2010.2 「一隅の灯り」

一隅の灯り

明けの空を眺めている。5時、起床。目覚ましはいらない。早く目覚めることはあっても寝過ごすことはない。早ければ5時を待つ。街はまだ、まどろみの中に在るように見える。この、あさまだきが好きだ。微笑みを交わしていた星々が、いつしか薄明のなかに溶けいり、遠く山の端が濃い朱をさし、上方につれて、薄い諧調となり青へと流れる。一日たりとも空の表情は同じではない。時には厚い雲が、高山に見え、その尾根が白く輝けば雪を頂いたアルプスを思う。そして、時折、ふと、あの日の5時46分へと飛ぶ。

このごろ、話を頼まれることが多くなった。大学の特別講義といっても、ぼくは、何を研究しているわけでもなく、体系的なものはなにもない。でも、話をするからには、しっかりと何かを伝えたい。気持ちのなかで、それが整理され熟成されれば、伝わる。話したあと、悔いが残ることばかりだったが、このごろ、ようやく、自分なりのものを出せるようになってきたかと思う。学生時代に指揮者をやっていた時の思いと同じである。90分間の若者の大切な時間を預かる。70人いれば105時間。四日間をぼくが預かる。そこで無為な時間を過ごすことになれば、私は彼らの「時間泥棒」だ。講義もそんなものだ。昨日は神戸大学で「文化活動と震災」について話をした。

震災から15年

関西のメディアは震災一色と言ってもいい。でも、胡散臭さを感じてしまう。震災の教訓を伝える。でも、何処か美談仕立てであったり、当たり前のことを、教訓といい続けていたり。 「震災があろうが、なかろうが、今ある危機に対して自分はどう関わっているのかを問うことから始めよう」と呼びかけた。震災やテロや、大事故などは、予測がつかないので、自分とは関係がないと思い、今、なすべきことと直結しづらい。私は神戸の震災体験を「共同臨死体験」と呼んでいる。近代都市において、これだけ多くの人が「臨死」という体験を共有したことは稀だ。その時、私達が感じた、今までの価値観を問い直した「ユウフォリア(至福感)」は、現実には挫折、消滅したにしても、垣間見たアルカディア(未来ビジョン)は、理念として私たちの歴史を確実に回転させる力を持っているはずだ。遠くに確として視線を当て、足元を問い直しながら生きよう。私たちをとりまく日常は希望を失わせる不条理が蔓延している。アフリカに眼を向ければ餓死累々、地球環境は確実に破局へ向かっている。今在る地球的な危機、人類が直面している危機について、想いを馳せよう。自死者が年間に3万人を下らず、格差や貧困、人間としての絶望、虚無などの精神的危機が日常にある。今日(1月14日)現在、日本全体の長期債務残高(地方を含む)は1321兆円、国民一人当たり1057万円であり、刻々と増え続けている。その日常を、自らに問わねばならない。そうしたことを踏まえたうえで、震災についても語ろう。

学生たちには、そのうえでアートの果たす役割や、市民が支える社会のために私が試みている「装置」と、その理念について魂を込めて話した。ゴッホがアルルで、「戸外へ星たちを描きにでかけて、こんな絵と一緒に生きている仲間の群像を始終思い浮かべるのだ」(星月夜)と、微笑みを交わしていた星々に友の姿を重ねたように、誰でもが灯せる小さな希望の「灯り」としての「装置」を地域に点々と灯そう。
最初は「なんやねん、このおっさん」という空気。机に突っ伏して寝ている学生。でも気がつけば、全員、頭を上げて聴いていた。

あれから15年。

今在る風景は、あのとき私たちが望んだことなのか?震災直後、『希望の星』と呼び「幸か不幸か街づくりの絶好の機会」と進められた神戸空港や新長田の高層ビル群が破綻しているのは誰の眼にも明らかだ。防災の名のもとに「あれも足りない、これも足りない」「すべきである」と“ないない”“べきべき”しか言わない人は信じることができない。“いらない”“べきでない”とも言い、言うだけでなく行動できる人は「灯り」だ。私のまわりの人たち、作家たちも「灯り」だ。情熱大陸にとりあげられた石井さんの「一隅の灯り」が多くの人に届いたように、運動や主張だけが「星」ではない。
 松明堂ギャラリーで「石井一男を語る」を頼まれた。これは石井さんの代役である。固辞する石井さんに、少し離れた横に座ってもらって話した。思いつきでは話せない。石井さんとその作品を好きな人たちに、なにを伝えるのか考え続けた。そして石井さんにも語りかけるように話した。
急激にスポットライトが当たり、それがためにスポイルされないかという心配は、もっともなことだ。
「情熱大陸」が放映され、どんな反響が巻き起こるのか想像がつかない。悪徳画商や投機コレクターの餌食にならないか?マスコミが殺到して、駄目にしないか?と心配する人も多い。でも、そういうことに対しては石井さんも私もセンサーが働く。でも、石井作品を好きになる人は、みんな良い人だ。それが心配だという話もした。私と違って、石井さんには「いい人」に対して親和力はあっても抵抗力が少なく、それが結果的に「モモ」の時間泥棒の暗躍にならないか、どうか、そっとしておいてほしい。家は訪ねないで欲しい。
石井さんに当たる光は小さな教会の伽藍や破れ寺の暗い御堂に差し込む薄明であって欲しいし、賞賛は密かな吐息や独白であって欲しい。
(「絵の家のほとりから」あとがき)
「情熱大陸」が膨大なフィルムの中から選び出したのは、石井さんの淡々とした日常と、絵の誕生の瞬間です。そこにMプロデューサーの見識と石井さんへの深い理解と愛情を感じました。それは、「奇蹟の画家」の著者、後藤さんも同じです。その巨大な影響力は、たしかに心配です。石井さんを泥棒から守るのは私の仕事でしょう。
次回の「マコトサロン」は「石井一男を語る」にしましょう。

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