2009.12 「Du bist die Ruh, Du bist der Frieden」

「Du bist die Ruh, Du bist der Frieden」
あなたは休息であり、あなたは喜びである

 孤独な朝を慰めるのは、だんだん空に明るさがまし、天空にひろがる雲の姿が、刻々と変わる様。それを飽かず眺めている。やがて、まだ姿をみせぬ陽が、雲の端を時に茜に、貝紫に染め、天空も暗色に薄い青がさし、日によって灰色がかった藍鼠、水色、群青と表情を変える。やがて陽が姿を現し、雲も千変万化の様相を見せる。北野に越して、1年が経った。季節によって陽が顔を出す位置も、少しずつ変わる。概ね上機嫌で緋色の丸顔が刻々と全容をみせ、私を朱に染め上げるが、気がつくと薄雲の向こうに鍍金(めっき)された銀盤のように見えたりする。手前に大きく見える木々が揺れ、緑が時に煌き、時に暗鬱にうねる。昔は、朝には必ず音楽が流れていた。いまは、新聞を読んだり、簡単な朝食を採りながら、無音のうちに眼差しを遠くに遊ばせることが多くなった。孤独と向かいあい、沈黙にあることは悲哀に包まれることではない。この街を見下ろしながら、この「陽」、この「雲」、この「時間」に、ここに「在る」こと、「人」と共に確かな絆で結ばれていることへの感謝も静かに、ひたひたと心を満たす。孤独は空虚ではない。疎外感でもない。自分が何者であるのか、何をしようとしているのか、どんな状況にあるのかを、教えてくれる友なのです。ただ、孤独や沈黙と測りあう自分であることの確信が持てなかったがゆえに、恐れてきた気がします。遠く大阪の金剛山系の釈迦岳、生駒山、葛城山。そこから和歌山にむけて和泉山脈の三国山、葛城山がなだらかに連なって見えます。昨日から急に冷え込んで、きりりとした気配に満ち、連山の上に津高和一の作品のような雲があったのですが、家事に気をとられている間に、陽が昇り、対岸が靄の中に消えてしまった。書斎に戻り、文を書き始めると、ゆっくりと向かいあえなかった音楽が、とても新鮮に、乾いた心と体に水が沁み込むように聴こえるのが不思議だ。

シューマンがリュッケルトの詩によったWidmung(献呈)がDu bist die Ruh, Du bist der Frieden (※)と耳元で囁いている。
夏の熱気が秋気と斑に日を染めはじめると共に、私の執筆への意欲も沈静し、思いが情景や音や読書へと浸っていくことにゆったりと委ねているのです。

文を書くということ

偉そうに執筆に夢中だと、夏のころに言っていた。事実、旅行にもPCを携えて、熱心に書いてきた。まるで文士気取りだった。 執筆といっても、画家の評伝・評論みたいなもので、調べたり、聞き取りをしてりするので、面白いし、やりがいもあるが、なかなか進まない。そのうち、別の原稿依頼がきて、それに気をとられ、後藤正治さんの「奇蹟の画家」の原稿を読ませていただいているあいだに、自信も喪失し、出版社から「ゆっくりやりましょう」と声をかけられ、一挙に、執筆意欲が沈静してしまった。 急いでも碌なことはない。熟成する時を待って、ぽとりと落ちればうれしい。この一年間に私が関わった本を下記に纏めてみた。それなりに全力で書いたものだ。ギャラリー島田に置いているので、手にとって欲しいと思います。

書名ー島田の文ー版元ー定価で記載

◆画集「神戸百景 川西英が愛した風景」-「神戸百景」の時代と縁(えにし)-シーズプランニング 2200円
…待望の「神戸百景」が普及版として復刻された。大変好評です。

◆石井一男画集 「絵の家」 ふたたび絵の家へ ギャラリー島田 3000円
…17年前の初個展に約束した画集がようやく出来ました。記念展はどれもが大成功。画集としても異例の売れ行きでした。

◆石井一男画集2「絵の家のほとりから」 光と水脈 ギャラリー島田 3000円
…石井さんの第2画集です。より豊かなイメージの広がりを感じさせる、いい画集になりました。

◆高野卯港スケッチ展 帽子をかぶった卯港さん 風来舎 2000円
…昨年10月2日に亡くなった卯港さん。生前に出してあげたかった。2010年3月に画集を出します。

◆須飼秀和 画集 「いつか見た蒼い空」 時代に遅れてきた青年 シーズプランニング 1700円
…明石市立美術博物館での須飼さんの個展は大成功でした。これからブレークする作家ですね。これはそのカタログです。

◆武内ヒロクニ「しあわせ食堂」 ガジュマルの妖怪 画家「武内ヒロクニ」 光人社 1800円
…新聞連載から50作品。ともかく涙と笑いと感動と。ヒロクニさんは凄い。ぼくは「まえがき」も書いています。

◆画集「中島由夫」 北欧の太陽の画家(仮題) 明石市立美術博物館 未定
…2010年1月4日からの個展カタログです。中島由夫さんの関係本が同時に3冊刊行されるとは驚きです。

まだまだ、出版の可能性がある作家がいらっしゃいますし、後藤さんの「奇蹟の画家」など、ほんとにうれしいことです。

2009.11 「2010年の1.17」

「2010年の1.17」

 2010年は阪神淡路大震災から15年の年です。震災には深く関わってきました。すべては、あの時、垣間見た新しい道へのこだわりに帰しているといっても言い過ぎではありません。その一つとして、1月17日の「竹下景子  詩の朗読と音楽の夕べ」は、とても大切にしてきました。詩の公募、音楽のゲスト、チラシには、ギャラリー島田に関わる作家の作品を選び、ステージに飾ったり、スクリーンに投影したりしてきました。今回は伊津野雄二さんの作品をおかりします。

伊津野雄二さんを訪ねて

10月某日、岡崎市(愛知)の伊津野さんのアトリエを訪ねた。1月17日の「竹下景子 詩と朗読の会」のステージに、どうしても母子像、木彫「Basis」を飾りたいからです。すでに了解を得ているけど、作品の輸送、梱包、組み立てなど慎重な作業の打ち合わせが必要なのです。とはいえ、その作品に漂う緊張感を秘めた気品とフォルムの美しさ、時折いただく詩文にも感服していて、どんな生活をし、どんなアトリエで、どんな人なのだろうか、との押さえがたい興味に惹かれてでもありました。名古屋で名鉄に乗り換え、特急で25分。東岡崎駅まで伊津野さんが車で迎えに。さらに20分。20戸の集落でのお住まいとアトリエは、廃屋から、手つくりで整えたという歳月に晒された美と、総てが統一されたセンスで、ご夫妻の人柄、越し方が形を成している。31年前に入村されたそうだ。ここで、どこにも属さず、生活の基盤をなす、オリジナルな木工家具などを製作しながら、自然の歩みのままに、信ずる道を歩み、現代と隔絶された豊かな時間を風、光、水、木々、月、星、陽と語り合って過ごされてきた。木彫「Basis」は、左腕に女児を抱え、前方を見つめる等身大より少し大きい母子像ですが、母子ともその凝視の眼差しは厳しく、身構えているようにも見えます。そこに私たちは、様々な思いを重ねることが出来ます。  伊津野さんご夫妻が勇気をもって選ばれた環境が、静かに粉雪が舞い積もるように、月光が遠い記憶を運んでくるように、季節の花々や樹葉が散り落ちて、腐葉となり惠の土壌を用意するように、ぼくたちに流れている時間と違う、季節と自然に素肌で触れ合ったような、ゆったりとした刻がフォルムや言葉を紡ぎ出し、結晶となって生み出されているのです。

竹下景子さんのこと

前回の「1・17」は、火災発生・避難というアクシデントに見舞われ、若干の混乱はあったものの、竹下さんの沈着な対応にも助けられて、無事終了したのでした。女優ということをはるかに超えて、ひとリの人間として、いつも知的に、しかし熱いものを秘めて、毎年、ライフワークとして、取り組んで下さっています。
 詩の朗読ですから、良い詩が集まることが前提です。募集方法を改めながら、今年も良い詩を願っています。みなさんも参加してみて下さい。

板橋文夫とミックス・ダイナマイト・トリオ

ジャズ界の人気者、魂のさすらい人・板橋文夫が率いるトリオは、そのパワフルで先鋭的な「宇宙のふるえを伝える」演奏が素晴らしい。そして1998年から10年間、「神戸からの祈り」(註)という岩岡コンサートを南輝子さんたちと続けてこられました。
このトリオこそが、震災15年を飾るに相応しいと確信して、お招きいたしました。
(註)10周年のライブCD「Do Something」のライナーノートを島田が書いています。(販売中)

この会は、震災後に神戸で生まれたNPO/NGOが集まった「ぼたんの会実行委員会」が主催し、収益は、各団体の活動費として還元されています。㈱シスメックスさまは、この事業に5年間にわたって特別協賛して、支えて下さいました。今回が最終回となります。ほんとうに、ありがとうございました。

今後のこと

この会は、震災後に神戸で生まれたNPO/NGOが集まった「ぼたんの会実行委員会」が主催し、収益は、各団体の活動費として還元されています。㈱シスメックスさまは、この事業に5年間にわたって特別協賛して、支えて下さいました。今回が最終回となります。ほんとうに、ありがとうございました。

2009.10 I.「20年目に見えた道」

I.「20年目に見えた道」

 静かに昇ってくる太陽が海の上に私に向かって真っ直ぐな光の道をつくった。少し秋の気配を含んだ大気は、前夜までの雨ふくみの余韻をひいて、晴れ渡った空とはいえないのだが、それだけに、陽の光も柔らかく包み込むように、私をしっとりと満たした。この時、はじめて、体の中枢から末端に向けてひたひたと潮が満ちるように潤いが戻ってきたことを実感した。それまでは、自分の張り詰めた緊張を、元気だと思い込んでいたが、すぐに声は掠れ、左目は膜がかかったように視界がかすみ、横になれば骨の髄までカスカスになったような堆積疲労を感じていた。習慣と化していた切れ切れの睡眠もなかなか戻らなかった。それは1989年の夏に脳背髄鞘腫という頭部の手術から快復し、20年を経た朝の覚醒だった。だれにでも光の道はまっすぐこちらへ向かうのだが、私には特別な啓示を秘めているように思えた。20年前に見えた道は天に向かって育ってゆく一本の樹を感じ、それは様々な枝に分かれ、その枝を払うように生きてきた。今、残された年月を数えるようになり、大きなものに抱かれるように枝葉は消え、幹が、天に向かってまっすぐ伸びていくのを受容する気配をありありと感じた。夏休みはいつも家人と海外へ行っていたが、今年はその過ごし方が分からなかった。そして、依頼を受けている、清貧で異端な作家たちの原稿書きに専念することに決めていた。最初の約束では今頃、書き上っていないといけないのだが、まだ書き始めたところ。でも、心配した家族、友人が誘ってくれ、PCを抱えて旅に出た。福井県の武生国際音楽祭で、J.J.バレ&亀田まゆみによるピアノデュオ(4手)コンサートを楽しみ、引接寺という由緒ある場所で、珠寶さん(銀閣寺お花方)の、尺八、笙、能謡・能舞とのコラボレーションを見た。そのあとは1人で鈍行で金沢へ。金沢21世紀美術館で「未完の横尾忠則展」を、また鈍行で越前湯沢を経て、東京の長男の家へ。孫たちと遊び、箱根で遊び、また東京へ戻り、美術館や画廊を巡り、友人と食事をした。楽しみにしていた越後妻有トリエンナーレは同行予定の次男夫婦が仕事で駄目になり、断念した。
 自分の内から湧き出るというより、何かに導かれるような蘇生感は、言葉を変れば、「私の生あるかぎりなすべきこと」、その道がありありと見えている感覚でもあります。そこを、ゆっくりと、しかし確かに歩みはじめます。

II.「ギャラリー島田が神戸ビエンナーレへ参加??????」

第2回の「神戸ビエンナーレ」が始まります。今回は兵庫県立美術館も積極的に関わるようになり、私が信頼し、大切にしている作家たちに大きな役割が与えられました。海上アート展の榎忠、植松奎二、塚脇淳さんたちは友人ですし、奥田善巳さんをはじめとする招待作家たちは、ほとんどの作家と交流があります。内容が充実したことをうれしく思います。ギャラリー島田も思いがけず、関わることとなりました。変な関わりですが。。。。
美術出版社のBT(美術手帳)が別冊BT「神戸ビエンナーレ」をつくるに当たって、ギャラリー島田を取材しました。私の危惧を出版社に伝えたのですが、ビエンナーレに直接関係するところでなく、「街歩き」のところなので、ギャラリー島田は外せない、「問題ない」との回答でした。写真も提供し、記事のチェックも済ませ、頁の半分が割り当てられていました。ところが、最終段階でギャラリー島田は全面削除を求められたそうです。記事の縮小も認められなかったと、出版社から謝罪がありました。いまどき、編集権のある出版社に検閲をして削除などが許されるのですね。別にビエンナーレに対して反対運動をしたわけでもなく、うちのメールマガジンと通信に前回の批判を書いただけです。何よりも、そこに「在るもの」を「ないもの」と出来る神経に脱帽です。こういう圧力が、どれだけ私の神経を鍛え、人間の真実を教えたことでしょう。この事件が、図らずも神戸が抱えている問題点を象徴的に証明していると思います。

詳しくはギャラリー島田メールマガジン426号(9月25日発行)に書いています。
HPからご覧下さい。

2009.8 「読み返すことができない本」

「読み返すことができない本」

 島田悦子が6月24日午前2時に神に召されました。享年63歳。闘病22ヶ月でした。神戸・栄光教会で親族だけで告別式を行い、7月10日にギャラリーで「島田悦子とのお別れの会」をさせて頂きました。すべて家人が決めたことです。3回に分けて開催しましたが、雨脚の強い中、混み合って、諦めて帰られた方もおられたようで、申し訳ないことでした。ご記帳頂いた方が439名様。出演者、関係者など470名くらいの方にお越し頂きました。ちょうど通信の発行の合間になり、通信でのお知らせが出来なかったので、今月号ではじめて知られる方もおありだと思います。申し訳ありません。お別れの会は、元気な時の悦子に会いに来て頂くという形を貫きました。すべては、お別れの会当日に、来て下さった皆様にお渡しした、本人が5月11日に書いた「みなさまへ」という挨拶文(文末参照)と、「22ヶ月のゴール」という小冊子に込められています。

63才での死去は家族にとっては痛恨ですが、全力で駆け抜けた充実したものであったと思います。会場に飾った30枚の写真や、思い出のアルバムをご覧になって「幸せな人生だったのね」という声がたくさんあったとお聞きしました。家族に恵まれ、たくさん旅行し、息子の設計した家に住み。

その通りなのですが、闘病中の衰えた姿を絶対に人に見せなかったように、幸せの陰にある言葉で表せない苦労を外に出すことも嫌いました。子供たちに対する躾も厳しく、「涙の河を渡ってきた」とよく言っていました。私が家内の実家の海文堂書店を継いでからの苦労も大変なもので、「血の涙の河を渡ってきた」と言っても過言ではありません。人生の「充実」とは、そのような内実を抱えてこその言葉であります。

皆さんを驚かせたのは「テーブルの風景」という膨大な食事の写真群でしょう。
10年以上、自分がつくった夕食やお弁当の写真を撮り続けていました。
料理が大好きで、面倒だから外で食べるという発想はなく、帰宅して20分で食卓に料理が並びました。写真は記録や自慢のためというより「写す」ということで、料理にも器にも手を抜かないという「戒め」だと言っていました。

明るく行動派の近代女性に見える外見とはちがい、しっかり者の古風な人でした。
アルコールや珈琲、タバコは口にせず、酒席やパーティーは避け、料理、手芸、園芸など家事を好み、ギャラリーとの関わりも表には出ず、経理を主とし、私を通じて経営していました。

この22ヶ月の日々は悦子の63年の生涯と私たちの41年の生活を凝縮するものでした。私は悦子の病と向かい合う日々の姿を感動しながら見つめ、そばにいたのです。それは汲めど尽きぬ、「かけがえのないこの人」の在り方を教える、二度と読み返すことの出来ない「1冊の本」でした。今、読み終えた感動の余韻と、読みきった重い疲労とともに、読み返すことの適わぬ虚しさの中に取り残されています。

光の中に 微笑を見 風の中に 息吹を聞き

そして心の中に ともに生きるとわかっていることであっても

存在のあとに残る空間は

なにものにもうめることはできないでしょう

いかなる言葉も そして音楽も

ただ夏から秋 そして冬へとかわりゆく朝の光や

梢の葉ずれの音のように 美しいものがふりつもって

心の空寂を すこしずつ うめてゆくことを 祈っています。

伊津野雄二(彫刻家)さんから頂きました。

「告別式」、「お別れ会」、様々な雑務が悦子の不在を一時、忘れさせてくれます。
ともあれ、悦子のためにお運び下さいました皆様、献花、献奏、司会、受付など多くの皆様によって「お別れの会」をつつがなく終えることが出来ました。ありがとうございました。

最後に悦子から
みなさまへ

私は、昭和21年1月に元町の商家に生まれ、何不自由無ない暮らしを送らせてもらい、憧れに近い形で大好きだった島田と結婚し、幸いにも二人の男児に恵まれました。
その二人も社会の皆様のお陰で大きく育ってくれ、望外の喜びでございました。
また私の周りには、いつも心暖かい友人達がいて下さり、大変楽しい時間を過ごす事が出来ました。
いろいろ感謝が多く振り返って見ても幸せな人生でございました。
あと心残りは誠さんの事でございます。こればかりは、どうしようもございません。皆様、どうぞよろしくお願い申し上げます。

本当に今日は有難うございました。
ごきげんよう。さようなら。

島田悦子

2009.7 「闇鍋の底を掬う」

「闇鍋の底を掬う」

 何かがぼくの中で爆発的に生まれようとしているのだけど、疲弊しきっている脳細胞が集中することを拒否して「眠りなさい」と誘うばかり。でも生み出すための材料だけは、でっかい鍋にどんどん放り込んでいく。野菜だって魚だって肉だって骨だって香辛料だってワインだって果物だって、手当たりしだいに煮込む。
 ぼくが書こうとしている文章のことである。ぼくの周りに生起するもので、心にひっかかるものすべてを鍋に入れていく。書こうとしている作家たちのことは勿論、命と向かい合う日常、積み重ねてきた仕事、うれしいこと腹立たしいこと。なんでも。
 時々、灰汁を掬うようにメールマガジンや通信に小出しにしながら、なおも煮込む。
最終的には本に纏めるためと、頼まれている講義のために。ぐつぐつぐつぐつ。よく煮詰まってきた。でもまだまだだ。

サルベージ

 武内ヒロクニさんの「しあわせ食堂」が画文集として秋に光人社から出版されるのです。そこの若社長が高城直一さん。もとはといえば、石井一男展を東京で見て、私の仕事に興味をもってユニークな作家発掘物語を書くように依頼があって付き合いがはじまりました。渉りに舟とばかりに毎日新聞で3年間連載された「しあわせ食堂」を画集にすることを薦めたのです。話が進むにつれ高城さんがのりに乗って面白い本が出来そうです。そのための文章を5000字くらいで書くためにやみ鍋の底からヒロクニさんの素材だけを掬いあげるのに七転八倒といえば大袈裟ですが苦しみました。でも掬いはじめると構成の道筋がさっと見えて一気に書き上げたのです。ヒロクニさんも高城さんも喜んでくれました。

どこがユニークなのか?

連載150回のうち50人に絞りました。ヒロクニさん、私、高城さん、鈴木琢磨さん(毎日新聞の仕掛け人)で投票しました。
著名人の食べ物にまつわる思い出は昭和の歴史でもあり個人秘話でもあります。
ドーカーンとヒロクニ異色色彩挿絵50点プラス作品写真10点ほど。
「武内ヒロクニの世界」は私の書き下ろし。
ヒロクニさんはカットを幸穂里さん(奥さん)は制作裏話を50話書き下ろし。
220Pを超える面白本になりそうです。出版記念展はギャラリー島田で12/12~。引き続き東京銀座の2つの画廊で同時開催されます。
激辛どろスープ

大阪市大サテライトでの「アート・マネージメント講座」も闇鍋から激辛のお汁だけ掬って、濃厚なエッセンスを原稿を見ずに話しをしました。質疑応答とアンケートでは「刺激的でした」をいう声がたくさんありました。

自分を人体実験に供して困難な道を選ぶ
アートをマネジメントするのではなく自分の人生をマネジメントする
ファンドレイジングとはお金を集めるのではなく「志」を集め、繋いでいくこと
人生は4階建ての家。少数者の側に立て。
などと挑発するのです。
チャイルディッシュ

チャイルディッシュ(子どもじみている)という言葉をよく聞くようになった。この言葉は嘆きの言葉なのだけど、子どもには失礼である。子どもが子どもであるのは正しい。欲得にまみれた大人が単に自立できぬままの状態をチャイルディッシュという。駅や車中における馬鹿丁寧なアナウンス。至れり尽くせりの表示。道路工事などの過剰なガードマンの配置。新型インフルエンザが引き起こした茶番。「人生は4階建ての家」論で分析すればよく分かる。
一階には、楽して楽しくおればいいという本能的快楽派、この住人が圧倒的に多い。
二階には、快楽の永続を願う人(そのために努力する)
三階には、苦労の末に幸福を手に入れることに喜びを見出す人。
四階には、苦労こそが喜びである人が住む。
上の階にいくほど住人が少ない。極端に。
大多数の1階の住人こそが新聞の部数競争、TVの視聴率、消費動向を決め、経済を下支えし、マーケティングや世論調査という相当あやしい情報操作で政治や社会を方向づける。「もの言わぬ」「考えぬ」「受身のまま」であり続ける人々を3階、4階へを上がらせないことが大切なのだ。 ぼくはこの理論を文化の階層性と関連つけて話をする。

臍まがりめ!

偏見をもって見てはいけない。良心的なメディアもある、志のある政治家も企業家もいる。その通りです。しかし不特定多数を相手にし経済条件を優先する以上、多数を占める1階の住人をターゲットから外すことは出来ない。日本の大新聞がイエロー・ペーパーやスポーツ紙にどんどん近づいているのはそれが故であり、また1階の住人を生めよ増やせよと狭くなった部屋の増築にまで手を貸しているのである。タレントの泥酔事件や新型インフルエンザ報道の患者数の逐一報道の姿勢を疑います。マッチポンプ(自分で火をつけて自分でもみ消す)なのです。もちろん煽情記事だけではありません。しっかりした文化記事や特集もあります。要は「4階建ての家」を丸ごと紙面にして「クオリティー・ペーパー」を装っているのが日本の大新聞だと思って読むと腑に落ちます。TVは論外です。ぼくは限りなく上の方へ住みたがる人なのです。

2009.6 「奥さんは怖い」

「奥さんは怖い」

「なんでそんなに奥さんに気を使わんといかんのん」ヒロクニ画伯が、ギョロ眼を見開いて大声を上げた。ル・サロメの新しいお店でワインを飲んでいた。話はこうだ。ぼくがクラシック党であることが気にいらないヒロクニさんが、時々、聴いてみてとジャズのCDを呉れる(あれ?返さんといかんのかな)。ソニー・クラークとかチャーリー・パーカーとかジミー・スミスとか。「最近は家で音楽をほとんど聴いていない」「なんでや」「家内が呼んだ時に応えんといかんから」と言ったからだ。ヒロクニさんはサホリさん(奥さん)に偉そうにしているのだ。でも奥さんは怖いものだ。世界の王貞治も長島茂雄も「なぜか奥さんは怖い」と言っているのを聞いて笑ってしまった。しかし関白ヒロクニもサオリさんが入院していた時はオロオロして、一緒に「鶏雑炊を食べたい」と呼び出されたりした。
私が家で音楽を聴かなくなったのは闘病中のさつきさんが、何回か家で転んだり一瞬気を失ったりしたりしたからなのです。それだけ治療がきついのです。だから、「あなた」と呼べば「なんだい」と、すぐに答えないといけないのです。一時は、さつきさんの身辺にベル(振れば大きな音がでる)を置いていたほどです。
さつきは悦子のことですが、口うるさい自分を「さつき(五月蠅)」と冗談で言ったことからきています。
 「あれが効きます」
「あれを試してみて」「あそこにいったら」など親切なアドヴァイスをたくさんいただいた。調べてみると、確かに効果があった例や証言が紹介されている。高価な飲料やハーブも試してもみた。本も読んだ。しかし、一口に胃癌といっても、人それぞれ。場所、ステージ、免疫力によって、同じ薬でも結果は千差万別です。
 100人が試して5人に効果があって95人には駄目でも当然、「効いた」症例は積み上がり、1万人では500人に効いたことになります。それもほとんど延命ということです。その5%に入れるかどうかだと思うのです。もちろん必死ですから、早め早めに手をうち、相談しながら様々なことをやってきました。しかし、それを決めるのも本人の勘ということになります。
 「島田さん、女がおったん!」
酢頓狂な声を上げたのは、さつきさんの友人でナタリー・モーダの弘子さん。「悪行の報いがきたんと違うの」と笑いながらいうのはバー崑崙の田村さん。どちらも「家内の病気は、私に責任があるかも知れない」とさつきさんのストレスの原因についてしゃべったことに反応しての言葉。
別に私が聖人君子の朴念仁だとは言いませんが、私が言ってることは、そうではないのです。
40年の結婚生活で、ふだんは口うるさいさつきさんが、私のやることに反対したのは 二度だけです。
一度目は三菱重工を辞めて家内の実家の事業である海文堂書店を継ぐ時。
「サラリーマンに憧れて結婚した。同族で苦労するだけ」
二度目は神戸市長選の渦中にいた時。
「離婚してからやって!」
予言通り、私は同族経営の中で大変な苦労をしました。「守って欲しい」と「攻めないと守れない」という立場の違いです。そうした軋轢の中で、さつきさんは一度も肉親を擁護して私に「辛抱して」とか「貴方が譲って」と言ったことはありません。
お母さんが病に倒れ、親身にお世話をして和解したのですが、それまでは親子の縁を切られもしました。
海文堂書店を離れる時に相談した弁護士さんが、私のようなケースでは自分の肉親の方について「貴方が辛抱して」「貴方が譲歩して」という人が99%なのにと驚いていました。
そしてその後、わだかまりを解く役割をきちんとするのですから、ほんとうにたいした人です。その板挟みのストレスは測り知れないものがあります。もちろん癌体質の家系であることに対する油断もありましたが。
病に伏せた1年半前までは、私はまったく家事音痴で、家の中のこと、子どものことも全てまかせきりで、自分のやりたいことだけに猛進してきたのです。
「いつになったら私の相談にのってくれるの」
いつも誰かの相談にのっている。「相談」「支援」「助成」などに忙しい私に呆れてのさつきさんの口癖です。わたしのことをほったらかしにしておいて、いつになったらこちらを向いてくれるのという、さつきさんの悲鳴です。罪滅ぼしに二人で旅行を重ねてきました。
忘れもしません、一昨年8月21日イタリア北部の街、アオスタからモンテ・ビアンコ(モンブラン)へ登っていくロープウェーの中で突然、倒れたのでした。
それから1年半。
「今こそ約束の時だ」と決めたのです。38年間、支えてくれた。今度は私の番だ。
他人に親切にする、力になってあげる。そして感謝される、頼られる。それは心地よいことです。しかし、今、目の前にあるこの人の危機に向かい合わなければ、私のいままでの口舌、振る舞い「すべては何なのだ」と思ったのです。
自分に向かい合い、問いかける日々です。父母の死、友の死、尊敬する作家たち、様々な死と向き合ってきました。そして心に抱きながら追悼を捧げてきました。本にし、画集にし、展覧会をするなど。しかし、考えてみれば、生死の水際を歩む人と、全ての時間や苦しみを共にあるという向かい合いではなかったのです。なにものにも勝る学びの時を過ごしています。あまりにも大きく、あまりにも辛い学びではありますが。

2009.5 「ギャラリー”しまった”」

「ギャラリー”しまった”」

毎朝5時には起きる。この習慣はいつ頃から始まったか思い出せない。リビングに上がると眠りから覚めようとする大阪まで遠望される街や海は、昼間の余熱を孕んだ夜景とまた違って、気だるさと明けていく少しの緊張との狭間を揺らいでいる。体内の細胞が目覚めはじめ、一日が始まる少しの緊張と重なり合い、しばし薄明の空に見入ってしまう。毎日のことだ。北野へ越してきてはや6ヶ月。5時という明るさがまるで違ってきた。
そして太陽が昇る位置が日々、北よりに。その景色を見ながら珈琲をドリップし、朝の家事がはじまる。
6時に朝食。エプロンこそしないが主夫業が板についてきた。ギャラリーに10分の距離なので、出勤まで5時間ある、といっても、家事と“もの書き”であっという間だ。引越しを終え、30周年を終えて、息が抜けるかと思うと、そうは行かない。画廊経営はいつだって楽ではない。まして現今である。でも「最悪の場合の想定」などには無縁、ぼくの見通しはいつも甘いのだ。ゆっくりしようと思ったけれど緩めば倒れるので、かえって展覧会の数が増えてしまった。丁寧に生きたい丁寧にしたいと思うのだけど、丁寧には際限がないことも分かった。無愛想ならば一時で済み「さようなら」で済むのに。
白洲次郎気取りに「半分の人に嫌われないと」の冗談が本当になってしまった。文士を気取って書斎を作ったら、才もないのに原稿書きに追われるようになってしまった。66才にもなって甘い計画で家を建ててすっかり手元不如意になってしまった。これ以上作品を買うなと経理に言われ、そう決心しているのに次々買ってしまった。9年前に北野へ移ってきたときに小森星児さん(当時、神戸復興塾塾頭)が、ギャラリー島田ではなくギャラリー”しまった”だ、と言ったけど、ほんとうに”しまった” “しまった”の日々である。
“ギャラリー閉まった”ではしゃれにもならないけど、存続できるかどうかは、その役割が地域にとって不可欠なものであるかどうかを皆さんによって審判されるのでしょう。

まな板の上の鯉。「被告、一歩前へ」

2009.4 「ゴッホの墓参り」

「ゴッホの墓参り」

野口さんの便りに触発されて、ぼくの墓参りを思い出しています。
1992年1月のことでした。サン・ラザール駅(印象派のモネの絵を思い出しますね)を12時40分に出発。田園地帯を走ること小一時間でポントワースへ着く。ローカル線の乗り継ぎが不便でタクシーで目的地オーヴェール・シュー・オワーズへ。10分も走れば写真で見慣れたゴッホが死を迎えたラブー亭の前。
陰鬱な冬空の下、ゴッホ最後の宿であることを示す銘板があるだけの廃屋(当時)。かって、この2階に佐伯祐三は里見勝蔵と泊まって蚤に食われながらヴラマンクに「このアカデミック!!」と一喝されたことなどにうなされながら、まんじりとも出来なかった。ふりむくとこれもゴッホの絵でおなじみの市役所。だらだらと坂を登ると「教会」が見えてくる。さらに坂を上がると左側に麦畑が広がっている。真冬。黄金色ではないのが一層侘しさを際立たせていました。いま、まざまざとその風景が眼前にあります。白い馬が一頭ぽつんといて、遊んでくれとよってくるのです。その孤独がゴッホに見えて、鼻面を優しくいつまでも撫でてやりました。墓所に入るとお婆さんが「あんたの捜しているゴッホの墓はあそこだよ」「メルシー」。壁沿いに寄り添うように立つ兄弟の墓石は、周りに比べても極めて質素なもので花も添えられず、名も知らない潅木に2メートル四方を囲まれているだけで、とても好ましいものでした。ぼくにとって衝撃だったのは伝記や書簡集で想像していたよりパリとオーヴェールの意外な近さでした。せいぜい神戸と姫路くらい。パリから遠く離れてひとりぽっちの可愛そうなフィンセントと想像していました。70点の傑作を生んだ、亡くなる前の2ヶ月のオーヴェール時代。でもこの時、テオのいるパリとは、二度と越えられない深淵を挟んでいるように遠く感じられたのだろう。ぼくを呪縛しているのはテオと母の魂だ。

2009.3 「ともに在る」

「ともに在る」

身近な人を亡くし、病と向き合う人と暮らし、困難な状況のなかでひたむきに生きようとする人たちと接していると、私の内面もいつも陰を宿し、密やかにさざめき立つ。

長く画廊を続けてきて深くつきあった作家たちのことを昨年は30年という節目のなかで、「ありがとう」と念じながら思い続けた。絵を描き続けることしか存在証明のありようもない作家たち。世の中との折り合いがうまく出来ず不器用に、しかし純粋に生きようと傷ついた魂を抱える作家たち。私の魂に切り離しがたく居ついた人々は、人生という旅の同行者であり、また家族でもある。ある種の蒐集家のように、いい時だけ、いい面だけ見て惚れる愛人のように、またビジネスパートナーと割り切って付き合う画商のようにはいかない。

「汝、健やかなるときも、病めるときも」と思う。誉めることも、謗(そし)ることもたやすいけど「ともに在る」という思いを持ち続けることはたやすくはない。それゆえに時に厳しい言葉を浴びせることもある、傷つけることもある。傷つくこともある。そうした恵まれないけど純な生き方を貫いている作家たちのことを書くことになった。
そして、そうした作家たちの歩みを辿るために、聞き取りをし、過去の資料を読み、日記を読み(これがなかなか重たい)、何より出会いの頃のことや、まつわる思い出を記憶の底のから届く深い声に耳を澄ましている。自分の家族とのありようを想像すれば分かるが、生身をさらした付き合いはきれいごとではない。ヒリヒリと傷が疼くことにも眼を逸らさない。そうした切っても切れない作家たちのことを、ゆっくりと、熟成を待ちながら書いてみたい。

 そうした想いだけが、座り込んだ視界の向こうに揺れ動くばかりで、全てが断片のまま形を成さない。どれだけの取材をしてどれくらいを書けば、彼らを書いたことになるのか、見当もつかない。こうして書いているのも逃げる心を励ますためなのかも知れない。なにより優先される家人の健康状態を見計らいながら許された時間と能力を考えるとたちまちのうちに視界不良になる。
 多くの作家が私の背負ったリュックにひょいとなげこんだ荷物が重たい。生きてきた証としての作品と「生の刻印」としての姿を残してあげることが、私の後期の仕事(レイターワーク)になってきた。追悼展や画集、詞集、作品の販売や寄贈、そして作家について書くこと。密やかだけど、まぎれもない光芒を発し、また残した、愛しい彼らの生に見合う仕事でありたいと思う。

2009.2 「14年目の1・17」

「14年目の1・17」

1月17日。震災から14年目、ギャラリーが誕生してからの31回目の冬は、どことなくシンと底冷えのする静けさで迎えました。この日を「重い喪失感に囚われる」と閉じこもった人もいます。私はといえば、この14年はそれまでの倍の、そしてこの1年は3倍の濃密な時を背負ったような気がします。家人の闘病の日々は、何もかもが新たという思いです。家事というものがなんと奥深く、幅広く、そして哲学的なことか。本を読み、音楽を聴き、劇場へいくよろこびを半ば失いました。しかし、生きようと明日を掴み取っていく日々は観客席ではなく主役としてなまじのアートを超えたところで、今、を演じなければなりません。
そんなことをぼんやりと考えながら街を、海を眺めていると、気がついたら5時46分を少し過ぎて、あわてて手を合わせました。

この日はいつも「竹下景子さんの朗読の会」のお世話をしています。私自身はたいした役目はないのですが、早くからホール入りをしています。事務処理能力の欠如はあまねく知れ渡っていますので、ボケッとしてそこにいるだけでいいのです。
心配していたお客様も例年並みで、やれやれと客席に座ると、竹下さんの朗読のマイクが変!すぐに舞台裏へと飛び出すと大音量で「ただいま18階で火事が発生しました。誘導に従って避難して下さい」と繰り返しの放送。「1・17 安全の日」の抜き打ち訓練かと思いました。情報が混乱する中、ともかく万が一を考え、一人のけが人も出さないために、残った人も説得して、ほとんどの人が退出した頃に鎮火。今度は続々と戻ってきた人の対処と「中止か再開か」で議論。再開と決めて、竹下さんが戻るまでをどう繋ぐか。
慌てて音楽のゲストである智内威雄さんの控え室へ。着替えている智内さんに「つないで」と声をかけて、舞台へ。黒田裕子さんが話しているのを押しとどめるように智内さんへバトンタッチ。竹下さんも戻って、時間の短縮を打ち合わせて再開。今度は裏でチケット払い戻しの相談。忘れられない夜となりました。こんなはずではなかった。
これでよかったの?と渦巻き波立つ心に眼が冴え、明日の講演がちらつきながら、いつしか眠りに落ちました。

18日の日米中市民フォーラムでの私の講演も無難の域を出ず、海外から素晴らしいゲストを迎え内容のあるシンポでしたが、客席がまばらで恥ずかしい。なにやら中吊にされたような、自己満足から遠い、悶々たる二日でした。
「震災」に拘れば拘るほど、なにか大切なことをはぐらかされて、もどかしさばかりが苦く残る気がします。
渡辺白泉(昭和の初めのころの抵抗俳人)に「鳥篭のなかに鳥とぶ青葉かな」という句があります。私の思いなどは自前の鳥篭のなかで飛んでいる鳥が青葉(理想)を見ているに過ぎないのですが、それでも飛ぶということ、青葉を見ているということが大事なのです。