2015.11 「振り返ってみれば」

蝙蝠日記を書くために今年を読み返してみて、なんと息苦しいのかと思いました。戦後70年。阪神大震災から20年。北野でギャラリー島田を始めて15年。さまざまな時代の転換期にあたり、閉塞感にうちのめされるような日々に対しての焦りが私の心を焼いていたのですね。書斎の棚で秋野癸巨矢(きくし)さんの「もっと気楽にお願いします」(みずのわ出版)が私の背中に声をかけています。著者は画家・秋野不矩さんのご長男です。向こうからも「くたびれたら すこし やすもうよ やすんだら むっくりおきて またあるこうよ」(「地には豊かな種子を」から)と小宮山量平さんの声も聴こえてきました。

伊勢田史郎さんとのお別れ
7月20日に肝臓癌で亡くなられた伊勢田史郎(詩人)さんのお別れ会が10月12日にありました。同じ生田神社会館で7月6日に中西勝(洋画家)さんのお別れ会があったばかりです。お二人は阪神大震災からの芸術文化による復興を支援する「アートエイド神戸」実行委員会で伊勢田さんは実行委員長を中西さんは副委員長をつとめて下さり、私が事務局長を務めました。伊勢田さんの会では挨拶された方の多くが詩人、歴史家、教育者などの足跡とともに「アートエイド神戸」の活動に触れられたことを思えば重要な役割をそこで担われていたことが広く知られたことが分かります。
私との最後の会話は、東北大震災の直後に電話をいただき、「また島田さんの出番が来ましたね。東北のためにご苦労ですがご尽力下さい」と語られたのです。そして伊勢田さんから背中を押されるようにして2011年4月15日、私は仙台入りして「アーツエイド東北」が立ちあがり、そこへの志縁を続けてきたのです。

会場で配られた「伊勢田史郎さんの生涯」によると震災の前年1994年から伊勢田さんは神戸芸術文化会議の議長を3期、6年務められたことが記されています。私と伊勢田さんの邂逅は実はこの議長就任の時に遡ります。
私は神戸芸術文化会議には何の興味もなかったのですが、私の母の関係から当時、この会の議長を長く務めておられた服部正さんや、神戸文化の良き理解者で実験小劇場「シアター・ポシェット」を自邸に作られた佐本進さんたちに薦められて入会したのです。服部さんの問題意識は、現状の文化団体の長老たちによる運営では何ら創造的なものを生み出せない、世代を交代して風通しのいい組織にして神戸の文化的風土を変えられる組織にしたいというものでした。そのために私の6才上の50才になったばかりの佐本さんと40代後半の私に神戸芸文の改革を託そうとされたのです。しかし服部さん自身が’88年に病に倒れ、佐本さんは1990年2月28日患者の男児が治療中に急死したことから「死んでお詫びをする」と遺書をのこして自死されました。私は佐本さんのご葬儀で遺影から「声」を掛けられたことをいまでも思い起こします。そして当時神戸市の文化の中心であった故吉田義武さんとともに小児歯科医の先駆者・ドーマン博士の人間能力開発研究所「ジャパン・オフィス」日本代表・実験劇場「シアター・ポシェット」館長という三つの顔を持っておられた佐本さんの遺稿集ともいうべき「天の劇場から」(風来舎)を1991年に劇場の全記録とともに刊行しました。

こうして神戸芸術文化会議の改革を服部議長、佐本進という改革を担うべき人が不在で私は常任委員となり改革案を考え、粘り強く改革案を訴え、長老から強い抵抗を受けながら芸文20周年の1993年になんとか改革を実現したのでした。
下記はその時に「こうべ芸文」20周年記念号に寄稿した「神戸文化への提言」の一部です。

もう10年にもなるだろうか、当時、兵庫県立近代美術館の副館長であった増田洋氏(故人)が、本誌に「制度疲労に陥った神戸芸文」という小論を載せられていた。私も、同感で、その後、芸文の20周年を機に、民主的な運営を目指して、会員全員の選挙による運営委員の選任、運営委員の互選による常任委員の選出、常任委員の互選による議長、副議長の選任と重任制限などを決めた。さらに、単なる親睦団体ではなく、アドボカシー(政策提案)の機能をはたすべく四つの専門委員会の設置が決まった。その詳細については今、論じないけれど、残念ながら、組織の改革はあったが、内容の改革は未だしである。
(全文をご希望の方はご連絡下さい)

服部正さんが望んだ改革は手続を踏んでなされました。そして病床に報告することが出来ました。そして服部正さんが辞世と称して綴った私家版詩文集「座礁船」(2000年海文堂ギャラリー)を刊行しました。
その改革による初めての常任委員会の互選で選ばれたのが伊勢田さんで芸術文化についての深い造詣と包容力のある人柄で職責を果されました。私は改革の成果を見届けることなく芸文を退会してしまいましたが、1995年の阪神大震災で「アートエイド神戸」を立ち上げた時に伊勢田さん、中西さんに正副委員長をお願いしたことはすでに書きました。
「アートの力で神戸に活力を」
未曾有の大地震によって、私たちは愛する肉親や知人を失いました。また、私たちの誇りであった美しい神戸は、瓦礫の街に変貌してしまいました。いま、市の中心部では、連日建物が取り壊されており粉じんが市民の頭上をくらく覆っています。あるひ、給水車の前で、私は女の人に話しかけられました。”粗い砥石にかけられたようなもの。心の中までざらざらだわ”と。程度の差はありますが、芸術や文化に携わる私たちの仲間も、大半が災害に遭遇いたしました。しかし、何時までも悲しみの淵に沈んでいるわけには いきません。私たちは、美術や音楽、演劇や文学などを通して、神戸に活力をもたらし、外見だけではない、より魅力的で美しい神戸の再生に尽力したいものと、まず第一歩を踏み出しました。どうぞ、この「アートエイド神戸」の運動に、一臂の力をお貸しください。                                        設立にあたって  伊勢田史郎
その活動は4冊の記録集として詳細に残されています。いつでもギャラリー島田でご覧いただけます。
 なにやら「改革」という切羽つまったときには期待され「平時」には疎んじられるという繰り返しは私にとって今やそれが普通のこととなってしまった。改革は痛みを伴い、傷を負わせることが避けられない。あるべき状態への移行を準備することであり、あとを託された人は準備されたものを形にしなければならない。改革することは難しいことだけど、それが終りでない以上、感謝されることはない。改革のあとを担うと、それは革命になってしまう。なかなか「もっとお気楽に」とは行きそうもない。さてどうしたものか。「すこしやすもうよ」。

 

2015.10「託されて」

ギャラリー島田の前身は海文堂ギャラリーです。1973年に海文堂書店を任され、1978年に社長室を私が日曜大工で改造、15㎡のギャラリーにしたのが始まりです。大きなビジョンもなく、慎ましやかなスタートでした。それから37年の月日が流れました。現在の場所でギャラリー島田として再スタートしたのが2000年9月17日、今、この文章を書いているのが15年後のまさにその日です。ギャラリーDeuxのオープンは2003年3月でした。

書店の経営に携わりながらギャラリーを、そして1992年に公益信託「亀井純子基金」を、1995年に「アートエイド神戸」実行委員会を設立。2000年にアート・サポート・センター神戸を設立、それぞれが展開して今をなしています。関ったことのすべてがビジネス感覚ではない動機から出発していて、いまなおそこから脱することが出来ないでいます。作家にとって画廊とは「作品を売ってくれるところ」と定義すれば、まことに不十分な役割しか果たしていないことになります。

作家にとってギャラリーでの展覧会は6日間かせいぜい12日間に過ぎません。そこでどれだけの人が来て、どれだけの作品が売れたか。それだけが展覧会の意味であるとすれば私たちと作家との付き合いも大したものではありません。作家とギャラリーがまるごと人と社会との狭間に架かる橋のようにつねに関っている、そしてともに表現者として前をむく。そんなお互いの佇まいを尊敬しあうことを大切にしたいと思います。

作家にとっては作品がすべてです。日々のあらゆる体験が作品の創造行為へと収斂されていきます。筆を鑿をペンを取ることが作家なのではありません。存在そのものが試されるのが作品というものでしょう。私たちもまた作品の売買の現場だけがギャラリーであるわけではありません。多様なあり方がこのギャラリーの佇まいをなし、そのことがこのギャラリーの存在を規定しています。

 

環境も空間も新たな想像力を刺激し、絶えず緊張感を孕んだ劇的なトポス・場であることを願ってこの場所を選びました。この場と力勝負を挑む意欲的な作家をじっくりと紹介していきます。
この時期にあえて無謀と思われる冒険の旅に出ることになりますが、自分の「夢」と「志」にもう一度挑んでみたいと思いました。単なる個展会場ではなく、さまざまな交流が生まれ、様々なジャンルが交差し、創造が創造を生む連鎖の種を育てるアバンギャルドな画廊でありサロンでありたいと願っています。
場は、そこに関わるすべての人と共に成長し増殖しなければなりません。ここに漲る「気・エネルギー」が、さまざまな外部エネルギーと飛び交い新しいカオス(混沌)を生み出す源であることを目指します。 30年目の透視図(2008年刊行の記念誌)から

 

分かっていること

 日々の足跡をふりかえれば、託されたものに応えようとした歩みに過ぎないように見えます。さまざまな小さな声に耳を澄ませる。その声に導かれるように自分が出来ることを考え抜く。それを掬いあげるように共に手を貸す人が横に現れる。託されたものがまだ消えぬうちに、そっと差し出されるもの。手に余るものであっても受けなければ前にすすむことが出来ないという感覚が身の内まである。通信やメールマガジンで書いていることの多くが託されたものへの答えなのだろう。こうした思考のラビリンス(迷宮)を彷徨う私を心配される言葉をときおりいただく。最近、友人と「天命」と「使命」が話題になった。なにごとなき日常あるいは受動的な日々ではなく、選び取って今を生きる形のことだ。天命といえば大袈裟にすぎ、多くは自分の意志で選び取った道を使命として受け取り歩む。さて、私はなぜか断ることが出来ない天命のごときもの(他人から見れば自分で選んでいるにすぎない)を使命として引き受け続けてしまう。それは「あなたの勝手でしょう」という世界を生きているようだ。

「あなたの言っていることは、みんな分かっていることなのです」と言われたことは幾度と知れない。その「分かっていることが、なぜなされないのか」を愚直に考え続づけずにおれない自分に、ほとほと呆れるこの頃である。