I.「20年目に見えた道」
静かに昇ってくる太陽が海の上に私に向かって真っ直ぐな光の道をつくった。少し秋の気配を含んだ大気は、前夜までの雨ふくみの余韻をひいて、晴れ渡った空とはいえないのだが、それだけに、陽の光も柔らかく包み込むように、私をしっとりと満たした。この時、はじめて、体の中枢から末端に向けてひたひたと潮が満ちるように潤いが戻ってきたことを実感した。それまでは、自分の張り詰めた緊張を、元気だと思い込んでいたが、すぐに声は掠れ、左目は膜がかかったように視界がかすみ、横になれば骨の髄までカスカスになったような堆積疲労を感じていた。習慣と化していた切れ切れの睡眠もなかなか戻らなかった。それは1989年の夏に脳背髄鞘腫という頭部の手術から快復し、20年を経た朝の覚醒だった。だれにでも光の道はまっすぐこちらへ向かうのだが、私には特別な啓示を秘めているように思えた。20年前に見えた道は天に向かって育ってゆく一本の樹を感じ、それは様々な枝に分かれ、その枝を払うように生きてきた。今、残された年月を数えるようになり、大きなものに抱かれるように枝葉は消え、幹が、天に向かってまっすぐ伸びていくのを受容する気配をありありと感じた。夏休みはいつも家人と海外へ行っていたが、今年はその過ごし方が分からなかった。そして、依頼を受けている、清貧で異端な作家たちの原稿書きに専念することに決めていた。最初の約束では今頃、書き上っていないといけないのだが、まだ書き始めたところ。でも、心配した家族、友人が誘ってくれ、PCを抱えて旅に出た。福井県の武生国際音楽祭で、J.J.バレ&亀田まゆみによるピアノデュオ(4手)コンサートを楽しみ、引接寺という由緒ある場所で、珠寶さん(銀閣寺お花方)の、尺八、笙、能謡・能舞とのコラボレーションを見た。そのあとは1人で鈍行で金沢へ。金沢21世紀美術館で「未完の横尾忠則展」を、また鈍行で越前湯沢を経て、東京の長男の家へ。孫たちと遊び、箱根で遊び、また東京へ戻り、美術館や画廊を巡り、友人と食事をした。楽しみにしていた越後妻有トリエンナーレは同行予定の次男夫婦が仕事で駄目になり、断念した。
自分の内から湧き出るというより、何かに導かれるような蘇生感は、言葉を変れば、「私の生あるかぎりなすべきこと」、その道がありありと見えている感覚でもあります。そこを、ゆっくりと、しかし確かに歩みはじめます。
II.「ギャラリー島田が神戸ビエンナーレへ参加??????」
第2回の「神戸ビエンナーレ」が始まります。今回は兵庫県立美術館も積極的に関わるようになり、私が信頼し、大切にしている作家たちに大きな役割が与えられました。海上アート展の榎忠、植松奎二、塚脇淳さんたちは友人ですし、奥田善巳さんをはじめとする招待作家たちは、ほとんどの作家と交流があります。内容が充実したことをうれしく思います。ギャラリー島田も思いがけず、関わることとなりました。変な関わりですが。。。。
美術出版社のBT(美術手帳)が別冊BT「神戸ビエンナーレ」をつくるに当たって、ギャラリー島田を取材しました。私の危惧を出版社に伝えたのですが、ビエンナーレに直接関係するところでなく、「街歩き」のところなので、ギャラリー島田は外せない、「問題ない」との回答でした。写真も提供し、記事のチェックも済ませ、頁の半分が割り当てられていました。ところが、最終段階でギャラリー島田は全面削除を求められたそうです。記事の縮小も認められなかったと、出版社から謝罪がありました。いまどき、編集権のある出版社に検閲をして削除などが許されるのですね。別にビエンナーレに対して反対運動をしたわけでもなく、うちのメールマガジンと通信に前回の批判を書いただけです。何よりも、そこに「在るもの」を「ないもの」と出来る神経に脱帽です。こういう圧力が、どれだけ私の神経を鍛え、人間の真実を教えたことでしょう。この事件が、図らずも神戸が抱えている問題点を象徴的に証明していると思います。
詳しくはギャラリー島田メールマガジン426号(9月25日発行)に書いています。
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