木の葉が落ちる、落ちる、遠くからのように
上空の遠い庭園で(木が)枯れでもしたように
落ちてくる、いやいやという身振りをしながら
リルケ「秋」より
糾う
北野の我が家のすぐ裏は、昔、修道院だったらしいが、今は空き地として放置されている。道幅3mにそって高い石垣が続く。そこの樹木が、3年前に見たころに比べて道へ覆いかぶさるように生長し、日々、緑から斑に黄、赤と朽葉に染まり、その落葉が道路を埋める。肌に寒さを、手に箒を、枯れ葉を北側の路肩に寄せ、週2回の燃えるゴミの袋に入れて出す。
秋は振り返り、振り返りしながら足早に去っていく。人生の晩秋ともいえる季節に歩を進めると、禍も幸せも交互にやって来る。禍福は糾(あざな)える縄の如し。今年は禍も福もでっかい瘤のようにやって来た。年の頁をめくれば、八木マリヨさんの縄ロジーアートと出会う。縄は綯(な)うのだそうだ。
結(ゆ)うは結ぶ、撚(よ))るは撚り糸や「こより」のように、ラセン回転をかけ縒(よ)りをかけるだけのこと。 一本の撚りでは縄とはならない、綯(な)うは縒りをかけたものを2本以上あわせていっしょに反対がわに撚りをかけながら縄にする行為をいうのだと八木さんから教わった。
その八木さんの空間に座りこむようにして記憶表現論の著者たちを囲んで、風化する記憶を問い直す試みをする。<過去の出来事を「大きな物語」としての歴史やその実証から解き放しつつ、さらに個人的な「思い出」からも解き放ちながら、万人に開かれたものにしよう。(註) 振り返っても、過ぎた時を呼び戻すことは出来ない。感懐にふけっている間にも、時は人々に等しく刻まれて、葉ははらはらと散る。禍は避けることが出来ないとすれば、福を糾(あざな)いたい。
新しい陽が昇る日に静かに、しかし確として思う。
(註)記憶表現論を巡るサロンは別項をご覧下さい。
納めの日に
地殻変動が起こったような1年でした。画廊のオーナーでもあった家人を6月に亡くし、多くの方に「お別れ」をしていただきました。「22ヶ月のゴール」は、今も読み返すことができません。そのあと、封印してきたものが堰を切るように溢れだしてきました。視線を遠く泳がせ自然に触れ、言葉の意味がすっと入ってくる読む本、一音一音が鮮明でありながら全体が見通せる音楽。乾いた土に慈雨が沁み込むように。そうした刻々の流れがいとおしく、いつまでも続けと思うほどなのです。その思いを伝えたいと、文は何度も晒し、濾し、削るようになりました。「今」を違えずに伝えたいのです。
今年は「本の年」でした。2月に「高野卯港スケッチ帖」が出たあと、7月に須飼秀和「いつかみた蒼い空」11月に「しあわせ食堂」12月に「奇蹟の画家」「絵の家のほとりから」そして中島由夫カタログ。そのために、ずいぶんとお付き合いが減ってしまいました。すまないことです。年明けから、お話をすることや、書かねばならぬことがあり、この、ゆったりとした流れとの折り合いが心配です。でも、「なすべきこと」、そう、もう、そういう時が来ているのだと思います。
残念なことに、北野で、仲の良かった二つの画廊が閉じました。ギャラリー・コローさんと花岡画廊です。
「志」「思い」だけでは続けられない厳しい時代です。
ギャラリー島田にとっても、新しい年の課題は、ずばり生き残りです。