2006.9 「忙中旅ありフランス編 2006」

「忙中旅ありフランス編 2006」

彼方へと消え行く音

 旅先で眠れない夜、窓をあけて空を見上げる。パリでは灯りの消えたエッフェル塔の左側、50㎝(そう見えた)に赤みを帯びた満月があった。
小さなウォークマンでベートーヴェンの初期の弦楽四重奏(ウィーン・アルバン・ベルクSQ)を聴く。このカルテットが好きで、何度目かのパリに来た時、シャンゼリゼ劇場でモーツァルト、ラヴェル、ドビュッシーを聴いた。
イヤホンから流れてくる音に自然に体が手が反応する。アダージョ。なんという優しさ美しさだろう。私は4つの旋律すべてに集中し体ごと流れに入る。18才くらいから20年ほど合唱の指揮をしていた私にとって音楽を聴くことは体で受け止め表現することと分かちがたくなってしまっている。
音楽とは呼吸であり空間把握である。指揮することはほとんど呼吸をコントロールすることである。大きく吸い込む、小さく、あるいは深く、浅く、瞬時に、断続的に。消えていく音(dimディミュネンド)が大切で、ここでたいてい技術があるかないか、心がこもっているかどうかが分かる。そしてぼくは自分が求める音を探してメロディーラインや内声部から低音部まで集中しきって聴き取り体が反応する。ベートーヴェンの音楽が満腔の空へ広がり彼方へと(Ueber Sternen)消え去っていく。言葉で表せないからこそ至純の音がある。ロマンティックな臆面もない心情吐露にぼくの心も鷲掴みにされる。ベートーヴェンが泣き、演奏者が泣いている。ぼくのブレスも大きく深くなり、ゆっくりとディミュネンドしてゆく。

ドニゼッティとモーツァルト

 日本からオペラを予約した。インターネットでバスティーユのオペラ座での公演を調べるとドニゼッティの「愛の妙薬」しかない。この中のリリック(抒情的)なテノールが歌うアリア「人知れぬ涙」が有名でフリッチョ・タリアビーニには泣かされた。NHKTVのイタリアオペラ公演で大昔に見たことがある。田舎を舞台にした純情青年と村娘とのハピーエンドオペラで積極的に見たいものではなかったけど前回もここではモダンダンスしか見ていないので、まあいいかとチケットを買った。あまり期待していなかったけど新演出で、人情話風より徹底して喜劇風、スピーディーな展開に客席も大いに盛り上がった。あのアリアなどはやはりタリアビーニの名調子が懐かしいけど、大満足でした。最近はオペラを現代に置き換えての新演出で良くみます。それに合わせて舞台美術、ダンス、衣装なども現代的で、そのオペラが現代に生きる私達に持っている意味を問い直すという点がとても興味があります。しかし、やはり現代の問題に正面から取り組んだ、メトロポリタン(NY)でみた「ヴォッセック」(アルバン・べルク)が忘れられません。
 新オペラ座(バスティーユ)は1989年完成。デザインはカルロス・オット(カナダ)。
その明くる日、サンジェルマン・デュプレ教会でモーツァルトの大ミサ(K427)を聴きました。偶然、前日にこの教会でコンサートを知ってチケットを買ったのでした。モーツァルト生誕250年記念とありました。もともと教会音楽ですので小編成でも十分に堪能しました。ここでもディミュネンドの美しさ。’98のクリスマスのころマドレーヌ寺院でモーツァルトのレクイエムを聴いたときと同じように天国的音楽を教会で聴く喜びを感じました。豊潤な響きが途切れて残響が高い天井へ、あたかも天使が飛び去るように抜けていき、私自身の魂も無重力となり一緒に飛び去っていく。

スーチンの墓参り

 清岡卓行さんの「マロニエの花が言った」に触発されてモンパルナス界隈を二日間ほどそぞろ歩いた。不確かな地図と方向音痴に翻弄されながら。藤田嗣治のころと違ってこのあたりはモンパルナスタワー、中央駅など都市改造が進み風情がなくて、容赦なく注ぐ陽に額を焼かれ、マロニエの木陰で休んだ。神話として記憶されるモデル・キキを中心に毎夜エ・コールド・パリ(パリ派)の芸術家たちが派手に騒ぎ、酒を飲み、様々な出会いと別れがあったカフェに座りました。ヴァヴァン広場(今はパブロ・ピカソ広場)にある「ラ・ロトンド」。通りを隔てて信号を渡ったところに「カフェ・ドーム」、そこから30mほど離れて「ラ・クーポール」。エドガー・キネ大通りの交差点に面して、三つのカフェを見渡しながらビールを飲みました。誰かの旅行記にここで勘定をごまかされた話が書いてありましたが、私はそんなことなかった。今では私達が良く知っている画家や詩人や、写真家、ダンサー、革命家レーニンまでが座っていて、愛情、嫉妬、友情、憎悪が渦まいたカフェも強い日差しの中で息を凝らすように静まっている。マロニエの梢が揺れすぐそばに立つロダンのバルザック像が陽炎のように揺らめいているのを見ながら、遠い日のさざめきでも聞こえないかと放心した。
 私はエ・コールド・パリというよりエコール・ド・ヴィー(いのち派)としての作家に惹かれるのです。才能があるけど「貧にして苦」、だけど燃えるような情熱、生命力をもった作家たち。ギャラリー島田の作家たちのヴィー(いのち派)は少し年をとりすぎた人が多いけれど。
 モンパルナス二日目、駅で翌日、シャルトルへ行く切符をはじめて自動販売機で買う。
そしてメトロで二駅。昨日分かりにくかったモンパルナス墓地はすぐに分かった。入口で地図をもらって入口脇のベンチで広げて見ていると、前を通った人が立ち止まって見ている墓があった。それがサルトルとボーボワールの墓だった。二人の著作をほとんど読んでいないのですが、墓を撫で、手を合わせました。なんたって二人が良く座っていたサンジェルマンのカフェ・マゴにも何度も座ったのですから。さて地図はいいけど、探すのは難儀でした。近くにあるはずなんだけど掃除してる人に聞いてもらちが開かない。結局、セザール(彫刻家)、ブランクーシ(彫刻家)、クララ・ハスキル(ピアニスト)、ユージン・イオネスコ(劇作家)、ガルニエ(建築家)などに参って、最後にシャイム・スーチン(画家)に辿り着きました。その墓は、ゴッホとテオの墓のように簡素なもので、70×140cm位の平らな墓石に花を付けていない緑だけの鉢が5~6個置かれていてそれがなんともスーチンらしいと思って手を合わせたのでした。スーチン(1894-1943)といえばリトアニア生まれ、エコールド・パリを代表する画家の一人で「皮を剥がされた野兎」といった画面にも血が滲むような作品や、ねじりうねるような悲劇的な人物や風景に惹かれる方も多いと思います。藤崎孝敏さんの初期の作品にはスーチンの影響が強く感じられますし、資質的にも通じます。余談ですがアメリカの大コレクターであるバーンズがパリの美術商ポール・ギョームを通じてフランス絵画を集め、1923年に19点のスーチンを購入、彼は一夜にしてモンパルナスのヒーロになったそうです。それで金持ちになるのですが、まだまだ波瀾の生涯が続くのです。墓地の近くのカルティエ現代美術館へ行ってきました。

7月14日は『パリ祭』

 日本ではパリ祭と能天気に呼んでいますがフランス革命記念日です。1789年の7月14日、パリ市民がバスチーユ牢獄を攻撃し、中にいた囚人を解放しました。この後市民階級が形成した国民議会が実権を掌握、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑されました。しかしこの革命も挫折、王政復古となりますが、この革命はアメリカ独立に続いて市民階級の力を誇示するものとなり、絶対君主制の体制が崩れて、民主主義社会へ移行していく先導の役割を果たしたのです。パレードの行われるシャンゼリゼはコンコルド広場から凱旋門のかけての通り、その延長線上に新凱旋門があります。しかし古代エジプトの美しいオベリスクのあるコンコルド(調和)広場はマリー・アントワネットがギロチンにかけられた血塗られた場所。エトワール(星=etoile)凱旋門はナポレオンが建てた戦勝記念門。パリ祭とはこの二つを挟んでの軍事パレードが中心なのでシャンソンだワインだ花火だと浮かれてはいけない。
朝、ホテルで朝食を食べていると目の前に戦車がずらっと並んだのでびっくりした。まだ7時過ぎ。部屋から下を見れば消防隊も行きます。人ごみをさけて私たちはモンパルナス駅から約1時間のシャルトルへ行きました。切符は初挑戦の自動販売機でゲット。
 今回の旅は芸術新潮に特集された中世の美と出会う五日間を参考にしました。シャルトルの大聖堂(ノートルダム)はなんといってもステンドグラスの美しさです。聖書も読まず。西洋史にも疎い「なんとなくキリスト、半分仏教徒」、単なるユマニテの私ですが、各地で見たステンドグラスのなかで明暗の強調された、深みのある、そして過剰なまでの精緻さにおいて、見惚れずにおれない魅力に溢れていました。花壇の花のセンス、教会裏の高台から見たボース平野、休みで入れなかった美術館、小路に入り、阪を下り見つけたウール川は京都の高瀬川を思い出しました。そしてゴシックのお大きなサン=ピエール聖堂。2時に開くと書いてありベンチに寝転んで待ったけど結局開かなかった。カフェで休み、再びノートルダムへ。
 この聖堂の中ほどの白い床に、黒い石を嵌め込むようにして円形の迷路が描かれています。パンフレットには「苦難に満ちた現世での生涯を歩み終えて神の国へ迎えられる喜びを暗示している」とあります。中心部が上がりなのでしょう。最初は観光客や子供が足早に迷路を辿っていましたが、ふと気がつくと背の高い白い洗い晒しのシャツを着た髭を生やした青年が素足で極めてゆっくりと二歩歩み半歩下がる、目はまっすぐ前方を見ながら、一人、この賑わいと隔絶した雰囲気が漂う。すると、周りの人の歩みがみなゆっくりになり、後退しないまでも少し止まるようになった。その青年の面影は小磯良平の「音楽」に見たように思った。1時間ほど外を散歩して戻ると青年は中央の円(双六のあがり)に正座をして祭壇を静かに見つめていた。こんどは清楚な若い女性と子供が従っていた。彼らが発するものが場を次第に包み込みはきめていた。午後4時の陽がステンドグラスを一層鮮やかに染め、東洋からきた異邦人をすらミステリアスにさせた。
 帰りの列車はガラガラでせっかく一等車の切符を買ったのに誰もいないうえに冷房が効かず窓も少ししか開かなかった。パリ祭の花火は22;30頃から、今年はシャイヨー宮から打ち上げられ、ホテルの窓からみるとエッフェル塔の真横に見えた。予算が削減されているという花火は「タマヤー」の華麗さはないがシックだった。

ケ・ブランリ美術館へ

 ホテルで渡邊幹夫さん、野口明美さん、前田隆一君と会う。
渡邊さん、野口さんは今年ギャラリー島田で個展をされ、前田君は12月に1Fdeuxで予定している銅版画家です。家人を交えてランチを食べながら話が弾んだあと、どこへ行こうかということになり、私がどうしても見ておきたい6/23にオープンしたばかりのケ・ブランリ美術館へ。
フランスは歴代の大統領が競って文化施設を作ってきた。ここはシラク肝いりの美術館で「ブランリ河岸通り」というそっけない名前は、いずれ「シラク美術館」と言い換えられるという噂もある。場所はエッフェル塔のすぐそば。よくこんな一等地が残っていたなと思ったけど、渡邊さんの話では、今までここにはグループ展などによく使われていたテント美術館のようなものがあったそうです。近づいていくと巨大な透明ガラスの壁があり、その向こうにカラフルな建物ブロックと緑の植物の群生した壁。その向こうにエッフェル塔が見えます。この建物、昨日、モンパルナスで見たカルティエ現代美術館に似ていると思ったら、おなじ建築家ジャン・ヌーベル氏の手によるものと判明。
 ここのコレクションの9割はフランス国立人類博物館から移されたもの。オセアニア、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ文明の美術品が常時3500点近く展示されている(所蔵作品は30万点を超える)。これらが新しい切り口と斬新な展示によって原初からの人間の独創性の共通性と差異を興味深く見ることが出来る。うち7割がアメリカ(原住民)とアフリカが占め、アジアは目立たない。こうした原始美術が現代のアートに与えた影響なども頭をよぎるけど、まあゆっくりと一巡するだけで2~3時間かかる。途中ではぐれた皆と出口で合流、カフェで再び美術談義。それにしてもパリの文化的蓄積はすさまじいものがありますね。フランスもパリ一極集中なのですね。
 ケ・ブランリ開館でのシラクの高揚した演説「西洋だけが人類の運命を担うという馬鹿げた主張への拒否」は正当なものだしピカソ、モリジアニ、ブランクーシをはじめ多くの芸術家がアフリカから学び、浮世絵はゴッホと同時代の作家に大きな影響を与えたことも良く知られている。ここに集められたものは美術的価値を基準にしたもので、オペラの新演出のように新鮮な切り口で命を蘇らせている。その他の膨大な歴史資料と切り離されていること、そしてフランスの旧植民地との関わりにおいて蒐集されたもので、今後さらに非西洋を網羅したい国際的な美術館として認知されるにはアジアや少数民族などの作品についての蒐集や文明間の衝突や刺激が創造を生み出してきた経緯などの企画展などの展開を見てみたい。

松谷武判さんのアトリエ訪問 リヨン再訪

夕方7時にバスティーユのオペラ座の階段の前で待ち合わせた。まだ午後3時くらいの強烈な陽が眩しい。松谷さんのボンドで盛り上げたカンバスを鉛筆で真っ黒に塗りこめた独特の作品で大好きなのです。でもゆっくり話をさせて頂いたこともなく、パリからお葉書を頂いたので思い切って電話をしました。アトリエを見学の後、食事をご一緒しました。バスティーユはもと監獄のあったところだけど伝統的には家具職人の街。松谷さんのアトリエへはバスで。松谷さんは高齢者用のパス、私達はメトロのカルト・オランジュ(1週間乗り放題)でバスも乗れるのです。広いアトリエでたくさん作品を拝見することが出来、ご機嫌。来年、神戸で個展をするという作家を呼んでいるからと歩いて10分ほどのレストランへ。長い陸橋下のアーチ型のスペースを職人達のアトリエやブティックに改装して使っているところで、バスティーユからリヨン駅にかけてのドメルニ通りにある。これが驚いたことにぼくが’98年に街づくりの参考にと地図を頼りに一人で訪ねた場所でした。
懐かしいな。松谷さんが呼んで下さっていたのは末安美保子さん。パリに来て17年になるという。来年2月に元町の「ギャラリー開」で個展をされます。その縁は、と聞くと妹さんが「ギャラリー開」の榎本さんの奥さんだという。歌人でもあり「北の都」という歌集を頂きました。帰りの飛行機の中で通読した。その版元が”ながらみ書房”。南輝子さんの歌集など歌人にはお馴染み。帰国して南さんに話したら末安さんが連載していたパリ便りを愛読していたという。世界は狭いな、不思議だな。20首ほど印象に残った歌に小さな標をつけてきた、そのうちの2首

 着くたれの服脱ぐように季かはり野辺に烟ふいらくさの花

 黄金を鋸(けづ)るやうに光放つ月の孤塁を見とどけて立つ

 松谷さんを中心としたグループ展「未来への対話」を来年、うちでやります。楽しみです。