辛夷(こぶし)の別れ
3月15日午後4時23分。懼れていたことが現実になった。亀井健さんが亡くなった。61才。覚悟はしていましたが、残念です。
3月17日(土)、住吉本山会館で11時から行われたご葬儀に、30分ほど早く行って健さんの写真と対話しました。
最後にお会いしたのは、1月でした。うっすらと額に汗をにじませて「新神戸駅から山際を歩いてきました、運動のためにね」と変わらぬ口調で話し、治療の状況について語ってくれました。奥様の久仁子さんは「その頃は腰に痛みを抱え、足も痛かったと思います」など亡くなられた時の状況を話してくれました。
暖冬といいながら、ここ数日は寒さが戻り、風は冷たかったですが空は晴れ渡り、春を孕んだ光が背中を暖め、静かな気が支配したお別れでした。帰り道に咲いていた春の訪れを告げる清楚な辛夷(こぶし)が健さんの姿に重なりました。前触れもなく一夜にして咲く辛夷となって私に別れを告げたように感じました。
寒かったので、暖かいものをと飛び込んだ食堂。ああ、そうだ「死ぬということは食べられないことなんだ、健さんはもう食べられないのだ」と思うと、急に不在が確かなのものになり、しんみりしてしまいました。すでに彼より3年も長生きしているのですから3000回は余計に食事をしているんだ、などと馬鹿なことを考え、箸がとまりました。
亀井さんとの出会い
亀井さんとのお付き合いのはじまりは1本の電話でした。亀井純子(前夫人)さんの1周忌を前に「ちょっと、ご相談したいことがある」と健さんが訪ねて来られたのは1991年2月でした。「純子が残した1千万円を、若い芸術家たちの活動を支援するために役立てて下さい」と突然切り出されたのです。失礼にも「保険金ですか?」と聞くと「いいぇ。純子が自分で貯めたお金です」と答えられました。
純子さんは、生前、神戸にあったオランダ領事館で働いておられ、オランダの画家や音楽家を神戸で紹介する文化交流でお付き合いがありましたが、無念にも前年の5月に40才の若さで亡くなられたのです。心も姿も美しい方でした。
純子さんがふっと消えてしまった前の年に私は体調不良に陥り7月27日に「脳脊髄鞘腫」という難病の手術を受けました。1ヶ月後にはギャラリーへ復帰。その時の展覧会が私の病のために延期されていたオランダの画家ファステンハウトさんの個展でした。オープニングは画廊のリニューアルとともに祝祭の気分に溢れ、純子さんもとても喜んでくれました。
その気分を壊さぬようにそっと「まもなく入院します」と告げられたのです。訃報に接したときの心の痛みが蘇ってきます。その時、すでに助からぬことを秘めていたのだという確信が私を責めました。闘病5年、最初のお出会いの時には既に病を得ておられたのです。
私が純子さんと共に仕事をした時間は20時間にも満たない気がします。健さんとは挨拶を交わした程度でしたが、大きなお金を私に託されました。そのことが、それからの私の16年の日々を導いたとも感じられます。
魂から魂 基金の誕生
健さんの申し出にどう応えるか自問が続きました。お金ではなく「遺志(魂)」を受け継ぐというのが私の結論でした。純子さんの1周忌である5月26日に基金をつくる準備会をはじめました。ここから公益信託が出来るまでが大変でした。全国でも珍しいちっぽけな草の根基金。いずれ消滅するだろうと言われて今年で15周年を迎えます。文化助成の公益信託は例が無いうえに確実に資金を集め活動を維持しているのも稀だそうです。
現在の基金残高が1千3百万円。15年間の助成実績が1千5百万円になります。すなわち1千8百万円はあとからいただいたものです。ありがたいことです。
「魂から魂へ」という言葉が浮かんだとたんに、若き日(’63年)にグリ―クラブで指揮した大手拓次の詩(清水脩曲)のエンディングフレーズが頭の中で鳴り響きはじめ驚きました。40年以上、まったく忘れ去っていたのに。
その詩の最後は次のようです。
わたしは日のはなのなかにいる
わたしはおもいもなく
時(とき)のながれにしたがって
とおい とおい
あなたのことに おぼれている
あるときは ややうすらぐようにおもうけれど
それは とおりゆく 昨日のけはいで
まことは まことは いつの世に消えるともない
たましいから たましいへ つながってゆく
しろい しろい 火の姿である
魂から魂へとつながっていく「新しい灯火」であるこの基金は多くの方に支えられ、助成された約80件の事業の先には多くのアーティストやその活動に接した人たちの火の姿であるのです。
文化集合住宅へ
基金を立ち上げて10年で事務局長を中島淳さんに引き受けて頂きました。そして15周年を迎えるにあたって、何時来るかもしれない自らの幕引きを考えて、この基金を更に充実発展させて森や林とはいかなくとも大きな木に育てたいと運営委員会で設計図を描く試みを始めた矢先でした。新しい基金構想についても「島田さんが前から言っておられたことですから」と賛意を表してくれ病床で考えを纏めると聞いていました。行政や企業にたよることない個々の志が文化を支える。集合住宅「志」の各部屋に亀井とか島田とか何々さんとかの表札があがり、それぞれに支えたい目的が明示されているとういような構想です。高層とは遠く、マンションまでもいきません。
まさに「文化集合住宅」なのです。
現代の神様
宮城まり子さん(「ねむの木学園」園長)が、3月24日の日経新聞の「私の履歴書」に「現代の神様」のタイトルで書いていました。
学園を設立して、その資金に窮していた時、突然、ホテルを訪ねてこられた作業着姿のおじさんが、家内と娘と相談してと出された封筒に1500万円の小切手が入っていたという。「昔の神様と違って、現代の神様は作業着を着てこの世に出ていらっしゃるのだな、そう思いながら後ろ姿を見送りました」約40年前のことです。
「魂」という「火の姿」が受け継がれて、人の根っこのところを少しずつ揺さぶって、感性を、時間や自然や思索や笑顔を取り戻してゆく様は「希望なき時代の希望」です。
一人の女性が播いた種が、こうした実を結んだとしたら、私も種を播こう、皆さんと力を合わせて、一緒に蒔こう。