「加川広重巨大絵画が繋ぐ東北と神戸プロジェクト」(以下、加川プロジェクトと表記)はずっと私が心に抱き、こうありたいと心に刻んできた答をこのプロジェクトで書いた思いでした。それは2004年6月10日に44才で急逝された狂言師野村万之丞さんの言葉です。
利益を優先する企業と補助金をあてにする自治体、それに依存する市民、そこへ偽善的に参画する芸術団体。みんなが他人に頼り、楽してくらそうとしているこの悪しき構造を打破するには、それぞれ自力でやるしかない。みずからの力を、個人ではなく地域やまちのために使うのだ。そういう志で頑張るアーティストを、市民も企業も行政も自分の目で見つけだし、ともに力を合わせる。利己的で即物的な利益のために、利用する利用されるという関係ではなく、本当の意味で地域が一体となったとき初めて、そこにしかない、固有の文化が創造されるだろう。それは、市場原理から生まれた空虚な文化とはまったく異なるものだ。
私が加川プロジェクトで描いた答えを要約すると
1 全ては加川さんの作品から私が得たインスピレーションから始まった。
2 KIITOという場との奇跡的な出会い
3 長年にわたって断絶をしてきた神戸市との協働
4 財政的な裏づけもないまま始め、縁はあるが決して深いものではない企業や財団、個人そして県、市、さらには遠い地域からも必要 な支援をいただけたこと。
5 全体がすべて「個対個」とした独立したものであり無私での繋がりであった
6 緊迫感のある、居心地の悪い空間を(あえて)しつらえた(藤野さんの言葉)
7 そして次第に熱を帯び、極度の集中にいたった
8 未来へと育てていきたい種が蒔かれている、それを育てる力とともに
20年たった神戸の市民力の成熟が集約され、このことを可能にし、文化芸術の力が様々な困難を乗り越えさせたのだと思います。
ホールに飾られた二つの破壊された原発「フクシマ」を象徴するモニュメンタルな作品によって、 世紀末の黙示録的気配に満ちていました。私たちが目指してきたものは溢れかえる「絆」や「感謝」や「美談」とはかけ離れたもの。「フクシマ」という現実を直視し、問う、という厳しいものでした。その意味において今、溢れかえる「20周年バブル」からは孤立し、遊離していたかもしれません。しかしこの「孤立と遊離」こそが私たちの「存在証明」なのかもしれません。藤野一夫(実行委員長)さんの「美の散歩道」も合わせてお読みください。
透視図として
二つの震災が執拗低音として基礎をなし、モニュメンタルな二つの作品が福島原発であれば私達に半端な選択肢は無かったのです。坂 茂さんを中心に据え、震災に対する建築家の役割を問うシンポジウムやトークセッション、写真展やさまざまな建築模型の展示。この場のためにつくりこまれた舞踏、ダンス、バレエ。東北と神戸を繋ぐ3人の作家によるドキュメンタリー映画と原発とエネルギー問題を取り上げたドイツ映画。 それぞれがトークセッションとともに。 私が取りあげたかった森口ゆたかさんのインスタレーション「光の刻」は命の重みと希望を伝え、紹介することは念願でした。
この場、この時のための作曲を5人の作曲家に委嘱、7名の演奏家が、「加川広重巨大絵画」のための曲を初演しました。 実際には11曲が生まれました。平日の夜に現代曲ですから、これも集客も心配でした。しかし、いい曲が生まれ、とても気持ちのいいコンサートでした。作曲家にとっても演奏家にとっても新しいレパートリーが生まれ、その多くは、すでに海外を含めて再演されることが決まっています。
「いいたてミュージアム」は赤坂憲雄さんとの2年越しの約束を果たすことでした。
全体として無償の行為であってもここで演じ、語ることが大きな経験であったり資産となることが強い集中を生み出しているのだと思います。
駅にて ―始まりと終わりに
開幕は呉信一さんが率いる若い15名のトロンボーンアンサンブルによる「A SONG FOR JAPAN」のの感動的な演奏で。 閉幕は名倉誠人さんがバッハの「無伴奏パルティータ第2番」を演奏、拍手なりやまず、 アンコールの「SARABAND」で、 低い音が床を幽かに照らし、高い音が光の粒となってKIITOの高い天井を越えて、夕べの気配がしのびよってきた天空へと消えていくのを見上げながら涙が溢れました。
無伴奏パルティ―タ第二番は、本番で演奏すると、終わった後に呆然として、魂の抜け殻のようになるようなことがあるのですが、昨日は特にそれがひどくて、楽屋でしばらく立ち上がれない感じになりました。皆さんの集中もひしひしと伝わってきて、静謐な時間を舞台上で経験しました。(名倉さんから翌日いただいたメールから)
名倉さんの演奏は、一生、忘れられないものとなりました。(スタッフのTさん)
震災20周年のバブルのごとき気分の中で行なわれましたが、私たちは三回目がたまたま今回であったのでした。 17日に竹下景子さんに杉山平一さんの詩集「希望」から数編を朗読していただきましたが、 困難な時代に「希望の種を蒔く」のが私たちの役割かもしれません。
加川プロジェクトとそれが行なわれたKIITOの巨大な空間は過去を受け継ぎ、 未来へと向かう、一つの大きな駅(Station)だったのかもしれません。しかし、この駅(Station)は終着駅(Terminal)ではなく、あたらしい希望を積み込んで未来へ向かう始発駅(Starting Station)であって欲しいと願っています。
育つ力 育てる力
未来へと育てていきたい種を蒔くことにずっと取り組んできました。それを育てる力とともに。わたしが発信し続けていることは、その種がどこかの大地に着床し育つことを願うからです。 1992年に全国で始めて生まれた市民メセナによる公益信託「亀井純子基金」を生み、公益財団法人「神戸文化支援基金」へ、 20年前の「アートエイド神戸」は「アーツエイド東北」へ。 それを促した被災芸術家への緊急支援は1994年のロサンジェルスで現地NPOが行なった支援に学んだものです。 こうしたことが「しみん基金こうべ」や「ひょうごコミニュニティ財団」などに繋がり、ファンドレージングのための「ぼたんの会」や「アート・サポート・センター神戸」の仕組みなどもまたどこかで育っています。 このプロジェクトでも育てて欲しい様々な種が蒔かれ、 また関った多くの人たち、とりわけ若い人たちが「育てる力」を学んでくれたのではないでしょうか。そして寒い日々を遠い道のりを、決して居心地のいいとは言えない空間であったKIITOまで通われた皆様にも深い敬意を捧げたいと思います。しかし、皆様もまた何かを感じ、問い直しをされて「育てる力」の担い手であってくださると思うのです。
〇番外編「やすこ日記」
大仕事を終えて
あと70年も生きるつもりの私がすでに「一世一代の大仕事」と言ってしまった、今回の加川プロジェクト。
阪神淡路大震災当時、私は中学生でした。神戸で、震源にわりと近い地域に住んでいましたが、被害は少なく、家は半壊程度。電気も数時間後に復旧しましたので、テレビで長田地区の火事の様子を机の下にもぐりながら見ていました。水の復旧は遅く、お風呂には何週間も入れなかったように記憶しています。
大学は、東京の大学に行きましたので、神戸出身者はめずらしく、「神戸出身=地震」とみんなから言われました。震災経験者であるという何か役割の ようなものを期待される(大袈裟ですが)ことにびっくりし、なんだかトラウマのような異物感が発生したようにも思います。
卒業後、神戸に戻り、毎年1.17を迎えるごとに何も変わらない自分がいました。3.11が起こり、被災地に出向くことはありませんでしたが、加川プロジェクトが始まり、関わることになりました。
こうした震災を考える機会に参加することは、ある意味自分を癒しているのではないか(それが良いとか悪いとかではなく)、と何か本筋ではない感覚が一番大きく占めていた一昨年と昨年でした。
今回は、加川さんの向き合ったテーマが「フクシマ」であること、「フクシマ」と対をなすように宮本佳明さんの「福島第一原発神社」を展示すること になったこと。さらに、プロジェクトの芯を「建築」としたことで、「建築」自体の重みもあいまって、プロジェクト全体が深く重いテーマを抱えましたし、ベースが「建築」である私にとっては個人的にも大きな意味をもちました。
また、一回目の2013年、二回目の2014年と、回をかさねるごとに規模が大きくなり、関わる出展者・出演者やスタッフにいたるまで、発起人である島田誠とは「はじめまして」の場合が多く発生し、関わるみなさんと共通認識を持つことの重要性と難しさを、実働部隊として身をもって知ることになりました。
手に負えない規模であることを分かりながらも、どうすることもできず、でも、どうしてもやり遂げなければいけない、と私を駆り立てたのは、直接に関わらせていただいたみなさんの「真剣さ」に触れたこと。それは普段のギャラリーの仕事でもそうなのですが、状況がそれを濃縮かつ鋭利に し、受けとめるのには相当の覚悟とエネルギーが必要でした)
また、もう30年目はないかもしれない、30年目にはリアリティをもって後世に伝えられる世代が大減少してしまう、という危機感が増してきたこと。
そして、東北への思い、神戸の私達なら東北に寄り添えるかもしれない、という思いが強くなったこと。
以上のことからだったように思います。
島田誠の「種蒔き」のこと、今回、ようやくほうぼうから芽が顏を出したような気がしていて、その意味で、成功したのじゃないかな、とホッとしています。
また、大学時代に認識させられた「震災経験者であること」を、今ようやく咀嚼できたようにも思います。
20周年の東遊園地には例年の3倍もの人が集ったそうですが、それだけ、やっと咀嚼できた・向き合うことができた人が増えた証拠でもあるのかな、と思います。
laborやworkではない「やるべきこと」と思える「仕事」をさせていただける境遇に、あらためて感謝しつつ、このプロジェクトで繋がったみ なさんとともに、今後も、震災のこと、日々のこと、日本のこと、真摯に向き合っていきたいと思います。