2009.8 「読み返すことができない本」

「読み返すことができない本」

 島田悦子が6月24日午前2時に神に召されました。享年63歳。闘病22ヶ月でした。神戸・栄光教会で親族だけで告別式を行い、7月10日にギャラリーで「島田悦子とのお別れの会」をさせて頂きました。すべて家人が決めたことです。3回に分けて開催しましたが、雨脚の強い中、混み合って、諦めて帰られた方もおられたようで、申し訳ないことでした。ご記帳頂いた方が439名様。出演者、関係者など470名くらいの方にお越し頂きました。ちょうど通信の発行の合間になり、通信でのお知らせが出来なかったので、今月号ではじめて知られる方もおありだと思います。申し訳ありません。お別れの会は、元気な時の悦子に会いに来て頂くという形を貫きました。すべては、お別れの会当日に、来て下さった皆様にお渡しした、本人が5月11日に書いた「みなさまへ」という挨拶文(文末参照)と、「22ヶ月のゴール」という小冊子に込められています。

63才での死去は家族にとっては痛恨ですが、全力で駆け抜けた充実したものであったと思います。会場に飾った30枚の写真や、思い出のアルバムをご覧になって「幸せな人生だったのね」という声がたくさんあったとお聞きしました。家族に恵まれ、たくさん旅行し、息子の設計した家に住み。

その通りなのですが、闘病中の衰えた姿を絶対に人に見せなかったように、幸せの陰にある言葉で表せない苦労を外に出すことも嫌いました。子供たちに対する躾も厳しく、「涙の河を渡ってきた」とよく言っていました。私が家内の実家の海文堂書店を継いでからの苦労も大変なもので、「血の涙の河を渡ってきた」と言っても過言ではありません。人生の「充実」とは、そのような内実を抱えてこその言葉であります。

皆さんを驚かせたのは「テーブルの風景」という膨大な食事の写真群でしょう。
10年以上、自分がつくった夕食やお弁当の写真を撮り続けていました。
料理が大好きで、面倒だから外で食べるという発想はなく、帰宅して20分で食卓に料理が並びました。写真は記録や自慢のためというより「写す」ということで、料理にも器にも手を抜かないという「戒め」だと言っていました。

明るく行動派の近代女性に見える外見とはちがい、しっかり者の古風な人でした。
アルコールや珈琲、タバコは口にせず、酒席やパーティーは避け、料理、手芸、園芸など家事を好み、ギャラリーとの関わりも表には出ず、経理を主とし、私を通じて経営していました。

この22ヶ月の日々は悦子の63年の生涯と私たちの41年の生活を凝縮するものでした。私は悦子の病と向かい合う日々の姿を感動しながら見つめ、そばにいたのです。それは汲めど尽きぬ、「かけがえのないこの人」の在り方を教える、二度と読み返すことの出来ない「1冊の本」でした。今、読み終えた感動の余韻と、読みきった重い疲労とともに、読み返すことの適わぬ虚しさの中に取り残されています。

光の中に 微笑を見 風の中に 息吹を聞き

そして心の中に ともに生きるとわかっていることであっても

存在のあとに残る空間は

なにものにもうめることはできないでしょう

いかなる言葉も そして音楽も

ただ夏から秋 そして冬へとかわりゆく朝の光や

梢の葉ずれの音のように 美しいものがふりつもって

心の空寂を すこしずつ うめてゆくことを 祈っています。

伊津野雄二(彫刻家)さんから頂きました。

「告別式」、「お別れ会」、様々な雑務が悦子の不在を一時、忘れさせてくれます。
ともあれ、悦子のためにお運び下さいました皆様、献花、献奏、司会、受付など多くの皆様によって「お別れの会」をつつがなく終えることが出来ました。ありがとうございました。

最後に悦子から
みなさまへ

私は、昭和21年1月に元町の商家に生まれ、何不自由無ない暮らしを送らせてもらい、憧れに近い形で大好きだった島田と結婚し、幸いにも二人の男児に恵まれました。
その二人も社会の皆様のお陰で大きく育ってくれ、望外の喜びでございました。
また私の周りには、いつも心暖かい友人達がいて下さり、大変楽しい時間を過ごす事が出来ました。
いろいろ感謝が多く振り返って見ても幸せな人生でございました。
あと心残りは誠さんの事でございます。こればかりは、どうしようもございません。皆様、どうぞよろしくお願い申し上げます。

本当に今日は有難うございました。
ごきげんよう。さようなら。

島田悦子