母逝く
8月3日(日)午前9時50分。老衰。91歳でした。
前日、姉から「母があぶない」と連絡を受け、朝、三木にある老齢者施設を訪ねました。久しぶりの面会でした。
思いがけず太って(浮腫んで)肌つやも良く、でも吸引の処置を受けるのは苦しそうで、荒い呼吸をしながら私を見ました。手を握り、呼びかけ、額に長いくちづけをしました。生命余力はありそうで、まだ大丈夫と感じました。
夜は電話機を枕元に置いて寝ました。翌朝、午前10時。姉からの電話で母の死を知りました。
闘病9年。うち認知症4年。無念と安堵の思いが交錯しました。私を分かるはずがないのに、じっと見つめた母の目。私を待っていたかのような翌朝の死。そのことを思う度に胸を突かれます。
母から学んだこと
母が病を得てから、父の「無欲」母の「奉仕」という遺伝子が私を造っていることを強く意識するようになりました。
1917年生まれ。1935年の東北大飢饉の時に、羽仁もと子友の会の呼びかけで、秋田県生保内(おぼない)での農村セットルメント奉仕活動に3年間にわたって従事。当時18才ですから、ずいぶん勇気のある振る舞いです。戦中は疎開地を転々。戦後は、神戸友の会、幼児生活団の指導者、総リーダーなどを務め1975年退任。この年から10年間に3度の脳腫瘍の手術を受けるなど、後半生は苦難の道でしたが、最後まで信仰に支えられ幼児教育、奉仕活動一筋といってもいい人でした。
母が3回目の脳腫瘍の手術をしたのが‘85年、その後’89年に私が脳脊髄鞘腫の手術。 母は手術によって左耳の聴覚を失ったのですが、私も聴覚に問題がある。母が公的な役を降りたころから、私がそのような役回りを演じることになるなど、不思議な絆で結ばれている気がします。 誰しもが持つ権力欲、名誉慾、金銭欲などに、いつも背後霊のように私の背中を引っ張って暴走、爆死を止めたのは父母の遺伝子です。
そのことを私は長い間、気付かず、父母を軽んじた時もありました。愚かなことです。
母を送る
91年の歩みは平坦ではありませんでしたが、それらの足取りをいつも確かにしていたイエスへの信仰と、そこから湧き出していた他者への愛。それらを果たして22年前に逝った武(父)のもとへ旅立った母の穏やかな顔を、私はいつまでも撫でていました。
公的な場を離れてすでに30年以上たっていますので、キリスト教式の簡素な家族葬を行いました。相続すべき財は残さず、念願どおり神の許へと旅立っていきました。しかし、私たち家族の魂に何ものにも代え難い大切なものを伝え、多くの人々の記憶に止まるとすれば、信念の通りの人生を生き抜いて見事でした。
もし母を知っておられる方がいらしゃいましたら、どうか心の中で祝福をしていいただければ幸いです。