2007.12 「汝、健やかなる時も病める時も」

汝、健やかなる時も病める時も

例年30周年をむかえるギャラリーの記録集を作ろうとしています。過去の記録というよりも、30年たった今の立ち位置をしっかりと確認したいと、毎日、少しずつ文章を書いています。 振り返ってみれば、それにしても変な画廊です。偏屈な画廊です。 何が変かといえば、

日曜大工で画廊を初め、設計図がないままに増築を繰り返してきた。すなわち不法建築。
美術の正規の勉強は何もしていない。業界についても何も知らない。
有名よりは無名。  正統よりは異端。 中心よりは辺境。
「ストック」よりは「フロー」 。要は儲けることへの違和感。
作家とともに生きる 。「売れない」時も「不調」な時も共に在る。
依存よりは孤立。  寄りかからず。
30年を振り返りながら。これは理念というよりは、もはや自分でも制御できない本能だと苦笑してしまいます。

制御できない本能

こうした自分をもてあましながら考え込んでいます。日本的に言えば美徳でもなんでもありません。なにしろ「和をもって尊しとする」風土で、絶えず「異議申し立て」をするのですからね。著名な精神科の臨床医師が「不適合能力に優れている」と診断したのですから。  この気質、この制御不能の本能はやはり、先祖からのDNAのようです。少なくとも両親からの遺伝であることは確かです。父の「無欲」、母の「奉仕」。そして息子たちを見ていてもそれを感じます。  でも、振り返ってみれば、素晴らしいスタッフに恵まれ、素晴らしい出会いに恵まれてきました。  作家との付き合いも、ほんとに長くなりました。ほとんどが無名の頃に付き合いはじめ、認められてきた作家も出てきました。コレクターは気に入った作品だけを選んでいれば済みますし、評論家は言っておれば済みますが、自分が選び、関わった作家はそうはいきません。すでに身内であり、人によれば伴侶みたいなものですから、「汝、健やかなる時も病める時も」と神前に誓ったようなものなのです。

生きている証としての作品

関わっている作家の多くは経済的にも恵まれない中で、描くことしか自分の居場所がないと思っています。希望に向かって希望もなく。そうした作家たちと「共にいたい」と思ってきました。すでに評価が定まった「物故作家」の売買を生業とする気にはどうしてもなれないのです。今、身を削って表現に命を燃焼させている目の前にいる作家は、どんな巨匠の名画よりも尊いと感じるのです。彼等が巨匠になる可能性はないかもしれません。あれば本当にうれしいです。でも一回限りの人生を、それなりの形で納めて差し上げたいと思って、晩年、没後まで関わらせて頂いています。かけがえのない、生きている証としての作品を、きっちりと、それなりの居場所を見つけてあげたいと思っています。

画廊、30年の平面図

作家が真剣に作品に向かい合うように、私にとって画廊は自己表現・作品かもしれません。 書店の仕事も大好きでしたが、画廊は35才の時に、手探りで、日曜大工で始めて、増築を繰り返してきたもので、どんな時でも励まし、支持してくれ、肩書きを嫌う私に代わって代表を務めてくれている家人との人生そのものが刻印されているように感じます。 今、こつこつと書いている30周年記念誌は、迷路のようになった「平面図」を描く試みだと思っています。派手なことは何もしません。

節目として「記録」を作ること。
石井一男さんに、ずっと前に約束した「画集」を出すこと。
アーティストを支援するための「神戸文化支援基金」を作る準備として2百万円を寄付します。 15年前に(公)亀井純子文化基金を設立しました。アーティストを支援する草の根基金です。この基金の拡充を 模索しましたが、こうした小さな基金をいくつも作って、その集合体をマンションならぬ「文化集合住宅」としようと 結論しました。将来は財団か特定公益法人化を目指したいと考えていますが、当面は、その運営は(公)亀井  純子文化基金の運営委員会に委ねたいと思います。
西神中央に出来る彫刻庭園と仁川学院のモニュメント建設を無事に完成させることなどが課題です。
来年の1年間はギャラリー島田の二つのギャラリー(B1Fと1F duex)での展覧会はすべて30周年記念展ということになります。是非とも、ご期待下さい。

ちょっといい話

11月4日(日)の朝日新聞に「補助線」というコーナーがありました。 副題は「銀行の貸し手責任を読み解く」。バブルの時代に銀行が貸付競争をし、善意の人に不動産やマンション投資を煽った。そしてバブルがはじけると一転、冷酷に回収にまわり、多くの借り手が追い詰められ、人生を狂わされた。 煽ったあげくに「自己責任」と涼しい顔。銀行(ここではみずほ銀行:当時第一勧業銀行)の支店長と借り手の息子が大学で同級生という悲劇でもありました。貸し手責任はないのかという趣旨でした。

■ぼくは賢いから
こんな話には乗りませんでしたが、ほんとにこの手の話は多かったし、周りでも乗ってしまってひどい目にあった知人が沢山います。マスコミだって同罪です。商店街でも連帯融資を持ちかけ、銀行はリスクをとらず甘い話で融資を持ちかけ、元町でも老舗が大きな被害を受けました。ぼくはこの仕掛けのいかさまに気づいて抜けて事なきをえました。 今また業績競争の中で知的な詐欺が仕組まれていることを危惧します。

■ぼくはアホやから
でも、ぼくも土地神話に惑わされ、岡山の別荘地を買いかけたことがあります。現地まで行きました。たかだか6百万円くらいのことですが。そして買う気になって第一勧銀に相談に行きました。 山本さんという担当者は話を聞いて「やめとかれた方がいいですよ」「お好きな絵でも買っておかれたら」と諭してくれました。奥さんが絵を描かれていて、ご自分も好きだという話でした。その通りにしました。感謝しています。 同じ銀行でも、こんなに違いがあるのです。

■アホから学ぶ
甘い話には罠がある。乗らないことです。銀行に貼られている「貯蓄から投資へ」もうさんくさいです。国や県・市、銀行や企業は失敗の責任を市民に回さないで欲しい。それこそ自己責任と自覚して欲しいですね。ぼくは「身の丈の生き方」を選びました。

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2007.11 忙中旅あり イタリア編(後)

忙中旅あり イタリア編(後)

 フィレンツェを書いて、あとが書けなくなってしましました。実は、このあとミラノへ戻って、そこからフランスとの国境沿いにあるアオスタという古都へ2泊してモンテ・ビアンコ(モンブラン)へロープウェーで登り、そのあと前回、雨に祟られて中止になってしまったヴェローナの野外オペラ「アイーダ」を見て(これが寒かった)、ヴェネチア・ビエンナーレへ。
 最後はミラノで美術館に篭ったのですが、家人がアオスタで体調を崩し、なんとか旅行は続けたのですが、帰国後、検査、入院、手術となってしまいました。健康そのものの日常だけに、さすがに驚きました。幸い経過は順調ですが、しばらくは治療が続きます。ギャラリーの仕事にも復帰し、皆様にお会いできるのを楽しみにしています。でも気楽にやって欲しいものです。
 そんなことでイタリアの旅の後半は、すっかりセピアに色褪せて彼方に消えていきました。それはそれで、一杯、面白い話があるのですが・・・

ヴェネチアビエンナーレ

 ヴェローナから列車でヴェネチア・サンタルチア駅を目指しました。榎忠さんがビエンナーレ日本館の候補に挙がっていたけど次点に終わった時点でビエンナーレへの興味を失っていたのですが、束芋さんや森村泰昌さんが話題になっているので急遽、予定に入れました。ベニスの4回目くらいなのでビエンナーレ展だけに絞って8時間滞在しました。
第52回ヴェネチア・ビエンナーレ(52nd Venice Biennale)の展示テーマは、「with the Senses Feel with the Mind. Art in the Present Tense(感覚で考え、心で感じる。同時代のアート)。全体のコミッショナーはMoMAの名キュレーターとして名高かったロバート・ストー氏。アルセナーレ(Arsenale)、ジャルディーニ(Giardini)を主会場に島全体に展示場が点在し、とても全部は見れません。
日本館代表はコミッショナー港千尋(写真家)が選んだ岡部昌生さん。作品はフロッタージュという、簡単に言えば石の表面の凹凸を紙を当てて鉛筆で写し取る技法に依る作品で、私は最近、神戸での展示を見ています。岡部さんの作品は広島の宇品駅の560メートルにも及んだプラットホームの縁石をフロッタージュしたもので、アジアを侵略した兵士が宇品港から出ていったことと広島原爆の記憶を刻んだ場として選ばれています。「私たちの過去に、未来はあるのか」The Dark Face of the Lightというタイトルの由来でもあります。
日本館の展示は黒と光のモノトーンで構成され、いい感じでした。しかし、岡部さんの思索的なメッセージが伝わるかと言えば、疑問です。入口に掲げられた港千尋の文と技法を見せている映像はありましたが、理解を補うパンフやチラシもなく、忙しく動き回る人々にはほとんど届いていないと感じました。確かに国際展の特長として社会の先端としての美術家の意識として「戦争」「差別」「環境」などが重要な要素で今回も色濃く感じました。それにしても、岡部さんの仕事はここで展示するには余りに内省的で在り過ぎます。外国の方に理解してもらう普遍性に距離があると思います。
日本館は1955年に建てられ、設計は吉坂隆正。詳しくは書きませんが誕生の由来、その後の経緯からしても、余り熱意を感じない日本館で残念です。真っ先に日本館へ寄ったのですが、ここで木ノ下智恵子さん(神戸アートビレッジセンター)にばったり会いました。御互い「なんでここで」と笑いました。それにしても我が榎忠さんが美術評論家:椹木野衣(さわらぎのい)さんの推薦で有力候補の挙げられていながら選ばれなかったことが残念です。「アート万博」ともいえるこのビエンナーレには岡部さんよりは榎さんが最適だと感じました。榎さんの作品が発するパワー、意外性、問題意識の普遍性、オリジナリティーの強烈さなど、榎さんが出展していたら大きな話題になったことは間違いないです。

全体の印象

〔1〕ロバート・ストーの構成は穏当なもので、ジャルディーニ会場はMoMA(ニューヨーク近代美術館)、アルセナーレ会場は昨年見てきたNYから北へ1時間ほどのナビスコ工場跡地の新しいアート・スペース、DIA:BEACONを感じました。
〔2〕束芋さんのアニメは三階建ての小さな玩具の家に大きな手で家具を並べカーテンや絵を飾るという小さな幸せの日常と、その手がアトピーで痒いから引っ掻くという行為を見せながら現代との違和感を伝えていました。
 森村泰昌さんはサンマルコ広場の回廊にあるギャラリーで見ました。ヒットラーやレーニン、アインシュタインなどに成りすまし、現代への危惧を表明しています。
〔3〕展示はオーソドックスに、表現はポリティカルに。
〔4〕前回の混沌として強烈なエネルギーを懐かしく感じました。どこかに澤田知子、藤本由紀夫さんも展示している筈ですが探せませんでした。ずっとサンマルコ広場近くで休んでいた家人と合流して列車でミラノへ向かいました。

そんなことでイタリアの旅は遠く彼方のことになってしまいました。

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2007.10 忙中旅あり イタリア編(前)

忙中旅あり イタリア編(前)

7回目のイタリアです。子ども達が大学へ入って家を出て以来、毎年、家人との二人旅を続けてきました。
未熟な英語と「ボンジョルノ」「ボナセラ」だけの伊語での旅ですが、ほとんど困ったことはありません。今回の「忙中旅あり」は事情があって走り書きです。8月17日に出発、27日に帰国しました。

17日 12:45 関空発アリタリア航空 18:30ミラノ着 時差7時間ですから13時間のフライトでした。2時間待ってフィレンツェへ。1時間のフライトで21:35着。タクシーで中央駅近くのホテルへ。部屋からサン・ロレンツォ教会の天蓋が見えました。
フィレンツェ中心部は小さな街なので歩いて廻れるのです。

ミケランジェロのフィレンツェ

18日。ネットで予約したホテルなのですが、どこも朝食が充実していて、浅ましいことに、毎朝、食べ過ぎて昼食がおろそかになってしまいました。ともかくユーロが高くて(円が余りにも安い)、何でも高く感じてしまい、買い物もしませんでしたし、レストランも同じ値段帯の日本と比較してしまい、満足できないのです。
9:30にウッフィッツィ美術館を予約してあったので並ばずに入れました。便利ですね。

世界全体が不安に

テロへの警戒からセキュリティーがどこでも厳しくなりました。入口に機器が設置され人が配置されています。保険を含めて安全へのコストは莫大なものになるでしょう。今や飛行場へチェックインするのも美術館へ入場するのも変わりは無い有様です。そして入館料へはねかえっています。日本でもいつからこんなにガードマンが溢れかえるようになったのでしょう。
人間はどんどん無防備になって管理監督は専門家に委ねて、息苦しい社会になっていきます。

ウフィッツィ美術館にて

昔は足を棒にして、目を皿にして必死で見て廻ったものですが、今回も結局、美術館や寺院詣でになりまいた。しかし頑張りすぎず適当に目に付いたものをゆっくりと時間をかけて見るようにしました。ところでウッフィッツィ美術館とはofifces museumのことなのですね。フィレンツェ行政府の昔の事務所棟を美術館として使っているのです。14世紀から16世紀にかけてヨーロッパ各地で起こったルネッサンス。古典芸術と人間復興運動の中心がフィレンツェでメディチ家がリーダーでした。16年前にも来たのですが、この美術館の印象はほとんど変わっていませんでした。

ルネッサンスは「チチ」「チン」「チ」

「チチ」とは、おっぱい。乳房です。「チン」とは、おちんちんのことです。「チ」とは血です。ウッフィッツィ美術館をはじめフィレンツェで見たのは「チチチンチ」のオンパレードでした。もちろんキリスト教世界は磔刑と再生、迫害、殉教の歴史ですから、おびただしい血に彩られています。もう見たくないというほどの「血」に辟易し「チチチン」にも食傷しました。
 ウッフィッツィ美術館でもっとも人気があるのはサンドロ・ボッティチェッリの部屋でしょう。「春」「ヴィーナスの誕生」が人間復興を謳っています。ただどこか異教的な雰囲気を湛え、思ったより暗めの発色ですね。とりわけ「春」は新プラトン主義の思想を読みとらねば、なんのことか分かりません。ぼくが今回、特に注目したのは第25室にあるミケランジェロの「聖家族」(1503年=28歳)です。彫刻、建築、絵画と様々なジャンルでまさに天才的な仕事を成し遂げたミケランジェロですが、この作品が唯一つの額縁に入ったタブロー(完成作品)だそうです。他は壁画かデッサン習作ということです。

駆け足で

フィレンツェで見たところを挙げておきます。

◆ サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
◆ メディチ・リッカルディ宮(ゴッツオーリ「ベツレヘムに向かう三王の旅」)
◆ サン・ジョバンニ洗礼堂(サン・ジョバンニとは洗礼者ヨハネのこと。ギベルティーの「青銅の扉」)
◆ メディチ家礼拝堂(ロレンツォ、ジュリアーノの墓にミケランジェロの「思索する人」「行動する人」「曙」「昼」「夕暮」「夜」)
◆ サン・ロレンツォ教会(ミケランジェロ未完のファサード)
◆ アカデミア美術館(ミケランジェロ「ダビデ像」未完の4体の「奴隷」など)
◆ 孤児養育院美術館(コジモ・メディチが作った元祖「赤ちゃんポスト」)
◆ サンタ・マリア・デル・カルミネ教会(マザチオ「楽園追放」)
◆ ジオットの鐘楼

ミケランジェロに魅せられて

「聖家族」を見て考えたことが、このあと、この旅行中にずっと頭の中について回りました。帰ったらもっとミケランジェロを知りたいと思いました。「聖家族」とは幼児キリスト、マリア、ヨゼフのことですが、この絵は伝統的な「イコン」とは異なり、ごく普通の家族に見えます。そういえば「ダビデ像」(1504年=29歳)サン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」(1500年=25歳)のマリア、これらは神格化され様式化された聖人のイメージからかけ離れて、いわば私たちと同じ血が流れている人間の理想の姿を描きだしていると感じました。
「ダビデ」は旧約聖書の英雄ではなくフィレンツェ共和国の自由と平和を守る市民の純化された思いがほとばしる神々しいまでの結晶に見えます。今、ヴェッキオ宮殿前にあるのはレプリカで実物はアカデミア美術館にあります。高さ434cm、台座に乗っていますからまさに仰ぎ見る高さです。ここではあらゆる角度、大きさでダビデを見ることが出来る装置があり、私は右手に握っているものが何なのか探しました。石でした。そして左手で手拭のようなものを肩にかけているように見えるのが背中を廻って右手に消えています。これは巨人ゴリアテを倒した投石具なのでした。無知でした。年老いたダヴィデを青年に、「ピエタ」ではマリアを美しい乙女とし青年ミケランジェロの理想を表現したのでしょう。
メディチ家礼拝堂は建物を含めてミケランジェロの作品ですが、この建設にまつわる経緯もすこぶる面白いのですが、豪華王ロレンツォと暗殺されたジュリアーノの像とそれぞれの前に対で置かれた男女、「曙」「黄昏」「夜」「昼」の寓意像。二人の像は本人に似ていないそうだけど、いずれも本人の本質を千年後まで伝えるものとしての「寓意」であると言う。「夜」と「曙」の女性像は滑らかで美しい肌。「黄昏」と「昼」の男性像は鑿跡のある荒削りのままである。近づいて鑿跡を見るとミケランジェロの息遣いが聴こえてくる気がします。アカデミア美術館では、荒々しい原石を突き破って抜け出そうと、もがくような未完の4体の奴隷像。理想に燃えた共和主義者で防衛軍の指揮官でもあったミケランジェロ。無数の裸体画で天上を埋め尽くした「最後の審判」。自由と平和と人間愛に燃えた彼を抱え込み制作させたのがメディチでありカトリック権威体制の頂点にいる法王であった皮肉。奴隷像こそ彼の自画像であったのではないか。ミケランジェロが設計したサン・ロレンツォ教会の粗い煉瓦積みの未完のファッサードはミケランジェロのデッサンを見ているように美しい。

カラバッジョとの再会

2年前の旅はカラバッジョを巡る旅でした。カラバッジョ(1571-1610)は本名をミケランジェロ・メリジという。巨匠ミケランジェロ・ブエラローティが亡くなって9年後にミラノから東へ40kmの田舎町カラバッジョに生まれた。カラバッジョ村のミケランジェロ・メリジ、すなわち本名はミケランジェロ・メリジ・ダ・カラバッジョ。薄暗い教会で彼の作品に出会うと、正に一隅に宗教画ではなく人間ドラマがあるという新鮮な驚きを感じました。
今回、ミケランジェロの数々の作品に接し、この巨匠の仕事がカラバッジョに与えた影響を感じずにおれませんでした。

イタリア編(後)は次号 ヴェネチア・ビエンナーレとミラノを書きます。

2007.9 「動植綵絵の感動」その2

「動植綵絵の感動」その2

八百屋の若冲

「性澹白寡欲、思案なけれども憂へず。日々画くところの画に、一枡、ニ枡などと価格を附して店頭に列ね、一日の食料を得れば、即ち店を閉づ」(近世絵画史)。『斗米翁』の由来である。これって私の理想でもあります。なかなか「一日の食料を得れば、即ち店を閉づ」とはいきませんけど。
若冲は京都の錦小路で菜蔬(八百屋)の商売をしていて屋号が若狭屋忠兵衛といった。大典顕常による、大盈(ダイエイ)は冲(ムナ)しきが若(ゴト)きも、其の用は窮(キワ)まらず(大きく満ちているものは何もないように見えるが、その働きは窮めることができない)が若冲の名前の由来と言われているが、案外、屋号の若忠から連想したのかもしれない。
 当時の有名人録「平安人物志」(明和五年)の「画家」の部では円山応挙,池大雅に続き第3位に若冲がランクされているほどだが、蒹葭堂(けんかどう)の膨大な記述やコレクションに30才ほど年長で名声の確立していた若冲の痕跡は少ない。
 こうした蒹葭堂の本質を中村真一郎が「創造者、新しい未知の世界の開拓者、価値の体系の組み換え者の側にはなく、一文明の最高の保守の側にあった」と喝破している。若冲のアバンギャルドはいかにも旦那然とした風貌の蒹葭堂の御気には召さなかったようだ。
 蒹葭堂は喧嘩堂と音は同じだが若いころは過激な反体制運動などにも関わったが、家業は造り酒屋、病弱で若くして隠居、道楽で膨大な博物コレクションを成したように見えるが、楽隠居後は本家からの年30両の援助で妻妾、娘、奴婢の5人家族を養いながらやりくり算段した。芥川龍之介の試算に従えば、当時の30両は今で言えば、せいぜい年収300万円くらいらしい。それならば私にも蒐集できると考えるのは浅はかで、実際はフィクサー的な仕事で膨大なコミッションを得て、それで蒐集したらしい。私の木村蒹葭堂への憧れを加藤周一先生から「財力が問題だな」と言われたことは前にも書いた。その通り。中村真一郎が見事にブルジュア蒹葭堂の謎を解いて見せている。

島田喧嘩堂のサロン

 私が木村蒹葭堂に興味を持っていてサロンを運営しているのを知った詩人の伊勢田史郎さんが愛蔵の蒹葭堂の描いた掛軸を私に贈って下さった。震災で一部を破損していたのを補修し軸装を新しくし大切にしています。
 軸には
  清々首陽節楚々江魂 乙卯秋七月寫手手閑月軒 浪華 木孔恭
 とあり、軸寸法:67×203cm 画寸:54×134cm です。
 ここにある乙卯七月は寛政7年(1795年)7月。この時、蒹葭堂60才で、67歳で亡くなる晩年の作ということになる。
彼の絵の世間での評価は概ねアマチュア扱いですが、中村真一郎はその画面について「師、大雅のような必死な修行のあともなく、蕪村の俳味による新風への野心もない。師のあとを忠実に追って、文人の正統を守ろうという謙遜が、画面に漂う春風駘蕩の趣は、画壇に抜きん出ようという覇気のないだけに、後世の私達に静かな“生きる喜び ジョワ・ド・ヴィーブル”に涵(ひた)らせてくれる貴重な存在である」と書いています。
 この蒹葭堂の軸は10月23日の上方落語「島田亭」でご披露いたします。

(つづく)

2007.8 「動植綵絵の感動」

「動植綵絵の感動」

- 伊藤若冲 動植綵絵について 2回に分けて掲載 -

余りに強烈な印象が未だに余韻を引いています。たぶん私は今生で再び見ることはない貴重な機会でした。京都・相国寺・承天閣美術館で開基足利義満600年記念として開催された「若冲展 釈迦三尊像と動植綵絵120年ぶりの再会」展のことです。大変話題になったので、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。
 私は幸い展覧会終了後にゆっくりと拝観する機会を頂きました。近づいて目を皿のようにし、引いて全体を眺め、再び仔細に眺めながら一点一点拝礼してしまいました。「釈迦三尊」の大幅を正面に、両側に15幅ずつ、すべて対になっているのですが、43才から54才まで12年もかかって完成した動植綵絵、最初から全体が構想されていたのだろうか?と不思議に思い、また余りに会場構成が完璧なのもかえって謎でした。後から図録を読み、関係者からお話を聞きました。当初は対では考えていなくて、水墨画も含まれていた。最終的には対で構成されたようです。
 全体が33幅で構成されていることも重要な意味がありそうです。三十三間堂が本道の柱間が33あることは良く知られていますが、その33は「法華経」にある観音様が33の姿に変じて衆生を救うという「33応身」に依っているようです。そして動植綵絵を寄進した明和7年(1770年)は若冲の父の三十三回忌の年でもあったのですね。実に周到ですね。

若冲の天

廃仏毀釈の大きな波に飲まれて窮乏した相国寺が寺宝だった「動植綵絵」を皇室に献上したのは明治22年(1889年)3月。それに対し金1万円が下賜され、それが相国寺を救ったのでした。「釈迦」と「綵絵」が120年ぶりに再会したのです。そしてその再会を果たすために25年前に有馬頼底さん(管長:当時文化部長)が承天閣美術館を用意したのだそうです。
若冲の名前は彼と親しかった相国寺第113世、黄檗僧大典顕常(だいてんけんじょう)によるが、その由来は大盈(ダイエイ)は冲(ムナ)しきが若(ゴト)きも、其の用は窮(キワ)まらず大きく満ちているものは何もないように見えるが、その働きは窮めることができない絵のほかは何も出来ないという若冲の天才を的確にいい当てています。
動植綵絵はどれも素晴らしい、とりわけ精緻を尽くした鶏群像に見とれますが、わたしは地味系の百足や毛虫、お玉杓子などを描いた「池辺群虫図」や「蓮池遊魚図」に惹かれます。山川草木悉皆成仏(みんな仏さんだ)を感じます。

若冲はミケランジェロ

別室には鹿苑寺大書院障壁画や墨による作品の数々がゆっくりと見られます。鹿苑寺とは金閣寺のことで足利将軍家ゆかり寺、そこの大書院の障壁画を若冲が任せられたわけで家人は「若冲はミケランジェロね」と穿ったことを言います。教皇ユリウス2世にシスティーナ礼拝堂の天上画を任せられたことに重ねているのです。なるほど。そして二人とも当時としては驚くほど長命。
若冲85歳、ミケランジェロ89歳。そういえば北斎も89歳。北斎が「画狂人」なら若冲は「画遊人」ミケランジェロは「画聖人」ですね。
若冲は「余白恐怖症」と思うくらい過剰なまでに絵で埋め尽くしていますがミケランジェロの天上画も同じことを感じます。さらに牽強付会(むりにこじつける)すれば、驚くことに「天地創造」も33に分割された画面から構成されており、描かれた面積も40m×13m=52㎡とほぼ同じなのですね。時代を300年へだてたなんたる付会!!

売茶翁が好き

売茶翁高遊外の筆による一行書が掛かっていました。「丹青活手妙通神」とある。丹青とは色彩のことで、若冲の技は神に通ずると激賞している。
私は売茶翁のことは中村真一郎の「木村蒹葭堂のサロン」で、ユニークな名前とエピソードで良く覚えていたのです。売茶翁はもともと僧侶ですが『対客言志』一篇を書いて、脱禅宣言。名も高遊外というふうに変え、遷か(せんか)という茶具を入れる担い篭を担いで茶を売って飢えをしのいだ。そこには「茶銭は黄金百鎰(一鎰は二十両)、半文銭まではくれ次第、ただ呑みも勝手、ただよりはまけ申さず」と貼り紙をしていた。その姿勢は痛快きわまりない。憧れますね。翁は八十一歳でこの売茶の生活を打ち切ります。
この際、長年用い歩いた遷かを焼き捨てます。しかし、茶具の一部は親交の厚かった蒹葭堂(けんかどう)に譲り、「売茶翁茶具図」として世に残されています。こうして道具を火葬に付した翁は、九年後に命が尽きました。
蒹葭堂が譲り受けた茶具を私は2003年の「なにわ 知の巨人 木村蒹葭堂」(大阪歴史博物館)で見たのです。
しかも迂闊にも売茶翁像が2幅かかっていてそれが伊藤若冲筆のものとは知りませんでした。
 一方、若冲も居士(在家の禅の修行者)として地位や金銭には恬淡としていて『斗米翁』と名乗り、作品一点を米一斗と交換した。尊敬する売茶翁に倣ってのことだ。彼等と親しかっ大典和尚との三人の交わりのなんと美しいことか。

2007.7 「家を作る」

「家を作る」

李(すもも)の木が珍しく実をつけている。そういえば春先の白い清楚な花も心なしか、いつもよりさかんだった気がします。庭では見上げ、朝、2階の雨戸を開ける時には見下ろすように日々、共にあった李ともまもなくお別れかと思うとなにやら愛しいものです。
この木は、鷹取にあった種苗屋から買ったもので、樹齢30年。今は盛りのころは、毎日、笊(ざる)一杯の酢桃の収穫があってご近所に配ったものです。しかし花が咲き、実をつけるまでに盛大に毛虫がつき、耳のいい家人によるとばりばりと葉を食べる音が聞こえるというほどでした。
しかし、ここ7,8年はすっかり勢いを失くし実をつけることもありませんでした。それが最後の時に数十個の実を結ぶとは。「李下に冠を正さず」という言葉がありますが疑われやすい行動はしないほうがよいとの意であり、花言葉の「清楚・独立」も気に入っていたのですが。
 庭の隅にある楓は父が贈ってくれたもので紅葉もきれいですが、春に梢に小さな赤い2つの花弁をもった花を咲かせるのも楽しみでした。先日、京都で伊藤若冲の「動植綵絵」の感動かかえて立ち寄った永観堂の楓がそうでした。
 高取山の中腹にあるここへ越してきたころはまだ地下鉄も開通していなくて、家にも車もなく、やたら不便なところで、自分たちの財力で購える一戸立ちの家というだけで移ってきたようなものです。余りに不便で免許のない、そしてとる気もない私に代わって家人が免許をとってなんとか暮らせるようになったのです。その車とももうすぐお別れです。
 老朽化で、二階の書斎を1階の応接間に移したいと思って住宅設計をしている次男の陽に依頼をしたのが3年以上前のことです。そしていずれはマンション住まいと考えていました。ところが北野“うろこの館”の隣に陽が設計したU邸が完成し、これがちょっとした話題になりました。そして偶然にU邸を30mほど下ったところに小さな変な土地を見つけてしまったのです。書斎を作り、いずれマンションを買うのなら、一気に家を作ろうとなりました。それから既に2年半がたちました。遅れに遅れた設計がようやく固まりつつあります。年は越さず李ともお別れしなければなりません。

棟方志功の手紙 その3

1967年、日展に審査任命を受け志功は、美神ヴェナスを中心としたパレスという美神審査の板画を創ります。パレスとは「巴礼寿の審判の柵」として第10回日展に出品。のちに「審判の柵」と改題された、137.3cm×105.3cmの大作です。それは裸身の美神三人を板画したのです。この作品のために、立っている正面、横座している立て膝している正面、かくしどころがかすかに見える様なポーズでMさんの写真を撮ってくれるように懇願するのです。Mさんの美事魅満の圧力と美はリューベンスの様に、ゴヤのモデルに負けないと讃えるのです。 1967年10月、棟方はアメリカのクリーブランド市のメイ・カンパニー主催による「棟方志功板画屏風形体ワンマンショー」のため渡米。続いてニューヨークのブルックリン美術館、ワシントンのスミソニアン美術館に巡回。翌年1月末に帰国しています。 この旅行中の手紙にすでに ’70年大阪万博へMの写真によるいろいろな肢体で構成し「神々より人類へ」と題名で「坤の柵」という八曲一双の大屏風の構想をスケッチを交えて開陳しています。この作品は予定通り万博日本民藝館に縦2.4m、横13.5mの大作として展示されますが、この作品は ’63年に倉敷市国際ホテルの大板壁画「乾坤頌 人類より神々へ」(栄航の柵、慈航の柵)と対になる作品と思われます。棟方板画には複数製作という観念がなく、する度に新しい作品の命を与えられ、日本万博への構想のなかで、この作品が「大世界の柵 人類から神々へ 坤」と改題され、手紙にある新作が「大世界の柵 神々より人類へ 乾」とされたと思われます。この板画はベートーベンの第九、それから熱情、皇帝等の韻律を裸体の中に響かせ、神々の芸術への讃歌を板画化したのです。15人ばかりの群像です。私の手もとの画集「棟方志功板業集」(朝日新聞社)の図版が不鮮明で詳細を対比できないのが残念です。
最高のモデルMさんのポーズ写真を手に入れるために奥様の千哉(ちや)さんの焼餅を恐れ、複雑な経路を通じて拝み倒すような手紙をスケッチを交え次々に書いていく様は志功の面目に溢れまことに貴重な証言です。このとき志功67才。それから5年後 ’75年9月13日、72歳の生涯を閉じられました。
 これらの秘匿されてきた手紙は、いずれ近いうちに親族か研究者の手によって明らかにされるはずです。私のようなものが半端に紹介することは慎むべきだと思い輪郭のみを記しました。(完)

2007.6 「この国ももう終わりだな」

この国ももう終わりだな

 3月にグランドオープンしたばかりの六本木「東京ミッドタウン」で友人と待ち合わせた。
大学のクラブ活動時代のぼくの右腕は社会に出て成功、財界の中枢周辺にいた。ここは防衛庁跡地、六本木ヒルズから徒歩10分。隈健吾設計のサントリー美術館があり、近くに黒川紀章設計の新国立美術館が出来た。ウィークデーにも拘わらずごったかえすミッドタウンで携帯で探しあってようやく御互いを発見したとき彼がつぶやいた。「この国ももう終わりだな」。高級店がならび高いレストランも全て満席である。ビルの高さが247mという。
4月27日には新丸ビル198mが完成するという。新富裕層目当ての商売が盛んである。
 世界中の都市で超高層建築が競って建てられブランドが席捲してゆく。欲望資本主義は止まるところを知らない。首相が唱える「美しい国」は政治家を筆頭とする「美しくない姿」を露呈し続け「バベルの塔」を立ち上げることに疑問をもたない。別に天罰をいうまでもなく自壊する以外に道はない。自分の時代には無いと根拠もなく信じようとしているだけである。飽食を尽くせば即座にメタボリックが警告しブレーキがかかるのに、消費への警報器は壊れたままで推進エンジンばかりなのだ。腹囲85cmを測定警告するなら年収によってイエロー、レッドカードを出そう。明日への希望もなく行き暮れる人は見えず、消費を支える闇をも知らないふりをする。「格差」をいえば世界には驚くべき「格差」が存在し、個人の努力と無関係に固定されている。一日1ドル以下で暮らす人が10億人も世界に存在する。バブル経験に学ばず、いま銀行に掲げられている標語は「貯蓄から投資へ」。額に汗して働かずに「儲ける」ことを奨励する社会にまともな人間は存在しなくなり自壊していくのは理の当然であり、事実、そのように癌は進行しているのである。技術の粋を尽くして耐震し警備しようがぼくにはNYや六本木の摩天楼は蜃気楼だ。
 私自身の「欲望」を隠すわけではない。自覚しながら自分の生き方を探せば、時代に違和感を感ぜずにおれません。「希望にむかって希望もなく」です。

最近のギャラリー事情

 「ギャラリー島田がどうして存続しているのか不思議でならない。展覧会で、売約も滅多に見ない。よほどの資産家ではないか?」などと勘ぐられる。売りにくい作家を売る、画商冥利とも言えます。でもいつも刃の上を歩いているような綱渡りであるのも確かです。まあ、スタッフ全員がこの仕事大好きだからやれているのですね。
 でも最近は大きなアートプロジェクトに関わる機会が増えました。モニュメントの建設や事業所全体のアートプロデュース、今、進行中なのが彫刻庭園です。十数体のオブジェを配する庭園です。初めての経験でワクワクします。高沢君というスタッフが増えたのですが忙しさは変わらず、プレッシャーはかえって強くなっています。

「文化集合住宅」の設計図

 前号で書いた(公)亀井純子文化基金を発展させて「文化集合住宅」を造るという案は公益信託を巡る現実の壁に苦慮しています。しかし来年には財団法人の設立に関する法改正が実現するそうで、せっかちの私は設計図第一案を描いてみました。アート・サポートセンター神戸の中に「神戸文化支援準備基金」を設けて毎年100万円を積み立て10年で1千万円とし、亀井基金と並ぶ柱とします。これから運営委員会で相談しますが、二つの基金を合わせて現在100万円/年の助成を150万円/年として助成活動を充実できることを願っています。(公)亀井純子文化基金の2007年度の助成事業が決定しました。あわせて亀井健理事長の逝去をうけて後任を私が務めることとなりました。肩書きゼロを貫いてきたのですが、基金誕生に経緯から受けさせていただきました。神戸文化を豊かなものにするよう一層の努力をいたします。

棟方志功とモデル 第2回

 棟方さんがモデルにと恋焦がれた女性のことは1965年秋ころの手紙から登場する。ちなみに使用されている原稿用紙に「胸肩画寓箋」と印刷されているのも面白い。モデルの写真も見せていただいたがまさに棟方さんの「弁財天妃の柵」が抜け出してきたような豊満なご夫人(Mさんと記す)である。民藝関係の集まりで出会ってすでにサンパウロ・ビエンナーレやヴェネチア・ビエンナーレなどで最高賞、大賞を受賞していた氏にMさんがお手紙を出し、徐々に人を介して棟方さんがMさんの写真を所望するようになっていきます。
 ちなみに棟方作品の題にある「柵」とは八十八寺に遍路の人が札をおさめて行くように、棟方も作品を、どこまでも続く札柵として納めていくという意味です。
 4月8日の日本経済新聞に美の美「画家と文豪」に谷崎潤一郎と棟方の「鍵」を巡る話が特集されていています。性的な享楽に溺れる官能性たっぷりな小説に触発されて傑作を生みだしたのですが、当時、谷崎は熱海、志功は東京・荻窪にいて1回ごとに会って仔細に内容を聞き構想を練ったほど力が入っていました。時に53歳、谷崎は70歳でした。女人が棟方の創造の源泉であったことは次の文からも良く分かります。

女体をくまなく
 私の作品は、よく、宗教的だとか、仏教的だとかいわれていますが、こういうまっぱだかの女体を板画にするときは。女のあるところは何でもかんでも、一糸まとわぬところまで。彫ってしまうんです。そして、あんまりそういうところが出すぎた場合は、それをあとで、裏からまぶして消すのです。しかし一回は必ず、全部出してもらうのです。想いや、心に嘘を吐きたくないのです。それで、あるモノを出すのです。(板極道 昭和39年)と書いた志功が新しいモデルに出会ったのです。
弁財天との出会い
 棟方の「女人観世音板画巻」12図(1949年)のモデルは岡本かの子の詩
    ぼさつ ぼさつ 観世
    千変万化
    融通無碍もて世を救う
    女人われこそ観世音
に感泣しての制作であった。この作品が棟方を世界に出してゆく。スイスのルガノ国際版画展で駒井哲郎とともに優秀賞を授与される。
 岡本かの子は1939年に50才で亡くなっているので、この板画は、この詩に触発された棟方の想像力による菩薩である。ちなみに棟方独特の、柔らかい味わいをだす裏彩色による技法がうみだされたのは1938年(35才)の「観音経板画巻」35柵からである。
18年で「鍵」、さらにそれから7年で弁財天(学問・芸術の女神)と出会った。
 信頼できる二人の知人を介して美しい弁天様(Mさん)の写真を手に入れ小躍りした志功は、さらにうすものを纏った写真を所望するのです。(つづく)

2007.5 「辛夷(こぶし)の別れ」

辛夷(こぶし)の別れ

 3月15日午後4時23分。懼れていたことが現実になった。亀井健さんが亡くなった。61才。覚悟はしていましたが、残念です。
3月17日(土)、住吉本山会館で11時から行われたご葬儀に、30分ほど早く行って健さんの写真と対話しました。
最後にお会いしたのは、1月でした。うっすらと額に汗をにじませて「新神戸駅から山際を歩いてきました、運動のためにね」と変わらぬ口調で話し、治療の状況について語ってくれました。奥様の久仁子さんは「その頃は腰に痛みを抱え、足も痛かったと思います」など亡くなられた時の状況を話してくれました。
暖冬といいながら、ここ数日は寒さが戻り、風は冷たかったですが空は晴れ渡り、春を孕んだ光が背中を暖め、静かな気が支配したお別れでした。帰り道に咲いていた春の訪れを告げる清楚な辛夷(こぶし)が健さんの姿に重なりました。前触れもなく一夜にして咲く辛夷となって私に別れを告げたように感じました。
寒かったので、暖かいものをと飛び込んだ食堂。ああ、そうだ「死ぬということは食べられないことなんだ、健さんはもう食べられないのだ」と思うと、急に不在が確かなのものになり、しんみりしてしまいました。すでに彼より3年も長生きしているのですから3000回は余計に食事をしているんだ、などと馬鹿なことを考え、箸がとまりました。

亀井さんとの出会い

亀井さんとのお付き合いのはじまりは1本の電話でした。亀井純子(前夫人)さんの1周忌を前に「ちょっと、ご相談したいことがある」と健さんが訪ねて来られたのは1991年2月でした。「純子が残した1千万円を、若い芸術家たちの活動を支援するために役立てて下さい」と突然切り出されたのです。失礼にも「保険金ですか?」と聞くと「いいぇ。純子が自分で貯めたお金です」と答えられました。
純子さんは、生前、神戸にあったオランダ領事館で働いておられ、オランダの画家や音楽家を神戸で紹介する文化交流でお付き合いがありましたが、無念にも前年の5月に40才の若さで亡くなられたのです。心も姿も美しい方でした。
純子さんがふっと消えてしまった前の年に私は体調不良に陥り7月27日に「脳脊髄鞘腫」という難病の手術を受けました。1ヶ月後にはギャラリーへ復帰。その時の展覧会が私の病のために延期されていたオランダの画家ファステンハウトさんの個展でした。オープニングは画廊のリニューアルとともに祝祭の気分に溢れ、純子さんもとても喜んでくれました。
その気分を壊さぬようにそっと「まもなく入院します」と告げられたのです。訃報に接したときの心の痛みが蘇ってきます。その時、すでに助からぬことを秘めていたのだという確信が私を責めました。闘病5年、最初のお出会いの時には既に病を得ておられたのです。
 私が純子さんと共に仕事をした時間は20時間にも満たない気がします。健さんとは挨拶を交わした程度でしたが、大きなお金を私に託されました。そのことが、それからの私の16年の日々を導いたとも感じられます。

魂から魂 基金の誕生

健さんの申し出にどう応えるか自問が続きました。お金ではなく「遺志(魂)」を受け継ぐというのが私の結論でした。純子さんの1周忌である5月26日に基金をつくる準備会をはじめました。ここから公益信託が出来るまでが大変でした。全国でも珍しいちっぽけな草の根基金。いずれ消滅するだろうと言われて今年で15周年を迎えます。文化助成の公益信託は例が無いうえに確実に資金を集め活動を維持しているのも稀だそうです。
現在の基金残高が1千3百万円。15年間の助成実績が1千5百万円になります。すなわち1千8百万円はあとからいただいたものです。ありがたいことです。
「魂から魂へ」という言葉が浮かんだとたんに、若き日(’63年)にグリ―クラブで指揮した大手拓次の詩(清水脩曲)のエンディングフレーズが頭の中で鳴り響きはじめ驚きました。40年以上、まったく忘れ去っていたのに。
その詩の最後は次のようです。

わたしは日のはなのなかにいる
わたしはおもいもなく
時(とき)のながれにしたがって
とおい とおい
あなたのことに おぼれている
あるときは ややうすらぐようにおもうけれど
それは とおりゆく 昨日のけはいで
まことは まことは いつの世に消えるともない
たましいから たましいへ つながってゆく
しろい しろい 火の姿である

魂から魂へとつながっていく「新しい灯火」であるこの基金は多くの方に支えられ、助成された約80件の事業の先には多くのアーティストやその活動に接した人たちの火の姿であるのです。

文化集合住宅へ

 基金を立ち上げて10年で事務局長を中島淳さんに引き受けて頂きました。そして15周年を迎えるにあたって、何時来るかもしれない自らの幕引きを考えて、この基金を更に充実発展させて森や林とはいかなくとも大きな木に育てたいと運営委員会で設計図を描く試みを始めた矢先でした。新しい基金構想についても「島田さんが前から言っておられたことですから」と賛意を表してくれ病床で考えを纏めると聞いていました。行政や企業にたよることない個々の志が文化を支える。集合住宅「志」の各部屋に亀井とか島田とか何々さんとかの表札があがり、それぞれに支えたい目的が明示されているとういような構想です。高層とは遠く、マンションまでもいきません。
まさに「文化集合住宅」なのです。

現代の神様

宮城まり子さん(「ねむの木学園」園長)が、3月24日の日経新聞の「私の履歴書」に「現代の神様」のタイトルで書いていました。
 学園を設立して、その資金に窮していた時、突然、ホテルを訪ねてこられた作業着姿のおじさんが、家内と娘と相談してと出された封筒に1500万円の小切手が入っていたという。「昔の神様と違って、現代の神様は作業着を着てこの世に出ていらっしゃるのだな、そう思いながら後ろ姿を見送りました」約40年前のことです。
「魂」という「火の姿」が受け継がれて、人の根っこのところを少しずつ揺さぶって、感性を、時間や自然や思索や笑顔を取り戻してゆく様は「希望なき時代の希望」です。
一人の女性が播いた種が、こうした実を結んだとしたら、私も種を播こう、皆さんと力を合わせて、一緒に蒔こう。

2007.4 「棟方志功の手紙」

棟方志功の手紙

 何故か私が求めるわけではないのに作家にとって極めて重要な資料が集まってくる。その都度、最適な保存を考えている。私は研究者でも蒐集家でもないし、私自身がいつどうなるか知れないから。あるべきものをあるべきところへ。
 知人から棟方志功の創造の秘密を解く重要な手紙を多数見せて頂き、許可を得てコピーさせて頂きました。現存する方への配慮から秘匿されていたものです。63才から1975年9月13日72才で亡くなるまでの志功晩年の豊饒優艶な女人像の誕生の陰にあったモデルとの出会い。あの板画に彫刻されたとおりの文字が躍り、ときに彩色され時に描画された手紙は、「モデルを描きたい」という思いが水盤から溢れる水の奔流のようであり、それが木洩れ陽できらきら輝いているのです。 過去の棟方研究からも完全に抜け落ちている貴重な資料です。いま棟方志功の様々な資料とつき合わせをして楽しんでいますが、許可を頂ければ順次、私見を交えながら紹介したいと思っています。画家にとってモデルは想像力の源であり、その出会いは決定的です。たとえば鉛筆画の木下晋さんと瞽女の小林ハルさん、エコールドパリの画家たちとキキ。ピカソ、ムンク、クリムト、モリジアニ。ロダンとカミーユ・クローデル。ギャラリー島田のサロンで故・山本芳樹さんに竹久夢二、責め絵の伊藤晴雨、洋画の藤島武二の3人の天才が愛した伝説のモデル・お葉の話をして頂いたことを思いだします。
棟方さん独特の字で判読しづらい、意味の分かりにくいところがありますが人間味に溢れ、わくわくします。決して志功像を損ねるのもではありません。秘匿されてきたのは奥様の千哉(ちや)さんの焼餅を恐れ、また棟方がよく知る人の妻である方に迷惑がかかることを懼れたからでもあります。「女の方の名前だとツノを出して困りますから」(1966-4-20)と書いています。ちなみに使用されている原稿用紙に「胸肩画寓箋」と印刷されているのも面白い。(続)

泣き虫蝙蝠

 中村勘三郎・襲名披露公演を2時間のドキュメントにしたTVが3月9日にありました。いい番組でした。私は昨年12月27日の京都南座で千秋楽の夜の部の感動的な口上を聞きました。でもTVで紹介されていた家族の一員であった老歌舞伎役者、中村源左衛門の無念の死の背景など知る由もなく、また3階席では、息子の勘太郎、七之助など俯いた役者の瞼から滴り落ちる涙までは見えませんでした。でも、どれもが魂の入ったもので、TVを見ながら泣いていました。

2007.3「いざ、NYへ・・・」

昨年末から忙しく旅をした。「忙中旅」が「旅中仕事あり」になってしまった。その最初NYへの旅です。

「いざ、NYへ・・・」

 12月28日(昨年末)、朝4時半に起床。タクシーで三宮、そして空港バスで伊丹へ。成田経由でNYへ旅立ちました。関空からNYへの直行便がなく、前回はダラス経由で危うく乗り継ぎに失敗するところだったので今回は直行便にしたのです。入国審査にもなれて朝10時に迎えに来てくれた剛(長男)と響子(4歳半)と1年ぶりの対面。時差を解消するには、ともかく現地時間に合わせて行動すること中途半端に寝ないこと。7月に生まれた英里夏とは初対面。ともかく機嫌のいい子で、よく笑うし、外出・外食にも連れ出すが全く手がかからないのに驚いた。響子は、すっかりおしゃまになってバレーを習うといっては踊って見せる。誰の血筋か、そうとうに目立ちたがりだ。ギャラリーや美術館にはずっと付いて来るし、オペラ「魔笛」の筋は良く知っていて「夜の女王のアリア」は口ずさむことが出来る。
昼から早速、マンハッタンのギャラリー散歩。各フロアーに画廊が入居しているビルが数棟あり、どれもが良質な現代美術系。5番街の一階のスペースには観光客向けのギャラリーもあるのですが、欧米では日本のようにアマチュアが画廊を占拠していることはないのです。あっても、それはアジア系のオーナによるアジアのアーティストのものが多いようです。
 今年のNYは昨年と打って変わって暖冬、変です。

名倉誠人君と会う

29日、午前中はMoMa(NY近代美術館)へ。12時半にマリンバの名倉誠人君とお母様の北村さんとロビーで落ち合って、我々と6名とで昼食。中華。名倉君とは話し足りないので3時にホテルのカフェで再会。名倉誠人君は若い演奏家を世に送り出すことで知られるプロの組織、アメリカのヤング・コンサート・アーティスツに、史上初めてマリンバ奏者として見出された。若手作曲家の音楽に深く傾倒し、これまでに、彼のために多くの作品が書かれ、重要なレパートリーとして蓄積されてきている。マリンバという楽器の先駆者なのです。今もロックフェラー財団の助成を受けてCarlos Sanchezがマリンバとピアノとオーケストラのためのコンチェルトを作曲中で、明日カルロスと会うと言っていました。いつも彼と話し合うのは「現代」と向き合って創造することの困難さ、とりわけ日本でのことです。名倉君と神戸で、そうした保守性を打破する面白い企画を是非とも実現したいと相談したのです。現代美術と現代音楽との生き生きとしたコラボレーションが出来ないだろうか。名倉君には「デ・クーニングに捧ぐ」という曲もあるし。

僕たちはまた落ち合ってメトロポリタン美術館へ。

 19世紀末から20世紀前半に活躍したフランスの画商Ambroise Vollard(1866-1939)に焦点をあてた特別展がとても良かった。なかでもセザンヌ。セザンヌにも凡庸に見える作品がありますがこの作品群を見て「説明なしの美しさ」を感じました。過去、ヴォラールが世に出したセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マチス、ピカソなど、その慧眼ぶりには改めて脱帽です。
ボストン美術館にある自殺を決意したゴーギャンの「我々は何処からきたのか、何処にいるのか、我々は何処へ行くのか?」という作品も初めて見ました。そして晩年のルノワールがリュウマチで手の自由が利かなくなった右手に絵筆を縛りつけて描いている短い映像が流れていたのですが、その執念に何度も見入ってしまいました。名倉君との話にも関連するのですが、ヴォラールが世に出した画家たちも当時においての「現代美術」に他ならないのです。
30日はSOHOをぶらついて5時に川島猛先生のお宅へ。昨年に続いての訪問です。NYで久しぶりに個展をされ、これが好評でNYタイムズのトップページにカラーで大きく紹介され、今日届いたばかりのアート・マガジンにもカラーで評が掲載され、先生も喜んでおられました。先生は79才のはずですが、全く変わらない元気さに驚いてしまいます。昨年と同じチャイナタウンの美味しい中華で孫も交えて食事です。ここは池田満寿夫さんと良く来られたそうです。来年の30周年に個展をお願いしてきました。

イサム・ノグチ美術館

 31日、ロングアイランドにあるイサム・ノグチ美術館へ。
独創性に溢れた作品をじっくり見て、今、私が取り組もうとしているプロジェクトのことをずっと考えていました。彼と私が大好きな建築家、谷口吉生の父、谷口吉郎氏が深く関わった慶應義塾の建築「新萬来舎」の写真展も興味を引きました。名称のごとく「千客萬来、来る者はこばまず、去る者は追わず、今の言葉で一言えば、広く識見を求めようとする対話の場所」として二人が力を注いだ名作です。
イサム・ノグチのミステリアスな人生は劇的なもので、それが氏の独創性に火をつけたことも確かです。18年前の12月30日にここで亡くなっています。享年84歳。札幌にあるモエレ沼公園は氏の構想が死後17年で実現したものです。是非、観てみたいですね。夜はカウントダウンへ。今年は暖かく、盛り上がっていました。

2007年の幕開けは「魔笛」

 1月1日、お餅で朝食。17時に名倉君とイタリアンでディナー。歩いて5分のメトロポリタン・オペラ(メト)へ。
今回の「魔笛」は一寸変っていて、ミュージカル「ライオン・キング」で有名なジュリー・ティモアによる非常にカラフルな演出。鳥が空を舞い熊が踊り夜の女王が星に包まれる幻想的で美しい舞台でした。でも楽しみにしていた指揮者のジェームス・レバインは病気と怪我でスコット・ベルゲソンが振りました。レバインが駄目かもしれないというのは佐渡裕(兵庫県芸文センター指揮者)さんから聞いていました。この「魔笛」のミュージカル化はメトの財政難、聴衆の高齢化と関わる商業主義の結果で、この公演が世界中の劇場で映像を通じてオペラを見ることが出来たのです。でも、そのことで「魔笛」の精髄、とりわけ後半のフリーメーソン的世界観へと深まってゆくところが、希薄になってしまいました。
 1月2日、剛と響子は昨日に続いて「魔笛」。メト初のホリディ・ファミリー・オペラとして詩人マッククラッチィ新訳によるもので休憩なし、100分間のコンパクトに改変された英語バージョンで、初心者や子供向けにも、分かり易く、一挙にオペラを楽しめたそうです。

チェルシーにて

 チェルシーのギャラリーを散歩。Gagosian,Mary Boonenなどの大手は昨年に続き休み。でもこの時期でも結構、見ることができました。全体的な心象は「具象回帰」です。海外では日本と違って貸し画廊はほとんど無いのですが、これだけの良質な画廊がどのようにして存在しうるのか、ギャラリー島田が存在しているのと同じく謎です。
Galeria Ramis Barquetに入った時、ずらっと並んだ大作に「いいな」と感じたのですが、バルセロナのJoan Hernandez Pijuan(ピュハン)の展覧会でした。10数年前にバルセロナで個展を見て、気に入って小品を買い、その時、画家と一緒に写真*を撮ったのでした。
今回のは大作ですが1000万円から1500万円もしてました。
夜は再びオペラ。ベルカント・オペラの最高峰といわれ、曲の美しさで世に名高いベッリーニの傑作「清教徒」です。超絶的な技巧、演技が求められることから、顔ぶれがそろわないとなかなか上演されない演目です。 今回はその美貌と歌唱力で評判のアンナ・ネトレプコが、ヒロイン・エルヴィラを歌うのが大きな話題。演出:サンドロ・セキ、出演:アンナ・ネトレプコ(エルヴィラ)、エリック・カトラー(アルトゥーロ)、フランコ・バッサルロ(リッカルド)など。 ベッリーニといえば「狂乱の場」なのですがネトレプコはさすがに見せて聞かせます。最初の最高音をちょっとミスしましたが、往年のカラスやテバルディのカリスマはまだ足りないにしても聴衆をおおいに沸かせました。彼女が出るものはチケットが完売だと聞きました。
4日、帰国の途へ。日本へは5日朝帰着。

不都合な真実

多分、NYでの仕事を終えた息子家族がいなくなれば、もうNYへ行く事はないでしょう。アートシーンは刺激的であっても、余りにも何もかもが過剰で、地球的文明の破壊ロケットの弾頭に座っているような居心地の悪い熱狂への違和感を短期であっても感じてしまいます。ゴアの「不都合な真実」が話題になり、環境問題が一挙にクローズアップされてきました。でも、遅きに失しているでしょう。焼け石に水とはいえ自分に出来ることをやりきることです。ギャラリーの空調を省エネタイプに変え、今年中に車を使うことを止めます。
予定通り北野に家が建てばですが…….

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