2012.12 「奇蹟のごとき今」

奇蹟のごとき今

古稀という言葉は唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)の「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。(しかし)七十年生きる人は古くから稀である)に由来するそうだ。しかし、私は酒代のつけを置いたことがなく、いまや七十はごろごろしている。祝うべきことでもない。私の家族たちは古稀であることも知らずにその日は淡々とすぎた。のぞむところだ。

しかし、死は生あるものに等しくあることは知っているが、「今」という時の価値は誰にも等価であるわけでは無いし、私の「今」は10年前の「今」と等価ではないようだ。限りが意識される分、「今」は雑念が濾過され凝縮され結晶となってある気がする。

想像力(イマジネーション)とは何だろう。創造力とは何だろう。

ある日、ある時、ある中学校にて。ぼくは語り始めた。(略)
「地珠上にさまざまな動物が生きているんだけど(略)、どうも人間だけが持っている能力があるように思えるんだ。ボクがどんな能力をイメージしているか分ってくれる人はいるかなぁ」(学生たちの戸惑いの気配が教室に漂った。その時、少し離れて胡坐を組んでいた、男の子が「あしたのことを考える力やろう」と、けっこう大きな声で呟くように言った。牧口一二(ゆめ風基金代表理事)が書いておられた。(特定NPO ゆめ風基金会報「ゆめごよみ風だより」から)この言葉をメールマガジンで紹介したら、「これまでのことを振り返る心」を持っていてこそ…ですね。と坪谷令子(画家)さんから応答があった。

「あした」と「これまで」の間に「今」がある。私の「これまで」は取り消すことも、書き直すことも出来ない。それぞれの「今」の次に「あした」があり、多くの選択肢があった。その岐路で別の道へ踏み出せば、また別の「今」を迎えていたかもしれない。自分で選び取った道を歩みながら、脳の手術、震災、家人の死を身近にした70年の歳月を顧みての「今」は奇蹟のようなもので、多くの人の恵みであり、見えざる大いなる意思の恩寵に他ならないとしみじみと思う。

才能を世に出すには、その才能を見出す才能の持ち主が必要である。そうした人々を我々は伯楽、または名伯楽と呼んでいる。 もしも彼に、名伯楽なかりせば・・・
古今東西、ほとんどの芸術家は一風変った社会不適合者としてこの世の片隅でかろうじて呼吸するしかなかったであろう。

「奇蹟の画家」(講談社文庫版 解説 白石一文 P264)

ここでは石井一男さんと私のことですが、私もまた後藤正治という伯楽に見出された訳ですし、多くの伯楽に恵まれてきました。もともとギヤラリーやアート・サポートの役割そのものが、才能を発見し、紹介し居場所を作ることです。それが私たちの日常なのです。

そして創造力とは夢見た明日を実現する力だろう。そして「夢=アルカディア」の中身こそを問い続けることこそが日々刻々のことでありたい。

2012.11 「愛と魂の美術館」

愛と魂の美術館

岩波書店の編集部から小包が届き、中から立派な本が2冊でてきた。立川昭二さんの「愛と魂の美術館」だった。ようやく思いだした。ずっと前に石井一男さんの作品写真の使用を許可したことを。私は参考図版くらいに思っていたのだけど、なんと54人の画家を紹介しているが、その最後に置かれたのが石井一男さんなのです。立川昭二「愛と魂の美術館」は古代から現代まで、日本と西洋の美術作品54点に着想を得ながら、人の「いのち」について考える随筆集。誰もが知る名画も、生老病死の文化史的考察を長年行ってきた著者が読み解くと、ひと味違う魅力が浮かび上がってきます。石井さんが最後に置かれているのは、著者がこの本で書きたいと思った主題「美術作品は本来人びとの祈りや癒しのために生まれ、そして表現者たちの創造への執念や無垢の感動から生まれたものであり、したがってそれらは人の生き死にそして愛や魂にかかわる人間の営みそのものだったのである」を象徴する作家として選ばれ、最後に置かれているのです。


石井作品が「最後に見る絵画」つまりエンディング・アートに選ばれるのはバッハの音楽と同じように、純粋で無私無心な絵画であるからではないか。(『奇蹟の画家』)この後藤さんの言葉を受けて立川さんは

生のさなかにある私たちも、この「女神」をじーっと見つめていると、いつのま にか自分を死の側に置いた境地になり、生きていくための現世的な祈りは遠くかすんでゆき、宇宙的な無心の祈りへと静かに移行し、両腕がわれ知らず寄せ合わされていくのである・・・。

と、この本を結んでいる。

石井さんの第3画集は「女神」と題し、石井さんの近作の女神を中心に編んだ。ギヤラリー島田での個展は12月1日(土)から12日(水)までです。 立川昭二「愛と魂の美術館」はギヤラリーでも販売しています。また「奇蹟の画家」(後藤正治)が講談社文庫から11月15日に発刊され、電子ブックにもなります。文庫版の解説は、下記の作家往来にも登場する白石一文さんです。

2012.10 「大切はものはここに」

大切はものはここに

伊津野は風土によって穿たれ魂を鑿で造形する。 美しき森、花々、野菜畑、鳥や虫の声、街より早く鮮やかに訪れる季節の便り、長い沈黙との対話。「こうしたささいな日常こそが奇蹟であり、 芸術は人々の日常の日々より貴重なはずはない」、伊津野の言葉である。その女性像が優しさと厳しさを湛えた「人」としての魂を宿し、 凜としてあるのは作家の日常の証であり、佇まいであり、それが稀有なのである。

島田 誠

伊津野雄二さんと出会って、いつも励まされてきた。気品にみちた作品、詩的な言葉、日常の佇まい、夫妻の何気なくも行き届いた心遣い。

いつの時代もそうであったように、悲しみを美しさにかえ、そのなかに希望の種子をうめこんでゆく・・・それが美術という仕事なのだと思っています。

伊津野さんの女性像は優しさの中に強靭な強さを内に秘め、性を超えた「人」の美しさが木霊となって音楽を奏でている。それは伊津野夫妻の化身といってもいい。

どんな時代にあっても、音楽や美術、ことばの美しさは、直接的な力の行使はなく、でも、時空をこえて、重要なSymbolでありKeyでもありうるという考えを捨てることは出来ません。

木へと切り込む鑿は厳しく情感を削ぎ落とし「海神(わたつみ)の翼もて」を生じる。その魂は船を操り海を往き、やがて空へと飛翔する。選び取られた「大切なもの」は微細な傷跡のように降り積もる刻に晒しきった私たちの純なるものの美しき残影。

岡崎(愛知県)の村の森の入口にあるお宅。手入れの行き届いた花壇や野菜畑、積み上げられた薪などの佇まい。街より早く、鮮やかに訪れる季節の便り。長い沈黙との対話、手が施すのを待っている木との交感。その日常の佇まいこそを大切にし、感性を解き放つ。芸術とはこの日常と等価のもの、それ以上でも以下でもない。その刻々が余剰なものを流し、美しくも厳しいフォルムと言葉を削り出してくる。

ちいさな風をつかまえにゆくのが仕事なのに
蜉蝣(かげろう)の羽音を聴きわけられねばならぬのに
粗暴な風が吹き
大切なものを吹きとばしてしまう
心せよ大切なものはここに
すべていつもどおりの箱柳(aspen)の木もれ日のなかに
野薊(wild thistle)の葉うらに

伊津野の彫刻が語りかけてくるものは、そのままに、私の望みであり「見ることのないあした」への一歩を踏み出す励ましである。

見ることのない あしたのために  風はたねをはこび
見ることのない あしたのために  雨は大地をうるおす
さあ 友よ 手をかしておくれ
ぼくたちも  また  このちいさな庭をたがやし
たねをまこう    それは美しい午後のために
そして 見ることのない あしたのために

2012.09 「遁走する しない」

遁走する しない

「敬老パス」を受給する書類が届いた。11月で古希というものに到達するらしい。杜甫「曲江詩」の「人生七十古来稀なり」から来ているらしいが、65歳以上の高齢者の割合が21%以上で「超高齢社会」と呼ばれ、日本は’07年に入った。平成72(2060)年には高齢化率は39.9%に達し、2.5人に1人が65歳以上となるらしい。どこが稀なものか。
日本の人口も現在の125百万人が40年後には80百万人に減少するという。40年などあっと言う間である。それを前提にすべてを考えざるをえない。自然エネルギーへの転換、省電力、節電意識の浸透などが相まって、原発不要は現実なのではないのか。35%ダウンサイジングすれば、すべてが過剰、過大ではないのだろうか。いたずらに成長、拡大、集客を競う意識からゆっくりと抜け出していこう。

 私は長生き指向もない。とはいえ、人に迷惑をおかけすることなく、人のお世話をしながら、お世話されること少なく、ぽっくりと逝きたい。とはいえ人生、そう上手くいくはずもない。生き恥を晒すことになるやもしれない。
 成長時代を生きた私たちや団塊の世代こそは「子どもたちの子どもたちの、その子どもたち」のための視座を持っておこう。平和をただ安逸に生き、成長をただ飽食に生き、抜け殻のような日本を置き土産にして天国へ遁走する恥じ多き世代であってはならないのでは。

さてさて、
 最近は新しく登場する作家さんが増えてきました。もちろん、他所でやられる展覧会や作品や資料を拝見して開催を決めるのですが、キャリアがあり、出来上がった作家もいますが、多くは未完成でこれからという作家が多いのです。多くの無名の作家を紹介し、世に出してきたというイメージを持たれていて、作品を見てほしい、個展をしたいという話しが多いので、出来るだけ、拝見し、厳しい意見を言わせて頂いています。その上で、個展を決めるわけですが、新しい才能に出会い、丁寧に作品を見、話をし、制作への姿勢や生き方を含めてお話しをさせて頂き、彼らが、新しい世界を切り拓いていくのを間近に見るのはこの仕事の醍醐味といっていいと思います。これからも多くの新しい才能を紹介し、共に歩むのを楽しみにしています。

2012.08 「2012年、前半を振り返る」

2012年、前半を振り返る

ギヤラリーの仕事としては力の入った展覧会が続き、財団の助成活動、東北志縁も、実質的な成果を生み出す時を迎えました。鴨居玲、斎藤真一、津高和一、野田哲也、永田耕衣、緒形拳などの著名作家の展覧会や、藤崎孝敏、高野卯港、森本秀樹の力のある作家が続いた。海外からは小山甚ニ(ニュージーランド)、Max Kong(シンガポール)を迎え、田中美和、林哲夫、画集出版記念の井上よう子が充実し、金井和歌子、矢原繁長が異彩を放ち初登場の7名の作家もそれぞれに印象に残る個展でした。これから始まる、石井誠の書アート展は「死すべくして死す」という大作一つでも見ていただく価値があります。画廊も大変な時代を迎えています。でも、ギヤラリー島田の壁、空間に挑む作家たちの思いを、しっかりと受け止めていける場でありたいと、それだけを願っています。

夏休みが明けると、今、世界を舞台に話題を集めている「具体」の作家たち浮田要三さん(8/25~9/5)上前智裕さん(9/8~19)、嶋本昭三さん(9/2~ 10/3)とお迎えいたします。若い大庭和昭 東影智裕 山村幸則が初登場。名古屋から木彫の伊津野雄二さん(10/20~31)、埼玉から梅田恭子さん(11/17~ 22)、パリからの前田隆一さん(11/24~ 29)をお迎えします。
お待ちかねの石井一男さんは、須飼秀和さんと同時期(12/1~12)に。9月から12月までの間に24の展覧会が予定されています。これを2+新人でやるのですから、なかなか大変です。

井上よう子画集を刊行しましたが、1石井一男画集Ⅲの刊行も準備に入っています。11月刊行予定です。

東北へは今年に入って3・11と5月と2度行きました。仙台と福島を訪ね、8月は沖縄へ。東北・沖縄を読み、訪ねる。無力を恥じながら。でも自分の体の一部であることを確かめるように。ファンドレイジングや震災と文化芸術の復興などで東京での講演やシンポジウムが続きました。大学での講義が6回。全力で準備をしますが、徒労に終わったのではないかといつも自己嫌悪に襲われ、満足することがありません。でも感想文やレポートを送っていただき、若い人の心に届くものがあったことに少し心慰めるものがあり、前をむく気持ちになれます。

2012.07 木下晋が鉛筆でなしたこと

木下晋が鉛筆でなしたこと

5月14日に五度目の東北入りをした。「アーツエイド東北」理事会・評議委員会へ出席し15日は福島県郡山から会津若松の赤坂憲雄さんが館長を務める福島県立博術館を訪ねた。」その後、東京で来年、初めてお招きする掛井五郎さんの個展会場を訪ね、16日、平塚市美術館を訪ね「木下晋 祈りの心」見た。私が行くと伝えると木下さんがわざわざ出迎えてくれた。初めて訪ねたこの美術館は、ほどよい現代的な建築で、爽やかな五月の空気と光のなかで穏やかに迎えてくれた。

木下さんの作品は、桜井哲夫さん(元ハンセン病患者)がモデルの近作を除いて、私にとって既知のものだが、こうして「祈り」という芯を通しての流れに沿うと一層、神々しさを感じた。木下さんは放浪を繰り返した母や、最後の瞽女と言われた小林ハルさん、谷崎潤一郎『痴人の愛』のモデル和嶋せいさん(ギヤラリー島田にコレクション)、そして桜井さんなど、絵画のモデルとして普通はありえない姿を、しかも鉛筆を駆使し、巨大に描いて、しかもそこに深い宗教性までを帯びた祈りの世界を表出させた稀有の作家である。

5月27日の「日曜美術館」の放映を見られた方も多いと思います。平塚市美術館では45日の開催で来場者が20,572人を数えました。本展は砺波市美術館(富山)足利市美術館(栃木)へ巡回します。

出会い

薦められて1989年にストライプハウス美術館で木下さんとその作品に出会いました。うちのギヤラリーでの木下晋展は次の通りです。 1991年 初めての個展、以来 93、95、97、98、2001、02、05、08と9回を数え来年3月の展覧会が10回目となります。多くのコレクターへと作品を渡してきました。 そして、画家と密着することがない、私ですが、何故か木下さんは、一緒に旅をしたり遠方まで脚を伸ばしたものです。日曜美術館でも紹介された月山を望む山形県湯殿山、注蓮寺の天井画も残雪の1992年3月にジャンムーランの美木夫妻と訪ね、木下さんと旅をしました。木下さんの作品に出会うために訪ねた美術館は「空想の森美術館」(湯布院)梅野記念絵画館(長野)福岡市立美術館 森美術館(東京)佐喜眞美術館(沖縄) 久万美術館(愛媛) 信濃デッサン館槐多庵 宮城県立美術館 あさご芸術の森美術館(兵庫) 池田20世紀美術館(静岡)Standard展(直島)直島コンテンポラリー・ミュージアム など。

木下さんの言葉

孤独を描きたいわけでもない。
なにかを伝えたいわけでもない。
孤独を生きる人のことを知りたい。

自分にとっていちばん大事なことは、
その人間を知っていくということで、
絵を描くことではないと思っている。

その歩み

こつこつと紙に鉛筆を走らせる。一呼吸の間に十数回も。刻むようにというのも違う、人肌を優しく撫でるように。漆黒ですら、無数の重ねることに深まっていく。老いですら皺ですら崩れ爛れた皮膚ですら、怒りにより尖ることはない。その人の生に寄り添い、敬い、同化するまで何十万もの肌への触れ合いは、木下さんの内部を浄化し、祈りとして立ち上がってくる。絵を書くとういことを越えて、木下晋の目と、魂の修練の形を通じて私たちは「人」としての尊厳を知る。余りに希薄になってしまった「存在」が、見る人のうちに甦らすものがある。美術館を訪れる多くの人にとって未知との遭遇であろうが、出会った高校生たちですら、沈黙のうちに集中させるのが作品の力である。

2012.06 農夫のように

農夫のように

毎日、日の出とともに起き、日の入りとともに眠りにつく。といっても22:00から23:00頃ですが。まるで農夫のように。考えてみれば、わたしがやっていることそのものが、農業みたいなものです。ギヤラリーの仕事や財団のこと、すべてが草の根的です。赤坂憲雄さんが、東北へ入って、こつこつとフィールドワーク(聞き書き)を重ねてこられたことを「農夫としての仕事」と、どこかで触れられていた。
私がよく使う言葉に
「播かれた種」が育ち、大地で根付き、「散水装置」によって緑の大地を蘇らせる とか、『復興』とは、『新生=新しい地への生まれ変わり』があります。
「文化=カルチャー」という意味は、耕された(cult)もの(ure)=精神の耕作と
いうことで、薄っぺらな文化人などという呼称ではいけないのです。

豊かな実りの時に

ギャラリーとしての種まきの季節はほぼ20年前のように思います。その頃に出会った作家たちが、また文化支援の活動が、今、花咲き乱れはじめていることを実感できるのはうれしい。受賞し、美術館で大きな展覧会を実現させ、画集を出し、挿絵、表紙絵、装画を担当し、TV、ラジオに出演し、海外へ滞在するなど作家達の活動は多彩です。皆さんいい仕事へと向かっています。私たちの姿勢は、社会や地域に関わりながら、表現に関わる人がすべて自らの生を豊かに生き抜く、そのためにこそ美に関わるものとしての心縁を静かにつないでいく役割を果たすことにあります。少しずつその実りを感ずることが出来る日々を歩んでいるようになってきました。

岡本太郎の見た日本

震災を契機として、私は衝撃といってもいいほどの実に多くの学びをさせていただいています。東北にについては何も知らなかった、その東北を知りはじめて、実は日本という風土についても深くは考えてもいなかったことを知りました。その導きの多くは赤坂憲雄さんに依るものです。「岡本太郎の見た日本」(岩波書店)は2007年に出版されたものですが岡本太郎の滾(たぎ)る情熱と、それに赤坂の魂が共振して、こちらも揺さぶられます。気になったところを引用すれば、膨大になってしまいます。

芸術は全人間的に生きることだわたしは絵を書くだけの職人にはなりたくない。だから民族学をやったんだ、わたしは職業分化にたいして反対だ。わたしは画家にも彫刻家にもなりたくはなかった、ほんとうは思想家になりたかった(P2から)

太郎を自分のために引用しては僭越の度を越していますが、私も画商、画廊主、ギャラリストなどという職業区分を意識したことはありません。全人間的に生きる、あるがままにあることをこころがけています。ギヤラリーという枠で評価しようとすれば、いろんな礫(つぶて)が飛んできますが、飛んできたところには的がないのです。

3月13日の“文化芸術による復興推進コンソーシアム”設立記念シンポジウム「文化芸術を復興の力に」(東京国立博物館)で赤坂さんとご一緒し、神戸にお招きしたい旨お伝えし、快諾いただきました。7月20日の「東北の復興、日本の明日」という講演会です。

津高和一の渡仏

「東京で津高和一の作品が見られるところはないか」という問い合わせがあった。「フランスのご夫妻が是非、見たいといっておられる、そちらにはあるか」と重ねる。あると答えると、すぐに画像を送って欲しいとのこと。幸い、最近、スタッフの徳田君が在庫の写真撮りをやってくれていて、林さんが素早く対応した。なんと「明日11時に行く」とのこと。慌てて早出して1Fに津高作品をところ狭しと展示してお待ちした。年配の上品なご夫妻で、「パリでギヤラリーもやっている、私はデザイナーだ」と名刺をいただいた。ぼくは全く知りませんでしたが、あとで調べると有名な方でした。2時間ほど見られ、油彩、名塩和紙など、纏めて決めていただきました。パリに渡った津高和一作品。それは生前、先生の望みでもあったのですから、ほんとに良かったですね。

石井一男さんの沖縄
佐喜眞美術館(沖縄)で 2012年6月6日(水)~7月30日(月)まで石井一男展が開催されます。丸木位里・俊の共同制作による 連作『沖縄戦の図』を、常設展示するために佐喜眞道夫夫妻が作った美術館です。もの思う空間で友人の真喜志好一さんが設計したものです。私は木下晋(鉛筆画)さんや、二度にわたる松村光秀展などで5回ほど訪れていますが、いつも深く届く声を全身に感じます。岡本太郎は東北と沖縄に衝撃を受け日本再発見をするのですが、今、私もその両者に繋がっていることを不思議な縁として大切にしたいと思います。

沖縄は、まったく異質な天地なのだ。本土とまるで違っていながら、ある意味ではより日本的である。あの耀く海の色、沖縄の人たちの人間的な肌ざわり。もちろん、あの「沖縄時間」を含めて。本土の一億総小役人みたいな小じんまりとした顔つきにうんざりした人は、沖縄のような透明で自然なふくらみ、その厚みある気配にふれて、自分たちが遠い昔に置き忘れてきた、日本人としての本来の生活感を再発見すべきなのである。「岡本太郎の見た日本」 P216 より

沖縄でお会いしましょう。
展示作品は50~55点。未発表作品も十数点あります。
6月10日(日)の午後3時からオープニング・トークを行います。
石井一男さんと佐喜眞道夫さん、それに私が加わってのトークです。そのあと、館内でパーティーを行います。どなたでも参加できます。ご参加される方は一報下さい。

2012.05 思いは被災者とともに

思いは被災者とともに

阪神淡路大震災の直後に被災者復興支援会議というユニークな組織が兵庫県に生まれ、大車輪に活動した。もう記憶の彼方に消えかかっているが、そのOB会が4月6日にあり、いわば戦友とも呼べる面々と懐かしく再会した。
被災者復興支援会議とは、様々な分野から10名選ばれて復興に関わることを議論、それに県のプロジェクトチームが15名ほどスタッフとして加わった。
1995年7月17日にスタートし私は文化の分野で指名された。
このころ既に岩波新書に過激な行政批判を展開して、のちに神戸市から完全に遠ざけられる因をなしていたのに、よく県は私を選んだものだ。
この会は「関東大震災の時に被災者復興に尽力した賀川豊彦さんのように困難な状況にある被災者の心のよりどころとなる存在として」貝原知事(当時)が発案した。
県の事務局が用意した決まりごと二つは「先生と呼ばない」「事前になんの案ももたない」。 これは従来の行政が用意する審議会、委員会の枠を完全に超えていて痛快であった。
そこで、熱く、なんの遠慮もなく、口角泡を飛ばし、紅潮して議論した。でも「思いは被災者にあり」で、感情的なしこりは残さなかったのは見事だった。
県のメンバーは一応にカルチャーショックを受けたという。
ここでは、みんながフラットであり、領域を超え、利害を超えた、一つの理想的なディベートの場でありえた。

「事実は現場にこそある」

被災者一人ひとりの生活復興を支援するため、被災者と行政の間に立つ第三者機関として、被災者に軸足を置き、「事実は現場にこそある」と現場に出向き、問題をリアルに捉えて13回の政策提言を行った。
私は1999年3月までの40ヶ月間。その間に全体会議は78回というから、月2回、その間に、移動いどばた会議が143回、フォーラムが61回というから、恐れ入る。
全体会議にはほとんどのメンバーが欠席なし、その他の行動については、手分けして行った。私は100回は出席していると思う。

鎮魂の碑・希望の礎

「復興」「絆」という言葉があまりにも氾濫し、軽く使われているのに違和感がある。
東北にはいまだ、あまりにも多くの悲惨が転がっている。
私は「鎮魂と再生―東日本大震災・東北からの声100」藤原書店刊行(赤坂憲雄:編―編集協力=荒蝦夷)という重い本を持ち歩いている。毎日3人づつの声を聴いている。私が、東北に対して、なにをしたでもない。でも、ただ見た、風を光を、影を、大地を、海を見てきたことにより、肌に触れるように感じて読めるところも多い。常に身近でありたいと思う。 この本の「はしがき」に赤坂憲雄は書く

25年後に、この大震災はどのように語り継がれているのか。広やかに組織される記憶の場こそが、やがて鎮魂の碑となり、未来へと架け渡される希望の礎となるだろう。息の長い戦いが、いま始まろうとしている。

「東北からの声100」は約500Pだが、「大震災・市民篇1995」(長征社)は875P。
震災後ほぼ1年に出版されたことにおいて両者は、ほぼ同じ意図である。
長征社の市山隆次さんは、どうして居られるのだろう。別に語り合ったり、酒を酌み交わしたこともないが、私が北野に移転する時に、申し出て、黙々と荷物の運搬を手伝ってくれた。あの体躯、あの眼光が懐かしい。
赤坂さんが書く“震災のアーカイブスへの指向”を神戸で実践したのが季村敏夫さんだ。
震災後間もない時期からボランティア関連記録を収集していた「震災・活動記録室」の資料を引き継ぎ、’98年3月に発足し、現在に至るまで「瓦版・なまず」を26号発刊、この息の長さにも畏敬に値する。
「震災・活動記録室」の代表が実吉威さんで、現在「市民活動センター神戸」の事務局長で、公益財団法人「神戸文化支援基金」の設立に関わり、事務を担ってくれているのだから縁は円環のように繋がっている。
縁は円環

東北とつながる三つの大切な企画に取り組みます。

■映画試写上映会「今、被災地で起きていること。今、被災地から伝えたいこと」
「被災地再興3・11」と「気球に乗ったオーケストラ」の上映
5月22日(火) 19:00~20:30まで 会費¥1000
ギヤラリー島田の第242回 火曜サロンとして開催します。詳細はサロンのお知らせで。

■シンポジウム 震災後の表現―神戸から東北―
6月17日(日)14:00~17:00
レポート 季村敏夫
映像作品上映 「3・11 TSUNAMI 2011」上映 制作 宮本隆司
シンポジウム 季村敏夫 宮本隆司 細見和之 正津勉(司会)
場:神戸風月堂  参加費:当日1200円 予約1000円(詳細はチラシを)

■赤坂憲雄講演会 「東北の復興・日本の明日」
7月20日(金) 18:30~20:45
第1部 講演 赤坂憲雄
第2部 鼎談 赤坂憲雄 季村敏夫 島田誠
第3部 交流コーナー
場:神戸風月堂  参加費:当日1200円 予約1000円

2012.04 東北に繋がって

東北に繋がって

前号の通信を読んだ姉から手紙が届いた。
「母はセツルメントのことは深く心にあったようで、よく話していました。
生保内(おぼない)は寒い所で、家の中まで雪が降り込むような状況の中、子供達は元気だった事。羽仁もと子先生に報告の為に上京したら『すぐ生保内に帰りなさい』と言われて、実家の玄関まで帰り、お母さんの顔だけをみて生保内に帰ったこと、『ちょっと涙が出るくらい大変だった』と言ってましたが、羽仁もと子先生の偉大さも感じていたのではないかと思いました」とあった。

3月11日。三宮から伊丹に向う空港バスで同じく仙台へ向う山口一史さん(ひょうご・まちくらし研究所)と一緒になる。山口さんは作業所を回るという。
私は、仙台の川内萩ホール(東北大学百周年記念会館)での「竹下景子 詩の朗読と音楽の夕べ」を聴き、「アーツエイド東北」の理事会に出席するためでした。
この日のために全国から集まった総勢115名のZIPANGU「絆」マンドリンオーケストラとアコースティックユニット《マリオネット》が音楽を担当しました。
神戸では出来ないほどの大規模なものを、やり遂げた「アーツエイド東北」の皆さんに敬意を捧げます。と共に、この会が、本当の意味で「東北の皆さんの手で、東北の皆さんのために」という意味を獲得するのは次回からかもしれません。

福島へ入るのを断念し、腰をいたわりながら、東京への移動を含めてずっと本を読んでいました。旅の友は三浦しおん「舟を編む」(光文社)と赤坂憲雄対談集「交響する声の記録」(国書刊行会)です。前者は大部の国語辞典を編集するという地味な舞台で小川洋子さんの『博士の愛した数式』を思わせるユーモアのうちに言葉への愛に魅せられた人々の物語です。いっそう言葉を大切に扱わねばと思いました。 赤坂さんの本は6冊目です。もっとも「境界の発生」は立ち往生していますが。
赤坂さんとの出会いは毎日新聞2011/08/09朝刊でした。

頭の中の実験だけでも、日本国から独立して自分の国を作れるぞということを留保しておかないと、東北はいつまでも、米や部品や出稼ぎ者を貢物として差し出す「植民地」であり続けることだろう。みちのくよ、いまこそ独立せよ。

この過激な発言の根底には民俗学者としての「多様な日本」という研究があります。それは日本人のアイデンティティーを問い直すことでもあり、「絆」「復興」を超えるラディカルな提案で、惹かれるものがあります。

3月13日(火) 東京国立博物館・平成館で文化芸術による復興推進コンソーシアム設立記念シンポジウム
「文化芸術を復興の力に」に招かれ、登壇いたしました。
司会:本杉省三(日本大学教授)パネリスト:紺野美佐子(朗読座) 赤坂 憲雄(学習院大学教授・福島県立博物館館長・東日本復興構想会議委員)
大澤隆夫(仙台フィルハーモニー管弦楽団専務理事)近藤誠一(文化庁長官)
それと私でした。
私としては控え室での懇談がとても有意義でした。赤坂さんには7月に神戸にお越し頂くことになりました。

2012.03 3/11 東北へ

3/11 東北へ

心を寄せるということは相手のことを良く知るということにも繋がる。震災後、三度、東北(宮城、岩手)に入り、震後1年の3月11日に再び訪れる。
東北のことを知るために赤坂憲雄の東北学を柱に宮沢賢治、菅江真澄と枝を広げつつある。
東北を知るうちに、我が内なる東北についての気づきを得た。他ならぬ母のことである。
もの心ついたころから母はずっと「幼児生活団」という教育の奉仕活動を続けていた。
神戸の震災で手離さざるを得なかった母の家で書棚の「東北セットルメントの記録~昭和9年―昭和14年」という本を拾い読みして、若き日の母の姿をはじめて知った。
 羽仁もと子の自由学園に学んでいた母(関根睦子)は、東北大飢饉が起こった時に、自ら志願して秋田県の農村に入ったという。母が「女子学院」を卒業した18歳の時のことである。上野駅から東北本線黒沢尻へ、そこから何度も乗り継いで、一昼夜を要する生保内(おぼない)という村(現在、仙北市)のセットルメントに昭和10年から12年にかけて住み込んだ。ボランティアが「奉仕団」といわれていた時代のことである。そうしたことを母から聞いた記憶はないが、今にして思えばおそらく生意気だった私が母の行為の意味を解さず、己にだけかかずりあっていたからにちがいない。

赤坂氏に導かれるように思い立ってインターネットで昭和9年の東北大飢饉について調べてみた。そこである論文(注1)に母の名を発見し、その行為の意味をようやく知るという不肖ぶりで恥ずかしい。母を送って3年もたってのことである。(注2)しかもである、母は東京生まれだと信じて疑わなかったのだが、今、母の年譜を見ると大正6年、新潟に生まれ5歳の時に東京に出ている。そういえば昭和19年の神戸大空襲で家屋を全焼、新潟各地を疎開転々としたことはこの生地に拠っていたのだ。

生保内のセットルメントでは3人の(東京からは母ひとり)若い女性の指導者が住み込んで献身的に村のために尽くした。その報告によれば生保内は山村でであるために耕作地少なく、炭焼き、薪取り、春は筍も収穫の一部であり、秋は栗も採れるけど。昨年は栗も不作、農家では戸数割りを半減以下に免ぜられるもの236戸(半数以上)、山村であるために多い日雇いも、農家とともに困窮甚だしく、救護を要するもの137家族ある有様です。
セットルメント開設(昭和10年)まもない5月17日、この村の中心部で、焼失家屋97戸、罹災者600人という大火が発生しセットルメントも焼失した。「関根睦子が本部宛に送った報告書は、右往左往する人びとの様子を活写している」と論文は記している。
セットルメントは今和次郎の設計により新築され、母は3年間を生保内で過ごし、東京に戻り、22歳で父と結婚している。
縺(もつ)れ、こんがらがって放っておいた釣り糸を少しづつ古(いにしえ)を辿るように解(ほぐ)して延ばしていくと母の遠い日の姿が仄かに見えてきて、私に繋がっていることにようやく気づく。そして手元にある釣り糸の後ろを振り返れば、新しい天蚕糸(てぐすいと)を息子が握っていることに気づく。長男の剛は、いつの間にか途上国の問題に取り組むためにJICAに入った。
 東北への志縁に関わることになった時には思いもしなかった東北との縁が吹雪く視界の中に一筋の道として垣間見える。歩かねばならない。

(注1)東北農村生活合理化運動の展開―農村セツルメントの軌跡―
    東京外国語大学論集第75号より 野本京子
(注2)2008年8月3日没 享年91才