2010.12 「みんなこんなにアートが好きだったの?」

「みんなこんなにアートが好きだったの?」

 世の中、アートイベントのまっさかりである。「ビエンナーレ」「トリエンナーレ」「アートフェスティバル」「国際芸術祭」「アートウィーク」など枚挙にいとまがない。そうした機会を求めて多くの人がアートに触れ合う。瀬戸内国際芸術祭は新しい芸術祭の試みでしたが、最初の予想、30万人をはるかに超えて90万人ともきく。船やバスや徒歩や、さらには泊まったりと、広い島巡りで大変なのに。新しい施設を作るのではなく、自然の環境や歴史的建造物や廃校、廃屋、住宅、などを利用しながら、地域の人を巻き込み、お客の参加を求め、その土地が刻んだ時間、営み、風土、即ち地霊(ゲニウス・ロキ)との対話を重視した作品を提示するなど、新しいアートの役割が見直されてきたように思います。
①観光 ②街づくり ③芸術振興 ④経済効果 ⑤国際交流などを目的として、所有するから体験へ。残るものから消えるものへ。出会い、つながり、発見することの媒介として生活の中でのアートの変質が加速されています。

アートを歩く

 「別府混浴温泉世界」の報告会をうちのサロンで行い、地元からは「丹波篠山まちなみアート・フェスティバル」「船坂ビエンナーレ」「有馬路地裏アート」の関係者に来ていただいて報告と意見の交換を行った。これらの三つのイベントを丁寧に見させて頂いた。ぼくは車は運転しませんし、誰にも気を使わせないよう、徒歩、電車、バスを駆使して、そっと行って、自由に見るのが好みです。  「丹波篠山まちなみアート」は(公)亀井純子文化基金の助成事業です。 ここは国重要伝統的建築物保存地区「河原町妻入商家群」を中心とした民家を展示に使っています。地域にゆかりのある作家36名と2名のゲスト作家、様々な関連企画が、ちょうど秋の観光シーズンの入口である9月中旬に設定されています。知り合いの作家は5名。この地区の中に丹波の街づくりと、このフェスティバルのリーダーである中西薫さんの丹波古陶館があり、地区そのものが文化財で、見やすく、歩きやすく、安定感があります。美しい町屋と響きあう作品を作家は用意することになります。ただ、その安定感が今後の課題になる気がします。それは地域ゆかりの作家の他に、もう少し外部のゲストを増やして、響きあわない、すなわち不協和音を発することによって、かえって伝統文化を意識させるなどの破調を期待したいと思いました。別の一日を船坂、有馬へ遊びました。阪急・夙川からバスで船坂橋まで、そこから今春、137年の歴史を閉じた船坂小学校の校舎を使ったビエンナーレ総合案内所と展示室を見て、湯山古道コースへ。一心庵で昼食。そのあと棚田エリアをゆっくり。知り合いの作家は4名。バスで近づいていくときに茅葺屋根の古民家に派手な布団が干してあるなと奇異に思ったのが西村正徳(来年ギャラリー島田で個展予定)の「BAN-SOKO HOUSE~再生~」でした。船坂は有馬までバスでわずか10分。有馬温泉の湯船をこしらえたので「舟」。林業、養蚕、農業の小さな村落で、穏やかな田畑が広がり船坂川と大多田川という小さな川に挟まれています。いたるところに「へびにご注意」の看板。地の人には不要、よそ者への配慮。
このビエンナーレの特徴といえば、住民の発意ということです。その手作り感が心地よい。観光とか経済とかいう前の、あたりまえのことの大切さ「つながる」(Relationship)がテーマ。3時間ほど逍遥しましたが、気候も良し、天気も良し、小ぶりな作品が船坂という居場所を得てやすらいでいる。小学校の校舎の懐かしい記憶。昔、軒先に吊り下がって回っていた風鈴を思わせる不規則に回る作品、乳白の中で浮かびあがってきた何かを語っている顔。閉じられた教室から聞こえてくる子供たちの歌声と窓に映る影。空き地に立ち上がった土の塔。
地はどこにでもあり、同じ地はない。/ 地は立ち、「地」から「土」になる。
船坂の土が、船坂に立つ。ここに。  黛真美子「存在―立つ」に寄せられた言葉。
ススキとセイタカアワダチソウの群生する野に掘られた大きな穴。きれいに刈り取られて足を踏み入れるのも憚られる田畑。隣の畑仕事をする人に「入っていいのですか?」と聞いた。帽子からのぞいた優しい笑顔は若い人のもので「いいですよ」。そこに穴居住宅。入って寝転んだ。秋の爽やかな風と、ゆったりと流れる時間。道端に置かれている何気ないもの、ビニールシートに覆われたものまで作品かなと見つめてしまいます。これでもかというフルコースの満腹料理をめざすアートイベントとは違う、かと言って素材だけを売り物にした郷土料理でもない、上等なコンソメスープの一品だけを味わった気持ち。

有馬へ

 一時間に一本だけのバスを待って、有馬の「有馬路地裏アート」へ。こちらは観光客で賑わっている。案内所で「有馬路地裏アート」のマップをもらう。こちらは3月頃から続いている。有馬観光協会が主催しているのだけど、終了時期が書かれていない。残念ながら賞味期限はとっくに過ぎていますね。自然のままに風化し、朽ちるのも良しですが、それは作家の意図とも思えません。作品が気の毒、それを見て歩く人(地図片手の3人に出会いました)は、もっと気の毒ですよ。メインテナンスしていただくか、撤収した方がいい時期ですね。長い、一日の締めくくりは「太閤湯」での一風呂。暮れていく市街地を見下ろすように走る直通高速バス(新神戸行)を一人貸しきりで帰ったのです。

社会風習と個人概念の対立

 これがコンサートのタイトルだから驚きます。ぼくの信条にぴったりですね。
尊敬する友人のS氏に誘われてシンフォニーホールでの大阪交響楽団(大阪シンフォニカ)の第150回定期演奏会に行ってきました。久しぶりに感動しました。この日の指揮者、キンボー・イシイ=エトウがS氏の親友なのです。
プログラムも玄人好みというか地味というか、意欲的なものでした。
ボーン・ウィリアムスの小品“夕暮れ”。バルトークのバイオリン協奏曲No2と、ニールセンの交響曲第5番。どれもヨーロッパが第一次大戦で、混乱し疲れ切った時代、そして瞬く間に、第二次世界大戦に突入する世の中の空気に敏感に反応した曲です。
カール・ニールセン(1865~1931)はデンマークを代表する作曲家でシベリウスと同世代です。キンボーにこの曲を教えたのは、サイモン・ラトル(ベルリン・フィル指揮者)。
「人類が決して避けることの出来ない葛藤、対立、そしてそれらの摩擦による悲鳴!!
人間は狂ってしまわないと、戦争には至らないんだ。そのメッセージは、この軍隊用の小太鼓の使用自体よりも、同部分の和音構成のなかに盛り込まれているんだ。聴こえてくるだろう、ここの部分」と1ページずつ熱く語ったそうです。
シュスタコーヴィチを先取りしたような緊迫した和音と旋律を突如、打ち破る小太鼓の連打が客席なかほどの出入り口付近で打ち鳴らされる。時代の不安と戦争への予感。魂が入った、知的でありながら燃えるような名演でした。拍手鳴り止まず。
キンボーのお母さんをS氏が紹介してくれました。ウィーン在住の日本人。「奇蹟の画家」を良く読んでおられて、私のことを良く知って下さっているのに驚きました。キンボー氏は、今年の齋藤秀雄メモリアル基金賞の指揮部門の賞を受賞。
昨年も選ばれながら辞退し受賞者なし。今年、再び推されて受けたのですが、その賞金500万円を、青少年オーケストラのためにポンと寄付されたことをS氏から聞きました。

2010.11 「変わらぬ道」

「変わらぬ道」

 個展会場で電話を受けた。旧知の画家Uさんからだった。用があるふりをして、つけ加えた。「島田さんは、このごろ思い上がっているとXさんが言っている」Xさんは、ごく親しい画家である。二人とも東京の人である。その口調に「ついに言ってやった」という快感を聞いた。これは、多くの周囲の人の複雑な気持ちを代弁しているとも感じる。個展会場なので「そうですか」と電話を切ったけど、苦いものが残った。
 その電話を受ける数日まえに、石井一男さんの会場が静かになった時に「これだけ賞賛を受けていると、同じ数、あるいは、それ以上の反発と批判があるんですよ」と伝えた。石井さんは驚いたように「え!そんなことがあるのですか?」と聞いた。家に帰って、Uさんに電話して「ぼくが思い上がっているという点を教えて欲しい」と穏やかに聞いた「ほんとに聞きたいのか」「そうです」。「Xは言っとった」「いやXさんには直接聞きます、貴方が電話してきたから、貴方の思いを聞きたいのです」。その理由は、いいがかりであって、簡単に論破できるものだった、それを指摘するとさ更に声を荒げた。理由は論破できても感情は論破出来ない。尾ひれがついて拡声されていくだろう。もちろんXさんとも話しをした。こちらとはなんということもなかった。でも、「思いあがっている」という指摘も間違いではない。通信の読者でも拍手している人もいるかもしれない。息子(陽)に、「今日、こんなこと言われた、どう思う」と聞いたら「おとうさんは昔からそうやったんと違う。お姉さん(私の)たちが、誠は生意気だったと、昔、怒っていたから」と笑った。
 生意気の最たるものが行政や権威的なものに対する身のほど知らずな態度。相手の肩書きや、自分の得失を判断の基準にすることを戒めていることが、時に戸惑わせ、憤慨させていることは、十分に承知しています。
精神科の先生で画家でもあるYさんに「不適合能力に優れている」と言われ、時に「鈍感力に優れている」と言われる。「出る杭は打たれる」という諺があるけど、私の場合は「杭打ちをしているところに、わざわざ、打って下さいと頭を差し出している」と言った人もいた。裏返せば「思い上がっている」という指摘に繋がる。腹立っている人がいかに多いか。
 失礼の数々は、お許し願いたい。私の価値判断が、多くの場合、世間様と相当違う。それが私の本質であり、辿ってきた、変わらぬ道なのでしょうね。「硬い信念」と「思い上がっている」のとは紙一重なのです。

「不思議な出会い」

 石井一男展のことです。最後の1週間を販売をしないことに決めた2日前の日曜日、会場は変わらず多くの方が見入っていた。事務処理の能力を信用されていない私は、いつもは受付に座らないのですが、スタッフの林さんがお休みで、終日、私が会場にいたのです。私と同じ世代と思われるご婦人が、入り口から一直線に私の方に「意を決した」という感じで来られました。熱心に見入っておられる姿を記憶していたのですが、帰られたとばかり思っていたのです。「ウィンドウの中央の作品をいただきます」と言われました。少し前(2002年)の作品で、縦長の暗い画面に、両手を合わせた弥勒菩薩のような女人の立像(画集ⅠのNo27)で、額に入れずにピンで止めて展示していました。ケースに保管されていたのを石井さんが思い出して飾ったばかりだったのです。西村珈琲店で休んで、まさに意を決して踵(きびす)を返されたとのことでした。それではと、「お名前、住所を」と書いていただく手元を見ていて、苗字のところで、思わず「珍しいお名前ですね。詩人で、そのお名前の方を知っています」と言うと「私の夫です」と言われました。詩人の名前は以倉紘平氏。
 私が神戸大学グリークラブの指揮者だったころ、作曲家の中村茂隆さんに男声合唱曲を書き下ろしていただいていた。3年の時が日本民謡による「三つの仕事歌」。4年の時が合唱組曲「二月のテーブル」で、その詩が以倉紘平さんの「小さな街が流れてきた」「二月のテーブル」「燃え上がれやさしい海よ」だった。予期もせぬ出会いであったのに、その詩の一節が口に出た。夫人が「二月のテーブル」と即座に答えた。ぼくたちはこの曲を関西合唱コンクールに出すために夏の合宿を含め、徹底的に歌いこみ、詩の意味を議論し、体の芯からこの曲に浸った。あの青春の日々が瞬時に蘇った。

窓ぎわの小鳥たちは 声をふるわせ 買物かごの野菜は うなだれて緑をなくした
貧しいテーブルのように 与えることを忘れた 海の上を しめやかな調べが流れて
葬列が晴れ上がった 空を渡った
やがて冷えたコーヒーのように 朝の雨がこの窓ベを洗い どしゃぶりの雨に
とじこめられて二月が 貧しさの歌を 歌うだろう
どうか愛を やさしい愛を 海のように豊かな愛を このテーブルに この街に この大地にと

「・・・海は何かを産もうと身もだえるけれど、本来の海の死はおおいがたい。弔いの鐘のひびきが港町に流れ、人間の危機、警鐘が、雨の降る港町にひびきわたる・・・」(以倉紘平)

 そして組曲の最後には、「燃え上がれやさしい海よ」のフレーズがベースからはじまり、各パートでリフレインされながらクライマックスへ向かい「冷え切った白いお皿に貧しい魚が並んでいたレストランのテーブルに、今は、輝く料理がおかれるように・・・!」という祈りの中で、私たちは感動に震えながら曲を閉じたことをまざまざと思い出しました。中村先生の曲も素晴らしく、若いぼくたちがこの曲に思いを込めて、燃え上がらないはずがない。  夫人からは、石井さんの絵に惹かれた理由(わけ)を教えて頂だき、二人で、思わず涙ぐんだ。それにしても石井さんの絵に秘められた力には驚きます。その源についても良く分かっているつもりです。石井さんには変わらぬ、ゆったりとした時間の中で、作品と向かい合って頂きたいと思います。販売をする展覧会は来年の11月までお休みです。

2010.10 「同じ空を眺めながら、、、」

「同じ空を眺めながら、、、」

秋の気配は風で知り、雲で知り、陽の昇る時で知る。今朝は5時35分に西宮あたりから見事な茜の丸顔を見せた。その陽も刺すような輝きはない。毎日、空を見上げ、流れる雲に見惚れる。何層にもなった雲は、微妙に色合いを異にし、刻々に姿も、速度も変えながら音もなく行く。斑に、鱗に、東雲(しののめ)に。穏やかで美しいけど、この同じ空が世界につながり、その下に人々や生物の営みがあり、生も死もある。そして戦火も飢餓も。
地は平安であって欲しいと願うが、平安は等しくは訪れない。血で贖われた今の虚像の成功体験などすっぱり決別するほかない。平安は安逸に流れる心と闘い、守りぬくものだ。
見上げていると、西川千鶴子さんがモンゴル草原を自転車で走破した時の写真のはじける笑顔を思いだした。見晴るかす草原の地平線の上には白と蒼との斑模様の雲に覆われていた。障害にも負けず、自分らしく個性的に生きて、後を私に託した。同じ空を眺めながら、「おおいなる意志」が続く限りの地を覆って欲しいと思う。

窪島誠一郎さん(無言館主)の話を聞いた。(神戸風月堂サロン) 「このごろ死のことをさかんに思うようになった。それは死ぬということへの怖れではなく、遺された日々のこと。自分と向かいあうこと」。
窪島さんはぼくの一つ上。その仕事ぶり、内容は、ぼくなど足元にも及ばない。でも、この言葉には深く響鳴するものがあった。したいこと、やっておかねばならないこと、が明瞭に頭にあって、刻々と残りの日々を数える。震災からの日々を私のこれからの日々が超えることはない。過ぎれば一瞬だろう。我が儘を通して、お付き合いをほとんど断って北野に籠居して、書く事、読む事、日常の事、勿論、仕事の事。寝ている時以外は、これらのことに掛かづりあっている。大学時代の恩師、小林喜楽先生がぼくに贈った色紙に「艱難辛苦、なおこの身に積もれかし、限りある力ためさん」とあった。でも、私が抱えていることは、全て「願ってもないこと」である。足りないのは時間だけである。

2010.9 「ハイ、ご一緒に」

「ハイ、ご一緒に」

大変な時代になってきた。今夏の異常な暑さ。世界中から届く異常気象。温暖化。格差の歴然とした社会。ひたひたと押し寄せる環境破壊は、ずっと進行してきたのだが、危機とはメディアの上だけのこと、自分自身に痛みが届かぬ限り見て見ぬふりですましてしまう世間。「昭和の日本人は、恥ずかしい」と言ったのは江分利満氏だけど「平成の日本人は、もっと恥ずかしい」

ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緒に― (中原中也「春日幻想」より)
なにも考えなくてすむ「みんなご一緒」主義で、右往左往するばかり。
その空虚を埋めるのが「消費」と「イベント」。それが経済を支える柱らしい。
新聞の伝える大きな役割は「経済成長(あるいは減速)」と「世論調査」らしい。
「みんなご一緒」の結果報告。

暑さのせいで、こんな憎まれ口を叩いてしまった。
自分の仕事も大変な時代になってきた(といってもずっとそうだった)。
でも、なぜか心は平静なのです。決して止水明鏡という悟りではなく、絶えず漣(さざなみ)は立っているのですが・・・・
毎朝、陽が昇る前、全天を見渡し、自然の中に身を晒す。別に禅をやっているわけではなく、朝食を採りながら新聞を読み、放心しているだけなのですが、そこで感じる風や光や香りや鳥たちの飛行や微かな街の音。そして東から陽が昇り、まっすぐに私の額を焼く。
今の、ぼくの一日は、その余韻が体を浸して消えないままに、夜を迎える、そんな気がしてなりません。
それは隠棲しているわけでもなく、諦めているわけでもなく、自分が出来ること、出来ないことを見極めて、あるべき自分を見失わない、目の前の出来ることに集中する、そんな感じでしょうか。

一本の道

画廊のこと、作家たち、サロン、基金、執筆、読みたい本、知りたいこと、伝えたいこと。それらは、すべてが関係をもっていて、どこからか静かに降り積もってくるのです。
この時代、この世界で、ちっぽけな塵みたいな存在である自分に出来ることは何なのか。
年齢を重ね、経験を積んだことで学んだことといえば、せねばならぬことと、出来ることとの見極めかもしれません。そうした上で、自分の歩く道が、すっきりと見えるのです。
その上で、朝、ゆったりと自問をすれば、今日、なすべきこともはっきりとし、それ以外のことは、どうでも良くなってしまうのです。

2010.8 「センプレ・ドルチェ」

「センプレ・ドルチェ」

朝、5時。徐々に体と意識が立ち上がってくるのを待つ。そして珈琲をドリップで丁寧に淹(い)れ、ジュース、サラダ、トーストなどの朝食を準備する。雨が降っていなけれ新聞を抱えて屋上に上がる。空を眺め、山の緑、街、海と視線を遠くへやる。

朝焼けの雲がいかにも何かの始まりを告げているような若々しさに見えたり、薄鼠色の雲に透けてみえる陽が満月と見まがうばかりであったり。深とし、凛とした空気のなかでゆったりと姿を変えてゆく雲々に見惚れる。静寂を破る鳥の声、風の音やそよぎ。その風に微かに含まれた花の香り。通奏低音のように山からは蝉の声、街からはゴーという騒音。小一時間はそうして過ごす。ぼくだけの朝の会議。ぼく自身への問いかけ。

音楽も絵画もパソコンも、会話もない時間。今年もゴーヤが黄色い花をつけ、日毎に鮮やかな緑を纏って見る間に枝を伸ばしていく。毎日ゴーヤを収穫する。今年からトマトも茄子も育ってきた。時には鳥の空腹を満たす。

長く家事とは無縁だった。その他の家事を面倒だと感じないのは、初めてのことへの好奇心、あるいは自立ということと繋がっている気がする。20年前の頭部手術の時も、好奇心が不安・恐怖を抑え、医師に不思議がられた。こうしたぼくの変化は止めようもないが、反俗の画家は嫌な顔をし、ある友は軟弱を憂いた。でも自分で出来ることは自分でやりたい、そのために犠牲にするものがあっても。こうした内面の変化はもちろん、現実の日常との触れ方にも影響しているに違いない。何かが透明になり、抜け落ちていくものがあり、でも落ちるにまかせている。

数多くはもういらない。見、聴き、読み、食べ、人に会う。少しでいい。心に届くものだけで。その少ないものとセンプレ・ドルチェ(いつもやさしく)で向かい合いたい。

みんな自分の時間を抱えている(と思っている)。若い人はたっぷり、あり余るほど。年寄りは僅かに。

私にとっての未来は、朝、見晴るかす彼方に見えるターミナル(終着駅)なのです。それを受け入れることに何の躊躇もありません。だからこそ、今を丁寧にありたいと思いは強くなり、しかし脳細胞の処理能力は、見る間に低下し、頭は“しーんとしながらごちゃごちゃ”に混線していくのです。

2010.7 信号「赤と青」

信号「赤と青」

「信号」
交差点にくると
右ひだり、どちらでも
青い信号の方をむいて
私はあるいた

気がつくと  いつのまにか
もとの場所に私は戻っていた

ときには  一度くらいは
赤をつっ走るべきだったのだ
ー「ぜぴゅろす」拾遺より(1977年)

この詩に励まされて赤信号をわたってきた。しかし、96才の杉山さんは「赤信号」を「青にしてみせる」と言う。

「青をめざして」
私は疾走する
目の前にくるシグナルは
つぎつぎ  青になる

とおく
小さなイチゴのように灯る
赤信号も
私が近づけば
青になる
青にしてみせる
     ー 杉山平一第五詩集「青をめざして」(2004年)

私は、まだ「青にしてみせる」とはとても言えないけど、日頃のすべてのことは、もう少しましな世界をと願ってのことにちがいありません。

うしろむき、こちらむき

メルマガ500号501号に、芭蕉の「団扇(うちわ)取ってあふがん人のうしろ向き」という句にふれ、世間の名利に背を向けて生きてゆく人の姿に「この道や行く人なしに秋の暮れ」という芭蕉自身の姿を重ね、団扇であおぐというのは共感する、応援するという意味だと思うと書いた。
昨日届いた詩人の安水稔和さんの「杉山平一  青をめざして」(注)を読んでいたら、詩誌「四季」の話のなかで杉山さんが「四季」の詩人というのは臍曲りが多いんですね(笑い)。と、詩誌に後ろ向きの肖像写真をのせた詩人を紹介し江戸時代にも、ある坊さんの後ろ向きの肖像がありました。芭蕉が「こちら向け 我もさびしき秋の暮れ」という賛をしています。と、話しておられ、すこしびっくりしました。
「団扇」の人は尾張熱田の歌学者、加藤磐斎という人ですが、「こちらむけ」の坊さんとは別人のようですね。
(注)編集工房ノア刊行 この文はP179 「四季の詩人」から
美術と関係のないことばかり書いているようですが、美術のことも、俳句のことも、社会のことも人のことも、みんな同じだと思うのです。杉山さんの詩、それを取り上げた安水稔和さん、芭蕉や蕪村、松村光秀さん、すべてが、日々刻々に過ぎていく今を、どう生きているのか、何処へいくのかという問いを生きている私の意識の内にあるのです。
206回のサロンで山本忠勝さんが「神戸面白人」で、私を俎上に乗せて、話の最初に「神戸を思うと、いかにも神戸と思わせる二人の背中を思い浮かべる」と、石阪春生さんと、私の後ろ姿をあげ、そこから話が始まりました。勿論、私の「うしろむき」の話は知らずに。
昔から、子供は親の背中を見て育つといいます。いろんな会合に出ると、気がつけば最年長。いわば背中を見せていることになる。でも自分の背中は自分では見えない。「寂寥」や「老い」を労わってもらうような背中は嫌だ。杉山さんのように「青にしてみせる」という背中でありたい。

2010.6 「己が長を語ることなかれ」

己が長を語ることなかれ

ベッドの視線の向こうに隣接する「旧オーセン邸」の20mの大樹が見える。窓にはカーテンがなく目覚めれば季節と時刻の移ろいを感じる。時には半月が、時には星々が。時には穏やかな、時には激しい風の在り処を枝々が告げている。5時までは極力起き上がらぬように新しい日の始まりを水平思考する。やおら起き上がり書斎へ座る。体が目覚めるまで、書棚から詩集や、未読の本を取り出したり、目を通さねばならぬ書類を読む。耳を澄ますと、透明な時間が微かなサラサラという音をたて、ぼくの中にある滓(おり)が、少し+づつ流されていく。
このところ美術館通いが続いた。
逸翁美術館(池田市)で「芭蕉と蕪村」という展覧会を見た。 与謝蕪村については高野卯港さんの「春風曲」から、ずっと繋がってきた。毛馬の美しい堤も2度歩いた。卯港さんの画集「夢の道」にもおさめ、画集出版記念展とともに旅してきた。卯港さんが青年期を過ごした大阪、毛馬は与謝蕪村の古里である。蕪村は江戸中期に毛馬村に生れ、18才のころ江戸に出て再び古里に帰ることはなかったが、晩年に「春風や 堤長うして家遠し」を含む「春風馬堤曲」で古里を偲んだ。23才の時の日記に「いつか、きっとここが、ぼくの舞台、小説の舞台になるであろうと思った。なつかしい地、ぼくの心の里」と書き、59才で亡くなる直前に、この言葉どおりの作品を残した卯港さん。蕪村が遊んだ毛馬付近の淀川の高く長く美しい堤で卯港さんも遊び、複雑な生い立ちで、古里に戻ることのなかった蕪村に卯港さんは自分を重ねていたことは間違いない。蕪村の俳壇デビューが23歳、自由詩のごとき豊麗な叙情歌曲「春風馬堤曲」が生まれたのが蕪村62歳(1777年)。そして複雑な母への思い。卯港さんについて、しっかりと書きたいという思いが蕪村へとぼくを誘う。
逸翁美術館の入り口を入ると蕪村の「芭蕉翁立像図」が対で並んで迎えてくれた。
一つが俳諧師としての和服。もう一つが唐服を着ている。そのどちらにも、
人の短をいふことなかれ、己が長をとくことなかれ、
もの言えば唇寒し秋の風  松尾芭蕉という句が書かれていた。
恥ずかしながら、「もの言えば」は諺だとばかり思っていた。「人の短」「己が長」の諌めは耳が痛い。
しばしば、僕の書くことは「己が長」に傾いてないか。そのように言われたこともある。
芭蕉と蕪村の関係も興味が尽きない。俳諧の世界での両者の隔たりは約50年。「漂泊(旅)の詩人」(芭蕉)と「籠居(定住)の叙情詩人」(蕪村)を称されながら、実は、その逆であり、芭蕉の旅はいつも古里・伊賀で暖かく迎えられる旅であり、蕪村こそが永遠の故郷喪失者あることなど、まさに興味は尽きない。嵐山光三郎などは「悪党芭蕉」(新潮社)を書いて、聖人化に異を唱えている。
逸翁とは阪急電鉄・阪急東宝グループの創業者、小林一三のこと。そのコレクションも素晴らしい。

謎はどこに

春のある日は、大阪国立国際美術館で「ルノアール 伝統と革新」「荒川修作 死なないための葬送」を、そのあと、京都市立美術館で、飾りつけ中の「Ge展」(現代美術展)、そして没後400年「長谷川等伯展 生きることはかくも切なく、美しい」(京都国立博物館)を見た。「等伯展」も協力、逸翁美術館とあった。どこも人が溢れていて、かくも文化が大切にされているのかと、慶賀したいが・・・・・????
ルノアールにおける「革新」とは、印象派という当時の「前衛」から出発し、伝統へ回帰しながら、技法上の革新をへて「独自の美」へと歩んだということらしいが、それは新しい世代へ切り拓いて見せたという意味での「革新」ではないようで、いささか誇大広告だ。等伯展の「生きることはかくも切なく、美しい」も小説の帯のコピーだ。この頃、たっぷりと先入観を与えた上で、これでもか、これでもかと過剰に説明する。その商魂たるや、我々をはるかに凌駕するものがある。
片や、同じ大阪国立国際美術館の「荒川修作 死なないための葬送」を見に行くと、会場には20個の棺桶のような作品が壁に立てかけられていたり、床に置かれているだけ。説明書きもキャプションもなにもない。入り口にパンフレットがあり、それを読めば13点にはタイトルが付されていて作品の意味を暗示しているが、会場には何も無い。この作品の背景や意図については分かりようもない。ネットで丁寧に調べてみたが、「貴重」とか「迫力」とかの言葉はあるけど、踏み込んで書いている人は見当たらない。結局は、作家の意図は誰も分かっていないのだろうか。ならば、多くの人にとっては「理解不能」、その手がかりさえもないと言える。作品のタイトルは「惑星に乗ったトンボー氏」とか「抗生物質と子音に挟まれたアインシュタイン」とか面白い。作家が付けたタイトルを表示しないという意味が分からない。多くの人が、作品の前で「謎解き」に楽しんだだろうに。私は某美術館の評価書に、そのことを指摘した。「過剰」と「不足」。それは逆ではないのか。

2010.5 「北野籠居人」

北野籠居人

一人で生活するようになって、食事や家事を一体どうしているのか心配される方も多い。幸い、半同居のように次男夫妻が建築事務所をここに置いて、遅くまで仕事をしている。そのために楽しみにしていた美術書のライブラリーとオーディオルームを明け渡した。でも、家に人の気配があることは心強い。家人が担っていた画廊の経理をはじめ細々としたこと、そして家事が、どさっと被さってきた。スタッフや家族の協力を得ているが、それでも今までとは全く違う生活を送っている。

家人が教えようとした料理は、厳しい指導に嫌気がさしたこともあったが、今はむしろ楽しんでいる。様々な野菜スープ、パスタ、ラタトゥーユ、おからや野菜や卵を使った様々な料理、時にはステーキなどと書けば大袈裟だ。失敗も自分の作品なら許せる。このごろ、ポトラックと称して、持ち寄りのパーティーを試み持参したりする。腕前のほど?
このパーティーに参加した美木剛(元ジャンムーランのオーナー)さんに「ぼくが作ってん!」と、きんぴらごぼうともやし炒めを指さすと「見ただけでわかる」とのたもうた。すなわち「まずい」ということ。これで思い出した。稀代の目利き洲之内徹さんが「君の絵は見なくても分かる」と言ったことを。
「見ただけで分かる」舌の名人と「見なくても分かる」目の達人。言うだけ野暮でした。美木さん、いつも話題提供、ありがとう。 でも、めげずに、ほとんど毎日、たくさんのおかずを詰め合わせた弁当を持参する。多分、俳句や、絵や園芸をはじめた人たちが、まだ、その難しさもしらぬうちに、面白いと興奮するようなものかもしれない。時に手抜きしながらですが掃除、洗濯、風呂なども苦になりません。お寺の修行が、ここから始まることを見ても、思索の時でもあります。目覚ましをかけることなく、朝5時に起きてギャラリーに向かうまで4時間半。体操をし、朝食をとり、PCに向かい、本を読み、景色を眺め、考え事をし・・・・。そして句読点を打つように家事をする。時間が足りないだけで、家事は面倒ではなく気分の転換であり、新鮮な発見でもあります。何かを削らないと時間は生めません。それは「人つきあい」「外出」にしわ寄せされています。「イカリ」や「コープ」が外出先では、ほとんど「主夫」ですね。北野籠居人と呼ぶ理由です。(3月28日)

東京で

六本木・森美術館の「六本木クロッシング展2010-芸術は可能か?」は、疲れる展覧会でしたが 最後の壁にアーティスト達の言葉があり、オノヨーコさんの「雲の表情ほど美しいものがあるか・・・」が記憶に残りました。ひとときとして、とどまることのない、万化の自然は、見とれる他ない美しさです。私には時間がない、と言いながら、空を眺め陽を浴び、季節の移ろい、雲の表情、花々、風の行方、鳴き交わす鳥の歌に見惚れ、聞き惚れるのは、北野へ越して、通勤時間がほぼ不要になったからでもあります。でも心の在り処が違ったことがなによりでしょう。自然と向かい合い表現に挑む人間は、そうとう深い存在をかけていないと、敵うものではありません。そのことが、よく分かってきたこの頃です。恒例の「六本木クロッシング展」は、出来るだけ見るようにしています。今回は、前日(3月28日)に榎忠さんのお祝いの会があり、そこに木ノ下智恵子(元KAVC美術担当であった)さんの姿を見かけたのですが、木ノ下さんは「六本木クロッシング展」のゲスト・キュレーターの一人だったのですね。会場では森村泰昌さんの「独裁者を笑え」の映像がありましたが、同じものを前回のベネチアビエンナーレで見、そしてベネチアビエンナーレ会場で、忙しく取材している木ノ下さんとも会って、情報をいただいたことを思い出しました。(4月1日)

沖縄のこと

畏友・真喜志好一さんをお招きして第205回サロン  「沖縄を知ること、なすべきことなど」を行いました。スタッフを加えれば70名を超える人が、坪谷令子さんの話と真喜志さんの映像を交えたテ丁寧な話に聞き入りました。話の骨子は真喜志好一さんのHPで詳しく知ることが出来ます。情報公開で入手した公文書から「もうだまされない」と情報を分析し、普天間閉鎖、辺野古への移転は1966年、44年も前からの米軍の意図であったこと。それらを日本のお金で、しかも増強されて計画されていることなどを証明され、目から鱗が落ちる思いでした。しかし、理解したからといって同情し、労わるだけでは何も変わりません。ウチナンチューから言えば、私たちヤマトは「心の内なる植民地主義者」にしか見えないでしょう。それに直接関わることは難しいかもしれませんが、日々、なすべきことは山積しています。それぞれが、果たすことを果たすしかないでしょう。(4月7日)

2010.4 静かな気配

静かな気配

あけまだきの空から、粉糠雨が降り続き、冬枯れの木や小さな残枯葉にひとしきり留まっては、雫となって落ちる。雀たちが枝を縫うように飛び交い、静寂に句読点を打つように鳴き交わす。その声に共振するようにまた、雫が落ちる。晴れた日の陽射しは、とっくに春の訪れを告げているのに、長い冬は足早には去らない。眼下に眠りから醒めようとしている街も、どこかしら薄鼠色の衣装を纏ったように精気を失って見える。その気配のうちに、息を詰め、目を凝らし、耳を傾け、心を開いていると、薄明が含む光を、静寂が伝える小生物の蠕動(ぜんどう)を、樹々に芽吹いた蕾を、疲弊から抜け出して命を蘇らせ、目覚めようとする意思が、微かに受け取られる。この時の流れを懐に抱きとめて暖めておきたい。この穏やかな風に肌を晒していたい。この静かな気配を心に留めておきたい。見えないものが見える瞬間は、こうした中からしか生まれないから。(3月4日)

絵の前の涙

「絵を見て泣いたことがありますか?」は後藤正治さんの「奇蹟の画家」の帯のコピーだ。高野卯港さんが生前に夢見ていた画文帖「夢の道」を刊行した展覧会に関連したサロンが終わった後、友人と話しをしていた。会場の正面には、卯港さんが青春時代を過ごし、「洗関の淀の流れに、いく筋もの燈りが、揺れていた。橙色が深いブルーにひたって燃えていた。いつか、きっとここが、ぼくの舞台、小説の舞台になるであろうと思った。なつかしい地、ぼくの心の里」と23才の日記に書いた毛馬(大阪・都島)の淀川堤防を描いた「春風曲」と、亡くなる直前(2008年9月上旬)まで筆を入れていた絶筆「鞆の浦風景」が飾ってあり、この2点は手放すつもりは無かった。友人はすでに卯港さんの最後の個展で「星の入り江(高砂港)」をもとめておられ、私がお宅まで、飾りに伺った。今回、どうしても「鞆の浦風景」を譲っていただきたいと、切々と懇請された。詳しくは書くことはできませんが、神戸に思いを残すご高齢の義父の枕元に飾ってあげたいと話しながら、最初は目尻の端に滲むように、やがて瞼から溢れるように雫が落ちた。周りに人はいたが、その一瞬は深い静寂に支配されたように僕の瞼も感応し、思わず彼の手を握り涙のConcertanteとなった。卯港さんにとって、絵にとって、無上の幸せである。「春風曲」は、石井一男さんのご縁で最近、遠方から来て下さるお客様から懇請されて譲った。絵の幸せな居場所を考えれば、これでいい。(3月9日)

春は名のみ

窓の外は、横殴りに粉雪が走っている。徳山を過ぎたあたりから地面が白かったけど小倉に近づくと雪世界となった。博多に向かっている。福岡市立美術館の「舟山一男・藤崎孝敏展」を見にいくために。博多は寒かったが、雪ではなかった。でも地下鉄・大壕公園駅の階段を上がると、風交じりの粉雪。3月半ばだというのに。展示作業の忙しいなか、事前に連絡していたので学芸課長の渡辺さん、担当学芸員の正路さんがお相手してくださった。お手を煩わせる用件でもないけど、写真を撮って藤崎さんに送らないといけないので、許可がいるのだった。福岡行きの前日に鉛筆画の木下晋さんから久しぶりに電話があった。なんと藤崎さんのあとに福岡市立美術館で木下さんのコレクション展がある、そのための資料の依頼であった。不思議なことといえば、福岡行きの1週間ほど前に知人から「アンドレ・ブルトンへの”痙攣“がダリに家族との断絶をもたらした」という、シュールレアリストの反カトシシズムについての論文を受け取り、論者と興味深いやりとりをしていて、氏から、ダリのカトリック回帰を象徴する”ポルト・リガトの聖母“が福岡市美にあることを教えられていたのです。この作品とも、じっくりと対面することが出来ました。このあと、まえから行きたいと思っていた、福岡アジア美術館へ。ここの学芸課長の黒田雷児さんが、1960年代の前衛美術運動について調べておられて、中島由夫の関わった「アンビート」や「反芸術」の運動について問い合わせがあり、近々に大部の著書を刊行される。明石市立文化博物館での「中島由夫展カタログ」をお渡したが、無念にも展示替え休館でアジア美術館は見ることが出来なかった。(3月10日)

銀座にて

武内ヒロクニさん夫妻と上京した。銀座の二つの画廊で「しあわせ食堂原画+色鉛筆の世界展」同時開催の快挙。
歩いて6分の距離にある二つのギャラリーを何度往復したことが。その路上で何人もの画家さんや知人に出会う。
みんなヒロクニさんの展覧会に来て下さった方。植松永次さんともバッタリ。タクシーで浅草橋の植松さんの個展へ。
墨田川を望む古民家を使った風情のあるギャラリー。素晴らしい。ヒロクニさんのオープニングはしあわせ食堂レシピ。画廊さんのご苦労に頭が下ります。16日は鎌倉へ。松谷武判展(神奈川県立近代美術館鎌倉館)と鶴岡八幡の倒れた古大銀杏にも会えました。東奔西走。しかし、松谷さんは、素晴らしかったですね。白と黒、素材もボンドと鉛筆という、シンプルながら、切り拓いてきた地平の豊かさに瞠目しました。

2010.3 「 書くということ、読むということ」

書くということ、読むということ

「執筆に忙しい」など、思わせぶりで文士気取りがいやらしい。でも気分的には、いつも書き物に追われている。やっと前号を送ってほっとしていると、鶯さんから2月は短いので、「今月は早めに」と釘をさされた。この文でも、ざっと書いてそのままというわけにはいかない。石井一男さん後藤正治さんとの出会い、本の誕生も、この通信が関わっている。ギャラリーのHPの執筆の記録(ブックレビューでご覧いただけます)の訂正をしていると、大学1年の時の「ぼくのアメリカ覗き」に始まって、「塵も積もれば」の類で、よくもまあと我ながら驚く。でもエッセイは文学ではない。せいぜいがブランチか珈琲ブレイクである。作家には偉そうに言っておきながら、自分はクロッキーや水彩スケッチをしているみたいなものでタブローは描いていない。昨年から私にとってのタブロー(画家の評伝)に取り組んでいるのだが、書いては消しての連続で遅々として進まない。メールマガジン(読者が2千人を超えて驚いています)が頻繁であるのは、この執筆の苦しさから逃れる、私にとっての珈琲ブレイクみたいなものだなと、気がついた。画廊通信、メルマガ、展覧会のDM文。この短い文でも、作家を理解し、意図を汲み、読む方のことを考え、そして、すべてがARCHIVESとして記録され、引用されることを考えるとおろそかに出来ない。書こうと思って地下水を汲みあげようとすると、枯渇しかかっていることを実感し、今度はやたらと本を読みたくなる。いただいた本、読みたくなった本、資料として買った本。みんないとおしい。ギャラリーと家を往復しているだけなのに、どうしてこんなに時間がないのか。「モモ」の時間泥棒は我が内にありだ。
  昨年末から1月末までは、本年末に刊行される「災害対策全書」(ひょうご震災記念21世紀研究機構)の「芸術と文化の復興」に引っかかってしまった。気安く引き受けたものの、読み直してみて、これでは駄目だと気がついた。誰のために、何のために書いているのかと問えば、たちまち難渋してしまった。神戸の震災を総括して、次世代に引き継ぐ書にふさわしいものでありたいと、8千字の原稿に推敲を重ねた。今ほど、書くこと、読むことが、自分が今、ここにあり、呼吸し、感じ、人とつながり、生かし、生かされ、伝え、伝えられながら、それぞれのターミナルへの一歩を日々、踏み出していると実感したことはない。書いておきたいことが増え、読んでおきたい文が増え、それぞれに、ゆったりとした時間を割きたいと思い、よって積み残しの文が増え、読み残しの本が増え、際限もない。

「奇蹟の画家」と「情熱大陸」と石井一男現象

大きな反響に驚くばかりでした。「奇蹟の画家」の初版1万部は2ヶ月で重版、重々版に。画集「絵の家」「絵の家のほとりから」(各1000部)も重版しました。感動の渦ばかりではなく、様々な波紋や批判もあるでしょう。石井さんがスポイルされないか?と心配される方も多い。 石井さんとの出会いは偶然であり、必然、神の配剤とも思えます。
「埋蔵画家発掘」というコピーを考え紹介したのは私ですが、それ以降のことは「起こした」のではなく「起こった」のです。それが静かに繋がっていった軌跡が「奇蹟」と名づけられた意味ではないでしょうか。昔なら、普通にあった佇まいが、今では美しく、稀有に感じる。しつけとは「身を美しく」すなわち「躾」。混沌として行方の見えない「今」という時にあって、人々の琴線を激しく鳴らした石井さんの日々。その姿が表現であり、それを浮き彫りにした、後藤正治さん、茂原雄二さん(情熱大陸のディレクター)の作品の力でもあります。
私は特別に石井さんに密着し、売り出したわけではない。たまに電話する程度でクールに接してきました。それが流儀で、人間を、仕事を見れば分かる。他の作家たちとの付き合い方と変わらない。
「一人の人間はとてもちっぽけなものだが、その一人の存在は、世界に意味を与えることができるという意味でちっぽけどころか大変大きい」という加藤周一さんの言葉を記憶していますが、石井さんは、まさに「その一人」だ。心惹かれたことを、深く掘り下げていけば、普遍に至る。後藤正治さんが「普遍を書こうと思った」と神戸新聞のインタービューに答えているのもこの意味だと思う。石井さんが掘り下げたところには29年間の孤独、沈黙が蓄えた豊かな鉱脈があった。石井さんの作品は、静かに、優しく、ひっそりと、どこか命に触れている中世の石工の仕事や、野の仏、無名の仏師、民芸の仕事、職人の仕事に通じ、それらに出会って、魅せられた経験に似ている。船越保武さんが「巨岩と花びら」で、繰り返し触れておられることだ。
今回のことは、石井一男現象といってもいい大きな流れだが、どうか、そっとしておいて欲しい。
  このあとは石井さん自身の問題であり、私自身の問題です。私の愛する作家たちが認められる努力を続けていきたい。作家に課すだけでなく、画廊主としても問い続けていきます。