本への愛ではなく偏愛は変ではないの?
人を愛する あなたを愛する 友達の友達は私の友達 と繋がり、具体的な誰かに伝える。
そう、具体的なかけがえのないその人への拘り、その本への拘り、それが偏愛なのです。
海文堂という存在は本への偏愛で繋がり、そしてその偏愛によってターミナル(終着駅)へ行き着いた。そのことを讃えたいと思いますし、それを伝えるのが『海の本屋のはなし ー海文堂書店の記憶と記録』に他なりません。といっても、私も何が書かれているか知りません。
「美の散歩道」の石井伸介さん(苦楽堂)のエッセイをご覧ください。
一冊の本を生きる
この蝙蝠日記は果たしてギャラリーの通信なのか。最近は本に関するエッセイが多い。美の散歩道でも詩人、出版者、映画関係者などが多いように感じる。美術に関することはメールマガジンに書くことが多いので合わせてお読みいただきたいと願います。
(ギャラリー島田のHPから登録して下さい。無料です)
私は文学者でもなく執筆者でもジャーナリストでもないのに書き続けてきた。書くことによって「本を生きてきた」。そして今、多くの場を与えられてその「本を朗読」するようにいろんなところでお話ししています。
私の経験や考えを「伝えて欲しい、それも次々世代に」と言われたのが「アジール島田学校」ですが、近い世代にも無愛想で分かりづらいことが多いので話して、とアジトに出頭を命じられました。私自身にとっても考えを纏めるいい機会だと思い“対話”を楽しんでいます。
私の出版物についてはこれもHPに掲載されていますが、さらに詳細な記録が「出版物」を開いていただいた左下に「島田誠の執筆記録」としてご覧いただけます。自分でも呆れるくらい書いていますね。
詩人の安水稔和さんの最新刊『声をあげよう 言葉を出そう』が届いた。神戸新聞読者文芸選者随想の30年間を纏めたもので、それ自身が凄いことですが、その中に震災から4ヶ月後の「心に刻んで忘れない」があります。
刻むという語はキザキザ(段段)という語の活用だと「大言海」は記している。
刻むのキは切、ザは座、ムはタタムか、つまり一キリ(切)一キリ(切)にザ(座)をタタムの義かと「和句解」に記している。
震災の衝撃は激しく、一人一人のかかえこんだ傷はけっして一様ではない。ときさえ経てば癒えるというものではないだろう。
だから、書く。書いてこころに刻む。刻みつけて記憶して忘れない。(P79 )
この災害列島に止まらず、世界中で人々が危険にさらされ、自然に止まらない憎悪や迫害に晒され明日を見失っている。だからこそ私も私なりに刻む、そして忘れない。その投壜通信(壜の中に通信を入れて大海に流す)が見知らぬ誰かの琴線に漂着することを信じて。
豊饒なる器としての物語の発見
ことし4月の新潟絵屋での石井一男展を契機とし、大倉宏さんと繋がり、蓮池ももさんをお招きすることになりました。
2006年の初めての発表以来、蓮池ももの絵は一貫してどこか荒涼とした、けれどどこか暖かい野や丘を青や赤の筒服の少女たちがさまよい、出会い、 踊り、走る風景を描き続けてきた。少女の半身は獣に変じ、波立つ海に黒い岩の槍がそそり立つ。
絵に寄せる静かな決意が滲みでる。 (大倉さんの言葉に依る)
私が「文を書くように実人生」を生きるように蓮池ももは「絵という実人生」を生きている心の変容を大胆に描く。2011年「ほろびののち」というシリーズに続き、根を引き抜いて歩く木が現れた。イメージの深さ、荒々しさ、多様さを、表現する勇気と大胆さ。
その少女たちは中世の雅歌のダンスリー(舞曲)に包まれているようで、しかし少女の筒服(カフタン)は典雅なものではなく綿麻のような意思を孕んでいるように感じる。その少女たちに誘われるように埋もれた時間の水底を辿ると、島へと出た。豊かな森、川、湖、山を抱いた島はしかし色を失い、深い沈黙の気配。そこに立ち竦んでいるとその沈黙と測りあえるほどの鳥や狼や走る少女たちの切迫した息づかいが聴こえてきて、私たちは「ももの世界」の物語を生きる。
2015 年7 月11 日( 土) — 7 月22 日( 水) 協力:新潟絵屋