1月の藤崎孝敏、加川広重からスタートし、充実したラインナップで展開できたことをうれしく思います。どの展覧会も大切なものでしたが、とりわけ11月11日に亡くなられた石井誠(書アーティスト)さんの大作を並べた2月の展覧会は円山川公苑美術館(豊岡市)での展覧会に、続いてフランスでの展覧へと。3月の須飼秀和「私だけのふるさと」原画展は兵庫県播磨高等学校のプロジェクトに繋がりました。連日、大変な賑わいとなった、海文堂生誕100年まつり「99+1」、7月の東影智裕展は姫路市立美術館へ繋がり、10月の堀尾貞治 市英昭 二人展[不協和音]も楽しいユニークな展覧会でした。
外国から
スペイン・クエンカから岡野耕三(故)と又木啓子(3月)フランスから木村章子(4月・初)、渡邊幹夫(4月)、シンガポールから辻井潤子(5月・初)をお迎えしました。
遠方からの初登場のみなさん
醍醐ススム(東京)、オーガフミヒロ(東京)、塩塚夕起子(福岡)、貝塚理佐(東京)、杉本たけ子(陶・名古屋)、増田寿志(札幌)、渞忠之(みなもと・ただゆき・写真/東京)、山本ミノ(東京)、桟敷一寿美(東京)、市英昭(名古屋)、
その他、多彩な初登場作家さんにも竹永貴美子(平面)、内藤伸彦(造形)、岩井博石(平面)、友定聖雄(硝子)、Omult.Venzer(造形)、アンドレイ ヴェルホフツェフ(ロシア・姫路在住)
多彩な展開をさせていただいた一年を支えて下さった皆様にスタッフ共々、心から御礼申し上げます。
阪神淡路大震災から20年
震災に直面して私のなかで何が変ったのだろうと自問しています。世界観、人生観が変ったのかと。しかしほとんど変っていない気がします。私は神戸の震災体験を「共同臨死体験」と呼んでいます。近代都市において、これだけ多くの人が「臨死」=死ぬかもしれない、という体験を共有したことは稀です。でも私にとっての臨死体験とは1989年の頭部の手術でしょう。死あるいは障害を覚悟したのです。その集中治療室体験と、震災直後の「生かされた」においても、感謝を心の底から感じ、理想郷を垣間見ました。感謝を抱き、物欲も消え、新しい生への出帆を誓いました。
私がその後に取り組んで来たことは、震災体験より前に取り組んできたことを成し遂げるために震災がさらに背中を押したのかもしれません。信じるに足る社会を、本当に築きあげてきたのか、人と人とが信頼しあい、ともに歩むことの出来る社会意識を培ってきたのかと自問しました。こうした感情は、たとえ長く続くことなく、圧倒的な忘れさせる力のなかに消えていくにしても、絶えず問いかけながら自分の生き方を考えないと、全ては安きに流れるばかりで、けっして時代は良くなりません。
震災後の「アートエイド神戸」は、東北で「アーツエイド東北」として受け継がれました。22年前に立ち上げた公益信託「亀井純子基金」が成長し、2011年に公益財団法人「神戸文化支援基金」となりました。無名の市民の皆様からこの基金に寄せられたご寄付は73百万円にのぼります。寄付累計1億円の基金を目指しています。「今出来ること」という一人一人の小さな道が一緒になって、大きな道へどんな困難も乗り越える力となるのではないでしょうか。
「加川広重巨大絵画が繋ぐ東北と神戸」
この通信を書いている現在、広く、東北、東京、京都、福岡などと激しくメールが夜遅くまで飛び交い、並行して進んでいるフランス:モルターニュ・オー・ぺルシュとも毎日、メールでやり取りがあります。私も事務局スタッフも寝ている時以外はこのことを忘れる時はありません。なにがここまでみんなを巻き込み熱くさせるのでしょう。
阪神淡路大震災から 20 年を迎える 2015 年1月17日を中心に、本プロジェクトの3回目として、巨大絵画の三作目「フクシマ」 を展示し、総合芸術の多様な実験を通して、次世代の社会を共創する場とします。とりわけ福島第一原発が露にした現実は、福島県民だけでなく、人類にとって容易に解決てきない世界史的な課題です。今回は「建築家が震災とどう向き合ってきたか」に一つの焦点を当てながら「フクシマ」をテーマとした様々な造形作品、ハフォーマンス、映像、トークなとを通じ、3.11以後の世界観を掘り下げて議論し、日本と世界へ発信します。
2016年3月にはフランスでの開催も決まっています。フランスでのサブタイトルは「Humanité」です。ユマニテとは人類、人間性、本来、人間に備わってる本性のことです。全てを繋いでいる纜(ともづな)はユマニテという「希望」によって紡がれているのです。