2007.9 「動植綵絵の感動」その2

「動植綵絵の感動」その2

八百屋の若冲

「性澹白寡欲、思案なけれども憂へず。日々画くところの画に、一枡、ニ枡などと価格を附して店頭に列ね、一日の食料を得れば、即ち店を閉づ」(近世絵画史)。『斗米翁』の由来である。これって私の理想でもあります。なかなか「一日の食料を得れば、即ち店を閉づ」とはいきませんけど。
若冲は京都の錦小路で菜蔬(八百屋)の商売をしていて屋号が若狭屋忠兵衛といった。大典顕常による、大盈(ダイエイ)は冲(ムナ)しきが若(ゴト)きも、其の用は窮(キワ)まらず(大きく満ちているものは何もないように見えるが、その働きは窮めることができない)が若冲の名前の由来と言われているが、案外、屋号の若忠から連想したのかもしれない。
 当時の有名人録「平安人物志」(明和五年)の「画家」の部では円山応挙,池大雅に続き第3位に若冲がランクされているほどだが、蒹葭堂(けんかどう)の膨大な記述やコレクションに30才ほど年長で名声の確立していた若冲の痕跡は少ない。
 こうした蒹葭堂の本質を中村真一郎が「創造者、新しい未知の世界の開拓者、価値の体系の組み換え者の側にはなく、一文明の最高の保守の側にあった」と喝破している。若冲のアバンギャルドはいかにも旦那然とした風貌の蒹葭堂の御気には召さなかったようだ。
 蒹葭堂は喧嘩堂と音は同じだが若いころは過激な反体制運動などにも関わったが、家業は造り酒屋、病弱で若くして隠居、道楽で膨大な博物コレクションを成したように見えるが、楽隠居後は本家からの年30両の援助で妻妾、娘、奴婢の5人家族を養いながらやりくり算段した。芥川龍之介の試算に従えば、当時の30両は今で言えば、せいぜい年収300万円くらいらしい。それならば私にも蒐集できると考えるのは浅はかで、実際はフィクサー的な仕事で膨大なコミッションを得て、それで蒐集したらしい。私の木村蒹葭堂への憧れを加藤周一先生から「財力が問題だな」と言われたことは前にも書いた。その通り。中村真一郎が見事にブルジュア蒹葭堂の謎を解いて見せている。

島田喧嘩堂のサロン

 私が木村蒹葭堂に興味を持っていてサロンを運営しているのを知った詩人の伊勢田史郎さんが愛蔵の蒹葭堂の描いた掛軸を私に贈って下さった。震災で一部を破損していたのを補修し軸装を新しくし大切にしています。
 軸には
  清々首陽節楚々江魂 乙卯秋七月寫手手閑月軒 浪華 木孔恭
 とあり、軸寸法:67×203cm 画寸:54×134cm です。
 ここにある乙卯七月は寛政7年(1795年)7月。この時、蒹葭堂60才で、67歳で亡くなる晩年の作ということになる。
彼の絵の世間での評価は概ねアマチュア扱いですが、中村真一郎はその画面について「師、大雅のような必死な修行のあともなく、蕪村の俳味による新風への野心もない。師のあとを忠実に追って、文人の正統を守ろうという謙遜が、画面に漂う春風駘蕩の趣は、画壇に抜きん出ようという覇気のないだけに、後世の私達に静かな“生きる喜び ジョワ・ド・ヴィーブル”に涵(ひた)らせてくれる貴重な存在である」と書いています。
 この蒹葭堂の軸は10月23日の上方落語「島田亭」でご披露いたします。

(つづく)