2013.12 加川広重巨大絵画 二作品を同時展示します

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加川広重の巨大絵画は、東日本大震災からインスピレーションを得て描かれた、類例のない大きな作品(5.4m×16.4m)です。この作品には、宮城生まれの加川自身が被災者として震災に出合い、そこからしか生み出しえない根源的な力があり、あらゆる人に震災がもたらしたものを、時間と場所を越えて、一瞬にフラッシュバックさせるのです。

今年3月にデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)で展示された「雪に包まれる被災地」と、そこで繰り拡げられた様々な催しは大きな反響を呼びましたが、2014年1月には、第2作目である「南三陸の黄金」を同じ会場に展示し、さらに充実した内容を準備しています。単なる芸術作品の鑑賞から行動へと、今、あなたは何をすべきなのかを、人々に問いかけ、駆り立てていく、重要な意味を持っています。同時に、東日本大震災にとって福島原発は容易に解決できない課題であり、現福島県立博物館館長である赤坂憲雄氏と高村薫さんを迎え、この巨大絵画のある空間で、原発が抱える課題や福島の復興、そこから見えてくる日本の課題を、多くの人々とともに考えていくための機会も創出します。
「芸術文化による復興コンソーシアム」(文化庁)で加川広重さんと私が報告をし、このプロジェクトが日本全国に向けて、また世界に向けて発信してゆく可能性が出てきました。
それにしても、このプロジェクトを呼びかけた反応の手ごたえの凄さには驚いてしまいます。今回は被災地東北からはもちろん、広く県外からも出演され、話題となった前回を遥かに凌ぐ規模となります。

【企画の主な内容】

日時:2014年1月5日(日)〜17日(金)
会場:デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)

5日
○「オープニング・チェロ・コンサート」
(国際チェロアンサンブル協会有志60人程度)仙台フィルからも参加予定

11日
○フォーラム「3.11から1.17へ 〜若者が語り合う震災と未来〜」
(神戸大学 関西学院大学 神戸学院大学などの若者たち)
コーディネート:ロニー・アレキサンダー 村井雅清 西垣千春 杉浦健

○ダンス・パフォーマンス関典子演出「春の祭典」(神戸大学の学生20名による)

12日
○シンポジウム「東北の復興、福島の復興と日本の明日」
講演:赤坂憲雄  対談:赤坂憲雄と高村薫  徹底討論

○ダンス・パフォーマンス(藤田佳代舞踊研究所メンバーによるモダンダンス)

13日
○コンサート プーランク「人間の顔」ほか(ザ・タローシンガーズ)

○ダンス・パフォーマンス(岩下徹×立花玲子×文)

17日
○「震災メモリアル・コンサート」
高橋侑子(仙台在住)の作曲による福島の詩人和合亮一「邂逅より」ほか
作曲者によるピアノ 松岡万希の歌

○「アーツエイド東北」の協力によりピアニスト松坂優希(仙台在住)の演奏

期間中毎日
釜石・大槌地域復興写真展「復興カメラ」

(11月15日現在)

【加川広重巨大絵画プロジェクトNo.2への賛同者を募集しています。】

前回と同じように本プロジェクトは様々な充実したプログラム自体への財政の裏づけはゼロから出発しています。再びのお願いで恐縮ですが、下記要領でのご賛同をお願いいたします。
5000円(一口)から  アート・サポート・センター神戸の口座に振り込むかギャラリー島田の窓口にお持ち下さい。後日、実行委員会から領収書をお届けいたします。また、お名前をパンフレット及び会場に掲示しますので、お手数ですがお振込みと同時にメールまたはFaxでお名前、ご住所、お電話などをお知らせ下さい。

>>>>>口座:みなと銀行 北野坂支店(普) 1511086 アートサポートセンター神戸


三木谷良一先生の思い出

三木谷良一先生がお亡くなりになられました。国際的経済学者で、「楽天」の三木谷浩史さんのお父上です。83歳と11ヵ月でした。
9月5日にお二人の共著「競争力」の出版記念パーティーに招かれ、車椅子で心配しましたが、様々な経緯があり節子夫人から慶應病院に入院されたことを聞き「東北楽天優勝」のお祝をお伝えしたときの応答に心が騒ぎ、11月6日に、なにか呼ばれているような気がしてお見舞いに上がり、お別れを覚悟しました。9日に訃報。10日、お通夜、11日、告別式でした。
もっとも尊敬する方でしたので、この現実を受け入れることを身体が拒否しました。
先生とは20年前の神戸大学OBの勉強会「神戸クラブ」からのご縁で、何か通ずるものがあったのか「君は終生の友だ」と言っていただくお付き合いになりました。そこまでの絆は「神戸への思い」によって強く縒(よ)られたものに違いありませんが、その先に「人」への限りなき関心があり様々な現代の課題などについて「君はどうおもう」といつも聞かれました。お二人の共著「競争力」は、浩史さんと世界全体に関わることについて語られた先生が私たちに残した遺言となりました。先生がこの世の舞台から退場していくための最上の花道を浩史さんが整えられたのでした。
剛直かつ公正で、相手がだれであろうと同じ目線で対する稀有の方で、 学んだことを一言でいえば「恥じなきように生きよ」ということです。もっともっと深くお付き合いをしておきたかったと悔やまれます。


神戸への思い

生まれ育った神戸の街が輝きを失いはじめて長い年月がたちました。それは単に経済的要因だけではない根深い要因があります。表層的な借り物文化で良しとする内向きな村社会。三木谷先生もそれを打破したいという「神戸への強い思い」を秘めておられました。国際的な見識と人脈を持ち直言を辞さないために行政からは遠ざけられていました。
また神戸芸術文化会議の名議長といわれた服部正(大阪府立社会事業短大学長)から「芸文」を成立時の市長への応援組織から自立して創造性をもつ団体へと改革して欲しいと頼まれて常任委員として2年がかりで民主的な組織への改革を行ないました。その改革を病床で報告した服部先生は1999年10月25日に亡くなられ、辞世と称して綴った私家版詩文集「座礁船」(2000年)に海文堂ギャラリーから刊行しました。私が改革に立ち会った「芸文」を退会したのは、選挙応援隊からの自立を目指した改革が、いとも簡単に破られ、語るも憚られる場面に立ち会ってしまったからです。
神戸への強い思いを託された方は、佐本進さん(シアターポシェット館長)や多田智満子さん(詩人・作家)などの故人がいらっしゃいます。


神戸ビエンナーレへの公開質問書

託された先輩たちの「神戸を変えなければ」という強い思いが私の背中を押したのです。いまここで、公開質問書のことを詳しく書く紙面がありません。この経緯については是非、ギャラリー島田HP、トップページ左下にあるpdfから、お読み下さい。とりわけ最後の「私たちがなすべきこと」の項をお読みいただければうれしいです。

2013.11 名残を惜しみ、立ちすくむ

海文堂書店の閉店を間ぢかにした日々を、かくも愛されていたのだと驚きをもってみていました。そして私自身が封印してきたこと、30歳から57 歳まで精魂をこめてきたことが奔流のように迫ってきて、なすすべもない時間に身を委ねたのでした。そして、その喪失感もずしりと堪(こた)え、な かなか消えそうにもありません。

前回、ここで書いたことは神戸新聞の10月1日(閉店の翌日)の記事である程度、補われましたので、具体的な検証はしません。でも「覆水、盆に 帰らず」の喩えの通り、出てしまってからの後追いでは、全体として真実を語ったことにはならないのです。

しかし、メディアはともかく、周囲の眼は優しく、昔、ともにあった社員やアルバイト、パートの皆さんと旧交を温め、また再会を約しました。29日、30日と閉店1時間前から、名残を惜しみ、立ちすくみました。取り囲んだ300人はいた人々の輪からは離れて、奔流する想念にただ身を任 せていました。亡き悦子の生まれそだった地であり今の海文堂書店は二人の作品でもありました。

そして10月5日、海文堂のファンの皆さんが別れを惜しんで招いて下さった会(会場は海文堂ギャラリー)は、みなさんの心情溢れるもので、私も 様々に登場させていただき、時の経つのを忘れました。私は22時に皆さんに送られながら辞し、多くの人は終電、10人くらいは始発だったそうで す。

かくも多くの方が惜しんだということは、町の本屋が閉店するということに止まらないなにかが海文堂にはあったという気がします。ネット時代で書 店に立ち寄ることが少なくなった今、みんなが「大切な場所だった」という刻みこまれた記憶に、かけがえのない「文化」のもつ力がありそうです。

人格性と物語性の無い店は生き残れない

探し物をしていたら、思いがけず丸善の原稿用紙にボールペンで書かれている幹部会議での私の発言のメモが出てきました。最初に「前回に続いて」と あるが、その草稿は見当たりません。

私達が生き延びるのは専門店としてであるという前回の論を補足して、今までの延長線上では駄目だ。
在庫の内容においても、サービスの質においても飛躍的に進むこと。

として、具体的に指示している。

人格性と物語性の無い店は生き残れない。
店の顔、担当者の顔、スタッフの顔、レジの皆さんの顔。
お客様と商品の間に、しっかりと人格を刻み込む。
更に「あの店にはドラマがある、感動がある、出会いがある、主張があるetc」
といった物語性まで作りだしたい。
概して、おとなしい。もっと主張を。

最後に「書店巡りの感想」として、大阪の六つの書店へのコメントも簡単に書かれている。日付はないが、最後にハーバーランド・アシーネとあるか ら、1992か93年ころだと思います。私が書店経営を始めて20年、今の規模にして11年、50歳のころでした。

99年4か月での幕下ろしでしたが、みんな100周年をやろうと盛り上っていました。100周年は来年6月になります。単なるノスタルジーでは なく、何か皆と意味のあること、すなわち何かが生まれる場であることを考えたいものです。

2013.10 海文堂書店の閉店に思う

神戸新聞の記事が伝えなかったこと

海文堂創業者である岡田一雄は、亡くなった妻・悦子の父です。私が三菱重工の経理担当サラリーマンであった時に先代が重篤な病で手術をし、亡くなる直前に何度も念押しするように書店を継ぐように頼まれ、「サラリーマンでいて」と心配する家人を振り切って書店の世界に踏み込みました。1973年のことです。その後の苦労を思うと、その選択はどうだったのでしょう。
神戸新聞が「海よ、さらば」元町・海文堂書店の99年―を9月13日から15日まで3回連載で紹介しました。大きな欠落があり、まことに残念です。
私が継いだ時は今の店の西半分に2階建ての老朽化した木造店舗(70坪)、東半分が空き店舗(少し前まで海文堂が経営する「三好野」という食堂)でした。
せっかく大企業を辞めて継いだ事業です、なんとかしっかりとした書店に成長させたいと願って、お正月三が日は空き店舗の前に児童雑誌や児童書を並べ家人や子どもと、初詣に通る皆さんに販売したりしたことも思い出されます。1976年には空き店舗を書店に改造し、100坪とし、児童書、雑誌、学習参考書などを充実させました。私が児童書を担当しました。子どもに読んで欲しい本を家人の友人である宮崎豊子(児童文学研究者)さんに選んでもらい、隔週土曜日に「読書相談」「こどもの教育相談」のコーナーを作り、後者は私の母が担当していました。これが田中智美さんが率いる現在の児童書の海文堂へと繋がっていきました。
西側店舗の2階の床が揺れる感じで、全面改築に踏み切ったのが1980年~81年。ちょうどポートピア博覧会の時で、仮店舗で営業しながら売り上げはポートピア博覧会場でのガイドブックの販売が補ってくれました。あのままの店舗で営業を続けていれば震災で倒壊していたでしょう。250坪の全体を9のゾーンに分け、それぞれを専門店の集合と考え、担当をブックコンサルタントとしてゾーンごとにデスクを置き、棚つくりをまかせました。当時は斜陽元町と言われ、まだメリケンパークもハーバーランドもなく、信号を超えて4丁目にはいると客足も疎らで、今とまったく違いました。
三宮から、わざわざ店まで足を運んでもらうために特徴ある棚と店としての付加価値を表現するギャラリーとマリーングッズ、子どもの教育玩具(スウェーデン製)などを始めました。流行を追わず、愛書家にも愛される棚を、そして書籍だけではなく「文化」を発信する拠点であることを目指しました。 私は27年間、社長を務め、古い店舗を段階的に今の規模とし総合書店としての基盤を創り、地域に密着した書店としての挑戦を続けてきました。
ギャラリーや、街づくりや、多角的な取り組みを批判的に見ていた方もおられましたが、この地でこの規模で経営するためには文化拠点としてのイメージは経営戦略としても重要です。海文堂書店はグループの一員といいながら大きな家賃を支払ってきた独立経営です。いい棚だけでは必要とされる売り上げは達成できません。
この連載において私には残念ながら取材の申し込みすらありませんでした。閉店のニュースへのコメントを求められ、私にとって簡単にコメントですむことではないことを説明しました。私はコメントは断りましたが、取材を受けないと言ったことはありません。

人はいきなり老年を迎えるわけではない
海文堂書店の航跡のなかで、多くの読者に愛された海文堂書店の成長時代、壮年時代の基盤を語れるのは創世記の大番頭、清水晏禎(やすよし)さんが故人ですから、私か、店長を担った小林良宣(よしのぶ)さんしかいません。一番大切なことが書かれていないのは、当然、取材していないからです。
先程、担当の責任者と記者とも話し合いました。正確な記事を書くために突撃取材やオフレコ取材でもするのが当然の責務で、取材の打診すらしていないし、仮りに取材をしなくても書ける客観的事実としての島田の役割や存在すら書かないのは理解できないですね。
記事には「海会」や海文堂通信「ほんまに」のことが書かれていますが、その源流は小林店長をリーダーとするスタッフが丁寧な手作り通信「読書アラカルテ」をはじめ「読書手帖」「神戸ブックマップ」「ヴァイキングの乗船者たち」「神戸古書店地図」「郷土史一覧」などを手がけてきたのが源流ですし、古書店との交流は当時はご法度。今のように店内に古書店を入れるという発想はありませんでしたが、「神戸古書店地図」の作成、兵庫県書店組合に呼びかけて共同で出版する「ひょうご歌ごよみ」(宮崎修二朗著)「兵庫の素顔」(朝日新聞神戸支局編)のプロデュースなど地域と関わることを積極的に行なってきました。これらがあってこその今なので、この時代を取材せずに書くことは誤った歴史を書いたということです。歴史を閉じる前なので、具体的な記事の検証はまたの機会に。

9月30日の閉店に向けて
閉店は時代の流れを受けて抗し得ないことでした。南天荘書店、コーベブックス、流泉書房、漢口堂書店、日東館、丸善、宝文館など、みんな消えていきました。海文堂は地域に生きる書店として出来うる限りのことを全力でやってきたと思います。私が去ったあと、これまで頑張ってきた皆さんには心から敬意を払います。これから離職する皆さんの力になりたいと思います。それと正確な海文堂書店の歴史を残さねばならないと思っています。そのために閉店するまでに、資料を散逸せぬよう集めてもらっています。客観的に歴史を残すことによって、地域において頑張っている書店さん、出版社、多くの本を愛するみなさんへのエールとなり、皆さんの記憶にとどめていただくことが大切だと思っています。このプロジェクトは私が内容に関与するものではなく公正なライターにお願いしています。
これを書いているのは9月18日、閉店2週間前です。15日には当時アルバイトだった懐かしいみなさんと、29日は小林良宣さんや退職した皆さん8人で食事をします。最終日の30日の閉店時には息子夫婦の島田陽・容子と別れを見届けたいと思っています。

2013.8「学童疎開の記録」

宮地孝(故人)さんが神戸大空襲(1945年)の直前の神戸の学童疎開の情景を丹念に描いた27枚のスケッチを15年ほど前に沼田かずゑさんから託された。疎開先は加古川・清久寺、教信寺、常楽寺、赤穂・妙典寺、姫路・円光寺です。その貴重な記録を新しく額装し、「コープこうべ文化資料センター」へ寄贈して展覧会をして頂くこととなりました。六甲学生青年センターの飛田雄一館長、「神戸大空襲を記録する会」の中田政子会長にも協力していただきます。なぜ、もっと早く気付くべきであったと自分を責めています。展覧会をして披露するだけであれば簡単なことです。でも、きっちりと残していくことが必要だったのです。何故、「コープこうべ文化資料センター」なのか。阪神淡路大震災の時に「アートエイド神戸」という活動をしていました。その時に画家の長尾和さんが被災地を歩いて残した水彩画25点と、ここから生まれた「詩集・阪神淡路大震災」から選んだ詩25篇で「鎮魂と再生のために」という詩画集を刊行し、東京、釧路、福岡をはじめ各地で展覧会を開催し、それらを「コープこうべ」へ寄贈し、毎年のように1月17日をはさんで展覧されてきました。思えば阪神淡路大震災は50年目の戦場神戸と呼ばれました。宮地孝さんの学童疎開の記録は、その神戸大空襲にまつわる貴重な記録ということになります。考えてみれば加川広重「雪に包まれる被災地」に関わっていることも何かの導きで私が選ばれているということかもしれません。この絵には疎開地である加古川、姫路のお寺の名前、日付、子どもたちの名前まで書かれています。ご存命であれば80才前でしょうか。優しい眼差しで疎開の日々が、丁寧な筆致で描かれています。ここから、数々の物語が紡ぎだされていくことが想像されます。

※宮地孝「学童疎開の記録」展 7月23日(水)~8月17日(土)10:00~17:00
コープこうべ生活文化センター1階展示コーナー(住吉)

アートの力

大学で話(講義)をさせていただく機会が続いている。これが、結構、負担で苦しむ。自分の話など役に立つのかと自問し、毎回、考えあぐねながら臨んでいる。私の体験などまことに間口が狭く、且つ特殊である。ことごとく常識はずれである。言ってみれば「生き方」について語り、若い人を挑発しているだけのことだ。それゆえに熱っぽい話になる。しかし、学生はなべて音無しである。みんなどう感じているのか不安になる。でも課題レポートを読むと、伝わったかなと安堵もする。街で若いカップルに「島田さんですね。講義受けました」と声がかかったり、ギャラリーのオープニングに顔を出した人もいる。6月の講義が終わったときに、「なぜアートが必要なのか問われたときに答えられる文を教えてください」と個人的に話しかけた学生がいた。私は次の講義のときに、伊津野雄二作品集(9月刊行予定)のために書いた「大切なものはここに」をコピーして渡したが、そのあと手にした中川眞さんの「アートの力」こそが推薦すべき本であった。ご本人に「美の散歩道」への寄稿をお願いした。

複眼で見る

今よりも明日、片目で「現実」、もう一方で「理想」を見ることを心がけてきた。ところが現実を見る左目が、あまりにひどい現実を凝視しすぎてひどい乱視になり、眼の不調が続いている。そういえば私の好きな松本竣介(1912~1945)の「立てる像」の両瞳が左右別々の方向に向かっていることを林哲夫さん(注1)が「帰らざる風景」(みずのわ出版)に書いている。
これは歌舞伎で謂う「天地眼」で、魔を調伏し煩悩を焼き尽くすことで修業者を助ける不動明王の眼相「日月眼」で、超越的な力を発現させる表情だと林さんは言う。竣介の眼が《少々、明後日の方向を向いていても》、竣介の混沌とした新世界像を完成させるという目標と対応する実践の試みの発現であり、私の複眼と重なる。
竣介が昭和16年(1941年)に軍部に抗議して書いた「生きている画家」は開戦直前である。その冒頭で「沈黙することは賢い、けれど今ただ沈黙することが凡てにおいて正しい、のではないと信じる」と書く。こうした竣介の言説が果たして抵抗であったのか、なかったのか。林さんの論はまことに刺激的である。 林さんの「帰らざる風景」は洲之内徹(注2)の「帰りたい風景―きまぐれ美術館」を踏まえた林さんの洲之内徹論であり、神格化された洲之内徹を批判を恐れず論じていて面白い。林哲夫さんと、洲之内徹さんと最後まで行動をともにした木下晋(鉛筆画家)をお招きして、お話しいただく機会を持ちます。(注3) 松本竣介は脳脊髄膜炎13才で聴覚を失い、西村功は悪性中耳炎で3才で聴覚を失っている。私は二つの美術館での西村功展に関わり、1945年、竣介は家族を疎開させ、宮地孝は学童疎開を描き、私はその宮地作品の公開に関わっている。
縁の不思議を思わずにおれない。

(注1)林哲夫展  2013年10月5日(土)~ 16日(水)  B1F
(注2)洲之内徹  1913年1月17日 – 1987年10月28日
(注3)洲之内徹とギャラリー島田コレクション展 2013年9月21日~10月2日
    関連サロン 木下晋・林哲夫が語る洲之内徹 9月21日(土)17:00~
東北へ行ってきます

加川広重巨大絵画プロジェクトが再び神戸で開催されます。大きな反響をいただいた“「雪に包まれる被災地」が繋ぐ東北と神戸”は、市の意向で神戸に留めおかれ、県の意向で、なんらかの助成を受けることになりました。二番煎じは、やりたくありません。“そこから生まれるもの”が大切だと思います。当初は「神戸ビエンナーレ」に合わせてということでしたが会場の都合で駄目になり(かえって良かったのですが)、2014年1月5日~17日に開催されることとなりました。 次回には

「雪に包まれる被災地」に続く大作「南三陸の黄金」を展示し、二つの作品に囲まれる会場となります。
1月17日を最終日としますので、まさに「1・17」と「3・11」を繋ぐ大きな意義を担うものとします。
準備の時間が十分にありますので、二つの作品に触発されるダンス、詩、演劇、音楽、シンポジウム、国際交流、  東北志縁、減災思想など、多彩な企画を計画したいと思います。
「アートの力」が繋ぐ東北と神戸の象徴的な場であり装置でありたいですね。

2013.7「天啓のように」

このごろアートマネージメント、アートプロデュースの専門家のように思われ、若い人への講義や話を頼まれることが多い。しかし、私は、そういったことには、どちらかと言えば背を向けてきた。人に頼むことが苦手で、情報を流す以外のことはまずしない。常識と思われるプレスリリースや、企画書などもほとんど書かない。それでも「事は起こるときには起こる」。加川広重プロジェクトの時もそうだった。私の背中のリュックに15年も前に投げ込まれて、気になりながらどうにも出来なかった宿題が、天啓のように閃いて解決しそうだ。無意識のうちに眠っていたものが、その閃きで、くっきりと道が見える。今回の宿題は宮地孝(故人)さんが神戸大空襲(1945年)の直前の神戸の学童疎開の情景を丹念に描いた27枚のスケッチを15年ほど前に沼田かずゑさんから託された。疎開先は加古川・清久寺、教信寺、常楽寺、赤穂・妙典寺、姫路・円光寺です。それが貴重な記録であることは分ったが、その扱いを考えあぐねてきた。額装などの費用の問題は別にしても、単に展示して終わりでは仕方がない。ずっと心の奥にひっかかってきた。その解決の一つのヒントが今年、3月初旬に訪ねた仙台メディアテークでみた写真展である。古い仙台の町並み写真を展示し、そこへ多くのコメントが寄せられ、場所が特定され、思い出がコメントされていた。帰神してこの「学童疎開」の話を数箇所にしたが、進まず、ある日、コープこうべ文化資料センターから資料が届いた。そして「閃き」がやってきた。最初は否定的なニュアンスだったが、お見えいただき、宮地作品の持つ意義を確信してお話し、決断していただいた。詳細は次号で書くが、「コープこうべ文化資料センター」こそが最適である。「お受けします」という言葉に安堵したが、これから額を作り、会期を決め、詳細を相談せねばならない。私の夏休みはどうなるのだろう。

荷を降ろす

まだまだ背の荷物は重い。自分で背負った荷もあるが、面倒なのは背中に投げ込まれた荷もある。一つ一つと降ろしていく端から投げ入れられる。宮地孝「疎開図」をリュックから出したが、「加川広重巨大絵画」を再び背負うことになりそうである。さらに二倍の重さで。作家の皆さんに約束したプロジェクトもいろいろある。 作家さんにとって大切であってもギャラリー島田にとって役割を終えた作品を作家さんにお返しすることもはじめている。と、同時に、作家さんから依頼を受けて、作品を預かり、その居場所を探すことも後を絶たない。 古稀を越え、一日一日を閉じていく頁を念頭にしながら、一方でもっと丁寧に、いい仕事をしたいという思いとの間で、体は軋みをあげている。背中に重い荷を担ぎ砂漠を黙々とゆく「駱駝の歩み」の時代、次に創造のための格闘する獅子奮迅、獅子の時代。そして最後に、思いもよらない自由な発想をする真の創造の「子どもの時代」、という、ニーチェの人生三段階説(注)に倣(なら)えば、盆と正月が一緒に来たわけではありませんが、荷を負った駱駝が子どもの心をもって獅子奮迅といった図ですね。
(注)梅原猛「人類哲学序説」岩波新書から。

贈り物

大切な人になにを贈りたいか。そもそも、その大切な人とはだれだろう。多くは家族や友人、愛する人、隣人、お世話になった人だろうか。無愛想と自任する私は歳暮の類(たぐい)はほとんどやったことがない。接待についてもしかりである。そうとうに臍が曲がっている。しかし贈答・接待の類でない「Cadeau」だってある。贈られても困るものだってある。おせっかい、おしゃべりの類も苦手である。放射能や国の借金はいらない。強制された愛国心、過大な格差、数限りない困った贈り物を想像できる。アベノミクスを評価する声は私の周りでも聞きます。黒田異次元政策も私は大いに疑問だと思っています。「今が少しでも良くなれば、それでよし」は、繰り返されてきた私たち日本人の性向です。すべてを先送りする。誰もが責任をとらない。責任を追及されないから、今、自分しか考えない。原発が「トイレなきマンション」といわれ、その実体は隠しようもありません。「安全神話」の欺瞞も露なうちに、再稼動、原発輸出。すべてを先送りする。どんどん刷った紙幣が行き場を探し、「投資」され。お金を使う為に事業が計画され、その債務は未来の人へ押し付けることになります。人口減少は確実な未来なのに「国土強靭」さらなる経済成長、競争社会ですか。でも地球の未来に向けて、子どもたちの、その子どもたちの、そのまた子どもたちのために、すぐ隣の人、遠くにいる、まだ見ぬ人、地球の裏側の人のためにも、贈りたいものがある。それぞれの人が、それぞれの居場所をえて、生きることを全う出来るように贈りたい。平和であり、尊敬しあい。分かち合う心を。それが日本の憲法なのだと思います。憲法が実情に合わないのではなく、実情のズレを糾していかねばならないのだと思います。

2013.6「出来るかもしれない」

その夢も次々と膨らんでいくから うれしくもあり 怖くもある。その夢といっても金持ちになりたいとか、地位を得たいとか、でっかいことをやりたいとかとうこととは無縁の身のほどを知った、慎ましいもので誇るほどのものではありません。誰でも出来ることなのに誰もやっていないこと、と言えばいいでしょうか。前号で加川さんが書いていましたが、誰でもあの巨大絵画を他所で展示したらと言う、でも誰も出来なかった。いや、出来ないことはない、壁さえあれば。でも、そのことにきちっとした意味を与えることは簡単ではないでしょう。私のやっていることは概ね「出来るかもしれない」という妄想が、勝手に膨らみ、徐々に姿を現し、実りを得るという類(たぐい)のこと。こつこつと努力を重ねていく他はないのです。ギャラリーの歴史も35年目に入りました。その時々の積み重ねが、振り返れば、層をなして磐を築いているのかも知れません。それは自分の「益」を追求するのではなく、作家を尊重し、相手を尊重することを優先し、今よりも明日、片目で「現実」、もう一方で「理想」を見ることを心がけてきたことに縁るのかもしれません。白石一文さんの「砂の上のあなた」の言葉を借りれば「この無慈悲な世界への絶望とそれゆえの『すぐそばの彼方』に希望を託す」という深い問いかけに繋がります。困難に見えることも、こうすれば「出来るかもしれない」という道筋がはっきり見えることが多くなってきます。しかし、古稀を迎えると、ひしひしと時間が有限であることを肌で感じます。スタッフは、私を楽にさせてくれる(そして自分たちも楽になる)体制を作ってくれているのに、いっこうに楽になれないのは、「出来るかもしれない」という道筋が見えてしまうからかもしれません。目を瞑(つむ)る時は彼岸行きなのかもしれません。
ながくやっていると

西村功先生のこと

3箇所、同時開催ではじまります。没後10年の記念展をBBプラザ美術館の坂上義太郎さんに相談したことから進展し、神戸ゆかりの美術館との連携となりました。BBプラザ美術館が「パリの情景」を、神戸ゆかりの美術館が「西村功と神戸 哀歓とユーモア」をギャラリー島田が「油彩、水彩画、デッサン」を。神戸市所蔵作品、㈱シスメックス、DAIMARU,ギャラリー島田のコレクションなどを集めての、かってない試みが実現するのです。1989年に初めて展覧会をさせていただき、画集、デッサン集、冊子などの制作、西宮大谷記念美術館での西村功展の実現、それを契機とした「シスメックス西村功コレクション」の実現とずっと繋がってきて、今回の「3箇所、同時開催」の実現があります。こうしたことは、何より西村功という画家の作品と、みなに愛された人柄の魅力であり、またその作品を次代に継承してゆくと多数作品収蔵して下さったシスメックスさんの英断が生かされることでもあり、様々な新しい意味が与えられることになりました。関係の皆様に心からの感謝を捧げます。シスメックスさんからお借りする3ヶ月の間、すべて無償のことですが、代わりの作品を用意し、展示変えをせねばなりません。でも神戸が西村先生に彩れ、憩う姿を見るのは心踊ることです。

松村光秀先生のこと

全国7ヶ所での「偲ぶ展」の6ヶ所が、佐喜眞美術館で5月6日をもって終わりました。地元2紙に窪島誠一郎さんと私が「展評」を書かせていただき、普段はあまり来ない、沖縄のみなさんが来館されたとお礼の電話がありました。(同封の資料をご覧下さい)
27年に及ぶお付き合いになりました。信濃デッサン館槐多庵での展覧会とあわせて、あらためて、その素晴らしい作品群に見入り、心に染み入りました。今年はあと「神戸わたくし美術館」を残すのみとなりました。この旅もまた始まったところです。

伊津野雄二作品集のこと

ギャラリー椿、名古屋画廊、ギャラリー島田と新潟絵屋が共同で作品集の出版を準備しています。伊津野さんとのお付き合いは、うちが一番新しい(2009年)のですが、出版は、島田が呼びかけさせていただきました。出版記念展は、11月の椿さんを最初に、上記の順番で、島田は2014年5月になります。いいものが出来ることを確信しています。新潟絵屋の大倉宏さんが、「理想の種」という、力の籠った紹介文を書かれ、私もエッセイ「大切なものはここに」を書いていますが、2000字を書くのにとてつもなく時間がかかりました。伊津野さん自身が、美しい作品写真と詩句をちりばめてデザインされ、それに私の文を重ねるのは、うれしくもあり苦しくもありました。こんなに推敲を重ねるのも珍しいことでした。こうした共同作業は、それぞれの想いを譲り合いながら進めていかねばなりません。この発案から刊行までも、また創造的表現なのだと思います。刊行は10月中旬。芸術新聞社からです。皆様には刊行に先がけてご覧いただきます。

再び「出来るかもしれない」

  • 藤崎孝敏さんの展覧会を来年も三つのギャラリーで開催します。それまでにHPを作り、来年末までに画集を刊行したいと思い、  準備を進めています。
  • 私の5冊目の著作を古稀の間に出す準備を進めています。風来舎、井原さんと組みます。
  • 加川広重巨大絵画プロジェクトは第2作の「陸前高田」と「雪に包まれる被災地」を同時にご覧いただく計画があります。沖縄、  広島でも出来ればいいですね。
  • 終わったばかりの「坂本正直展」は、今日な大切な意味があります。例年は坂本さんの生誕100年でもあります。これも沖縄、   広島で…。香月泰男がシベリアシリーズを描いたのが復員後、22年。58歳の時。坂本さんが「クリークの月」を描いたのも58  歳の時でした。それだけの時間が普遍としての表現にいたるための思索の深化に必要であったということだと思います。2011年  に97才まで、まったく、ぶれることなく追求してこられた世界は戦争と云う事象を超えて美しいのです。

2013.5「雪に包まれる被災地」が繋いだもの

2013.5

「雪に包まれる被災地」が繋いだもの

3月11日が巡ってきました。被災地といっても斑模様、復興もまたしかりです。経済全体が停滞するなかで、成長、インフレ、国土強靭、防衛、原発再稼動などの、どこ風ふくの風潮は、私はとても眼をつぶってやりすごすことは出来ません。縮小、平等、国土柔軟、協調、脱原発など、豊かさを問い直すことが大切なことに違いありませんし、それを私たちが日常のものとしていきたいと思います。

昨年8月13日~17日まで私どもの財団が関わったプロジェクトを見がてら五度目の東北入りをしました。東北を肌で、五感で感じた上で、心を添わせたいと思っています。せんだい演劇工房10-BOXを訪ね、石巻での新台湾壁画隊の壁画制作に立ち会った。そして南相馬や飯舘村へ足を伸ばし、最後に仙台メディアテークで加川広重さんの「雪に包まれる被災地」と出合いました。震災は、この作家を選び、天命としてこの作品を生んだのだと思いました。この場、この時、この人、まさに一期一会の作品なのです。
この記念碑的な作品を、神戸で展示したいと思いました。ほかの何処よりもまず神戸で。東北に心を寄せて支援を続けている多くの人に、また心を残しながら足を踏み入れることが出来ない人々のために。この絵と出会い、新しい繋がりや、新しい視点を持てるために。
この巨大絵画は、単に圧倒される、凄い、感動したということに終わることなく、そこで何かが生まれ、何かが変らねばならなく、それはそれぞれのわが事であるに違いありません。それが「繋ぐ」ということなのです。

KIITOという場を得、まさに奇蹟のように絵が納まりました。

会場が決まったのが一ヶ月前。メールと電話だけで、協力を要請し、スケジュールで都合がつかなかった一人を除き、快諾を得ました。共催の神戸市、デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)からは会場提供をはじめ、大きな協力を頂きましたが、資金の目処がまったくありませんでした。市から「すべて島田さんのほうで」と言われた時から、どれだけかかるのか雲を掴むようでしたが、アート・サポート・センター神戸と自己負担と腹を決めました。1万円の賛同金のアイデアは、お金というよりも、一緒にプロジェクトへ参加して下さる同志を募る気持ちでした。チラシを作る段階での21名で終わりだと思い、それでも助かったと思いましたが、最終的には62名のご賛同を頂きました。遠方から来られる方は交通費、宿泊費のみ、お払いしましたが、それをまた寄付される方もおられ、参加される皆さんの静かな、しかし真摯な思いこそがこのプロジェクトに深い意味を与えたのでした。300万円規模のプロジェクトを85万程度で行い、黒字になり「アーツエイド東北」への志縁¥273,909と、財団への寄付¥50,000まで生み出したのですから魔術のようでした。11日間の観覧者数は4,865名だったそうです。(KIITOのカウントです。)すべての期間を通して交代で務めて下さったボランティアの皆さんも、プログラムに名を上げたみなさんも、それぞれに加川さんの絵画から、多くのことを感じ、また見にきて下さる方とも心を繋がれたのでした。ギャラリーのスタッフの献身にも感謝。

点描

  • DanceBoxからは大谷燠さんがダンサー5名と参加して下さいました。それぞれ展示作業から立ち会われたり、しっかりと作りこまれ、リハーサルでも、本番でも時に立ち上がって見つめる大谷さんの姿にDanceに対する愛情と場に対する敬意を感じました。
  • 板橋文夫(ジャズピアノ)さんもソロライブだけではなく大学生のバンドとの共演を申し出られ、事前に十分の準備をされて見事なセッションをされました。季村敏夫(詩人)さんとのセッションも季村さんの「災厄と身体 破局と破局のあいだ」を読み込まれて、ここをやりたいと指定。季村さんも何度もKIITOへ運ばれ、この絵、この場、板橋のピアノ、これは厳しいと、何度も呟きながら「島田の誘いは必ず受ける」と、全力で向かわれたのです。即興的につけるといったものではなく、確信に満ちた音楽を奏でていました。それと切り結ぶ季村さんの言葉・・・
  • 最後は田中泯さんの「場踊り」  田中泯さんも前日、あくる日のライブ開始時間の18:00頃、板橋さんのライブの只中に来られました。ゆっくりと絵を、会場を見られ、後半のライブを、ゆったりと聴かれていました。私は、左後方でその姿を見ていました。そして当日、まだ、黄昏の光の気配が残る場の電気をすべて消し、ゆっくりゆっくりと暗闇へと進み、幽かな嘆声が漏れ、絵に溶け入り一つとなったのです。後は蝋燭の灯り一つが・・・深い思いを伝えながら。加川広重の「雪に包まれる被災地」は泯さんによって完成されたと感じました。それは加川さんを謗(そし)ることではなく、作品とは他者と交感することでもう一つの生命を得るのです。

2013.4 「3.11に」

3月11日が巡ってきました。被災地といっても斑模様、復興もまたしかりです。経済全体が停滞するなかで、成長、インフレ、国土強靭、防衛、原発再稼動などの、どこ風ふくの風潮は、私はとても眼をつぶってやりすごすことは出来ません。縮小、平等、国土柔軟、協調、脱原発など、豊かさを問い直すことが大切なことに違いありませんし、それを私たちが日常のものとしていきたいと思います。

権力(ないし戦争)は、絶えず離合集散をくりかえすわれわれの無数の合意、無数の無関心、無数の断念、無数の倦怠、無数のシニズム、無数の沈黙をいちばんの養分にして、ある日むくりと巨体をたちあげてくるのである。テレビを消せば、かれと私の関係は切れる。だが、私のあきらめは、権力の腐敗と増殖をしずかにささえ、ひるがえって、私自身を刻々荒(すさ)ませるのである 辺見庸「水の透視画法」(共同通信社)

ゆっくりと孵化する

なぜだか自分の領域がかってに拡がっていく。何故だろうかと訝(いぶか)る。いまさら欲や見栄に背中を押されるわけではない。なにかが、こうすれば出来ると浮かんでくる。その夢想から何か大切なものが生まれることだけは確かなのです。藤崎孝敏さんの三つの個展、松村光秀さんの七つの「偲ぶ展」の開催、伊津野雄二さんの三つのギヤラリーが協力しての作品集の出版、石井一男さんの各地への展開、生誕百年・没後10年の西村功さんの二つの美術館での記念展の開催。これらはプロジェクトと言える規模ですし、「アーツエイド東北」を核とした東北志縁、「雪に包まれる被災地」プロジェクトなど、ふとしたアイデアが確かな像を結んできた例ですが、べつに捻り鉢巻きで頑張っているわけではありません。苦労をかけるスタッフも淡々とした日常のなかで取り組んでくれています。静かな早朝の自宅の小さな書斎から生まれた卵が、ゆっくりと孵化してくるリズムに似ているかもしれません。

加川広重巨大絵画「雪に包まれる被災地」プロジェクト

この通信が届くころには始まっているかもしれませんが、このプロジェクトも不思議なプロジェクトです。加川さんの5.7m×16.4mという被災地を描いた記念碑的な作品に昨年8月、仙台で出会い、神戸で見て欲しいと夢想したことから始まりました。

  1. 巨大さ故に仙台を出なかった作品が多くの課題を克服してKIITOで展示されます。
  2. ただ展示するにととまらず東北と神戸を繋ぐものとしました。
  3. 「志」が繋がっている人々がボランタリーに協力をしてくれます。
  4. 市とKIITOは場所と設置費用を持って下さいます。
  5. 助成金を受けずに(後に加川さんに運搬費の一部10万円が助成されました)開催する決意をし、一口1万円の賛同者を募りました。お金よりも、皆さんと共に創るという意識を大切にしたかったのです。
    51名(3/13現在)の賛同で運営経費の半額をまかなうことができます。ありがとう。
  6. なおかつアーツエイド東北への支縁を届けるようにしたいと思っています。
  7. 神戸の場合にそうであったように、今回も記録をしっかり撮っておきたいと思います。
    メディアの取り扱いは表面的にしか捉えてくれませんが、確かな意味を付加するものです。

2013.3 「種を蒔くことは夢見ること」

私の頭脳のどこかにひょいと浮かんだことが次第に焦点を合わせたように形をなし具体化し実現する。とても不思議なことが次々と起こります。 亀井健さんが私に託されたことが公益信託となり公益財団法人となるのに20年。いずれも全国初のことでした。震災後、夢見、発表し、研究会をもったりした「ひょうごコミュニティー財団」がわが財団の事務局を担う市民活動センター神戸の実吉 威さんが中心となって、進水式を終えられまし た。これは私が語りだして15年で形が見えてきました。誇るつもりで書いているのではありません。時代が追いついてきて、形とする人を得てしだいに結晶を成してきているのです。種を蒔くことは夢見ること。そして水をやり、手をかけること。そのことを慈しむことが夢を育てやがて実りを迎えるのでしょう。それが大地に根を下ろしているということなのでしょう。今は、種を蒔くひとが果実を得て結果を手にする、促成栽培ばかりのような気がします。

作家たちの居場所
ながいお付き合いの中で、うちでの発表に止まらず、多くの画廊や美術館での展覧会を繋げ画集を出したり、本を書いたりしてきました。昨年9月に亡くなられた松村光秀さんの場合は主要な作品約120点を信濃デッサン館と佐喜眞美術館に寄贈、それぞれ展覧会が開催され、残りの作品190の写真を取り終え、資料の完璧な整理をはじめています。今年、七つの展覧会が各地で開催されます。
没後10年をむかえる西村功先生はBBプラザ美術館(6/15~9/1)と神戸ゆかりの美術館(6/15~9/23)で、前者はパリを中心に、後者は神戸を中心としながら全画業を回顧します。ギャラリー 島田でも水彩・デッサンを中心にご覧いただきます(6/15~ 26)。
伊津野雄二さんの作品集「光の井戸」は四つの画廊が共同して出版します(7月ころ)。藤崎孝敏さんは公式HPを開設し来年の三つの展覧会をプロデュースし、2年後には画集を刊行すべく準備をしています。
石井一男さんは今年は湯布院で、来年は東北でもご覧いただくべく準備しています。

作品の寄贈プロジェクト・美術作品寄贈プロジェクト
美術館や学校、企業に寄贈・寄贈仲介するプロジェクトを行っています。このたび松村光秀作品を信濃デッサン館と佐喜眞美術館へ計117点、BBプラザ美術館へ西村功と横尾忠則を2点、計3点を寄贈しました。これで寄贈累計点数は222点となりました。

震災との関り

18年前に「アートエイド神戸」を始め7年間、かかわりました。そのことが再び東北大震災で活かされ「アーツエイド東北」へと繋がっていきました。これも私自身が行うのでなく、蒔いた種がかの地に着床をしたのです。そして、ただ自分の目で見、感じ、嗅ぎ、細胞に染み渡らせるように東北を訪ねました。5回目の東北で仙台メディアテークで加川広重さんの「雪に包まれた被災地」の巨大絵画と出会ってしまいました。そして本人にも。東北の震災に思いを馳せながらも行けない方のためにも、また薄れゆく記憶の源へと立ち返るためにも、この絵を神戸に運びたいと思ったのです。でも、これだけの絵を、それにふさわしい場で飾るとなればこれは難しい。しかも多額の費用がかかります。それが、まさに、ここしかないという場に飾られることになったのですから、この期を大切にしたいと思います。「雪に包まれる被災地」が繋ぐ東北と神戸プロジェクトは、こうしてスタートしました。そこで私の役割は終わったつもりであとはKIITOが主催するものとばかり思っていましたが島田のほうが主催するように言われました。せっかくの展示が意味を持つためには、東北志縁の思いを繋ぐ場でありたいと思い直し、全力で取り組むことにしました。時間がない、お金がない、でも、やりましょう。みなさんと。この通信でのお知らせでは間に合いません。とりあえずは同封したチラシに概要をお書きしています。あとは逐次、メルマガやHP,マスコミ報道などでお知らせいたします。
どうか、一人でも多くの方にKIITOにお運びいただきたいと願うばかりです。

2013.2 「切り結ぶ」

昨年末は石井一男 展、須飼秀和展、山村幸則展、上村亮太展と続き、年初は、藤崎孝敏展で始まりました。どれもが充実して、この仕事を長く続けてこられたことを身に染みて至福に感じます。今年を見渡せば、 それぞれにまた楽しみでもありますし、心引き締まる思いでもあります。

個展は作家にとっては全力で挑むものであり、私たちはそれを受け止めねばなりません。それは、終わりなき果し合いのようなものです。私の「絵に生きる 絵 を生きる」を読んだ山本忠勝(元、神戸新聞編集委員)さんが

「人と人とが正面からぶつかってその拍子に相手の体を向こう側へ透け抜ける。今の物理学の見方(量子論)からすればそういう確率もゼロではないのだそうである。60兆個もの細胞でできているお互いの体が交錯し、透過し合う。だとすると透け抜けたあとのふたりというは、精神の上でも途方もない痕跡を印し合っているのではなかろうか。」  と書いています。私と作家は切り結ぶ様らしい。

出会いと夢想

今年も、多くの新しい出会いと、湧き出づる夢想に心が騒ぎます。どれも実現可能ではあり、とても大切なことではありますが、そんなエネルギーと時間をどう捻出するのか。

たとえば松村光秀さんの「偲ぶ展」が七箇所に及び、石井一男さんが湯布院・亀の井別荘や美術館で展示される計画があり、伊津野雄二さんの作品集を三つのギヤラリーが協力して刊行し、藤崎さんとも次のステップがあり、関る多くの作家も、活動の場が拡がっていきます。それぞれの作家や仕事に心を寄せていると、ばらばらに点在しているかに見えていたのが、にわかにある形をなしはじめ、新しい意味を持つことに気づく。そんな気配に慄(おのの)きながらも向おうとする自分がいます。

あらゆるものには終わりが来る。

高野卯港、元永定正、松村光秀さんが逝き、加藤周一、吉田秀和、武満徹さんを失い、昨年末には西村宣造さんの突然の訃報を聞いた。私は古稀となりギヤラリーは35年を迎えた。ターミナル(終着駅)は急峻な山と、荒れた海の際に連なる鉄路が彼方で山陰に隠れて見えない先にあるようだ。警笛を鳴らしながら走る列車の室内は静まりかえり、私は残された時を思っています。過ぎ去りし日を振り返るのではなく、残された日々を一つずつ消していく、その今を慈しむように抱いた思いが結晶となるのを 待っています。

今年もみなさんと共に・・・・

【蝙蝠随想】

「私と万年筆」

大学時代の夏休みに友人三人と鳥取、島根を旅した。普通列車を乗り継ぐ、今でいう「青春18きっぷ」だ。当時の学生にとって普通のことであった。それから20数年後、大学入学が決まった息子を誘って、思い立って同じルートを二人旅し、“鳥取万年筆博士”に立ち寄った。1987年、始めて水牛製万年筆が発売されたころである。私は仕事で立ち寄った鳥取で偶然見つけたこの店ですでにお気に入りの一筆を手に入れていたので、息子にも名入りの万年筆を入学祝いに贈った。ある文化の賞を受賞した友人にも贈ったことがあるが、いつのことか思い出せないので、この文を書くために聞いたら「1991年のことだよ。大切に使っているよ」と、すぐにメールで画像が届いた。今はメールやツイッター全盛の時代で、確かに便利である。私はもともと書くことが好きで、詩人気取り、文士気取りであった。メールでは文士気取りにはなれない。私は字が下手で、昔は年長の友人から「マコちゃんは、文はいいのに字がもうちょっとなんとかならんの」と言われたり、「楔型文字」とか「象形文字」とか、からかわれた。その悪筆を続けていると、今では個性的と誉められることが多くなった。それは太字万年筆のお蔭かもしれない。メールの便利さに溺れていた私を痛撃したのは永六輔さんである。阪神大震災のご縁で、ご一緒させていただく機会が増えた。最初にお会いした翌日には、永さんから、「お世話になりました。楽しくかったです」という葉書が届いた。お世話になったのは、こちらで忙しいのも永さんで、これが毎回のことなのだ。湯布院・亀の井別荘の中谷健太郎さんは葉書に書いてそれを封書に入れる。メールは消してしまうが、これらはPHOTOアルバムに永久保存である。私も粗雑さを恥じ、いつも葉書と切手を携行し、悪筆のまま、お礼の葉書や手紙を頻繁に書くようになった。勿論、愛用の数種の万年筆で。

「HAKASE通信 VOL.21」から