2008.12 「宇宙軸の誕生」

宇宙軸の誕生

滋賀県、石山寺の近くのバス停に山内先生が出迎えてくれた。三度目の訪問だ。
竹林の際に立つ家は破竹に押しつぶされそうで、床は作品の重みで抜けかかっている。竹林の隠者である。
1990年の冬に私が最初に伺った家は東大寺の正門のすぐ横の堂々たるお住いだった。お向いは宮大工 西岡常一さんのお宅だった。金銭に全く無頓着な先生を支援する人から提供されていたそうだ。ともかく寒くて震えながら延々と先生の話を聞いた。それから5年待って震災の年の9月にようやく実現した展覧会は“こうべまちづくり会館”と同時開催となった。
1998年、2002年、そして今回。間に大阪と京都で小さな個展はあるけど、大きなものとしては、ほとんど私が手がけたことになります。画作、哲学や芸術への思索に没頭し、他を省みない徹底した自己探求の厳しさと、歯に衣を着せない他者への容赦ない批判によって自ら孤立無援へと歩を進めてきたのです。
しかし、この孤立ぶりは、また他者に依存しないという優しさとの表裏でもあります。
「島田さんは、ぼくのことを分かっていないから」と100回も言われた気がします。
被虐嗜好と鈍感力に優れた私だからお付き合いを続けられたのかもしれません。

1階と2階のアトリエにずらっと並べられた作品と対面し、居住まいを正さざるを得ない気配に圧された。
「ぼくのは作品というようなものではないのです」とおっしゃる。
「時間の結晶」「思索の結晶」仏教からキリスト教を抱合した「至上のものへの結晶」であり、作家が生きてきたモニュメント(証)そのものである。
自分を捨て去り、人智を超えた極限を目指すことを課した生き方は壮絶だ。
「表現することは、人として生きること、そのものである」

白く塗りこまれた画面はいつもと変わらないけど、黒い化石を砕くように打ち込まれたダイナミズムと以前より柔らかく白く底光りする画面の動と静の対比が、深く心に刻印され消え去ることがない。

今年、仁川学院(西宮)の園田学院長との天上的な信頼関係から生まれたモニュメント「宇宙軸」が完成した。 全身全霊の自己探求の果ての「Position」(原題)である。お二人の出会いから「宇宙軸」完成に至る経緯をつぶ さに拝見してきて、魂と魂の融合という奇跡だと感じ入りました。

語りつくせぬ思いは、小冊子に纏めたいと思っています。
ともかく、1人でも多くの方に、この稀有の作家・作品を見ていただきたいと願っています。

2008.11 「帽子をかぶった卯港さん」逝く

「帽子をかぶった卯港さん」逝く

オープニングパーティーの賑わいの中で携帯が鳴った。
 公衆電話からで誰からかは分からない。ギャラリーの外で受けた。
「会っていただいたほうが良い方があれば連絡してとお医者さんが言われるので」奥さんの京子さんからだった。9月20日夕刻6時。
入院先は前日に聞いてネットで調べていた。
この日は待望の石井一男画集「絵の家」は出来上がってきたばかりで、それを鞄に入れて駅へ走った。車内で沈んだ気持ちで「絵の家」を眺めていると「ひとり立つ」(No31)から眼を離せなくなってしまった。暗く長いトンネルの向こうに小さな明かり、そこへ向かって歩いている小さな姿が卯港さんに重なり「まだ逝くなよ」と叫んだ。

JR加古川駅からタクシーに乗った。街からどんどん外れ暗い道を走ること20分で着いた。
 迷いながら探し当てた病室で半身を起こして寝込んでいた卯港さんを何度も看護婦さんが大声で呼んだ。目を覚まし驚いたように大きく見開いた眼で「しゃちょう」と呟いた。腫れて力のない手を握ってぽつりぽつりと話をしたけど半分以上ききとれなかった。
 ベッドに開いたノートと鉛筆が置いてあり、こんな時まで日記を書いているのかと驚いたけど、その最後は入院前のもので9月16日 「このまま寝入ってしまうと、そのまま死んでしまうのではないか」と書かれていた。
 帰りに保証人の署名をしに立ち寄った詰め所で看護婦は「明日かもしれないし、まだまだかもしれない」と言った。

 30日、朝早く、再び訪ねた。看護婦さんの呼びかけや処置にも反応はなく、鼻に酸素吸入の管を繋いだ姿が重篤であることを物語っていた。ベッドの横に座って手を握って話しかける。透明な肌がよけい生命力の減退を表していて呼吸も浅い。それでも話し続けていると「中井三成堂」「茶屋町画廊」「私の愛する一点展」「デッサン帳」などの言葉に微かに頷くことが分かった。そして瞼を閉じたまま「ありがとうございました」と擦れた小声で言った。今でもその時のことを思い出すと胸が詰まる。
 病院を出て姫路の卯港さんの展覧会へと急いだ。受付に京子さんが座っていた。
最後まで絵筆を入れていたという「鞆の浦風景」の前で動けなくなってしまった。これこそ卯港さんと私の約束の風景だ。暗い緑に黄色い暈を被った卯港さんのギョロ目のような太陽が絢爛たる滅びの音楽を奏でながら沈んでゆく。何一つ足すものも引くものもなく、そぎ落とした佇まいとしてのまぎれもない姿が立ち現れていることに震えて「とてもいい、とてもいい」と伝えた。

10月2日 前夜、「今夜か明日の朝」と聞いていた。
ギャラリー島田で元永定正展と石井一男展の飾り付けをしながら、ずっと携帯 に注意をしていた。
 16;20 携帯が鳴った。
 「卯港さんが4時に亡くなりました」と京子さんが声を落とした。
10月3日 尾上の松の大和会館に赴き、会場の「帽子をかぶった卯港さん」の写真と語り合い、「帽子をかぶった卯港さん」の納棺に立ち会った。
 二ヶ月前の母に続いての納棺である。
 京子さんに尋ねると、私が媒酌をした結婚から8年だという。
 「楽しい8年でした」の言葉に救われた。でも寂しさはこれからだ。
10月4日 告別式に向かう車中で携帯が鳴った。躊躇してとり損なったメッセージに「弔辞をお願いしたいのですが」とあった。
 二つの重要な展覧会の初日でギャラリーもてんてこ舞いだとメールが入った。
 原稿なしで、ぶっつけで卯港さんに伝えるように話した。
 棺の中の「帽子をかぶった卯港さん」は口が少し開いて笑っているように見えた。

2008.10 引越しは人生の仮決算

引越しは人生の仮決算

66歳直前に家を建てるなどとは。予定に入っていなかった。3度目の引越しになる。ぼくは家などどこでもいい。これまでも、今回も家内主導である。とはいえ、予期せぬ流れで次男の陽が設計する家に住むのは楽しみだ。もう2年早ければ、もっと良かった。遅れついでに竣工も遅れそうで、この通信を読んでいただくころには、まだ旧宅に居そうだ。

身辺の整理

一度、人生の大整理をした。今回は2度目の大整理である。 20年前の手術の時に「死ぬかもしれない」と思い身辺の整理をした。 詩人になりそこねてlove poemなどの詩稿、雑文、手紙、写真などを、思い切って捨てた。 従って、45才以前のものは、印刷されたもの以外はほとんど残っていない。 今回も書斎の整理をしている。これがなかなか面白いので進まない。残しているものは、それぞれに理由があってのことだ。それを私の不在を前提にして更に切ってゆく。別に伝記を書かれる気遣いもないので、出来るだけ簡素に。 小説家の見込みもないので、2本のノンフィクションを書くために置いていた、苦しみ抜いた時の怨念の籠った資料も捨てた。時が経てば経験が昇化され、感謝の念すら覚えるようになっては書けない。恋愛小説も書けない。

「死」

裏のアパートで 若い母親が死んだ。
生まれたばかりの赤子を残し。
四日目の晩だったと云う。
若い父親は放心したように
口を開けて泣き
忘れられた赤子は
乳を求めて泣いた。
暗く、小さいアパートの片隅で。
若い母親は、生まれたばかりの赤子を見て
なんといったのだろう。

若い父親は、生まれたばかりの赤子を見て
なんといったのだろう
そして若い父親は、若い母親を亡くし
なんといったのだろう

近所の叔母さんが来て
赤子にミルクを与えた。
うちのかあさんは
黙っておむつを洗った。
若い父親は放心したように
口を開けて泣いた。

これは今回整理して出てきた昭和49年2月刊行の神戸市民文芸集「ともづな」創刊号で佳作になった僕の詩。選者は竹中郁さん。二席に車木蓉子さんの「小さい秋」が見える。さすがに私とはものが違う。

本を捨てる

そもそも家を建てる発端は、私の書斎の拡充だった。 夢の城をつくるはずだった。それが家を建てることになった。予算は10倍になってしまった。まあ建築家・島田陽の作品に住むということだ。その書斎の住み心地は想像も出来ないが、そこに無駄なものは持って行きたくない。折に触れて整理をしてきたので、さらに削るのはなかなか辛い。
多くの方から、頂いた本や詩集、歌集の類は、その方のお顔が浮かべば残す。単なる冊子や雑誌と思っていると、拙稿や紹介が載っていたりして油断がならない。
読み返したい本や未読のものを入れれば残りの人生は読むものに困らないはずだけど、これからも買い続けるに違いない。

新しい家に住むということ

9月15日をもって車を捨てました。といってもぼくは車の免許を取りにいったことすらない。これで息子たちを含めて全員、車を持たないことになります。今どき珍しいかもしれません。新しい家は北野町2丁目。観光マップのデンマーク館の斜め上10mにあります。小さな敷地に立つ3階立て。まあ、普通の家とは少し違うデザインです。完成すれば二日間のオープンハウスを予定していますが、引越し後は、家内の体調を考えて、一切の見学や訪問をお断りいたしますので、あしからずご了承下さい。

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2008.9 母逝く

母逝く

8月3日(日)午前9時50分。老衰。91歳でした。

前日、姉から「母があぶない」と連絡を受け、朝、三木にある老齢者施設を訪ねました。久しぶりの面会でした。

思いがけず太って(浮腫んで)肌つやも良く、でも吸引の処置を受けるのは苦しそうで、荒い呼吸をしながら私を見ました。手を握り、呼びかけ、額に長いくちづけをしました。生命余力はありそうで、まだ大丈夫と感じました。
夜は電話機を枕元に置いて寝ました。翌朝、午前10時。姉からの電話で母の死を知りました。

闘病9年。うち認知症4年。無念と安堵の思いが交錯しました。私を分かるはずがないのに、じっと見つめた母の目。私を待っていたかのような翌朝の死。そのことを思う度に胸を突かれます。

母から学んだこと

母が病を得てから、父の「無欲」母の「奉仕」という遺伝子が私を造っていることを強く意識するようになりました。

1917年生まれ。1935年の東北大飢饉の時に、羽仁もと子友の会の呼びかけで、秋田県生保内(おぼない)での農村セットルメント奉仕活動に3年間にわたって従事。当時18才ですから、ずいぶん勇気のある振る舞いです。戦中は疎開地を転々。戦後は、神戸友の会、幼児生活団の指導者、総リーダーなどを務め1975年退任。この年から10年間に3度の脳腫瘍の手術を受けるなど、後半生は苦難の道でしたが、最後まで信仰に支えられ幼児教育、奉仕活動一筋といってもいい人でした。

 母が3回目の脳腫瘍の手術をしたのが‘85年、その後’89年に私が脳脊髄鞘腫の手術。 母は手術によって左耳の聴覚を失ったのですが、私も聴覚に問題がある。母が公的な役を降りたころから、私がそのような役回りを演じることになるなど、不思議な絆で結ばれている気がします。 誰しもが持つ権力欲、名誉慾、金銭欲などに、いつも背後霊のように私の背中を引っ張って暴走、爆死を止めたのは父母の遺伝子です。

 そのことを私は長い間、気付かず、父母を軽んじた時もありました。愚かなことです。

母を送る

91年の歩みは平坦ではありませんでしたが、それらの足取りをいつも確かにしていたイエスへの信仰と、そこから湧き出していた他者への愛。それらを果たして22年前に逝った武(父)のもとへ旅立った母の穏やかな顔を、私はいつまでも撫でていました。

 公的な場を離れてすでに30年以上たっていますので、キリスト教式の簡素な家族葬を行いました。相続すべき財は残さず、念願どおり神の許へと旅立っていきました。しかし、私たち家族の魂に何ものにも代え難い大切なものを伝え、多くの人々の記憶に止まるとすれば、信念の通りの人生を生き抜いて見事でした。

もし母を知っておられる方がいらしゃいましたら、どうか心の中で祝福をしていいただければ幸いです。

2008.8 「文章書きに追われる」

文章書きに追われる

「神戸百景」

ただでさえ自分の時間がとれなくなっているのに締め切りのある大事な原稿を抱えて焦っています。
岩波ジュニア新書「神戸 震災をこえてきた街ガイド」(2004年)を出版したときに表紙絵・挿絵に川西英さんの「神戸百景」を使わせて頂きました。半世紀も前の作品ですのにのイメージにある理想の神戸に、ピッタリしていて瑞々しさをいささかも失っていないことに驚きました。
その時に、私の持っている画集を編集プロダクション“シーズプランニング”の長谷川さんにお貸ししたのですが、神戸出身ということもあって長谷川さんが「神戸百景」の再刊の構想を温めてこられました。そして、ようやく今年9月ころに刊行の運びとなり、縁結びの私に是非、書けとなっているのです。学究的なことは書き尽くされていて出る幕はありません。川西英さんは「神戸百景」(1933-36)新「神戸百景」(1952-61)「兵庫百景」(1960-61)と3回、「百景」に挑まれている。今回は「新」の新装復刊であり、描かれた時代はまさに私の小学時代から青春時代に重なる。しかも川西さんを巡る交友から不思議なご縁を頂いているのです。そのあたりを書きたいと苦慮しています。
 結構、準備にも時間をとり、熱を入れて話しをするのですが、これが空回りをして自己嫌悪に陥ることもしばしばです。いろんな題材があるから気楽にという気にはなかなか、なれないです。

石井さんとお出会いして以来、いずれは画集を出すと約束してきました。そしてギャラリー島田の30周年の機会に、信頼する風来舎の伊原秀夫さんにお願いし、法橋淳子さんとのコンビで毎月、石井さんのアトリエへ足を運んで準備を進めています。これも9月には出版の運びとなります。 約50点の作品を選ぶために300点もの作品を撮影し、昨日、全部を並べて100点まで絞込みました。石井さんらしい、こぶりだけど味わいのある画集を作ります。
ノンフィクション作家の後藤正治さんが石井さんを書いて下さり、大きな反響をいただきました。うれしいことです。無理をして、なにかをしようというのではなく、いはば石井さんという「磁場」が引き寄せるように流れが出来ているのです。 49才までの孤独な人生から一転した後半生となりました。不思議としかいい表せないです。 出版記念展は10月4日から12日間。つづいて11月に大阪:天音堂、12月に東京:ギャラリー愚怜、来年2月に銀座:枝香庵となりました。

家事往来

昨年9月に家人が病を得て、生活は一変しました。幸い、家人は体をいたわりながら、時に辛い時期を耐え、まずまずの日常を営んでいます。その気力には驚くばかりです。それまでご飯ひとつ炊いたことがなく、洗濯機を回したこともない私が、家事のプロを自認する家内から手抜きなしの教育を受けてきました。料理は初級ながら、時々、楽しんでいます。新聞の料理レシピを切り抜いたりしているのですから、考えられないことです。でも、こうしたことが、ふと、家人がいないことを前提とした準備をしているのではないかと思ったりして複雑な思いに捉われたりします。夜の外出は基本的に封印し、面白そうなコンサート、演劇などの情報は出来るだけ、見ないようにしています。朝起きて出勤するまでの4時間の間に書斎で、物を書いたり、考えたりしてきましたので、ここにしわ寄せがきて四苦八苦しています。音楽を聴いたり本を読んだりも難しいですね。でも今まで存分にやってきました。家事をすることを煩わしいと思ったことはありません。でも食事の時にビールやワインを飲むと、ともかく眠たくて仕方がありません。それでも粘って書いています。

今もお呼び出しがかかり「急速の進歩ね」と褒め殺しされながら家事に勤しむ私です。 9月には引越しも控えています。7月9日に棟上しました。3階鉄骨造ですが、複雑な構造は島田陽(次男)の全力の設計です。家人の体力も考えて、早めに準備が始まりました。

庭の李と紫陽花

庭に樹齢30年の大きな李(すもも)の樹があります。
もう老齢で枝ももろくなり、数年前から果実もほとんど実らなくなっていました。
ところが引越しを決めてから、恩返しなのか、「行かないで」と訴えているのか
見事な果実をつけだしたのです。今年も今を盛りと赤い実が綺麗です。
朝、起きだすと棒の先に捕虫網を2,5mくらいの長さにくくりつけ、さらに梯子に上って李を取るのが日課です。ほっておくと鳥達の格好のデザートになってしまいます。鳥にあげてもいいのですが、熟れて美味しそうな果実を一突きすると、落ちて割れてしまうのです。今年は76個を収穫する予定です。

その理由は
植松永次さんの個展(5月)で、大きな壁面いっぱいに「庭になる星」と題して、ちょうど李の実ほどの丸い玉(陶)76個がランダムに並んだ、素敵な壁面を覚えておられますか?すぐさま、今度の北野の家にこの「庭になる星」を飾ることにしたのは、この李の思い出を、植松さんの作品で留めたいと願ったからです。庭には額紫陽花の大ぶりの40数輪が咲いています。美しいですね。我が家の野生化した紫陽花は2m以上の高さに咲いたものも多く、これは2階から見下ろして楽しんでいます。

2008.7 大学で話す

大学で話す

通信を読んでいただくころには、あらかた夙川学院を除いて私の大学での講義は終わっています。神戸大学では毎年、アートマネージメントの話をするのですが、そんな話しが私に出来るわけがありません。私の経営論では犠牲者を作るだけです。自分でも何故、続けられるのか不思議ですから。
私が若い人に伝えられるとしたら、アートに関わることの素晴らしさで、それを仕事とすることとは違います。「アートをマネージメントするのではなく、アートに関わっていけるよう自分の人生をマネージメントしなさい」ということです。
他の大学では、「震災と文化」「ゴッホとテオ」「私の好きなアーティストたち」など好きなテーマで話させてもらっています。
結構、準備にも時間をとり、熱を入れて話しをするのですが、これが空回りをして自己嫌悪に陥ることもしばしばです。いろんな題材があるから気楽にという気にはなかなか、なれないです。

時間を預かる

ぼくは大学時代、社会人を通じて合唱団の指揮をやっていました。ぼくはピアノも弾けない、理論も駄目、読譜も下手、指揮も自己流なのに何故か15年間ほど指揮者を務めていました。コンクールで全国優勝に導いたこともあります。書いていて気がつきました。画商としても全く同じですね。私の独断的な性格はそこに起因しているのかもしれません。なにしろ指揮者は独裁者ですから。
 唯一、ぼくが誇れるとしたら「団員の時間を預かっている」という意識をもって真剣にやったということしかありません。神戸大学のグリークラブでは当時80名くらいの部員がいて、放課後2時間くらいの練習に集まってきます。80名の2時間。160時間のそれぞれの、かけがえのない時間を私ひとりで預かっている、いいかげんな練習は出来ないと、思いつめていました。気合ですね。空気が張り詰めていないといけない。時に指揮棒を指揮台に叩いて、折れて飛んでいきました。

人の前で話す時も、いつも皆さんの「時間を預かっている」と思って一生懸命やります。ある大学では「いやいや異星人でも見るつもりで来て下さい」と言われましたが、そんな訳にはいきません。でもこうした講義を通じてノンフィクション作家の後藤正治さんと石井一男さんのご縁が生まれ、文藝春秋での特集へと繋がり、うちでインターンを志望する若者が現れるのです。
結構、準備にも時間をとり、熱を入れて話しをするのですが、これが空回りをして自己嫌悪に陥ることもしばしばです。いろんな題材があるから気楽にという気にはなかなか、なれないです。

人を預かる

毎年、神戸大学からインターンの学生を2週間ほど預かります。一番忙しい時に遠慮せずに働いてもらっています。卒業してからも必ず訪ねてくれるのがうれしいですね。 昔から、多くの方をお預かりしてきました。一緒に働いた人たちがアートに関わりながら輝いているのを見るのはうれしいです。

個展と向き合う

中辻悦子先生と話していると、元永先生が体調を崩された時には、創作のアイデアも湧いて来ないし時間も足りないので、この個展が本当に出来るかしらと思ったと言われていました。でもきっちりと間に合わせて下さり、すっきりとした見事な展示になりました。作家の個展となれば、講義の比ではなく、作家が全力で、また命を削って準備された事実と向かい合わねばなりません。今回の高野卯港さんの個展が良い例です。体を壊す寸前まで追い込んだ卯港さんに応える努力が画廊にも要求されるということです。神戸大学の最後の講義は、中辻悦子展の会場で円座になって進めました。まあ真剣に聴いてはくれました。さあ、レポートがどんなになるか、ぼくの思いが少しは伝わったのかどうか。楽しみなような、怖いような。

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2008.6 「クリスマスローズ」

クリスマスローズ

食卓とテレビの前にクリスマスローズの花が飾られている。そして書斎に3輪。これは、この原稿を書くために摘んできたもの。冬の貴婦人と呼ばれるにふさわしい。でも、もう5月になろうというのに未だに美しく咲いている。
昨年、家人が「クリスマスローズが綺麗に咲いたわ」と、庭で指さしたときは「はあ?」という感じだった。すこし俯き加減の後ろ姿に「地味な花だな」と思った。猫の額の庭に自生したり、育てたりした花を、小さな花器に入れてトイレや玄関に飾るようになった。今までの私には考えられないことです。花瓶にたっぷりと飾られたクリスマスローズの一輪一輪は、一つとして同じものが無いほど変化に富んでいる。 赤、紫、白、黒や、その中間色などが複雑に入り交じり、一輪ごとに微妙に変化し、かつ、印象派の点描のようであったり、網目紋であったりする。形状も、盃だったりラッパだったり。見飽きることがない。花弁に見えるのは萼(がく)で花は退化して蜜菅になっているらしい。萼(額)紫陽花と同じですね。クリスマスの華やかさもなく、その頃に咲くわけでもないのに何でこの名前がついたのだろう。

わたし好みの地獄の花

この花は寒さに強く、半日陰を好むという。いいなあ。そして学名Helleborus(ヘレボルス)は、ギリシャ語の「地獄」に由来するらしい。 荒れた土地に自生することからついた。ますますいいなあ。地下に横たわる、黒く短い ”根”にちなんだもう一つの学名Niger に至っては、昔、「インドの烏」と呼ばれていた私にピッタリです。日本では「雪起こし(ゆきおこし)」とも呼ばれています。 寒さに強く、冬枯れの大地で雪を持ち上げて花を咲かせるからなのです。
 5月になろうとしているのに、本当に強い花ですね。今、書斎にある一輪は雌蕊(めしべ)のところが少し気味がわるいほど異常に膨らんいます。多分、種を宿している(胚珠?)なのでしょうね。

この花に心惹かれるのは、私が大切にしている作家たちと重ね合わせてしまうからです。 何故か、独学で徒手空拳、絵だけに命を削る作家たちが多いのです。木下晋、藤崎孝敏、松村光秀、武内ヒロクニ、石井一男、高野卯港、福島清、山内雅夫など、まことに不器用に、しかし真摯に作品に向かい合う姿勢は、そのまま作品に写りこみ、ぼくは、その鉛筆や絵の筆跡や勢い、息遣いまでを舐めるように見るのがともかく好きなのです。 これらの作家たちはまさに冬枯れの荒野に自生するHelleborusなのです。

不屈者

ノンフィクション作家の後藤正治さんが、石井一男さんのことを文藝春秋の臨時増刊号に書いて下さいました。氏の作品は大好きで、全部を読破する勢いで読んでいます。何度も泣かされました。何故か、地下鉄に乗っている時で、あくびでごまかしました。不屈者も後藤さんの本のタイトルです。
 勝ち敗けに関わらず、自らの存在を賭けて戦っていく人たちの、挫折と挑戦(リターンマッチ)の姿に後藤さんの思いが重なり、それに私の思いも重なり、ぐちゃぐちゃになって、心揺さぶられるのです。
 私も、自ら困難な道を選びとっていく、後藤さんの描く人々と似通った、純粋さと一徹さをもっている作家にどうしようもなく惹かれるのです。そして「遠いリング」(岩波現代文庫)のグーリーンツダジムの会長、津田博明に自分を重ねましたと読後感を伝えると「ハハンと思いました」と返ってきました。後藤さんは決して勝負としての栄光を書くのではなく「生きる姿勢」を問うのです。それは、私の作家を見る眼差しと同じであり、その問いは結局は自分へと返ってきて「不屈者たれ」と背中を押されるのです。 Helleborusに見入りながらの雑感です。

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2008.5 「居場所」ということ

「居場所」ということ

画廊を30年続けてきた意味が、ようやく分かってきました。 重松あゆみさんが「30年目の透視図」に「人の居場所とは何だろう。心や精神のすみかはどこだろう。時間が流れ、風景が変わっていくことだけは普遍なのだが・・・・」と書かれています。
私がやりたいことは「作家の居場所」「作品の居場所」を探すことだと思い至ったのです。 作家にとって、良く売る画廊、いいお客をもっている画商がありがたいのは当然です。しかし、ギャラリー島田は販売力が欠けていて、それを期待する作家は失望して去って行きます。私が見ているのは作家の背骨。創作に向かう姿勢です。そこに信頼がおければ、多少スランプがあっても、結局いい仕事につながっていきます。そして「待てば海路の日和あり」とギャラリー島田を「居場所」として付き合ってくれる作家には、本当に日和があるのです。

「人生の通奏低音」

作家と向かい合う。長い時間の流れのなかでお互いが成長していく。そこでは真剣勝負です。随分と厳しいことを言ってきました。そこを乗り越えての信頼なのです。
作家は孤独なものです。何のために、誰のために描いているのか、何者なのか?という根源的な問いかけを忘れてしまった作家、組織の中や、社会的評価に安住しようとする作家にはまったく興味が持てません。
創造に命をかけて向かいあう孤独な営為に共感をし、評価し、力になりたいと思っています。

私の人生の通奏低音と化してしまった、ゴッホがテオに宛てて書き投函されなかった最後の手紙の一節。

死んだ芸術家の絵を扱う画商と生存中の芸術家の絵を扱う画商とのあいだになぜこんな理不尽な違いがあるのか。だが、ともかく、ぼくの絵、そのためにぼくは自分の生命を危険にさらし、理性まで半ば壊れてしまった ――それでもいい ――だが、きみはぼくが知るかぎり、そんじょそこらの画商とは違う。いまでもきみは自分の信念を曲げず、人間性を失わずに生きていけるとぼくは思う。だが、きみは何を望んでいるのか?

結局、フィンセントにはテオしか「居場所」がなかった。テオの結婚でその居場所も失われようとしていた。それは希望を失うことであった。 ギャラリー島田が真剣に生きる作家の、重松さんの言葉にある「心や精神のすみか」としての「居場所」と思っていただければうれしい。その作家が生きていくための糧を得る「居住地」は別であってもいいのです。

「作品の居場所」

評価の定まった作家や物故作家の作品が、とんでもない価格で売買されるのを見ると、それが市場というものだと分かっていても、気分が引けてしまいます。そこで大儲けをすれば「お金は淋しがり屋」だから雪だるまで集まってくるのかもしれませんが、そのことで大切なことが見えなくなるのを恐れます。
作家が作品を誰かに、どこかに手渡していく。それを媒介するのが私たちの仕事です。「私にとって、かけがえのない作品です」と大切にしていただける方に渡れば、その作品は居場所をえる。でもビジネスと割り切れば作品は「放浪」の旅に出る。作家の大作を美術館や公的な場所に寄贈・寄贈仲介を続けているのも「作品の居場所」を探しているともいえます。
私は、家人が病を得て以来、ほとんどのお付き合いや外出を控えています。「そこまでしなくとも」と訝る方もいます。昔から多くの方の相談にのってきましたが「たまには私の相談にものってよ」と言われ続けてきました。いまこそ、家人が「居場所」をしっかりと確かめることが出来なければ、自分がやってきたことの全てが嘘になるような気がするのです。

2008.4 「世の中、捨てたものではない。 ほとんど奇跡だ」

世の中、捨てたものではない。 ほとんど奇跡だ

この頃、涙もろくなって困ります。それも、嬉し涙です。 人の好意が身にも心にも滲みたり、不遇な作家に思いがけないことが起こって報われたり。ほとんど奇跡だ、世の中、捨てたものではないと感じ入るのです。 知人のご夫妻がギャラリー島田を訪ねてこられました。 私が立ち上げようとしている「神戸文化支援基金」に寄付をして下さるというのです。 それも匿名で2百万円もの。私より若い音楽仲間なのです。 私は、自立した市民が支える神戸の文化を夢見て、様々な試みをしてきました。 15年前には亀井純子さんのご遺族から1千万円をいただき、(公)亀井純子文化基金を設立しました。昨年3月に理事長の亀井健さんが亡くなり、私があとを務めています。 この基金を拡充することを仲間と相談してきましたが、こうした小さな草の根ファンドの存続は法的には厳しい壁があります。 そこで、理想はさておき、新しい基金を準備することにしたのです。それが「神戸文化支援基金」です。ご夫妻は、それに呼応されたものです。ギャラリー島田が30周年記念にこの基金へ寄付したのですが、ご夫妻も同額の寄付を申し出られたのです。(詳しくは下記をご覧下さい)

頂いたのは「お金」だけではない「勇気」や「希望」です

一昨年にも、同額の寄付の申し出があり、企業メセナ協議会を通じて森口ゆたかさんの「アーツ・プロジェクト(病院にアートを)」に寄付させて頂きました。寄付をされた方も、きっと清々しいお気持ちでしょう。こうした基金の助成で多くの芸術活動が実現しました。そして、お金の価値以上に大切な付加価値を生み、毛細血管のように循環していくのです。なかなか出来ることではありません。贅沢をする、投資をする、資産にする、子や孫に残すのが普通です。亀井さんが託したお金は15年後の今もそのまま基金として残り、その倍額近くの助成金は、その他の方から寄せられたものです。 かつては私も行政に文化助成を充実させるよう強く働きかけていたものです。でも、それによる両者の依存関係を目の当たりにして、自立した市民が文化を支える仕組みを作りたいと考えました。それは勇気を与え、希望として繋がり、みんなが少しばかり胸を張ることが出来るのです。

もっと悪者にならなくては

榎忠さんが私に言う。「もっと悪者にならなくては」 「ええ??どうしたら良いの?」と私。 偽善とか格好良過ぎるのは「?」と、それとなく言われたこともあります。でもそういう事とは少し違うようです。 「もっと行政や権力とやりあって・・・」と榎さん。 そういえば人間が丸くなってしまった。針千本(硬骨魚)も、ふぐ提灯にされて飾られてしまっている。いや蝙蝠提灯か。(イラストがあればいいな)

 100キロを超える浪速の唄う巨人・趙博(チョウ・パギ)さんが「夢・葬送」(みずのわ出版)の中で「<怒り>を生きるエネルギーにしてきた。50代になってはじめて、その根本が間違っていなかったか?と自問自答し暗中模索」と書いているのが面白い。趙さんとは、つい先日、永六輔さんたちとご一緒した。趙さんは私より一回り年下である。私は別に転向し、逃亡したわけではなく、闘い方を変えたつもりなのだけど。 同じ本の中で趙さんが「恨<ハン>の声で恨<ハン>を越えたい」と語っているのが頭の中でずっとリフレインしている。私も「違和感」を大切にしながら、諦めることなく「越えたい」と思っているのです。

 「怒りをこめて振り返れ」という、J,オズボーンの旧作を思い起しております。そこから「闘い」に走っても朝はこない。別の「表現」を持ち寄りましょう。 「灯」を持ち寄れば「星」になる。「星」が集まれば「天の河」です。

 湯布院・亀の井別荘、中谷健太郎さんから頂いた手紙にあって、いつも私を励ます言葉です。先日、訪ねてくださり偶々、取材にこられていた作家の後藤正治さんと昼食を共にする機会に恵まれたのですが、なぜ私ごときに親切にして下さるのかと訪ねると「権力に楯突いて連戦連敗の仲間だから」と小さく笑われました。

「星月夜」

 星といえば、ムンク展(兵庫県立美術館で開催中)で「星月夜」と題された作品を見ました。月は見えないのですが冬の星空と遠くの街灯(まちあかり)に寂しさと人恋しさを感じさせ立ち止まって見入ってました。それになんといってもゴッホがアルルで描いた同名の作品は何度もみていますし、ゴッホと同じ場所に立って星月夜を見上げたたこともあります。多くの友人達 両親 死者などを星月になぞらえて懐かしむのは人々に共通する心理なのですね。「星を見ているとわけもなく夢想するのだ。なぜ蒼穹に光り輝くあの点が、フランスの地図の黒い点よりも近づきにくいのだろうか」「汽車にのってタラスコンやルーアンに行けるなら、死に乗ってどこかの星に行けるはずだ」「ぜったい確実なことは、死んでしまえば汽車に乗れないのと同様に生きている限りは、星に行けないということだ」これは、ゴッホがアルルからテオに宛てた手紙の一節です。

今の日本は目を覆い、耳を塞ぎたくなるような惨状を呈しています。 心はどんどん世間から離れていこうとします。でも世の中捨てたものではないと思えることも身近に、密かに、しかも頻繁に起こっていることが私を励ますのです。 まわりを見回せば、真摯に生きる「星」たちが砂漠のごとき世間に「灯」を点しています。それらはいずれ壮大な「天の河」になるのです。

(公)亀井純子文化基金と神戸文化支援基金から

 さる3月6日、2008年度の助成審査会を持ちました。7名の委員全員と事務局の住友信託から2名。申請は15件と過去最多でした。和やかにしかし真剣に討論し7件、100万円の助成案件を選びました。今月中に手続きをして(公)亀井純子文化基金のHPに公開いたします。この日、アート・サポートセンター神戸に寄せられた寄付\158,000 を中島淳事務局長へ渡しました。 今回、寄せられた寄付を加えて神戸文化支援基金の残高は429万円です。これを今年中に5百万円とし、来年度から10万円/件を5件、50万円助成を始めます。合わせて150万円と助成規模を広げる予定です。

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2008.3 「家事往来 カジオウライ」

家事往来 カジオウライ

昨年9月以来、生活が変わってしまった。朝5時過ぎには起きて、2時間~3時間は物を書いたり、考えたりしていたのが、今では半分がせいぜいです。私事ばかりで失礼ですが、私の中ではすべてアートと重なっているのです。今、日常の瑣事に関わりながら、私に響くものは、アートに接して受けるものと同じなのです。家人は、決して臥せっているわけではなく家事も出来ます。しかし状況を考えながら私が「主夫」を務めることが多いのです。例えば、掃除、洗濯、ゴミ出し、風呂洗い、食事の後片付けなど。家人は自らを「五月蝿(うるさい)」“さつき”と称するほど家事にはうるさく、「料理」は、すぐに失格を宣言され、助手にもなれず「机上見習い」です。それ以外でも時に、さつきぶりを発揮して「教育的指導」を受けたりもします。

家事は段取り

家事は苦痛ではありません。家事往来(All Right)です。家事というものを私は、余りにも知らなかった。頭の中は、ほとんど仕事を中心とした「社会」が占めていました。猛烈な速さで流れる時間に楔(くさび)を打つのが「アート」でしたが、家人のリズムに合わせ、今を慈しみながら時間がゆっくりと流れるようになると、乾いていた五感が「自然の気」によって潤いを与えられることに、ようやく気づきました。  朝、暗いうちに起き出すと、漆黒の闇そのものに既に季節の気配、その時々の自然の息吹があり、庭に出ると、キリッと肌が締まるような冷気の中、見上げる空に清怜にかかる孤月。影絵のように黒く浮かび上がる高取山の樹々の揺れと騒めき、幽けき鳥の声。それらは、心震わすパッセージ(楽句)、一篇の詩句、一枚の絵画との出会いに勝るとも劣らなく心に染み入ります。人間は排泄し、いかに汚し(毎日埃は積もり塵芥は出る)、汚れる(シャツの首まわりや袖)存在であることかと洗濯物を干したり掃除をしながら禅寺の見習い坊主のように哲学しています。

生きようとして

デンマークで私と同じ誕生日を持つ赤ちゃんを産んだ松塚哲子さんからメールが入りました。赤ん坊の世話をしながら、今まで味わったことのない新しい感覚を感じている、これからの作品が変わる予感がするといった文でした。  赤ん坊と家人では、正反対であるように思われるでしょうが「生きようとするいのち」を抱くということに於いて同じだとも言え、私も松塚さんと同じことを感じています。

たいせつなのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。こんどはあなたが、愛の運び手となってください。(マザー・テレサ)

先日、KAVCで見た映画で教えられた言葉です。余りにたくさんのことをしてきました。これからは「以心為行=こころをもって行いをなす」を心がけます。

女人には敵わない

こうして家事を味わっていると、家事で哲学し、炊事で創造し、育児で教育し、外で勉強し、芸術体験をし、五感を磨くことに余念がない女人には男人は敵いっこないことが分かります。この歪んだ世界を正すのは女人に正当な場を占めていただく以外にないのです。かくして社会の中でしか存在価値を主張出来ない男人は、せっせと組織をつくり肩書きをつくり「有事」を作りだす本能に励むのです。振り返れば、私がまさにそうでした。「貴方しかいない」と言われ「そうか」と思っていました。しかしそんなことはないのです。必要が人を選び、人を育てるのです。私が「長」をやっていた組織はすべて後継が立派にやっています。「花」ではなく「種」を蒔くことを丁寧にやっていきたいと思います。

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