2015.12 「足し算と引き算」

足し算

世の中が、すべて加えること、成長、賑わい、楽しい、うれしい、イベントがすべてよしとされ、それを学び合い、似たようなものや事が溢れかえり、屋上屋を架し、柳の下の泥鰌(ど じょう)を追い、株を守りて兎を待つ。二兎を追う者は一兎をも得ずの類が溢れているように思います。

成功例を追えば、責任を問われることがないという意識もあるようです。

ある意味で加えることはた やすいことだと思います。

私も若い時にはたしかに加 えることに力を入れていました。でもそれはその前に場を清め、新しい材料でプロジェクト(まちづくり)を手がけ、それぞれが新しいものを生み出してきました。

引き算

引き算の大切さを考えていきたいと思っています。

私が託されてきたのはなにか大切なことを取り戻すための引き算でした。

それは引き裂く、消す、壊す、爆破するなどの痛みを伴うもので、できれば触りたくない避けたいことです。

でも例えば汚れたまな板、包丁、汚れた水ではいかに料理人の腕がよかろうが食材が高級なものであってもいい料理は出来ないでしょう。

街じたいが品格を失えば、そこで音楽を演奏しようがファッションショーをやろうが

素晴らしい感興を生み出したり、新しい意識が生まれることは難しいでしょう。悪貨は良貨を駆逐していきます。

引き算とはその場を新しく整えることです。

新しい状況や舞台を用意し、そこに新しい人材や芸術を生じることです。

例え話しでは、簡単に感じますが、さまざまな組織や人脈やしがらみ、利害を引き算していくことはむずかしいことです。みんなが競って足し算をするのは心地よいことですから。そしてそれを賞賛するメディアがあり終わりなく繋がっていきます。溢れかえる「足し算」をいささか辟易しながら見ています。私は託されたものとして「ひき算」、を担ってきたように思います。そして今も、これからも。

 

残りの日々に

余命を惜しんでいるのではありません。余命ではなく使命を考えているのかもしれません。

47歳での死との面接を終え、何ごとかを為せと現世へと戻されたのです。

為すべきことは三つあります。

一つ目は私がいなくともギャラリー島田を存続させることです。島田の名に拘りはありません。その精神、単なる展覧会場や売り買いでなく、作家やお客さま含めた「なにか良きものが生まれる場」、すなわち、学び、育ち、生きる、かけがえのない所であり続けて欲しいと願います。そしていい作家がここから生まれ、成長していくことを願っています。

二つ目はアート・サポート・センター神戸を通じた文化交流拠点を大切にすることです。

多くの皆様から会費をいただき、様々なジャンルのサロンを開催しています。今年、300回を迎えました。1万人が参加されたことになります。ギャラリーという場があってこそですが「神戸塾」を重ねながら「学びの磁場」として続けていきたいと願います。

三つ目は「こぶし基金」(公益財団法人「神戸文化支援基金」)を一億円基金とすることです。草の根の市民が兵庫・神戸の文化的土壌を耕し続けています。1992年に誕生し、時を刻みながら、こうした文化助成の試みのトップランナーであり続けてきました。

一億円基金とは、いただいたご寄付の累計額を一億円とすることです。

今までに79百万をいただき、47百万円を173の事業助成、東北志縁、Kobe Art Award.などに、残高は32百万円です。あと21百万円で一億円ということになります。

阪神大震災では「アートエイド神戸」が「神戸文化復興基金」(終了解散)として8千万円の事業を行ないました。合わせて二億円基金までは4千万円ということになり、簡素な運営でそれらがすべて芸術文化の土壌を豊かにする支援として使われるのです。

2015.11 「振り返ってみれば」

蝙蝠日記を書くために今年を読み返してみて、なんと息苦しいのかと思いました。戦後70年。阪神大震災から20年。北野でギャラリー島田を始めて15年。さまざまな時代の転換期にあたり、閉塞感にうちのめされるような日々に対しての焦りが私の心を焼いていたのですね。書斎の棚で秋野癸巨矢(きくし)さんの「もっと気楽にお願いします」(みずのわ出版)が私の背中に声をかけています。著者は画家・秋野不矩さんのご長男です。向こうからも「くたびれたら すこし やすもうよ やすんだら むっくりおきて またあるこうよ」(「地には豊かな種子を」から)と小宮山量平さんの声も聴こえてきました。

伊勢田史郎さんとのお別れ
7月20日に肝臓癌で亡くなられた伊勢田史郎(詩人)さんのお別れ会が10月12日にありました。同じ生田神社会館で7月6日に中西勝(洋画家)さんのお別れ会があったばかりです。お二人は阪神大震災からの芸術文化による復興を支援する「アートエイド神戸」実行委員会で伊勢田さんは実行委員長を中西さんは副委員長をつとめて下さり、私が事務局長を務めました。伊勢田さんの会では挨拶された方の多くが詩人、歴史家、教育者などの足跡とともに「アートエイド神戸」の活動に触れられたことを思えば重要な役割をそこで担われていたことが広く知られたことが分かります。
私との最後の会話は、東北大震災の直後に電話をいただき、「また島田さんの出番が来ましたね。東北のためにご苦労ですがご尽力下さい」と語られたのです。そして伊勢田さんから背中を押されるようにして2011年4月15日、私は仙台入りして「アーツエイド東北」が立ちあがり、そこへの志縁を続けてきたのです。

会場で配られた「伊勢田史郎さんの生涯」によると震災の前年1994年から伊勢田さんは神戸芸術文化会議の議長を3期、6年務められたことが記されています。私と伊勢田さんの邂逅は実はこの議長就任の時に遡ります。
私は神戸芸術文化会議には何の興味もなかったのですが、私の母の関係から当時、この会の議長を長く務めておられた服部正さんや、神戸文化の良き理解者で実験小劇場「シアター・ポシェット」を自邸に作られた佐本進さんたちに薦められて入会したのです。服部さんの問題意識は、現状の文化団体の長老たちによる運営では何ら創造的なものを生み出せない、世代を交代して風通しのいい組織にして神戸の文化的風土を変えられる組織にしたいというものでした。そのために私の6才上の50才になったばかりの佐本さんと40代後半の私に神戸芸文の改革を託そうとされたのです。しかし服部さん自身が’88年に病に倒れ、佐本さんは1990年2月28日患者の男児が治療中に急死したことから「死んでお詫びをする」と遺書をのこして自死されました。私は佐本さんのご葬儀で遺影から「声」を掛けられたことをいまでも思い起こします。そして当時神戸市の文化の中心であった故吉田義武さんとともに小児歯科医の先駆者・ドーマン博士の人間能力開発研究所「ジャパン・オフィス」日本代表・実験劇場「シアター・ポシェット」館長という三つの顔を持っておられた佐本さんの遺稿集ともいうべき「天の劇場から」(風来舎)を1991年に劇場の全記録とともに刊行しました。

こうして神戸芸術文化会議の改革を服部議長、佐本進という改革を担うべき人が不在で私は常任委員となり改革案を考え、粘り強く改革案を訴え、長老から強い抵抗を受けながら芸文20周年の1993年になんとか改革を実現したのでした。
下記はその時に「こうべ芸文」20周年記念号に寄稿した「神戸文化への提言」の一部です。

もう10年にもなるだろうか、当時、兵庫県立近代美術館の副館長であった増田洋氏(故人)が、本誌に「制度疲労に陥った神戸芸文」という小論を載せられていた。私も、同感で、その後、芸文の20周年を機に、民主的な運営を目指して、会員全員の選挙による運営委員の選任、運営委員の互選による常任委員の選出、常任委員の互選による議長、副議長の選任と重任制限などを決めた。さらに、単なる親睦団体ではなく、アドボカシー(政策提案)の機能をはたすべく四つの専門委員会の設置が決まった。その詳細については今、論じないけれど、残念ながら、組織の改革はあったが、内容の改革は未だしである。
(全文をご希望の方はご連絡下さい)

服部正さんが望んだ改革は手続を踏んでなされました。そして病床に報告することが出来ました。そして服部正さんが辞世と称して綴った私家版詩文集「座礁船」(2000年海文堂ギャラリー)を刊行しました。
その改革による初めての常任委員会の互選で選ばれたのが伊勢田さんで芸術文化についての深い造詣と包容力のある人柄で職責を果されました。私は改革の成果を見届けることなく芸文を退会してしまいましたが、1995年の阪神大震災で「アートエイド神戸」を立ち上げた時に伊勢田さん、中西さんに正副委員長をお願いしたことはすでに書きました。
「アートの力で神戸に活力を」
未曾有の大地震によって、私たちは愛する肉親や知人を失いました。また、私たちの誇りであった美しい神戸は、瓦礫の街に変貌してしまいました。いま、市の中心部では、連日建物が取り壊されており粉じんが市民の頭上をくらく覆っています。あるひ、給水車の前で、私は女の人に話しかけられました。”粗い砥石にかけられたようなもの。心の中までざらざらだわ”と。程度の差はありますが、芸術や文化に携わる私たちの仲間も、大半が災害に遭遇いたしました。しかし、何時までも悲しみの淵に沈んでいるわけには いきません。私たちは、美術や音楽、演劇や文学などを通して、神戸に活力をもたらし、外見だけではない、より魅力的で美しい神戸の再生に尽力したいものと、まず第一歩を踏み出しました。どうぞ、この「アートエイド神戸」の運動に、一臂の力をお貸しください。                                        設立にあたって  伊勢田史郎
その活動は4冊の記録集として詳細に残されています。いつでもギャラリー島田でご覧いただけます。
 なにやら「改革」という切羽つまったときには期待され「平時」には疎んじられるという繰り返しは私にとって今やそれが普通のこととなってしまった。改革は痛みを伴い、傷を負わせることが避けられない。あるべき状態への移行を準備することであり、あとを託された人は準備されたものを形にしなければならない。改革することは難しいことだけど、それが終りでない以上、感謝されることはない。改革のあとを担うと、それは革命になってしまう。なかなか「もっとお気楽に」とは行きそうもない。さてどうしたものか。「すこしやすもうよ」。

 

2015.10「託されて」

ギャラリー島田の前身は海文堂ギャラリーです。1973年に海文堂書店を任され、1978年に社長室を私が日曜大工で改造、15㎡のギャラリーにしたのが始まりです。大きなビジョンもなく、慎ましやかなスタートでした。それから37年の月日が流れました。現在の場所でギャラリー島田として再スタートしたのが2000年9月17日、今、この文章を書いているのが15年後のまさにその日です。ギャラリーDeuxのオープンは2003年3月でした。

書店の経営に携わりながらギャラリーを、そして1992年に公益信託「亀井純子基金」を、1995年に「アートエイド神戸」実行委員会を設立。2000年にアート・サポート・センター神戸を設立、それぞれが展開して今をなしています。関ったことのすべてがビジネス感覚ではない動機から出発していて、いまなおそこから脱することが出来ないでいます。作家にとって画廊とは「作品を売ってくれるところ」と定義すれば、まことに不十分な役割しか果たしていないことになります。

作家にとってギャラリーでの展覧会は6日間かせいぜい12日間に過ぎません。そこでどれだけの人が来て、どれだけの作品が売れたか。それだけが展覧会の意味であるとすれば私たちと作家との付き合いも大したものではありません。作家とギャラリーがまるごと人と社会との狭間に架かる橋のようにつねに関っている、そしてともに表現者として前をむく。そんなお互いの佇まいを尊敬しあうことを大切にしたいと思います。

作家にとっては作品がすべてです。日々のあらゆる体験が作品の創造行為へと収斂されていきます。筆を鑿をペンを取ることが作家なのではありません。存在そのものが試されるのが作品というものでしょう。私たちもまた作品の売買の現場だけがギャラリーであるわけではありません。多様なあり方がこのギャラリーの佇まいをなし、そのことがこのギャラリーの存在を規定しています。

 

環境も空間も新たな想像力を刺激し、絶えず緊張感を孕んだ劇的なトポス・場であることを願ってこの場所を選びました。この場と力勝負を挑む意欲的な作家をじっくりと紹介していきます。
この時期にあえて無謀と思われる冒険の旅に出ることになりますが、自分の「夢」と「志」にもう一度挑んでみたいと思いました。単なる個展会場ではなく、さまざまな交流が生まれ、様々なジャンルが交差し、創造が創造を生む連鎖の種を育てるアバンギャルドな画廊でありサロンでありたいと願っています。
場は、そこに関わるすべての人と共に成長し増殖しなければなりません。ここに漲る「気・エネルギー」が、さまざまな外部エネルギーと飛び交い新しいカオス(混沌)を生み出す源であることを目指します。 30年目の透視図(2008年刊行の記念誌)から

 

分かっていること

 日々の足跡をふりかえれば、託されたものに応えようとした歩みに過ぎないように見えます。さまざまな小さな声に耳を澄ませる。その声に導かれるように自分が出来ることを考え抜く。それを掬いあげるように共に手を貸す人が横に現れる。託されたものがまだ消えぬうちに、そっと差し出されるもの。手に余るものであっても受けなければ前にすすむことが出来ないという感覚が身の内まである。通信やメールマガジンで書いていることの多くが託されたものへの答えなのだろう。こうした思考のラビリンス(迷宮)を彷徨う私を心配される言葉をときおりいただく。最近、友人と「天命」と「使命」が話題になった。なにごとなき日常あるいは受動的な日々ではなく、選び取って今を生きる形のことだ。天命といえば大袈裟にすぎ、多くは自分の意志で選び取った道を使命として受け取り歩む。さて、私はなぜか断ることが出来ない天命のごときもの(他人から見れば自分で選んでいるにすぎない)を使命として引き受け続けてしまう。それは「あなたの勝手でしょう」という世界を生きているようだ。

「あなたの言っていることは、みんな分かっていることなのです」と言われたことは幾度と知れない。その「分かっていることが、なぜなされないのか」を愚直に考え続づけずにおれない自分に、ほとほと呆れるこの頃である。

 

2015.9「逝きし人々への思い」

ここ数日、にわか雨が乾いた舗道や建物を濡らし、夜明けの空気が肌寒く感じられます。それにしても熱く、重い日々が続いてきました。
戦後70年、阪神大震災から20年。親しかった戦争を知る人生の先輩たちは戦後50年の震災からの復興を共に行動し70年に静かに逝かれました。
私が立ち上げた「アート・エイド・神戸」実行委員会(1995-2002)では実行委員の伊藤誠(美術評論家)さんが2012年12月7日に、中西勝(画家)さんが今年5月22日に、委員長の伊勢田史郎(詩人)さんが7月20日に。実行委員の半数が故人になられました。
7月22日には大重潤一郎(映画監督)さんが亡くなられました。震災以降の長いお付き合いでした。4月の火曜サロンで長編記録映画『友よ!大重潤一郎魂の旅』上映会・トーク「20年前にたしかに見たユートピアを求めて!」を開催し、沖縄で闘病中の大重さんのメッセージを坪谷令子さんが届けて下さり、映画「久高オデッセイー風章」上映会の実行委員会の設置を決め、7月28日にはギャラリー島田で第2回の委員会が予定されていました。大重さんの遺言を受け止める上映会は10月17日に開催します。
灰谷健次郎さん、小田実さん、加藤周一さん、鶴見俊輔さん、阿川弘之さんが・・・

成算なき膨大な負のエントロピー

今、出さなければという強い思いから8月10日に出されたばかりの中井久夫先生の「戦争と平和 ある観察」(人文書院)の言葉を紹介します。謙虚に「観察」と題しておられますが、これは深い洞察です。全文を引用したいほど素晴らしいのです。中井先生が「関与と観察」(2005年)「樹をみつめて」(2006年)と追求しぬいてこられた戦争と平和についての洞察にみちた発言を、今、このときでこそと、新しく加藤陽子さんとの対談と「災害を語る」という書き下ろしを加えての刊行となりました。(お二人の昭和史に対する含蓄が名人芸を見るようです)。

歴史の中の戦争を振り返えれば、酸鼻な局面を知る者がいなくなったときに繰り返される。ひたひたと戦争への足音を聞き、平和と言う状況をメインテナンスするために費やされる成算なき膨大な負のエントロピーを思う。
戦争は男性の部屋を散らかす「子ども性」が水を得た魚のようになり、戦争を発動する権限だけは手にするが、戦争とはどういうものか、どのように終結させるか、その特質は何であるかは考える能力も経験もなく、その欠落を自覚さえしなくなる。そして、ある日、人は戦争に直面する。   中井久夫

展覧会から

鴨居玲さんのこと

鴨居玲さんが亡くなって30年になります。全国巡回での展覧会があるなかで小さなギャラリーで展覧会をやる意味はなんだろうかと自問してきました。鴨居さんが愛し、鴨居さんを愛した神戸との関りを見ていただくことではないかと思ったのです。即ち、作品と人間、鴨居玲との両面を出来うる限り、ご覧いただきます。
人間味溢れる知人たちへの手紙、ユーモラスであったりシリアスであったりする写真。
「切り裂いたカンバス」(関西学院大学所蔵)、「遺書」(石川県立美術館)、交流のあった神戸の画家たち。最後の夜も一緒だったもっとも仲の良かった岩島雅彦(故人)さんの大作「芸人の家族」(200号)も特別展示いたします。お運び下さい。

金月炤子さんのこと

金月さんは1973年、NYへ。SOHO現代美術画廊などで旺盛に発表活動を行ない‘85年帰国。’87年に海文堂ギャラリーで個展を開催。また海文堂の東側壁面に学生たちを指揮して5m×3mの壁画を描いていただいたことも思い出しています。NY時代の「モダン・ダンサー」シリーズは国立国際美術館、兵庫県立美術館、西宮市大谷記念美術館にコレクションされている代表作品です。金月さんの仕事は帰国して、自然の中にアトリエを構え、森や沼を歩き。土をいじり踏み、嗅ぎ、水と遊び、深い思索の中での表現へと進みます。

川の流れの小さな岩
川の流れの休み場所
春には若葉が戸惑いながら流れ着く
夏には 空の青を うけとめる
秋にはもみじが流れ着き 疲れた旅路を 打ち明ける
冬には小雪が輪を作り やがて ゆっくりながれゆく
川の流れの小さな岩は 明日の流れの休み場所
金月炤子

そしてBOX ARTや複合技法による制作へと進んでいき、その世界はすでにご覧いただきました。今回は「ニューヨーク時代」の仕事を大作を中心にご覧いただきます。

2015.8「ホワイボン」

恒例の「ミニアチュール神戸2015」の季節が巡ってきました。それにしても暑い、異常です。国会も熱いのではなく、無理無理の摩擦熱で煙が上がり異臭を発しています。
そしてギャラリー島田も熱い熱い。なんと150名を超える作家さんが大集合となりました。
毎年、テーマを決めて新作で出品をお願いしています。
たとえば2014年はChange、2013年はCadeau、2012年はSlowlyでした。
今年のテーマは「ホワイボン」です。ホワイボンとはなにか?
Why born?

今年4月にNYからお招きした川島猛さんが何度も語られたことばです。
2020年の日本、そしてその先の日本はどうあるべきか、日本のオリジナリティーとはそもそも何なのか。海外に出て様々なジャンルで活躍する日本人と、Talk(=interview)を通じて日本の未来のヒントを探す新連載を、電通総研Japan Study Groupがはじめ、第1回は、クリエーティブディレクターの倉成英俊さんが、ニューヨークで約50年活動されているアーティストの川島猛さんと夫人の順子さんに、ソーホーのアトリエでインタビューされ、そこで語られた最も重要なキーワードがWhy were you born?
何で生まれてきたか。でした。
Why born,
How are you doing,
How do you do itの、doingの世界だよな。俺もdoingだからね。(川島)

作家のみなさんに「存在証明」を問うたわけです。
DMの写真では砂浜にホワイボンと書かれています。
島田容子が円山川公苑美術館での「石井誠展」を見に行ったときに日和山海岸、気比の浜で実際に書いたものです。
これもその答えを書いたともいえます。
3号という小さな画面に込めたそれぞれの作家の小宇宙が紡ぎだす、それぞれの
ホワイボン。

ギャラリーにとってはどうだろう。
このところ密接にお世話になっている大倉宏さんは蓮池もも展ではじめてギャラリー島田に来られたのですが、昔は神戸によく来られていて塩屋は馴染みだというので『なぜ?』と問うと当時兵庫県立美術館におられた木下直之さんのところによく泊めてもらったという。
その会話をしたときに私はちょうど木下直之さんの「世の途中から隠されていること」(晶文社)を読んでいて、「二つの震災報道を巡って」(P66)に付箋をつけていた。

美術館を遺体安置所にと要請されて、ここは美術館ですからという理由で断ったかもしれないと考え、ぞっとした。
美術館は王国だとの思いが骨の髄までしみこんでいた。それは何もない清潔な四角い空間で、切り花のように生活から切り離されている。
そして遺体安置所に使われる学校や体育館ほどには日本の社会に根を下ろしていない。美術館建設ブームとは、そんな箱を次々を作り出してきただけではなかったか。

木下直之さんの痛切な言葉が印象的でした。
「地域に切り花を飾ってはいけない」は、最近の私の常套句でもあります。
そんな思いを抱いているときにイギリスに留学中の野崎ターラーさんからメールが届きました。ターラーさんはインドの父、日本の母を持ち、神戸にいるときはうちでインターンをされていました。そのときの言葉です。

どうして「ギャラリー島田」か?
美術館や他のアートシーンにある、見る、見られるアートではなくて、活動する
アートだから。
アートは 人・時間・空間をつなげることが出来る。
そういう意味でのアートを扱っているのがギャラリー島田だった。
――からです。

今回のメールでは

 半年ほどイギリスに語学留学とアート探訪を兼ねて滞在しています。
こちらでも、社長のメルマガは読ませていただいています。
人とアート、アートとアートをつなぐ活動がありありと感じられて、ギャラリー島田に行けないことは、唯一の日本への未練と言っていいぐらいです。
こちらは、アート大国。人とアートがとても近いところにありますし、喜怒哀楽を交わし合って、恋をして食べて飲んで、人生そのものが、感じ感じさせ合うアートである人たいの中に未を置いています。

ここにもギャラリー島田の「ホワイボン」があります。
今はフランクフルトから日本の現代美術史を学ぶメラニー・ウェーバーさんがインターンされています。
彼女も「ホワイボン」の答えを生きているのです。

2015.7「本への偏愛」

本への愛ではなく偏愛は変ではないの?
人を愛する あなたを愛する 友達の友達は私の友達 と繋がり、具体的な誰かに伝える。
そう、具体的なかけがえのないその人への拘り、その本への拘り、それが偏愛なのです。
海文堂という存在は本への偏愛で繋がり、そしてその偏愛によってターミナル(終着駅)へ行き着いた。そのことを讃えたいと思いますし、それを伝えるのが『海の本屋のはなし ー海文堂書店の記憶と記録』に他なりません。といっても、私も何が書かれているか知りません。
「美の散歩道」の石井伸介さん(苦楽堂)のエッセイをご覧ください。
一冊の本を生きる

この蝙蝠日記は果たしてギャラリーの通信なのか。最近は本に関するエッセイが多い。美の散歩道でも詩人、出版者、映画関係者などが多いように感じる。美術に関することはメールマガジンに書くことが多いので合わせてお読みいただきたいと願います。
(ギャラリー島田のHPから登録して下さい。無料です)
私は文学者でもなく執筆者でもジャーナリストでもないのに書き続けてきた。書くことによって「本を生きてきた」。そして今、多くの場を与えられてその「本を朗読」するようにいろんなところでお話ししています。
私の経験や考えを「伝えて欲しい、それも次々世代に」と言われたのが「アジール島田学校」ですが、近い世代にも無愛想で分かりづらいことが多いので話して、とアジトに出頭を命じられました。私自身にとっても考えを纏めるいい機会だと思い“対話”を楽しんでいます。
私の出版物についてはこれもHPに掲載されていますが、さらに詳細な記録が「出版物」を開いていただいた左下に「島田誠の執筆記録」としてご覧いただけます。自分でも呆れるくらい書いていますね。
詩人の安水稔和さんの最新刊『声をあげよう 言葉を出そう』が届いた。神戸新聞読者文芸選者随想の30年間を纏めたもので、それ自身が凄いことですが、その中に震災から4ヶ月後の「心に刻んで忘れない」があります。

刻むという語はキザキザ(段段)という語の活用だと「大言海」は記している。
刻むのキは切、ザは座、ムはタタムか、つまり一キリ(切)一キリ(切)にザ(座)をタタムの義かと「和句解」に記している。
震災の衝撃は激しく、一人一人のかかえこんだ傷はけっして一様ではない。ときさえ経てば癒えるというものではないだろう。
だから、書く。書いてこころに刻む。刻みつけて記憶して忘れない。(P79 )

この災害列島に止まらず、世界中で人々が危険にさらされ、自然に止まらない憎悪や迫害に晒され明日を見失っている。だからこそ私も私なりに刻む、そして忘れない。その投壜通信(壜の中に通信を入れて大海に流す)が見知らぬ誰かの琴線に漂着することを信じて。
豊饒なる器としての物語の発見

ことし4月の新潟絵屋での石井一男展を契機とし、大倉宏さんと繋がり、蓮池ももさんをお招きすることになりました。

2006年の初めての発表以来、蓮池ももの絵は一貫してどこか荒涼とした、けれどどこか暖かい野や丘を青や赤の筒服の少女たちがさまよい、出会い、     踊り、走る風景を描き続けてきた。少女の半身は獣に変じ、波立つ海に黒い岩の槍がそそり立つ。
絵に寄せる静かな決意が滲みでる。   (大倉さんの言葉に依る)

私が「文を書くように実人生」を生きるように蓮池ももは「絵という実人生」を生きている心の変容を大胆に描く。2011年「ほろびののち」というシリーズに続き、根を引き抜いて歩く木が現れた。イメージの深さ、荒々しさ、多様さを、表現する勇気と大胆さ。
その少女たちは中世の雅歌のダンスリー(舞曲)に包まれているようで、しかし少女の筒服(カフタン)は典雅なものではなく綿麻のような意思を孕んでいるように感じる。その少女たちに誘われるように埋もれた時間の水底を辿ると、島へと出た。豊かな森、川、湖、山を抱いた島はしかし色を失い、深い沈黙の気配。そこに立ち竦んでいるとその沈黙と測りあえるほどの鳥や狼や走る少女たちの切迫した息づかいが聴こえてきて、私たちは「ももの世界」の物語を生きる。

2015 年7 月11 日( 土) — 7 月22 日( 水)  協力:新潟絵屋

2015.6「一冊の本を生きる」

阪神淡路大震災から20年、戦後70年、私が生まれてから73年。多くの人が天上へと旅立っていった。訃報を聞く度にわが身を思う。
そうした振り返りを単に思うだけでなく、書こうとすると調べる、読む、蘇り、問い直す。自分があることの何故を。

海文堂書店の閉店から2年。その記憶を平野義昌さんが書いていて、その本が出版されようとしている。当然、私も当時の記憶を辿ることになる。痛みとともに。
岩波書店の『ひとびとの精神史』(全9巻)に執筆を依頼された。阪神淡路大震災を契機に新しい市民社会が拓かれていく様を草地賢一さんというNGOのリ-ダーに焦点を当てながら書きたいと思いました。そのために、インタビューを行ない、資料を読み込みました。あの頃の日々の記憶にまた熱くあります。それは震災後の10年を生き直すような試みであり、志を一つにした人々と再会し、確認することでもありました。そうした人々を編集部の担当は綺羅星のような存在と表しました。

こうした日々は私にとって書店とは、画廊とは何なのか、さらには自分を問うことでもあります。本に書かれ、本に書く。
それは「一冊の本を書くように生きる」ということかもしれません。

長田弘「世界は一冊の本」

本を読もう  もっと本を読もう もっともっと本を読もう
描かれた文字だけが本ではない 日の光り、星の輝き、鳥の声
川の音だって、本なのだ。
ぶなの林の静けさも ハナミズキの白い花々も
おおきな孤独なケヤキの木も、本だ
本でないものはない 世界というものは開かれた本で
その本は見えない言葉で書かれている
ウルムチ、メッシナ、トンプクトゥ、地図の上の1点でしかない
遥かな国々にの遥かな街々も、本だ。
そこに住む人びとの本が街だ。 自由な雑踏が、本だ。
夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。
シカゴの先物市場の数字も、本だ。 ネフド砂漠の砂あらしも、本だ。
マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。
人生という本を、人は胸に抱いている。一個の人間は一冊の本なのだ。
記憶をなくした老人の表情も、本だ。
草原、雲、そして風。黙って死んでいくガゼルもヌーも。本だ。
権威を持たない尊厳が、すべてだ。
2003年1月31日億光年の中の小さな星。 どんなことでもない。
生きるとは、考えることが出来るということだ。
本を読もう。もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。

長田弘さんは5月3日に亡くなられました。75歳。私より三才上でした。
私の背にある書棚を振り返ると見やすいところの長田さんの詩集が4冊ある。その一冊を手に、ぱっと開いた詩

まもらねばならない、 / それが法だということは / もちろん正しい。
法外も無法もない、 / それが法だということも  / もちろん正しい。
報知せず報復する、 / それが法だということも  / もちろん正しい。
法なしにやっていけない、/ それが法だということも  / もちろん正しい。
もちろん正しい。 / もちろん正しい。 / もちろん正しい。
もちろん正しい、 / それが法だということ。 / それだけがまちがいである。
これは1977年に刊行された詩集『言葉殺人事件』の中の一篇です。
私たちは今、「それが法だということ。それだけがまちがいである。」という法を無法に持とうとしているのではないか。

一冊の本を生きている。そして一冊の本を描くように生きている画家や造形作家を読んでいる。そして感想を伝え評している。ともにより良くありたいと。どこかで話してくれといわれれば行き、どこかに書いてくれと言われれば書いている。そのすべてが私の書いた本だ。

今回の「美の散歩道」のゲストは、みずのわ出版の柳原一徳さんです。第30回出版梓会文化賞記念特別賞を受賞された。もとは神戸で創業したが、思うことあり故郷、周防大島へ帰り、半出版、半農家、お一人出版社として奮闘してきた。装幀はすべて林哲夫さん。林さんは画家としては島田で発表して下さっていますが、古書の蒐集・評論、装幀家としても著名。柳原さんは偏壷だけど筋が通っていて純、その本への愛は執念といってもよく、どれも素晴らしく近年、ますます凄い。私はみずのわの本はすべて買うと公言している。全部に興味があったり、読みたいわけではないが、そしてテンから読めそうもない本もあるが、全て買う。柳原さんの心意気に応えるためである。鬼気迫るものがあり、それを手に取るだけで満たされるものがあります。最新刊、臼田捷治『書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014』は本体10,000円ですが、十分の値打ちがあり、喜びがあります。そして筑摩書房の装幀の歴史を周防大島で一人奮闘する柳原に委ねる人も偉い。林哲夫さんが臼田さんからこの企画の話を初めて聞いたのは林さんが2012年3月にデザイン書籍部門優秀賞で竹尾賞を授賞された式でだったそうです。優れた内容で造本・装幀にも拘り続けている柳原・林コンビが、ともに認められるということに喝采を挙げたいと思います。
神保町の東京堂書店にて著者である臼田捷治さんを中心とした本書完成記念トークショーが5月19日に開催されていますが、平野さんの『海の本屋のはなしー海文堂書店の記憶と記録』の出版記念トークも東京堂書店で、7月5日(日)に開催予定です。
平野義昌の本を出版する苦楽堂の石井伸介は某出版社を退職、昨年、神戸に拠点を置いて出版を始めた。神戸に置いたのはやはり海文堂書店のことが頭にあったようです。本の未来を切り開き、書店の新しい存続基盤を自らの挑戦で拓いていくスピリットに敬意を払います。既存の販売ルートを使わず、著者、書店、読者を大切にしながらの本つくりはまたそれを成功させる私たちの責任でもあります。
第1作の』『次の本へ』もいい本でした。二作目が『海の本屋の話』。商業出版としては難しいと思われるこの本を、援助や買取を含めて相談したのですが、それらを断り、引き受けた、ここにも一人奮闘する石井さんの心意気に感じ入ります。

本を読もう。もっと本を読もう。

もっともっと本を買おう。
みずのわの本は高いけど高くない。食べる、飲む、遊ぶことに比べればなにほどのこともない。すべてが下へ流れるか、留まれば病気の元になるものより、いい本を心に留め、流れ去ったかに見えてもまた呼び戻し反芻し生きる日々を彩る。お金は使えば消えていくが、心の定期預金は消えることがない。

2015.5「わたしがあなたを選んだのだ」

わたしがあなたを選んだのだ

ずっと何かに追われるように多くの荷物を抱えています。やりすぎだ、減らしたほうがいい、そこまでやらなくても。好きなんだね。自業自得だね、死ななきゃなおらない。付き合いきれない、さようならという言葉が聞こえてきます。それはそのとおりです。
デスクの横に見ておいた方がいい展覧会案内がBOXにどさっと入っています。それらはチェックして抜き出しては携行しているBagへ移動していきます。しかしその多くは怒涛の津波のような仕事に押し流されて次の行き先はゴミ箱とあいなります。
ギャラリー島田に登場される作家さんとは出来るだけ丁寧に話をするように心がけています。売ることに執着が薄いのは直りませんが、作品や作家さんについては深く知りたいと願っています。なぜそんなに忙しいのか。次々と様々なことに関りたがるのかと思われるでしょうね。しかし、私が探して荷物を担いでいるのではありません。

「あなたがわたしをえらんだのではない。わたしがあなたを選んだのだ」(ヨハネ福音書)

ここにある「わたし」は島田の「わたし」ではなく「神(天上の意志)」のことです。
前回の通信で草地賢一さんのことを書くことを伝えましたが、この言葉は草地さんに教わったものです。神が地上でなすべきことをなすために草地さんを選んだということです。
このヨハネ福音書の言葉を口にする草地さんは、特別な人という自負とは遠い、でも目の前にある不正義を見逃さない「選ばれた者として」の自覚を深く抱いていたことは間違いありません。

私が岩波書店の出版物に書くのは三冊目ですが、今でも不思議でなりません。いずれも、いきなりの指名でした。何故、私ですかと問い直したものです。でも考えてみれば、すべてが20年前の震災と関っているのですね。
でも震災体験で私が新しい使命を発見したわけではありません。その後に起こっていることは基本的には震災前から取り組んだり考えてきたことなのです。
それが「アートエイド神戸」という運動となり、震災4ヶ月後に「神戸発 阪神淡路大震災以後」(岩波新書397)に「神戸に文化を」を書かせ、6ヶ月後に兵庫県復興支援会議のメンバーとして3年間を疾風怒涛の日々を過ごすことになったのです。「あなたに選ばれた」というほかない不思議な人選であったと感じます。

私と草地さんがメンバーを務めた復興支援会議は1998年3月に終えるまでに月2回の全体会議は78回、「移動いどばた会議」は143回。フォーラムは61回を超えるという凄まじい会合を重ねました。しかも徹底したOutreach(現場主義)での直接対話でした。

震災という危機的な状況において政府の前で「市民をもっと信用していい」と語り、高揚から遠い自叙伝においてすら「市民の行動は、私たち『官』の考えをはるかに超える広範で奥の深いものであった。」(略)と語らしめるほどの会議の役割と市民の振る舞い、そしてそれを真っ直ぐに受け止めた貝原前知事の姿勢にこそ、その後における協働と参画の扉を開けたことを告げています。

4月14日に上映会を終えた「友よ! 大重潤一郎 魂の旅」のチラシには「20年前に見たユートピアをここに」と書かれていましたが、震災後の体験は、私の内にあった根源的に社会の在り方、すなわち私たちの生き方を問いなおすという「ユウフォリア(至福感)」はどうも骨の髄まで浸透し、いまや体質そのものとなってしまったようです。

「こぶし基金」の設立にしても、亀井純子さん健さんが私を選んだとしかいいようがなく、それが23年を経て育ってきたのですし、加川プロジェクトにしても、私が発見したというよりも加川さんの作品が、私を発見し、KIITOが私を呼んだとしかいえないほどの奇跡的な事柄であったと思います。

新潟にて

3月、4月と新潟に通いました。新潟絵屋での開催を望んだのは、石井さんの作品、存在ともっとも響き合う場として、そして大倉宏さんや、絵屋、砂丘館から石井さんも私も大切なことを感じ、学びたいからでした。それは石井さんにも私にも、何かをもたらしてくれるはずです。私は展覧会を企画するには「売れる」ということではない、「何かが生まれる」という意味を求めずにおれないのです。絵屋という「場」と大倉宏さんという「人」に惹きつけられるように石井一男展をお願いしたのです。
どっと人が押し寄せるというのではない、静寂のうちに佇むという気配がとても好ましく、ゆっくりと選ばれながら、それでも多くの作品が、またこの地に留まるのはうれしいです。12年前に無名だった石井さんを取上げていただき(その時は私は行っていません)、数点しか売れなかったのですが、二度目だとはいえ、新潟まで最近の石井さんの情報は届いているのか、かりに「奇蹟の画家」や「情熱大陸」で知った方があるにしても、その方をこちらは存じ上げないのですから絵屋での展覧会についての情報を伝える術はありません。
でも期間中を通じて途切れることなく、また口コミで広がり、皆さんが温かく作品を見られ、語り合われたそうです。作品もたくさんお求めいただき、お礼の言葉もたくさんいただきました。思い描いていた最上の意味を発見できてこんなにうれしいことはありません。
7月には新潟絵屋や絵屋を巡るみなさんが愛してやまない蓮池ももさんの個展を大倉さんのプロデュースで開催します。すでに作品の選定や展示プランなどが進んでいます。展示は二日がかりと聞いています。ここでも「何かが生まれる」のです。

2015.4「旅の途上にて」

前号の言葉を継ぐと、ギャラリー島田という場もまた未来へと向かう、一つの駅(Station)かもしれません。この駅(Station)は終着駅
(Terminal)ではなく、あたらしい希望を積み込んで未来へ向かう始発駅(Starting Station)であって欲しいと願っています。

1978年の創業ですから37年目を迎えることになります。海文堂ギャラリー時代が22年、ギャラリー島田で15年。1800回近い展覧会を重ね、数知れぬ作家が、この駅に降り立ち、また旅立っていきました。そこには出会いもあり、別れもあり、物語が生まれます。私もまたその物語を生き、翻弄され、日を重ねてきました。時代は新幹線、空港へと移り変わりましたが、この駅はまさに鉄道在来線で貨物列車も走っています。

1992年に生まれた公益信託「亀井純子基金」は、今は公益財団法人「神戸文化支援基金」としてこの3月17日に23回目の文化活動助成を決定しました。
毎月の画廊通信は、海文堂時代から数えると約420回。
2001年からはじまったサロン活動も今月で289回。
美術館などの公的な場への作品寄贈プロジェクトは今回、美術館へ寄贈が決まった高野卯港さんのデッサンを含めると寄贈・仲介の実績は302点となり、石川県立美術館と関西学院への鴨居玲の貴重な資料を含みます。
旅人としての原点

ギャラリストらしくない、画商でもない、美術通ともいえない。自分とは何ものなのかを探し続けています。

「その瞬間、瞬間を自分らしくありたいと思うこと。人生ってプロセスでしょう。
プロセスが固定してしまえば私にとって死なんですね」「私は私でありたい」
オノ・ヨーコ(後藤正治「言葉を旅する」P71 から)

私の芸術との関りのはじまりは音楽、そして書店人として本で、そして美術が続きます。その途上に社会との深い関りを経験しました。
まずは元町・神戸という街への関り、そして20年前の阪神淡路大震災からの復興への取り組みがあり、それが東日本大震災へと繋がって今があります。
それらすべてが交錯する場がギャラリー島田というStationなのです。
あれから20年

いやおうなしに当時を振り返っています。1995年2月に「アートエイド神戸」を立ち上げました。「蝙蝠・赤信号をわたる」
(神戸新聞総合出版センター)はその頃のことを書いています。

草地賢一さんを訪ねる旅

「アートエイド神戸」という活動を始めてまもない1995年7月17日。貝原俊民知事(当時)肝いりの「被災者復興支援会議」のメンバーに呼ばれました。被災者の視点に立って、『官』に注文もつけるし、『被災者』にもエゴが過ぎると直言する組織で10年間続き、まことにユニークなもので高い評価を受けたと、貝原俊民さんの自叙伝にあります。活動する会議、筋書きのない会議とも言われ、県の呼び掛けに呼応し、各分野の専門家12名がハードなスケジュールで熱い議論を重ね、12回の提言を行ない、政策にも反映されました。
支援会議(全体)78回、移動いどばた会議143回、フォーラムなど61回と膨大な時間をメンバーと過ごしました。そのメンバーにPHD協会代表の草地賢一さんがおられました。NGO・NPOのリーダーとして奮闘され、2000年1月2日に殉死するように58歳でマラリアで亡くなられた草地賢一さんについて書く準備をしています。
「ひとびとの精神史」(岩波書店)の全9巻の中で「阪神大震災とボランティア」の稿を一人の人物またはグループに焦点をあてて書くよう依頼され、草地さんを選びました。

・ たのまれてもやらない たのまれなくともやる
・ 援助や協力を「チャリティー(慈善)」で考えるのではなく、むしろ「不正義」の克服として捉えるべきである From Charity To Justice
・ 援助、協力から交流、連帯へ

まだ1字も書き出せていません。インタビューしたり、調査したりの段階です。草地さんの果した役割や、それを示すエピソードなどを知
りたいと思っています。島田までご連絡下さい。

2015.3「静けさを両手で受けとめる」

静けさを両手で受けとめることが、今までにないほど、大切なときが、やってきた。黒い岩肌を伝う水の音、山鳥の囀り、森を吹き渡る風、栗鼠の呼吸、月の運行、胡桃のように大粒な星の光、そして海、子供、男と女・・・。その言葉ひとつひとつに胸をひらくことが大切なときが、還ってきた。ますます精巧な武器や機械に人間が囲まれてしまった今、という時代だからこそ。
(山崎佳代子『ベオグラード日記』はじめにから P12)

セルビア大使館(品川)にて 2月20日

山崎さんはベオグラードで、宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンの名をとった通りに住み続けているのに、国の名前は何度も変わり、ユーゴースラビア社会主義共和国連邦から、セルビア共和国となった。それはバルカン半島の交通の要所であるがゆえに、様々な征服者による140回もの戦争が繰り返されて歴史の変転に翻弄されてきたからだ。
この歴史的時間を背負った地でしか紡ぎだせない言葉がここに生まれる。山崎さんは30年間をここで暮らし、3人の子供を育て、そして詩人となり、ベオグラード大学で日本文学を講じ(教授)、日本とセルビアの架け橋となり、難民の支援に奔走する。

「ちいさな声」を繋ぐということに拘る季村敏夫さんと山崎さんは、短い立ち話ていどの出会いから、お互いを瞬時に理解し、このトークに至ったそうです。

小さいから価値も小さいということはありません。重心をあえて「小ささ」というころに置きました、世界の片隅にひっそりと息づくもの。少数の声、そこに身を寄せての思考実践です(略)
昨日も今日も平穏、何ごともなく、何ごともなかったかの如く、他者の悲惨を見て見ぬふりをして生きていける、現に生きて在る。ところが、心のどこかに疼きがあり、お前さんそれでいいのかい、執拗に問いを投げかけてくる、この問いから逃れることは出来ない。  (震災・まちのアーカイブ『小さな声をつなぐ ―災厄の現場から』より)

季村さんは、私に短く、この本のことを伝え、なにかに引き寄せられるように、私はこの場へ坐っていた。
季村さんは、穏やかに言葉を選び、眼差しを遠くに、小さな声で、山崎さんに寄り添うように語った。そして互いに相手の詩を朗読した。

山崎さんの言葉も、セルビアの詩人たちの言葉も、かすかな声として平易であり、夢と現の間のようでいて深い。このことを襟を正す思いで読み、聴いていました。

人と人との巡りあい、繋がりこそが、目に見えない小さな力、しかし、それだからこそ内なる世界を少しずつ変える力になるのではないだろうか。この小さな力さえあれば様々な土地に刻まれた記憶の豊かさに触れ、命の重さの等しさを感じ取り、自然の力の深さを確かめ合うことが出来る。
生活というささやかな営みに潜む、無数の小さな力が結び合うとき、なにかを変えることが出来る。
(終りに―「小さな言葉」という小窓から P226-227)

現代の権力者
私は社会的なことに関りすぎる、それでついてゆけないと思われるかもしれません。しかし、山崎さんも季村さんも、しっかりと向き合い、発言をし、行動されています。この対談で季村さんは故・多田智満子さんの例を上げて、震災後の市長選で多田さんが身を挺するように市民派に尽いたことに触れました。その選挙こそ私が止むに止まれず市民派候補の参謀を務めたのでした。

“御政道批判すなわち打首の昔を今になすよしもがな―現代の権力者―”

これも多田智満子さんの遺句の一つです。
遺稿句集「風のかたみ」を読み返しています。
“草の背を乗り繼ぐ風の行方へかな”
私達の行方も茫として知れません。
亀の井別荘の中谷健太郎さんが、何故、私を大切にしていただくのか、不思議に思って訊ねました。穏やかに「権力に楯をついて、連戦連敗の仲間」と小さく笑われました。

鳥肌のたつ風景

ひとり残らず
こどもが
消えた
一本残らず
樹が切り倒された
冬の公園
これ以上に
おぞましいものが
どこにあるだろうか
ここを立ち去る前に
僕は見つめる
もう祖国とか
故郷とか
呼べない場所を
一瞬と名づけられた永遠を
見据える
ほかに何ができるだろう
国と呼ばれていたものが
がらがらと崩壊する
世紀の終りに

山崎佳代子 「みをはやめ」(書肆山田) P70,71
(戦場となったサラエヴォを脱出したヤドランコとラーダ夫妻
の言葉を出発点として)