画に反対し、「大事なことはみんなで決めよう」と「住民投票」を要求する活動をしていました。
永さんも賛同され、様々に協力してくださいました。今回、そのことを書いたブックレットを手にして、思いがけず、黒柳徹子さんも長い文を寄せて下さっていたことを知りました。

遺すということ

膨大な記録を書きとめ、本であったり、冊子であったり、紙媒体であれ、ネット上であれ、記憶し、記録してきました。その事がなければ、消えてしまう、顧みられることもない事実が、残されていくことによって繋がり、生まれるものがあることを信じています。

2016. 8「ギャラリー島田Troisの出航」

2016年 8月 蝙蝠日記

ギャラリー島田Troisの出航
「start on a voyage」

ギャラリー島田の起源をたどれば1978年の海文堂ギャラリーに遡ります。試行錯誤の38年。北野の寄港地から出航するTroisはその歴史を刻んできたコレクションをご覧いただくための場であり、多様な文化発信の拠点となります。その航路は海外にも向けられています。昨年、イギリスのクリスティーズのオークションに山内雅夫さんが招待されましたが今年は4名の作家が選ばれました。
しかし、ここは「わがままなギャラリー 」です。基本的には島田が在室のときにはご覧いただけます。「Now Open」「Now Closed」の表示を出します。
みんな「そんな!」とあきれます。「評判、落とすで!」。でも、あくまでUn、 Deuxでの展覧会が主役ですから。
ギャラリー島田の膨大なコレクションを順次、ご覧いただきます。そして作家について、作品について、お話しさせていただきます。
Closedであっても外から作品はほとんど見ることが出来ます。

ともかく追いまくられている異常な日々を過ごしてきた。ブレーキが利かないのではなくアクセルしかない車である。しかも、この車にはどんどん優秀なドライバーが乗り込んできて、あっという間に整備が始まり怒涛のドライブを続けているが、今は何人もがアクセルを踏んでいる。

七夕の日にKOBE ART AWARDを発表しました。天の川を挟んで織姫と牽牛が合う。そんなロマン(浪漫)がある日に永六輔さんが83才で逝かれました。
知らされたのは11日でした。12日、13日と上京。旅の友は永さんの「夫と妻」(岩波新書)でした。
七夕の日から三日後に知らされたのですが、この本の中に永さんが尊敬して「最後に」の中で書かれている淡谷のり子さんが亡くなって三日目にマスコミが気が付き、永さんが知ったことが書かれています。永さんとは何度もご一緒し、多くのことを学び、私の倣いというか心の支えでした。

この文中の「呪文に左右されちゃダメ」で辛淑玉(しんすご)さんとの痛快な対談がありますが、私たちが神戸空港反対運動を行っていたときに「木を植える人たちの会」のお世話をしていて、お二人の対談「女大学」を企画したのですが、このことが書かれています。

「若いひとたちがなんとかしようとすると、おやじたちが邪魔する」
「大切なのは、ボランティアの活動であれなんであれ、みんなで力を合わせはじめると、じぶんたちでなんかできるんだ、という実感につながっていく」

永さんとお会いすると翌日にはお礼の葉書が(お礼をいうのはこちらなのですが)届くのに恐縮しました。私がわりとこまめに葉書を書くようになったのは永さんに学んだことです。2011年の7月6日に第30回「宵々山コンサート」(京都・進々堂)に車椅子で駆けつけられ、皆を捧腹絶倒させながら、立ちっぱなしでお話しをされました。私も久しぶりだったので「島田です」と名乗ったのですが、「わかってますよ」と叱られました。その時にギャラリー島田でのサロンに「行きますよ」と、日程まで決めていただいていたのですが、結局、体調が思わしくなく、実現しませんでした。
どこかで覚悟をしていましたが今年6月には旅先からお葉書を出しました。

その訃報に坪谷令子さんや私のコメントも新聞に載ったのですが次のお二人を・・・

瀬戸内寂聴さん「誠実な人。仕事にしても、何にしても、心のこもったことをする人。心の手を抜かない人」(朝日新聞)
ゆめ、風基金の牧口一二(代表理事)さん「弱い人に思いを寄せるということ、一本気であり続けるということの大切さを学んだ」(神戸新聞)

永さんとの思い出が次々と ・・・

2016.7「 Now’s the time to go 」

「 Now’s the time to go 」

恒例の「ミニアチュール神戸展」の季節が巡ってきました。毎年、テーマを設定して新作で挑んでいただいています。
「Wish2011」「Slowly ‘12」「Cadeau’13」「Change’14」「ホワイボン‘15」とテーマは変遷してきました。今年は「Now’s the time to go? いまこそわたれわたり鳥」がテーマです。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の中の言葉です。ジョバンニとカンパネルラが、ほんとうのしあわせを求めて銀河鉄道に乗っています。高い櫓の上にいる男が青い旗を振り「今こそ渡れ、渡り鳥!」「今こそ渡れ、渡り鳥!」と叫ぶと幾万という鳥が空を駆けます。私たちも希望無き時代にそれぞれが「希望」に向かって歩まねばなりません。私は必要であれば「赤信号を渡る」ことを躊躇しません。
しかし尊敬する詩人の杉山平一さんは、それぞれの時代に「信号」をテーマに書いておられますが、1990年の「青」ではとおく 小さなイチゴのように灯る 赤信号も 私が近づけば 青になる 青にしてみせるジョバンニが見た渡り鳥の大群 Now’s the time to go! 銀河鉄道のターミナルがみんなの希望でありますように。

Time and a half greater than my image 1.5倍の力

このところ不思議で仕方がないことが続く。
やりたいことをイメージし、その事を起こそうとすると、それが1.5倍くらいの規模となり、無理やりではなく、怖いくらいに、自然に私の枠をこえて拡がり、深まり、しかもそれが実現していく。それは私がしているのではなく、関わった人たちが私のイメージをどんどん拡げてくれる。また、そのQualityが素晴らしい。だからやる以外の選択肢はないのです。場、人、お金の責任を持つ。そして発信する。その人たちははっきりした目標とゴールが見えているから心に火がついているのです。「なぜそこまでできるの?」と問えば、「私にとってこのことは社会への窓なのです」と答えました。それはただ窓の外を見ていることではなく「こうありたい」という未来への道を見ているのでしょう。
ではなぜTime and halfでDoubleではないのか、暴走ではなく自爆になるから。
七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。(孔子「論語」)
みんなが「1.5倍の力」で拡げてくれたものを現実のものにしてくださるのは支えてくださる皆さんの力なのです。

2016.6「なぜ、今、ギャラリー島田Troisなのか。」

ギャラリーを巡る環境が、どんどん厳しくなっている中でギャラリー島田が、借りてまで、なぜそんな無謀な航海にでるのだろうか。どう考えても日本の未来がよくなる見通しは何もありません。さらなる災害が確実視され、人口減少、格差、紛争などの複合要因を考えれば「手終い」こそが最適解と思えます。
でも、その1歩を何にの故に踏み出すのか。それは私たちが担っている役割にあります。
一つに 38年目に入ったギャラリー
二つに 300回をこえる神戸塾サロンを始とする文化拠点アート・サポート・センター神戸
三つに 創設23年を迎える公益財団法人「神戸文化支援基金」
この小さな規模でこれだけ多面的な役割を担うような場はまずないと思います。
そして、それぞれが補完し合いながらCreativeであることを目指し、学び、育ち、全体としてラディカルで在り続けています。

単なる作品を「見せる」「売る」という場をこえて繋がっていく役割を見据えながらの
ギャラリー島田Troisなのです。
海文堂ギャラリーの22年を経て、2000年のここ北野でのスタートはBFのみでした。2003年に一大決心をして1階でギャラリー島田Deuxを始めました。多分、地下だけであれば存続は難しかったでしょう。そして、隣接した場が空きました。迷いましたがTroisとすることを使命と受け止めました。

私は金持ちではありませんし、ギャラリー経営もいつも崖っぷちです。でも、やりたいこと、やらねばならないことはやります。
なぜ、それが出来るのか。
お金は天下の回り物。それは多くの皆様のおかげです。財団であれば寄付で、アート・サポート・センター神戸であれば会費で、ギャラリーであれば作家やお客さまが。この三つの装置に多くの人が関ってくださっています。そしてこれらを担っている人たちは、いまや若い人たちで、しっかりとぶれない核があれば、素晴らし才能を発揮します。そして今回、私の決断を促したのは、そうしたみなさんへの信頼と敬意です。

今、ここでは、様々なかかわり方を組み合わせながら有機体のように「いきがい」「やりがい」をキーワードとして「COMONS」を運営しています。私は、絶えず簡易で有効な実験装置を設計してきました。これもその一つなのです。
ギャラリー島田Troisは7月2日からスタートする予定です。
(注)新しいギャラリーをTroisとしQuatre(仮称)はBlogの名前とします。

2016.5「 種を蒔く人 刈り取る人 」

「足し算」「引き算」と「ゼロを目指す」話しを書いてきた。
昨年来、初歩的なブロークンな英会話しか出来ない私がにわかに国際的になってきた。
途切れなく外国人のインターンを受け入れ(みんな日本語が上手)、海外からのコンタクトが増えてギャラリー島田の作家を海外で紹介したいという流れが出来つつある。こちらが仕掛けているわけではなく、ギャラリー島田という磁場が引き寄せているようだ。そうした海外プロジェクトの打ち合わせの中で言われてなるほどと思ったことがある。

ギャラリーには「種を蒔く」ところと「刈り取る」ところがある。ギャラリー島田は「種を蒔く」ところですね。

それはそうだと思う。勿論のこと収穫もするが他人が育てたものは縁がないかぎりこちらから手を出すことはあまりなく、うちで育った作家を囲い込むこともない。

種を蒔くのは自分の地ということになるが、どうもそれだけには止まっていないようで、眼にはいる地すべてに手をいれ、土壌を改良し、耕作に適するように計らっているような「余計なお世話」をしている気もする。神戸ビエンナーレの「STOP & CHANGE」などは荒地をひたすら整地しているだけで種を蒔くのも刈り取るのも次世代の人たちであることを願ってのことです。

書き物に追われています。
・ 阪神大震災は市民社会をどのようにして拓いてきたのか
・ ギャラリー島田とはそもそも何なのか
・ 加川広重巨大絵画プロジェクトが果したこと、そして今後
それぞれが5月、6月に刊行されます。

神戸ビエンナーレ「STOP & CHANGE」活動から見えてきたこと
これは所薫子さんの「高塚門扉」の会報のために書いていますが、その後にさらに手を加えてまとめたら発表します。

ギャラリー経営の氷河期で、多くの画廊が閉廊へ追い込まれているのですが、無謀にも新しいギャラリースペースをオープンすることにしました。ギャラリー島田Quatre(仮称)。ギャラリー島田Deuxの南隣です。Quatreとはイタリア語で4番目。では3番目Toroisは?
ギャラリー島田Toroisとはギャラリー島田のスタッフblogです。

わたしたちの航海の行く末は見えません。希望の島なのか絶壁に向かっているのか。私の関わっていることの全てが創造的な挑戦です。ここからまた生まれるものや、事(こと)を見てみたいです。三人目の孫の誕生とともに三番目のギャラリーを育てるのも悪くないです。

2016.4「種を蒔き、水を撒く」

足し算と引き算の話を昨年12月の日記に書きました。そしてゼロの場に立ちたいと思っています。広島の詩人、井野口慧子さんからいただいた雑誌(「旬遊」Vol.6 P11)に「亀の井別荘」の談話室に坐る中谷健太郎さんと中谷太郎(現社長)さんの姿が。
「由布院がめざしてきたこと」のインタビューでした。この談話室で2013年に石井一男展を企画して下さったのがゴトウ千香子さんでした。この最後のところで太郎さんは「これまでは多様な出会いの場をつくるためにいろいろやってきましたが、こらからは、あたらしいものをさらに加えるというよりも、今あるものに磨きをかけるというのはとても大事ではないかと思いますね。足し算、足し算でやってきたものをいかに引くか。僕自身は引き算を意識して、これでいいという場所を見つけたいと思っています」と語っています。
私の今は「引き算」の果てに、新しい場に清めの塩を盛大にまいてそのあと箒で整えている相撲の呼び出しさんのイメージです。

「STOP & CHANGE」という神戸ビエンナーレとそれを担った組織の変革を求める活動の目的は果されました。不可能と思われることがなぜ成し遂げられたのか。今度は、そのこと自体への「考察」を書かねばならないですね。そこから新しい地平へと踏み出さないと何ごとも学ばないまま、次の道を歩むだけのこととなってしまいます。
神戸が抱える村社会的な風土は何処にでも存在することです。人が集まり、組織を成せば、必ず腐敗するとはよく言われることです。それを防ぐ智慧もまた社会のなかで育んできました。行政であれ、企業であれ、仕組みとして制度化され、あるいはそう試みられてきました。文化に関わる組織は、そうした仕組みを内に持たない、あるいは形式に過ぎないことが多いのです。私は神戸の文化に関わる者としてずっと企業、商店街、文化団体、震災復興などで当事者として改革に関ってきました。しかし地位や肩書きを断るので、扱いに困る人に違いありません。だからこそ神戸独特の閉鎖性の在り処や人間関係を含めて見えてしまうとも言えます。
神戸ビエンナーレは当初から、そうした基盤のうえに祝祭の衣装を纏ったあだ花で、その限界を露にしながら続いてきました。あだ花ではなく基盤にこそ亀裂や破断を入れることが出来たでしょうか。今回の皆さんとの活動はその集大成の気持ちでした。一見「不可能に見えた」ことが実現したように見えますが、このことは必然でもあり「予見可能」なこととして見えていました。様々な情報を正確に受けることが出来たのは「神戸の文化の風土をもっと豊かなものにしたい」という磁場の力だと思います。
自分のコミュニティーのなかに、市民参画型、市民提案型の草の根民主主義を拡大してほしい。 そのためにはボランティアが、 チャリティー(慈善)にとどまることなく、 ジャスティス(公正)の実現のためになってほしい。コミュニティー形成、つまり市民社会の創造や開発を、ボランタリズム(異議申し立て、主権在民)をベースに実現していくことをともに実践したい。 (草地賢一)

今、書いている「ひとびとの精神史」(岩波書店:5月刊行予定)の草地賢一「ボランティア元年を拓く」からの引用です。
大切なことは、私たちが問題の所在を認識し、その意志を表明し行動することがボランタリズムの精神だとことです。「結果」ではなく「振舞」なのです。「トップの決断」「有力者の圧力」「寄付の減少」だけが理由であれば、またしてもいつまでも主体的な市民意識は存在しないことになります。
願わくば、今回、なし遂げられたことが、神戸の文化を、アートの持つ力や可能性を信じる皆さんがもっと活き活きと活動できることに繋がって下さればうれしいことです。

2016.3「STOP & CHANGE 」について

朝日がゆっくりと姿をあらわし陽を抱きながらゆっくりと流れる雲。何かの始まりを告げているような若々しさに励まされるひと時。目まぐるしい日々を希望、絶望を綯(な)い交ぜにして繰りながら、夕焼けの空 輝きに満ちた純金に染められやがて帳(とばり)に中に消えてゆくひと時。その狭間での緊張は横になってもなかなか解れてくれません。
そんな日々が続いてきました。

明確な記憶にないずっと以前から、ぼくの心は、いわれなく、ひたむきに「弱きもの」に対して魅せられ続けてきたようである。
弱者に対する、たとえようのない共感、愛着心、親近感。
それは、多分にぼくの理念ではなく、思想や信条でもなく、おそらくは拭い去ることのできないぼく自身のしからしめる所以なのかもしれない。
多分に強者になりえないという、自分自身の実感と、虚構や覇者を排すべきであるという明確な自覚は、今なお、ぼくを暖めつづける体温そのものであり、かっていささかの苦渋と挫折に色どられた春の日の体感に由来する陰影が、今日、なお執拗にぼく自身をドン=キホーテさながらに理由なく困難な状況へと立ち向かわせているようである。

佐本進「わが心のシノプシス」(注)
(注)シノプシス=概要、あらすじ

私より6歳年長。小児歯科医で実験劇場「シアター・ポシェット」を北野の自邸に建て解放。1990年2月28日、自死。敬愛する佐本さんの遺稿集「天の劇場から」(風来舎)に1983年から亡くなられる前日までの劇場での全記録(吉田義武編)掲載を添えて刊行しました。

 私自身は、これからは「ゼロ」と言う場へと向かいたいと思います。「足し算」「引き算」から「ゼロ」へ。何かが誕生する場。何かを発見し、可能性を孕んだ場。そこを清め、維持する役割を。そして、そんなに遠くない時に私自身の存在が透明に消えていくことでしょう。
 白石一文さんが「ここは私たちのいない場所」(新潮社)で親友の死に直面して「死」というものを知らずに生きたほうがよほどこの人生を有意義に送れるのではないか。かれらは「いなくなった」だけなのだ。ここではない、別の場で生きているにすぎない。そんな風にありたい。