2007.2 「いざ・・・」

2007.2

「いざ・・・」

—沖縄へ

 7日 早朝起床。吹雪天候をついて、スタッフ一同、慌しく沖縄へ立ちました。
「絵師 松村光秀展」が沖縄・宜野湾市のある佐喜眞美術館で始まりました。松村先生が念願の展覧会が実現したのです。大陸的な佐喜眞さんとO型の私。ここに至るまでハラハラすること再々。でも見事実現しました。5tコンテナで51点の作品を運び、遅くまでかかって展示したそうです。美術館始まって以来の異色展示だそうです。其の夜の暖かいおもてなしに先生の目に涙が宿りました。佐喜眞さんお長男、潤君が沖縄三味線を弾き、歌い、店中が踊りだし、松村先生も立ち上がって踊りだし、三味線を弾き、泡盛がどんどん空く…
佐喜眞美術館は丸木依里・俊の「沖縄戦の図」を恒久展示する美術館です。館主、佐喜眞道夫さん、ここを設計した真喜志好一さんは畏友です。
8日 真喜志好一さんの案内で沖縄の歴史を学ぶ旅をしました。斎場御嶽(セイファーウタギ)、中城城跡(なかグスク)などです。真喜志さんは神戸大の2年先輩で建築を学び那覇で「建築親方」と「平和を建築する人」として名高い。氏の設計したシュガーホール、恩納村のアーティストレジデンスも見せて頂きました。2年前にも沖縄を案内してもらいましたが普天間、嘉手納基地などを含む濃い沖縄でした。
9日 国際通り、平和通り、牧志公設市場などをひやかして、午後、帰神。
 ともかく尊敬する松村先生の思いを、一つ一つ確実に実現出来ていることがなによりうれしいです。

—インドネシアへ

 近くて遠いジョグジャ

 今、ガジャマダ大学のセミナーから帰ってきてホットしているところです。ことの起こりは昨年11月中旬に大阪市立大学の中川真教授が訪ねてこられ昨年5月大地震(被害の規模はほぼ神戸と同じ)にも見舞われたインドネシ・ジョクジャカルタ(以下ジョクジャ)での国際学術フォーラムで「自然災害と文化の役割」というテーマで報告して欲しいという依頼をされたのです。私にとっての様々な障害を越えて、1月17日 竹下景子さんのメモリアルコンサートを終えるやいなや、関西空港へ駆けつけタイ航空の深夜便でバンコックへ、そこからジャカルタへ、そしてジョクジャカルタへと到着。便が遅れたり、待ち時間が長かったりで結局、神戸をたってから18時間かかりました。一人旅を覚悟していたのですが(日本からの参加者は4人)幸い、このプロジェクトの責任者である山野教授が、偶然に同じ便を使うことが判明、心強かったです。
18日 夜は、簡単に打ち合わせをして早く寝ました。
19日 タイムオ-バーと拍手
インドネシアの朝は早い。5時半に起床。大変な準備にも拘わらずほとんどボランティアなのでホテルだけはとファイアット・レイジェンシーという大変に美しい最高のところで、美しい緑の上を散歩して心を落ち着けました。聞くところによると日本のビジネスホテル並の料金だそうです。7時半に大学差し向けの車でインドネシア最古・最高のガジャマダ大学へ向かいました。
 会場は小さいけれど最高の設備が整っている会議場。8時半から学長の挨拶で始まり、中川教授が基調講演。「様々な対立、障害による社会的排除から、こうした災害から学びながら、新しい市民社会における価値の発見、様々な領域を超えた共存、排除から包摂への努力」を話され、午前、午後、それぞれ3名の報告が行われました。そして活発な質疑。15:30にすべてのプログラムを終えました。
 私はアートエイド神戸からアート・サポートセンター神戸の仕事、さらに「ぼたんの会」へと繋がっていく流れをまとめて、多くの方の助力を得て、準備万端整え、せっかく、はるばる18時間もかけてきたので、少し長めに時間を欲しいと主催者に了解をもらっていたのですが「時間超過」の非情なメモが回ってきて、肝心の最後3分の1が報告出来なかったのが悔やまれます。「せっかく遠い神戸からきて、もうちょっと時間が欲しかった」とぼやいていると中川教授から「でも拍手をもらってたではないですか」と慰められました。原稿はすべて出席者の手元に渡っていたので、私の特訓した流暢?な英語が披露できなかっただけで実害はないのです。さらにちゃんとした報告書に全文掲載されるそうです。
 私の報告が学問的に遠い実践によるものだったので若い人の興味をひいたのか、最後の質問は、かなりの部分が私に浴びせられ、ここだけは石田さん(ガジャマダ大学で日本語を教えている)という優れた通訳の助けを借りました。それは「震災後の文化が後回しという風潮に挑戦」したという部分に対するものと「何故、貴方はそんなにも精力的に活動できるのか?」「それは、どんな段階をふんだのか?」などというものでしたが、「私はそれが当然の責務であり、また、喜びでもあるのです」などと答えると期せずして拍手をいただき(報告内容に関して拍手をいただいたのは私だけだったので)報われた気持ちになったのです。終わってから質問者の女性や、こちらのV-art gallery cafeのZuliatiさんから「お会いできて良かった、同じことをやっているのでとても参考になった」と握手を求められたのでした。
 神戸大学の歴史資料保存ネットワーク事務局長の松下正和さんの報告を始めガジャマダ大学側の報告も大変高いレベルのものでした。私のつたない理解力では、どうしようもなにのですが、最後まで飽きずに聞いていました。
夜はインドネシア芸術大学の学長スプラプト・スジョノさんとイスラム文化を研究している女性、彫刻家の男性(いずれもこの大学で教えている)に招待されてガムランの演奏を聴きながらインドネシア料理を頂きました。インドネシア料理は私の好きなベトナム料理と良く似ておいしいのです。だだ住民の90%がイスラム教徒ということで、好きなお酒の種類はなく、軽い感じのビールばかり飲んでいます。  昨夜は静かだったホテルが豪華な結婚式で沸き立っている感じで、誰が花嫁か判別できないほどドレスを着た女性が大勢いました。
そして街中はバイクが走り周り、いたるところに若者がたむろしていました。連休前の金曜日の夜、若者たちふれあいを求めて町へ出るのだそうです。

「忙中旅あり」から「旅中仕事あり」の顛末

 NYから沖縄、そして震災プロジェクト、インドネシア、また沖縄というクレイジーな東奔西走になってしまったのは、こんな理由です。沖縄とインドネシアは、他のスケジュールが動かせなくなってから決まったのです。沖縄の松村光秀展は当初、春の予定でしたし、中川教授の依頼は「震災とアート」に関わってきたものとしては逃げられない責務でした。私たちの経験が国を越えて共有できるとしたらうれしいことです。帰ればまたクレイジーなスケジュールが待っています。

1月20日ボロブドゥールから被災地へ

 今回のフォーラムで出会った人たち、沖縄の旅での体験。「何故、貴方はそんなにも精力的に活動できるのか?」との答えは、アートとアーティストが大好きで、そして無私の情熱を抱いた人たちのマグマがまた私を突き動かすからかも知れません。そろそろ散歩に行きます。
 朝7時半、ロビーで笠原里愛(りえ)さんが迎えに来てくれました。現地の人と結婚されていて神戸のNGO:CODEの現地でのお手伝いをされている方で、東京芸大で工芸を学ばれたとのこと。タクシーをチャーターするつもりでしたがご主人のウィヤンディさんが運転してくださるとのこと。早速、世界遺産のボロブドゥールへ。ジャグジャは今、雨季で気温は25度くらい。蒸し暑い。ボロブドゥールは20世紀最大の発見といわれる未だに謎に包まれた遺跡ですが、良く整備された美しい公園にピラミッドのように荘厳に立ち上がっていて階段を上っていくにつれて地霊に引き込まれるような気にさせられます。1辺120mの正方形の基壇の上に9層の壇が積み上がって全高42m。9世紀に建てられたあとメラピ火山の噴火などで森の中に埋まっていたのが19世紀に再発見。バルセロナのサクラダファミリア、パリのノートルダム、ミラノの大聖堂、東大寺など時代精神のシンボルを天に向かって立ち上げてきました。現代ではNYのグランドゼロに立てようとしているビルが象徴かもしれませんが、なんと言う精神の貧困!!
 そのあとCODEが支援しているジョグジャ南部の激震地Bantulに向かいました。途中でお昼をアーティストが運営するケダイ・クブンというギャラリーと多目的ホールとお洒落なレストランを併設しているところで食べました。もちろんインドネシア料理です。ジュクジャ中央部でもホテルや住宅の被害は見られたのですが、Bantulでは竹で作った仮設住宅、瓦礫の山がまだまだ多く、鉄筋を入れて煉瓦を積み上げて工事中の建物も多くみられました。CODEは優れた建築家ECOさんの設計による住宅25棟を支援していて、ほぼ出来上がりつつありました。ジャカルタ、ジョグジャ、さらに北部と南部の貧富格差など深刻なものがある現実を直視しました。この日は雨季らしい激しい雨が断続的に降りましたが、雲から逃げるように進路をとり、不思議と車を降りる時は雨が止んでいるのでした。NHKが特集で畏友・村井雅清さんを特集したときにBantulに取材班が入り、そのときにインタビューされたというご夫妻にも会うことができました。笠原さんのガイドなしにはこんな地域には決して来られる筈がありません。この地域の人々は識字率も低く、これといった産業もなく、このままでは貧困から永久に抜け出せない、関わった以上は、なんとかしなければとの里愛さんの言葉です。ジョグジャではマクドもKFCも若者憧れのステータスだと聞きました。鳥は母国の料理のほうがずっと安くておいしいのに???

豪雨の中を走り抜け  遺跡へ

 もうひとつヒィンドゥーの遺跡フランバナン寺院へ。そのあと昨日のセミナーで話をしたV-art gallery cafeで珈琲を飲んで休憩。買い物に全く興味がないのを不思議がられながらスーパーマケットへ案内してもらいました。そこで里愛さんはドリアン(臭くて有名)を買って車の中で食べさせてくれました。パックを開けただけで車に匂いが充満。私はなんでもなく食べるのですが松下さんはおそるおそるちょろっと舐めていました。午後4時半に松下さんを空港に送り、辞退する私を笠原夫妻は魚料理の美味しい店に招待してくれたのでした。

人は生きてきたようにしか存在しない。

長い道を歩いてきました。すべてが不思議な縁で結ばれている気がします。どんなに生きても人を傷つけ殺生をし、環境を破壊に加担することは避けられません。最貧の生活を見て、心が痛んだにしろ傍観者に過ぎません「心の内なる植民地主義」が潜んでいるとの自覚を畏友・真喜志好一さんから教えられました。

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