蝙蝠日記を書くために今年を読み返してみて、なんと息苦しいのかと思いました。戦後70年。阪神大震災から20年。北野でギャラリー島田を始めて15年。さまざまな時代の転換期にあたり、閉塞感にうちのめされるような日々に対しての焦りが私の心を焼いていたのですね。書斎の棚で秋野癸巨矢(きくし)さんの「もっと気楽にお願いします」(みずのわ出版)が私の背中に声をかけています。著者は画家・秋野不矩さんのご長男です。向こうからも「くたびれたら すこし やすもうよ やすんだら むっくりおきて またあるこうよ」(「地には豊かな種子を」から)と小宮山量平さんの声も聴こえてきました。
私との最後の会話は、東北大震災の直後に電話をいただき、「また島田さんの出番が来ましたね。東北のためにご苦労ですがご尽力下さい」と語られたのです。そして伊勢田さんから背中を押されるようにして2011年4月15日、私は仙台入りして「アーツエイド東北」が立ちあがり、そこへの志縁を続けてきたのです。
会場で配られた「伊勢田史郎さんの生涯」によると震災の前年1994年から伊勢田さんは神戸芸術文化会議の議長を3期、6年務められたことが記されています。私と伊勢田さんの邂逅は実はこの議長就任の時に遡ります。
私は神戸芸術文化会議には何の興味もなかったのですが、私の母の関係から当時、この会の議長を長く務めておられた服部正さんや、神戸文化の良き理解者で実験小劇場「シアター・ポシェット」を自邸に作られた佐本進さんたちに薦められて入会したのです。服部さんの問題意識は、現状の文化団体の長老たちによる運営では何ら創造的なものを生み出せない、世代を交代して風通しのいい組織にして神戸の文化的風土を変えられる組織にしたいというものでした。そのために私の6才上の50才になったばかりの佐本さんと40代後半の私に神戸芸文の改革を託そうとされたのです。しかし服部さん自身が’88年に病に倒れ、佐本さんは1990年2月28日患者の男児が治療中に急死したことから「死んでお詫びをする」と遺書をのこして自死されました。私は佐本さんのご葬儀で遺影から「声」を掛けられたことをいまでも思い起こします。そして当時神戸市の文化の中心であった故吉田義武さんとともに小児歯科医の先駆者・ドーマン博士の人間能力開発研究所「ジャパン・オフィス」日本代表・実験劇場「シアター・ポシェット」館長という三つの顔を持っておられた佐本さんの遺稿集ともいうべき「天の劇場から」(風来舎)を1991年に劇場の全記録とともに刊行しました。
下記はその時に「こうべ芸文」20周年記念号に寄稿した「神戸文化への提言」の一部です。
もう10年にもなるだろうか、当時、兵庫県立近代美術館の副館長であった増田洋氏(故人)が、本誌に「制度疲労に陥った神戸芸文」という小論を載せられていた。私も、同感で、その後、芸文の20周年を機に、民主的な運営を目指して、会員全員の選挙による運営委員の選任、運営委員の互選による常任委員の選出、常任委員の互選による議長、副議長の選任と重任制限などを決めた。さらに、単なる親睦団体ではなく、アドボカシー(政策提案)の機能をはたすべく四つの専門委員会の設置が決まった。その詳細については今、論じないけれど、残念ながら、組織の改革はあったが、内容の改革は未だしである。
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その改革による初めての常任委員会の互選で選ばれたのが伊勢田さんで芸術文化についての深い造詣と包容力のある人柄で職責を果されました。私は改革の成果を見届けることなく芸文を退会してしまいましたが、1995年の阪神大震災で「アートエイド神戸」を立ち上げた時に伊勢田さん、中西さんに正副委員長をお願いしたことはすでに書きました。
未曾有の大地震によって、私たちは愛する肉親や知人を失いました。また、私たちの誇りであった美しい神戸は、瓦礫の街に変貌してしまいました。いま、市の中心部では、連日建物が取り壊されており粉じんが市民の頭上をくらく覆っています。あるひ、給水車の前で、私は女の人に話しかけられました。”粗い砥石にかけられたようなもの。心の中までざらざらだわ”と。程度の差はありますが、芸術や文化に携わる私たちの仲間も、大半が災害に遭遇いたしました。しかし、何時までも悲しみの淵に沈んでいるわけには いきません。私たちは、美術や音楽、演劇や文学などを通して、神戸に活力をもたらし、外見だけではない、より魅力的で美しい神戸の再生に尽力したいものと、まず第一歩を踏み出しました。どうぞ、この「アートエイド神戸」の運動に、一臂の力をお貸しください。 設立にあたって 伊勢田史郎