芸術の秋に
夏が振り返り立ち止まり、その都度、大雨を降らしたり、地を揺らしたりしながら、ためらいがちに去っていく。昨日は蒸した。今朝は窓の微風が柔らかに肌に触れて秋の気配を伝える。メディアは震災・原発を伝え、米国・欧州の経済危機を伝え、世界に伝播していくデモを伝える一方で、世界は馬鹿騒ぎと能天気で成り立っていることも正確に伝えている。自らもその成員であることを証明しながら。
各地で一斉にアートの花が咲く。これを百花繚乱という。皆が一斉に同じ方向に咲くから盛大な向日葵畑にも見える。だれも疑わないので百家争鳴にはならなく「みなさまごいっしょに」が、いささか気味がよくない。
馬車も通れば、電車も通る。 まことに人生、花嫁御寮。
まぶしく、美しく、はた俯いて、 話をさせたら、でもうんざりか?
それでも心をポーッとさせる、 まことに、人生、花嫁御寮。
ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、 テムポ正しく、握手をしませう。
つまり、我等に欠けてるものは、 実直なんぞと、心得まして。
ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう。
中原中也の「春日幻想」の後半部分から
成功例に学ぶ、トレンドを読む。みなさんご一緒に。
燎原(野原を焼く)のごとく津々浦々にアートイベントがひろがる。
夜空を飾る星々のごとく無数にコンサートや劇やダンスや映画や。
焼き尽くせば残らず、明るすぎれば星も消える。
木内博一さん(農業界のトップランナー「和郷園」代表理事)が語る
「農業にも構造改革が必要。激しい価格競争で、補助金の恩恵を受けているのは
結局は消費者だけです」(朝日新聞10月15日フロントランナーから)
アートを謳った燎原の火は、私たちにアートの力を体験させているのだろうか。
それを担う、アーティストたちは報いられているのだろうか。
松尾芭蕉が「奥の細道」で体得した「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」の不易流行は良く知られている。「ご一緒に」が苦手なわたしは「どうぞご勝手に」と「不易」に留まる。しかし現世的には「不易」は「不利益」につながりがちで世を挙げて「流行」へ向う。危うきかな。
尊敬してやまない加藤周一さんが最後に到達した「日本文化における時間と空間」で触れているのは、日本人は「今」を尊重する。「彼岸」を考えずに「此岸」を考える。即ち、現世利益。「集団内部の大勢」として現れ、「大勢順応主義」という日本人の社会的行動様式が導き出され、かくして「全会一致」が理想となり「村八分」がその理想を保障する。これはなにも伝統的な村落共同体に見られた現象ではなく、今日のビジネス社会にも見られる現象だろう。
加藤さんの、この洞察は日本の戦争責任と知識人の役割を考え続け、人間とは、日本人とはを問い続けた結論である。それは泡沫経済を生み、無用な公共施設を生み、無防備な原発を生んだ。原子力村、“やらせ”は日常の風景である。
ドイツでは反原発の巨大デモがあり、マドリッド(スペイン)で「反貧困」の巨大集会がある。いずれも数十万である。同じ日に日本では、さまざまなイベントを数十万人が楽しむ。