棟方志功の手紙
何故か私が求めるわけではないのに作家にとって極めて重要な資料が集まってくる。その都度、最適な保存を考えている。私は研究者でも蒐集家でもないし、私自身がいつどうなるか知れないから。あるべきものをあるべきところへ。
知人から棟方志功の創造の秘密を解く重要な手紙を多数見せて頂き、許可を得てコピーさせて頂きました。現存する方への配慮から秘匿されていたものです。63才から1975年9月13日72才で亡くなるまでの志功晩年の豊饒優艶な女人像の誕生の陰にあったモデルとの出会い。あの板画に彫刻されたとおりの文字が躍り、ときに彩色され時に描画された手紙は、「モデルを描きたい」という思いが水盤から溢れる水の奔流のようであり、それが木洩れ陽できらきら輝いているのです。 過去の棟方研究からも完全に抜け落ちている貴重な資料です。いま棟方志功の様々な資料とつき合わせをして楽しんでいますが、許可を頂ければ順次、私見を交えながら紹介したいと思っています。画家にとってモデルは想像力の源であり、その出会いは決定的です。たとえば鉛筆画の木下晋さんと瞽女の小林ハルさん、エコールドパリの画家たちとキキ。ピカソ、ムンク、クリムト、モリジアニ。ロダンとカミーユ・クローデル。ギャラリー島田のサロンで故・山本芳樹さんに竹久夢二、責め絵の伊藤晴雨、洋画の藤島武二の3人の天才が愛した伝説のモデル・お葉の話をして頂いたことを思いだします。
棟方さん独特の字で判読しづらい、意味の分かりにくいところがありますが人間味に溢れ、わくわくします。決して志功像を損ねるのもではありません。秘匿されてきたのは奥様の千哉(ちや)さんの焼餅を恐れ、また棟方がよく知る人の妻である方に迷惑がかかることを懼れたからでもあります。「女の方の名前だとツノを出して困りますから」(1966-4-20)と書いています。ちなみに使用されている原稿用紙に「胸肩画寓箋」と印刷されているのも面白い。(続)
泣き虫蝙蝠
中村勘三郎・襲名披露公演を2時間のドキュメントにしたTVが3月9日にありました。いい番組でした。私は昨年12月27日の京都南座で千秋楽の夜の部の感動的な口上を聞きました。でもTVで紹介されていた家族の一員であった老歌舞伎役者、中村源左衛門の無念の死の背景など知る由もなく、また3階席では、息子の勘太郎、七之助など俯いた役者の瞼から滴り落ちる涙までは見えませんでした。でも、どれもが魂の入ったもので、TVを見ながら泣いていました。