2006.12 「未踏の明日を生きる」

「未踏の明日を生きる」

 11月14日で64才になりました。思えば遠くへ来たものです。気がつけば残りの日々を数えるようになりました。ギャラリー島田は北野へ転じて10月で7年目に入り、海文堂時代から通算すれば29年目に入ったことになります。ありがたいことです。皆さんから「なんで続いているのか不思議だ?」とよく言われます。ほんとうにそうです。
 これから経験したことのない老年へ突入するのだと、まだ暗い闇をしんみりと覗っていたら、誰にとっても、赤子にとっても老人にとっても「今」は未踏の明日なのだと、当たり前のことに気がつきました。それにしてもへんてこりんな昨日の日々をあるいてきたものです。へんてこりんな線を明日に向かって延ばしていっても、やっぱりへんてこりんな軌跡を描くのでしょう。
 それにしても慌ただしいですね。「忙」は「心を亡くす」の意味だそうですが、自戒しなくてはいけません。私の難聴は音を聞きとる繊毛が退化しているらしいけど、中井久夫先生の「こころのうぶ毛がすりきれる」(「記憶の肖像」より)という状態に陥っているのではないかと感じるこの頃です。
 この通信も12月号。いろんなことがありました。いいこと、悪いこと。64年生きてきても、心安らかに遠いのは修行が足りないからでしょう。あるいはアクティブであるかぎり摩擦も必然なのでしょうか?

「樹をみつめて」
(前号でご紹介した中井久夫先生の新著「樹をみつめて」の書評とも言えない感想を神戸新聞10月29日の読書欄に書きました。字数の制約(800字)のために難しく、もっと分かり易くと駄目を押されて、書き直しをしました。

2006.11 「秋蝉」

「秋蝉」

秋の蝉たかきに鳴きて愁いあり  柴田白葉女

 ひときわ不快だった夏も過ぎ秋分、夜長の季節となりました。ヒグラシやつくつくぼうしの鳴き声も収まったかと思うたが、今度は秋蝉がうるさい。夜昼なしに鳴く。「いつまでもうるさいな」と言えば、家人には何も聞こえないという。耳鳴りらしい。そういえば父の耳はダンボのように大きかったし、鼻も立派だったが形態は機能を保証しないらしく、僕くらいの年で耳が遠かった気がする。母も数度の脳の手術で右耳の聴覚を失った。どうも脳と耳は我が家の鬼門らしい。
 私には世の中のことが適当に見えなかったり、聴こえなかったりする方が良いのだけど、日常的に不便はなく、それを理由にたいていの会議を欠席できて重宝さえしている。でも話しかけた相手が、私の曖昧な表情を見て「ほんとに分かっているの?」と怪訝な顔をすることがある。家人とも些細なことで齟齬を生じることがある。仕方なく、再度、耳鼻咽喉科の門を叩いた。軽度の難聴、高音域に衰えがあるとのこと。「ヒヤリングセンター」で補聴器のテストを受けた。お試しである。やれやれとカフェに入った。音楽がやたらとうるさい。軽度なので最低の補正ですと言われたのに。
 まもなく64才。立派な老齢である。眼鏡は通常用、読書用、パソコン用。補聴器、携帯電話。やたらと装着するものが増えてきた。スパゲッティー症候群である。きっと思考域においても硬直化、衰退化が始まっているに違いない。これを補正する機器も装着したい。

中井久夫先生の「戦争と平和」

 アート・サポート・センター神戸のサロンに度々、ゲストとしてお話頂いている中井久夫先生の新著を読ませて頂いた。樹を巡るエッセイや神戸のこと「神谷美恵子さんの<人と読書>をめぐって」など、どれも興味深い。が、なんと言っても100枚を超える「戦争と平和についての観察」が素晴らしい。「戦争の切れ端を知る者として未熟な考えを”観察”として提出せずにおれない気持ちで」書かれた力作である。真っ先に読んで頂きたい人が「美しい国、日本」の著者だけど、私達が今なすべきことの視座を与えてくれる文です。
 戦争の酸鼻な局面を本当に知るのは死者だけで「死人に口なし」という単純な事実ほど戦争を可能にしているものはない、とし、過去の戦争は「戦争を知るものが引退するか世を去ったときに次の戦争が始まる例が少なくない」と、現状への警鐘を鳴らします。
 この重要は指摘を要約することは難しいのですが、まず「戦争は進行していく”過程”であり、平和はゆらぎをもつが”状態”である」として、戦争への過程がいかに単純化され美化され強化されていくか、そして死者に対する「生存者罪悪感」がさらに戦争推進力を加速させていくことを歴史的に観察する。
 一方「平和」は無際限に続く有為変転の「状態」で、絶えずエネルギーを費やして負のエントロピーを注入して秩序を立て直し続けるという格段に難しい営みである。平和は「維持」であるから、唱え続けなければならず、持続的にエネルギーを注ぎ続けなくてはならない。しかも効果は目に見えないから、結果によって勇気づけられることはめったになく、あっても弱い。
 戦争は男性の、「部屋を散らかす子ども性」が水を得た魚のようになり、戦争を発動する権限だけは手にするが、戦争とはどういうものか、どのように終結させるか、その特質は何であるかは考える能力も経験もなく、その欠落を自覚さえしなくなる。そして、ある日、人は戦争に直面する。
 ここから先は本を読んで頂きたいのですが「戦争準備と平和の準備」「戦争開始と戦争の現実」「戦争指導者層の願望思考」「開戦時の論理破綻と戦争の堕落への転回点」「人間はいかにして戦争人たりうるか」などと続く。是非、是非読んで頂きたいと思います。

 ● 中井久夫著「樹をみつめて」/みすず書房 ¥2800+税

2006.10 「忙中旅ありフランス編 2006 つづき」

「忙中旅ありフランス編 2006 つづき」

ブルターニュを旅する

 5月に展覧会をした銅版画家の渡邊幹夫さんにフランスに行くと話すと、是非、案内するからと誘って頂いた。モンパルナス駅からTGVで2時間。レンヌの駅で渡邊さんと落ち合い、素晴らしいドライブの三日間。暑い真夏に快適な車で、個人の旅では行けないところを案内してもらうのは最高の贅沢でした。簡単にルートを説明します。
 最初に訪ねたのがモン・サン・ミッシェル。豪快な海岸線から英国海峡を望むカンキャル(Cancal),城壁で囲まれた木造の古い建物で迷路のようになったディナン(Dinan)などを回り、ゴメネ(Gomene)のシャトー・ホテル(Chambres d’Hotes)に宿泊。翌日はケルトの巨石文化のカルナック(Carnac)、 5000年前の遺跡 ガブリニス島(Garrinis)などを回り、ムール貝やギャレット(そば粉の具沢山クレープ)とシードル(発泡リンゴ酒)で食事をし、リゾート地ヴァンヌ(Vannes)で宿泊。三日目はどこかで泳ぎ(海は冷たかった)、ラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日=音楽祭)で有名なナント市の隣町、サン・エルブラン(Saint Herblain)の素晴らしい図書館でやっている渡邊幹夫さんの版画展をゆっくり見て、ナントとレンヌの間にある田舎の渡邊さんのお宅へお邪魔しました。奥様とお嬢さんの素晴らしくおいしい手料理でのもてなしを頂きました。すべてが「ご馳走様」でした。

モン・サン・ミッシェル

 海に浮かぶ岩盤の上にできた寺院。そのことはここでは言いません。今回の旅は西村功先生に捧げるセンチメンタル・ジャーニでもありました。到るところで先生が描いた場所に立ちました。ここも先生が最後のフランスの旅で描いた場所。その絵が2枚手元にあり、そこは是非、訪ねたいと思いました。

カーンに泣く

 ブルターニュを渡邊さんの運転で旅していて、ぼくはルイス・カーンの「マイ・アーキテクト」という映画について話していました。ルイス・カーンの謎の死を巡って映画監督である息子(カーンの愛人の子)が父親の作品と人生をたどる素晴らしいドキュメンタリーです。私にとって、カーンの作品といえば、植栽のないドライな広場と海に向かって一直線に引かれたカスケード(水路)のカリフォルニア州ソーク生物学研究所ですが、今回の映画で印象的だったのは映画最後のバングラディシュ国会議事堂でした。バングラディシュの建築家のシャルーム・ウォレスがこう語ります。
「この国会議事堂は30年前のわれわれの国には考えられなかった建物ですよ、彼は指導者モーゼとなり民主主義を与えてくれた。民主主義を広める場としての議事堂を与えてくれたんだ。貧乏な国だというのを彼は気にかけなかった。実現するか否かもね。最貧国に彼の最大の建物が出来た。命を代償にしてね」と涙を流しながら語るシーン。そのことを話していると自分でも分からない感情がこみ上げてきて涙声になり慌てました。運転中の渡邊さんはびっくりしたでしょう。バングラディシュのこの建物は1962年に設計がスタート、1974年にカーンは亡くなり、建物の完成は1984年でした。
 私が涙したのは、私が変わらず応援している山内雅夫(現世的には全く不遇な)という作家の生き方、考え方と重なったからでもあります。その山内先生が西宮の仁川学院の立替工事にあたって中心的なモニュメントを任されることとなりました。氏は命と引き換えにこの仕事を完璧にやり遂げるつもりなのです。そして建築のもつ偉大な力、いや私が探し求めてやまない芸術の持つ力が心を直撃したのです。

馬と話す

 その最初の宿はゴメネ(Gomene)という田舎の民宿(Chmbres d’Hotes)。といっても7ヘクタールもあるシャトーのごときジュゼット・ル・モー(女主人)の館。その日は私たち三人だけが泊まり、ディナーはそこで取れた野菜のサラダと私達のために絞めた鴨料理。
 庭には大きな池があり太り気味の大きな馬が静かに草を食んでいました。私達が近づくと寄ってきて頭を出すのです。額を撫でさすってやると気持ち良さそうにしています。
 散歩を終えて一人池へ戻ると、重い馬体を揺すってノッシノッシと駆けてきました。昔、ゴッホが亡くなったオーベールのお墓を訪ねた寒い日。坂を上がっていくと夏にゴッホが描いた黄一面の麦畑は、いまは枯れ野原、そこに白い馬がやはり一人でいて、呼ぶと寄ってきて頭を撫でたことを思い出しました。
 その夜、私はベッドに入って本を手にすると10秒もたたずに寝入ったそうですが、渡邊さんは持参の望遠鏡で素晴らしい星空のシンフォニーを堪能したそうです。都会では考えられない美しさだったそうです。残念!
 翌朝、6時20分に起床。まだ皆が寝ている中、私は鍵を開けて肌寒い冷気のなかツキスミを捜しました。ツキスミとは学生時代に愛読した庄野英二さんの「星の牧場」に出てくる軍馬の名前なのですが、このブルターニュの農耕馬と私との中で重なったのでした。ならば私は戦争で記憶を失ったモミイチだ。そいえばシャワーのように流れ星が野原一面に降ってきて、ツキスミがモミイチを乗せて星の花畑を駆けていく最後の情景を思い出しました。
池の右端に静かに立っていたツキスミは不思議そうにしばらくこちらを眺めて迷っていましたが、静かに歩いてきて挨拶をしました。それから朝食までの1時間ほど、ツキスミと話をし、私が歩くとついてくるのでした。まっすぐに見つめる眸がいじらしく、そこからときおり涙が溢れやがて落ちるのです。その涙や逞しい体にもハエが群がり、手で何度も追い払ってやりながら話し続けていました。ぼくは馬語が話せる。犬語、猫語、幼児語だって。このごろ人間語が苦手で分からなくなってきた。普段のぼくは針千本(ふぐの仲間)のように尖っているらしい。こんな優しいぼくを強面(こわもて)のように感じその針に毒を仕込んであるのではと疑う輩もいるらしい。
 花も動物も幼子も可愛い。そんな浪漫に浸っていたら家人が、私が好きな宮本輝の「焚き火の終わり」という小説に、馬は好奇心が強く変わったものを見ると寄ってくる、野次馬という言葉はここから来ていると言う。そうか、やはり異物なのだろうか。
 朝、5時に自然に目が覚る。8月の末はまだ夏真っ盛りだが、朝は確実に秋の気配を含んでいる。この時間に文章を書いたり、仕事の段取りを考えたりする。でもツキスミと話をして以来、なにやら、ぼんやりと窓を開けて空を見たり目覚めた鳥たちの声や音楽を聴いたりする時が増えたように思う。

サン・エルブラン(Saint Herblain)

 この図書館は素敵でしたね。文化への愛が形になってここへ降りてきたという気がしました。渡邊さんの展示も心配りの行き届いたもので、ギャラリストとしては教えられるところ大でした。ポスターからカタログに到るまでセンスに溢れていました。こうした文化予算もちゃんと取られていて、当たり前のことですが文化に対する敬意が払われていることが痛いほど伝わってきました。帰国してすぐにYUKO・TAKADA・KELLERさんのデンマークのアート事情のお話を聴いたのですが、そこで感じたのも同じことです。

渡邊幹夫さんのことなど

 渡邊さんにはフランスへ行く度にお世話になりました。でも今回のように三日間も一緒にいたのは初めてです。私がNYのソーホーにある画廊で渡邊さんの作品に出会って以来なのでもう長い付き合いです。最近は東京の版画廊の櫻井さんが、渡邊さんを紹介され、2冊の素晴らしい画集を出されました。
 渡邊さんをはじめ、作家さんとのお付き合いはずいぶん長い方が多くなってきました。それだけ長くやっているということだけど、私の画廊経営は多分、独特で、それ自体が強烈な自己表現になっていて、しばしば双方に痛みをともなうこともあります。作家と画廊との関係はきれい事ではありません。私のバイブルは「ゴッホ兄弟の書簡集」です。なんど読んでも体が発熱し、いまや読まなくても本の背表紙をみただけでも熱が出る。フィンセントの投函されなかった最後の手紙が矢じりとなって突き刺さったままなのです。

2006.9 「忙中旅ありフランス編 2006」

「忙中旅ありフランス編 2006」

彼方へと消え行く音

 旅先で眠れない夜、窓をあけて空を見上げる。パリでは灯りの消えたエッフェル塔の左側、50㎝(そう見えた)に赤みを帯びた満月があった。
小さなウォークマンでベートーヴェンの初期の弦楽四重奏(ウィーン・アルバン・ベルクSQ)を聴く。このカルテットが好きで、何度目かのパリに来た時、シャンゼリゼ劇場でモーツァルト、ラヴェル、ドビュッシーを聴いた。
イヤホンから流れてくる音に自然に体が手が反応する。アダージョ。なんという優しさ美しさだろう。私は4つの旋律すべてに集中し体ごと流れに入る。18才くらいから20年ほど合唱の指揮をしていた私にとって音楽を聴くことは体で受け止め表現することと分かちがたくなってしまっている。
音楽とは呼吸であり空間把握である。指揮することはほとんど呼吸をコントロールすることである。大きく吸い込む、小さく、あるいは深く、浅く、瞬時に、断続的に。消えていく音(dimディミュネンド)が大切で、ここでたいてい技術があるかないか、心がこもっているかどうかが分かる。そしてぼくは自分が求める音を探してメロディーラインや内声部から低音部まで集中しきって聴き取り体が反応する。ベートーヴェンの音楽が満腔の空へ広がり彼方へと(Ueber Sternen)消え去っていく。言葉で表せないからこそ至純の音がある。ロマンティックな臆面もない心情吐露にぼくの心も鷲掴みにされる。ベートーヴェンが泣き、演奏者が泣いている。ぼくのブレスも大きく深くなり、ゆっくりとディミュネンドしてゆく。

ドニゼッティとモーツァルト

 日本からオペラを予約した。インターネットでバスティーユのオペラ座での公演を調べるとドニゼッティの「愛の妙薬」しかない。この中のリリック(抒情的)なテノールが歌うアリア「人知れぬ涙」が有名でフリッチョ・タリアビーニには泣かされた。NHKTVのイタリアオペラ公演で大昔に見たことがある。田舎を舞台にした純情青年と村娘とのハピーエンドオペラで積極的に見たいものではなかったけど前回もここではモダンダンスしか見ていないので、まあいいかとチケットを買った。あまり期待していなかったけど新演出で、人情話風より徹底して喜劇風、スピーディーな展開に客席も大いに盛り上がった。あのアリアなどはやはりタリアビーニの名調子が懐かしいけど、大満足でした。最近はオペラを現代に置き換えての新演出で良くみます。それに合わせて舞台美術、ダンス、衣装なども現代的で、そのオペラが現代に生きる私達に持っている意味を問い直すという点がとても興味があります。しかし、やはり現代の問題に正面から取り組んだ、メトロポリタン(NY)でみた「ヴォッセック」(アルバン・べルク)が忘れられません。
 新オペラ座(バスティーユ)は1989年完成。デザインはカルロス・オット(カナダ)。
その明くる日、サンジェルマン・デュプレ教会でモーツァルトの大ミサ(K427)を聴きました。偶然、前日にこの教会でコンサートを知ってチケットを買ったのでした。モーツァルト生誕250年記念とありました。もともと教会音楽ですので小編成でも十分に堪能しました。ここでもディミュネンドの美しさ。’98のクリスマスのころマドレーヌ寺院でモーツァルトのレクイエムを聴いたときと同じように天国的音楽を教会で聴く喜びを感じました。豊潤な響きが途切れて残響が高い天井へ、あたかも天使が飛び去るように抜けていき、私自身の魂も無重力となり一緒に飛び去っていく。

スーチンの墓参り

 清岡卓行さんの「マロニエの花が言った」に触発されてモンパルナス界隈を二日間ほどそぞろ歩いた。不確かな地図と方向音痴に翻弄されながら。藤田嗣治のころと違ってこのあたりはモンパルナスタワー、中央駅など都市改造が進み風情がなくて、容赦なく注ぐ陽に額を焼かれ、マロニエの木陰で休んだ。神話として記憶されるモデル・キキを中心に毎夜エ・コールド・パリ(パリ派)の芸術家たちが派手に騒ぎ、酒を飲み、様々な出会いと別れがあったカフェに座りました。ヴァヴァン広場(今はパブロ・ピカソ広場)にある「ラ・ロトンド」。通りを隔てて信号を渡ったところに「カフェ・ドーム」、そこから30mほど離れて「ラ・クーポール」。エドガー・キネ大通りの交差点に面して、三つのカフェを見渡しながらビールを飲みました。誰かの旅行記にここで勘定をごまかされた話が書いてありましたが、私はそんなことなかった。今では私達が良く知っている画家や詩人や、写真家、ダンサー、革命家レーニンまでが座っていて、愛情、嫉妬、友情、憎悪が渦まいたカフェも強い日差しの中で息を凝らすように静まっている。マロニエの梢が揺れすぐそばに立つロダンのバルザック像が陽炎のように揺らめいているのを見ながら、遠い日のさざめきでも聞こえないかと放心した。
 私はエ・コールド・パリというよりエコール・ド・ヴィー(いのち派)としての作家に惹かれるのです。才能があるけど「貧にして苦」、だけど燃えるような情熱、生命力をもった作家たち。ギャラリー島田の作家たちのヴィー(いのち派)は少し年をとりすぎた人が多いけれど。
 モンパルナス二日目、駅で翌日、シャルトルへ行く切符をはじめて自動販売機で買う。
そしてメトロで二駅。昨日分かりにくかったモンパルナス墓地はすぐに分かった。入口で地図をもらって入口脇のベンチで広げて見ていると、前を通った人が立ち止まって見ている墓があった。それがサルトルとボーボワールの墓だった。二人の著作をほとんど読んでいないのですが、墓を撫で、手を合わせました。なんたって二人が良く座っていたサンジェルマンのカフェ・マゴにも何度も座ったのですから。さて地図はいいけど、探すのは難儀でした。近くにあるはずなんだけど掃除してる人に聞いてもらちが開かない。結局、セザール(彫刻家)、ブランクーシ(彫刻家)、クララ・ハスキル(ピアニスト)、ユージン・イオネスコ(劇作家)、ガルニエ(建築家)などに参って、最後にシャイム・スーチン(画家)に辿り着きました。その墓は、ゴッホとテオの墓のように簡素なもので、70×140cm位の平らな墓石に花を付けていない緑だけの鉢が5~6個置かれていてそれがなんともスーチンらしいと思って手を合わせたのでした。スーチン(1894-1943)といえばリトアニア生まれ、エコールド・パリを代表する画家の一人で「皮を剥がされた野兎」といった画面にも血が滲むような作品や、ねじりうねるような悲劇的な人物や風景に惹かれる方も多いと思います。藤崎孝敏さんの初期の作品にはスーチンの影響が強く感じられますし、資質的にも通じます。余談ですがアメリカの大コレクターであるバーンズがパリの美術商ポール・ギョームを通じてフランス絵画を集め、1923年に19点のスーチンを購入、彼は一夜にしてモンパルナスのヒーロになったそうです。それで金持ちになるのですが、まだまだ波瀾の生涯が続くのです。墓地の近くのカルティエ現代美術館へ行ってきました。

7月14日は『パリ祭』

 日本ではパリ祭と能天気に呼んでいますがフランス革命記念日です。1789年の7月14日、パリ市民がバスチーユ牢獄を攻撃し、中にいた囚人を解放しました。この後市民階級が形成した国民議会が実権を掌握、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑されました。しかしこの革命も挫折、王政復古となりますが、この革命はアメリカ独立に続いて市民階級の力を誇示するものとなり、絶対君主制の体制が崩れて、民主主義社会へ移行していく先導の役割を果たしたのです。パレードの行われるシャンゼリゼはコンコルド広場から凱旋門のかけての通り、その延長線上に新凱旋門があります。しかし古代エジプトの美しいオベリスクのあるコンコルド(調和)広場はマリー・アントワネットがギロチンにかけられた血塗られた場所。エトワール(星=etoile)凱旋門はナポレオンが建てた戦勝記念門。パリ祭とはこの二つを挟んでの軍事パレードが中心なのでシャンソンだワインだ花火だと浮かれてはいけない。
朝、ホテルで朝食を食べていると目の前に戦車がずらっと並んだのでびっくりした。まだ7時過ぎ。部屋から下を見れば消防隊も行きます。人ごみをさけて私たちはモンパルナス駅から約1時間のシャルトルへ行きました。切符は初挑戦の自動販売機でゲット。
 今回の旅は芸術新潮に特集された中世の美と出会う五日間を参考にしました。シャルトルの大聖堂(ノートルダム)はなんといってもステンドグラスの美しさです。聖書も読まず。西洋史にも疎い「なんとなくキリスト、半分仏教徒」、単なるユマニテの私ですが、各地で見たステンドグラスのなかで明暗の強調された、深みのある、そして過剰なまでの精緻さにおいて、見惚れずにおれない魅力に溢れていました。花壇の花のセンス、教会裏の高台から見たボース平野、休みで入れなかった美術館、小路に入り、阪を下り見つけたウール川は京都の高瀬川を思い出しました。そしてゴシックのお大きなサン=ピエール聖堂。2時に開くと書いてありベンチに寝転んで待ったけど結局開かなかった。カフェで休み、再びノートルダムへ。
 この聖堂の中ほどの白い床に、黒い石を嵌め込むようにして円形の迷路が描かれています。パンフレットには「苦難に満ちた現世での生涯を歩み終えて神の国へ迎えられる喜びを暗示している」とあります。中心部が上がりなのでしょう。最初は観光客や子供が足早に迷路を辿っていましたが、ふと気がつくと背の高い白い洗い晒しのシャツを着た髭を生やした青年が素足で極めてゆっくりと二歩歩み半歩下がる、目はまっすぐ前方を見ながら、一人、この賑わいと隔絶した雰囲気が漂う。すると、周りの人の歩みがみなゆっくりになり、後退しないまでも少し止まるようになった。その青年の面影は小磯良平の「音楽」に見たように思った。1時間ほど外を散歩して戻ると青年は中央の円(双六のあがり)に正座をして祭壇を静かに見つめていた。こんどは清楚な若い女性と子供が従っていた。彼らが発するものが場を次第に包み込みはきめていた。午後4時の陽がステンドグラスを一層鮮やかに染め、東洋からきた異邦人をすらミステリアスにさせた。
 帰りの列車はガラガラでせっかく一等車の切符を買ったのに誰もいないうえに冷房が効かず窓も少ししか開かなかった。パリ祭の花火は22;30頃から、今年はシャイヨー宮から打ち上げられ、ホテルの窓からみるとエッフェル塔の真横に見えた。予算が削減されているという花火は「タマヤー」の華麗さはないがシックだった。

ケ・ブランリ美術館へ

 ホテルで渡邊幹夫さん、野口明美さん、前田隆一君と会う。
渡邊さん、野口さんは今年ギャラリー島田で個展をされ、前田君は12月に1Fdeuxで予定している銅版画家です。家人を交えてランチを食べながら話が弾んだあと、どこへ行こうかということになり、私がどうしても見ておきたい6/23にオープンしたばかりのケ・ブランリ美術館へ。
フランスは歴代の大統領が競って文化施設を作ってきた。ここはシラク肝いりの美術館で「ブランリ河岸通り」というそっけない名前は、いずれ「シラク美術館」と言い換えられるという噂もある。場所はエッフェル塔のすぐそば。よくこんな一等地が残っていたなと思ったけど、渡邊さんの話では、今までここにはグループ展などによく使われていたテント美術館のようなものがあったそうです。近づいていくと巨大な透明ガラスの壁があり、その向こうにカラフルな建物ブロックと緑の植物の群生した壁。その向こうにエッフェル塔が見えます。この建物、昨日、モンパルナスで見たカルティエ現代美術館に似ていると思ったら、おなじ建築家ジャン・ヌーベル氏の手によるものと判明。
 ここのコレクションの9割はフランス国立人類博物館から移されたもの。オセアニア、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ文明の美術品が常時3500点近く展示されている(所蔵作品は30万点を超える)。これらが新しい切り口と斬新な展示によって原初からの人間の独創性の共通性と差異を興味深く見ることが出来る。うち7割がアメリカ(原住民)とアフリカが占め、アジアは目立たない。こうした原始美術が現代のアートに与えた影響なども頭をよぎるけど、まあゆっくりと一巡するだけで2~3時間かかる。途中ではぐれた皆と出口で合流、カフェで再び美術談義。それにしてもパリの文化的蓄積はすさまじいものがありますね。フランスもパリ一極集中なのですね。
 ケ・ブランリ開館でのシラクの高揚した演説「西洋だけが人類の運命を担うという馬鹿げた主張への拒否」は正当なものだしピカソ、モリジアニ、ブランクーシをはじめ多くの芸術家がアフリカから学び、浮世絵はゴッホと同時代の作家に大きな影響を与えたことも良く知られている。ここに集められたものは美術的価値を基準にしたもので、オペラの新演出のように新鮮な切り口で命を蘇らせている。その他の膨大な歴史資料と切り離されていること、そしてフランスの旧植民地との関わりにおいて蒐集されたもので、今後さらに非西洋を網羅したい国際的な美術館として認知されるにはアジアや少数民族などの作品についての蒐集や文明間の衝突や刺激が創造を生み出してきた経緯などの企画展などの展開を見てみたい。

松谷武判さんのアトリエ訪問 リヨン再訪

夕方7時にバスティーユのオペラ座の階段の前で待ち合わせた。まだ午後3時くらいの強烈な陽が眩しい。松谷さんのボンドで盛り上げたカンバスを鉛筆で真っ黒に塗りこめた独特の作品で大好きなのです。でもゆっくり話をさせて頂いたこともなく、パリからお葉書を頂いたので思い切って電話をしました。アトリエを見学の後、食事をご一緒しました。バスティーユはもと監獄のあったところだけど伝統的には家具職人の街。松谷さんのアトリエへはバスで。松谷さんは高齢者用のパス、私達はメトロのカルト・オランジュ(1週間乗り放題)でバスも乗れるのです。広いアトリエでたくさん作品を拝見することが出来、ご機嫌。来年、神戸で個展をするという作家を呼んでいるからと歩いて10分ほどのレストランへ。長い陸橋下のアーチ型のスペースを職人達のアトリエやブティックに改装して使っているところで、バスティーユからリヨン駅にかけてのドメルニ通りにある。これが驚いたことにぼくが’98年に街づくりの参考にと地図を頼りに一人で訪ねた場所でした。
懐かしいな。松谷さんが呼んで下さっていたのは末安美保子さん。パリに来て17年になるという。来年2月に元町の「ギャラリー開」で個展をされます。その縁は、と聞くと妹さんが「ギャラリー開」の榎本さんの奥さんだという。歌人でもあり「北の都」という歌集を頂きました。帰りの飛行機の中で通読した。その版元が”ながらみ書房”。南輝子さんの歌集など歌人にはお馴染み。帰国して南さんに話したら末安さんが連載していたパリ便りを愛読していたという。世界は狭いな、不思議だな。20首ほど印象に残った歌に小さな標をつけてきた、そのうちの2首

 着くたれの服脱ぐように季かはり野辺に烟ふいらくさの花

 黄金を鋸(けづ)るやうに光放つ月の孤塁を見とどけて立つ

 松谷さんを中心としたグループ展「未来への対話」を来年、うちでやります。楽しみです。

2006.8 「紫陽花に」

「紫陽花に」

さすがに6月も後半になると雨の日が多い。今年はぐずついた日が多く、入梅が何時だったかも定かでないが、いよいよ梅雨最盛期だ。家人に芥を棄てに行くよう頼まれて傘をさしたまま玄関の脇につづく紫陽花に見とれてしまった。萼(額)紫陽花なのだが花弁に見えるのは「萼(がく)」で花はその中の小さなマッチ棒の先が集まったような部分らしい。その小さな頭の色がまた様々で白、緑、紫、そしてそれぞれに濃淡がある。点描画の名手スーラですらこれほどのニュアンスは出せない。その頭が小さな華麗な王冠のように開花する。ドビュッシーの音の煌き。そして雨を受けて生き生きとした紫陽花はそれぞれが微妙に色彩を変え、グラデーションを変え、目を離せないほど鮮烈に自己主張をしている。萼にも様々な大きさがあるが、その一枚の萼の花ですら薄っすらと色を流したような変化があり見とれずにはいれない。
志村ふくみさんが「一色一生」のなかで”咲き誇るあでやかな花の色のすぐ傍に、凋落の兆しがある””植物の命の尖端は、もうこの世以外のものにふれつつあり、それ故に美しく、厳粛でさえあります”と書かれていたのを思い出しました。少なくとも60才を超えるまで、このように花を見てこなかった。こんなにじっと見つめていなかった。花は花という存在として感じ、それぞれの命を見てこなかった。
多分、人間も。
向かいには紅紫の五月(さつき)が咲いているが、雨の日は紫陽花の前に、うなだれるだけだ、我にかえって家に入ると家人がいったい何処まで芥を棄てにいったのかと訝る。人も花も音も絵も丁寧に見よう。
ようやく見えてきたことを大切にしよう。

「蝙蝠、気炎をはく!!」

 神戸大学での3回連続のアートマネージメント講座を終えました。国際文化学科の藤野一夫教授の依頼で「ギャラリー経営論」を話したのですが、私の経営などは全く特殊ですから参考になったのでしょうか? 社会人を含めて40人を超える受講生が熱心に聴いてくれたのですが、周到に準備したレジュメを結局はなれて3回とも独演会をやってしまったのでした。まあ、怪気炎といったところ。
第1回は、ギャラリー島田のサロンに出演してくれたチェリストのヘーデンボルク・直樹さんが黛敏郎の無伴奏チェロのための「文楽」という曲を演奏してれ、、第2回はギャラリー島田での講義となかなか趣向に富んだものでした。
若い人に伝えておきたいことを心を込めて伝えたつもりですが・・・。

追伸:受講されたうち学生39名からのレポートが届きました。皆さん、しっかり受け止めて書いてくれて、藤野教授からも「学生たちには大収穫でした」と手紙を頂き、感激。これから採点ですが全員満点をあげたい気分です。

「一匹羊とフランスへの旅」

詩人で芥川賞作家の清岡卓行(きよおか・たかゆき)さんが3日午前6時40分、間質性肺炎のため東京都東村山市の病院で死去した。83歳だった。朝日新聞の「惜別」に「時代にこびない一匹羊」とあった。優しいなあ。ぼくは一匹蝙蝠だ。
私にとっての清岡卓行とは「マロニエの花が咲いた」である。1999年に刊行された上下2巻、1200ページという大冊である。パリ・モンパルナスにあつまった芸術家たちの青春群像を描いて見事です。今年生誕120年を迎え大規模な展覧会が賑わっている藤田嗣治も主役の一人です。7月10日からのフランス行きのテーマの一つが「マロニエの花が咲いた」に導かれてモンパルナスをそぞろ歩くことです。

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2006.7 「あっという間の半年 なんでこんなに」

「あっという間の半年 なんでこんなに」

 このごろ蝙蝠の頭の錯綜ぶりは誰も眼にも露わのようで怖い。昨日も帰りかけたお客様が、わざわざ戻ってこられて「あそこに置かれたものをお忘れなく、そして鍵もちゃんと締めて下さいね」と注意して下さった。頭に情報が満杯でインプットすべきものがエラーになる。これだけ酷使していれば当然です。とはいえ、これは単なる加齢によって「耳」「頭(髪)」もう一つ「頭(記憶)]に顕著な衰えがあるに過ぎないようです。
 今年は、初心に戻って丁寧に仕事をしようと、早めにギャラリーのスケジュールを決めて取り組んでいます。すべての展覧会が土曜に立ち上がります。二つの展覧会が同時開催、それにサロン、パーティー、通信、メルマガ発信。その他のプロジェクトなどなど。クレイジーなことになってしまいました。これを約3名でやっているのですから、呆れます。
 諸悪の根源は私です。これは病的なまでの自信過剰にあります。死ななきゃ直らないし、その病につけ込まれてしまうのです。犠打専門の代打みたいなもので、確実に進塁打を打てるので重宝に頼まれてしまうのです。川相であって金本兄やんではないのです。そろそろ、どっしりとして大砲でも撃てよ!
 もっと選んでじっくりとでかい仕事をすればいいのに貧乏性なことです。かといって、擦り切れそうな脳細胞に酒精の潤滑油を注入しながら時間の隙間なくアートに関り、アートに関る人に関ることを無上の喜びとする私には、俳句や土ををひねり、蕎麦や玉を打ち、札を数える悠々の境地にはなかなか近づけそうもありません。
 私にとって今、一番気になる「男達の神話」の福島清さんは尊大で無礼に見えるので、ハラハラして叱りまくっているのですが、考えてみれば、叱っている私も、いつも「心ここにあらず」で無愛想なのですな。同病で芸術家である彼の方が重症なのは当然です。二人とも直りませんな。そういえばヒロクニさんも卯港さんも同病ですな。皆さん、とにかく仕事を見て下さい。
 それにしても、なんでこんなに忙しいのだろうね。

2006.6 「みんなおめでとう」

「みんなおめでとう」

 天候に恵まれたGWは各地が人手に溢れたそうですね。私はほとんど仕事でしたが、好きなことしか仕事にしていませんから一向に苦痛ではないのです。それに周りを見回せば「おめでとう」と言いたいことが続いています。ありがたいことです。

■西村功展(西宮市大谷記念美術館)も終始、賑わっているそうで、会期半ばにして図録も完売、評判も上々です。生涯を辿ってみれば西村先生の誠実な生き方と絵画への思いが明らかで、多くの方に愛された理由がよくわかります。画集やデッサン集の刊行、資料の整理などを引き受けてきて、こうして美術館での回顧展に繋がってくると、ギャラリー冥利につきる思いです。

■松村光秀先生の場合も同じことです。4月の2年ぶりの展覧会も好評でした。羅漢さんや京都・法然院の由緒ある床材を使った一連の作品など、現世に身を置きながら羅漢と一体化しようとする松村先生の新しい境地を示すものでした。余人に想像もつかない過酷な前半生から、こうした境地に立たれた仕事に心を打たれます。  松村先生の場合も「画集・姿」を出版し、信濃デッサン館・槐多庵での展覧会、そしてラジオ深夜便への出演と、一つ一つ積み上げてきたものが作家を支え、持続する志となってこうした優れた結晶を生み出しているのです。松村先生からはまだまだ宿題を頂いています、どれも簡単ではないのですが、是非、ここでやりたいと願っておられた沖縄の普天間基地に楔(くさび)を打つように立つ佐喜真美術館で来年、展覧会を開催して頂くことになりました。ここは丸木位里・丸木俊さんの沖縄戦の図を永久展示すべく、建築家の畏友・真喜志好一さんが設計された美術館です。 館長・佐喜真道夫ご夫妻には窪島誠一郎さんとのご縁で松村ファンになって頂いてはいましたが、今回、快諾して頂き、松村先生の壮大な願いの一つが叶うことになりました。本当にうれしいことです。実現の暁には沖縄・佐喜真美術館ツアーをしましょう。そして「もの思う空間」で板橋文夫(ジャズピアニスト)に霊的ライブをしてもらいましょう。(昨日、板橋さんと飲んでそんな話したら佐喜真美術館でライブを既にしたことがあると言ってました)ワクワクしますね。おめでとうございます。

■福島清さんの「男達の神話」が刊行されました。これも福島さんの「夢」だったのですが立派な果実となりました。この本は是非とも読んで頂きたいです。まず美の世界を求める全ての人に、そして真剣に生きようとする全ての人に。本を読まないという方は、手元において撫ぜるだけでも効能があります。表紙を眺めるだけでも意味があります。ぼくは孫を見るように愛おしんでいます。構想十数年、執筆5年、私にバトンがわたって2年。みずのわ出版の柳原一徳さんにバトンを渡して1年。さらに出版記念展を京都の尊敬する画廊主、石田浄さん率いるJARFO(京都藝際交流協会)が引き受けて下さいました。この本は必ずくちコミで読み継がれていき必ず大ブレイクすると思います。おめでとう。

■石井一男さんの個展を久しぶりにギャラリー島田で開催します。大阪、東京と旅をしてきました。  石井さんには再来年「石井一男画集」の出版を約束しています。その目標に向けて一層、集中した作画に励んでもらうためです。こんなことをここに書くのも自分にプレッシャーをかけて有言実行するためです。石井さんに10年も前に約束したことが未だに果たせていないからです。こんどはやりまっせ!石井さんには前祝で、おめでとう。

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2006.5「ベートーヴェンに近づいてきた」

「ベートーヴェンに近づいてきた」
と言ったら、知人は「ベートーヴェンに失礼だよ」と笑った。もちろん、尊敬する大作曲家の境地に近づいたなどとは口が裂けても言わない。
 「耳」のことである。
 ずっと前から頭のなかで高いC音が鳴っている。それがだんだんひどくなってきた。
数年前から、会議で遠くの人のしゃべっているのが聴き取りにくくなってきた。
元町の細見耳鼻咽喉科で2度検査を受けた。老先生ははっきり指摘しなかったが、今回の若先生ははっきり「中程度の難聴です」と言った。

さて、なんで難聴になったのだろう。

(1)加齢
(2)音楽を集中して聴きすぎた経年疲労
(3)嫌なことは聞きたくないという心理的なもの
(4)ワインの飲みすぎ

ベートーヴェンは20代後半から難聴になり40代半ばからは、ほとんど聞こえなかったらしい。第9交響曲は53才の時に作曲され56才で亡くなった。
自分の弾くピアノの音は聞こえていたらしい。「我が祖国」を作曲した時のスメタナも聴覚を失っていた。私の大好きな西村功先生も3才から聴覚を失っていた。
ベートーヴェンは(4)だったらしい。当時のワインには甘味料として鉛を含んだものが入っていたとのことだが、本当だろうか?
私が嘆いていると家人は、難聴なんてなんでもない、「補聴器」がある。
眼が悪い人には眼鏡がある。でも自分の頭の悪いのは直らない。「補頭器」が欲しいと、おもろいことを言う。 確かにそうだ、私も「加藤周一モデル補頭器」があれば1千万円でも買うぞ。

まあ、私の場合は遺伝的なものと(3)との組み合わせだろう。あまりにも聴きたくないことが多いから。
もう一つ「耳の形」である。若い頃はずっと指揮者をしていたから、耳が音を拾い易いように前に出ていたという証言がある。指揮を引退し、嫌なことは聞きたくないと思うようになって、私の耳は後ろへ引っ込んだという。肉体も心理的に改造されるのである。
自分の頭の中の雑音と仲良くして、世間の雑音に耳を傾けないようにしよう。
そんなことで、一層の無愛想を「耳」に免じてお赦しを。

2006.4「しあわせをありがとう」・西村功先生のこと

「しあわせをありがとう」・西村功先生のこと
 神戸っ子に最も愛された画家、西村功先生が亡くなられて2年半になる。本格的な回顧展が西宮市立大谷記念美術館で 開催されることになったのは私にとって大きな喜びです。
 なんと言っても西村家とは太い絆で結ばれていて、今回の展覧会についても私どものコレクションの出展や資料の提供などで協力させて いただきました。
 困難であっても画集や文集に纏めておくことが大切であることが身に沁みて分かります。
 西村先生の展覧会を最初に海文堂ギャラリーでさせていただいたのが1989年、最後の展覧会が、ギャラリー島田に移ってからの2001年です。 ギャラリー島田のオープニング記念であった先生の展覧会の時には、先生はすでに病床にあり、見ていただくことは出来ませんでした。 その準備の過程で、お宅のガレージの隅に新聞紙でくるまれた初期デッサンの数々を発見し、それらを「西村功初期デッサン集」として画集に 纏め、先生への感謝の思いとして刊行させていただきました。そして、この展覧会のご縁で先生の200号の大作、3点が兵庫県立美術館に 収蔵されました。
 1991年の夏、私は先生の弟さんの文彰氏の導きで、古い倉庫の崩れ落ちそうな階段をのぼって、1950年から76年までの大作群に 出会い、度肝を抜かれたのです。その日は、もう20年も前のように感じますが、あの日、大汗をぬぐったハンカチにべっとりとついた汚れ、 大きな作品を難渋しながら一枚一枚見てゆく時の新鮮な感動に時間の経過を忘れたことなどをまざまざと思い出すことが出来ます。
 そして、それらの作品を整理し、手入れし、撮影し、画集にまとめさせていただきました。
(『西村功画集1950~1976』1991年12月14日発行、海文堂ギャラリー刊、絶版)。
 今、私の手には、いつもしっかり握手した感覚、耳には、あの少し甲高い声での話し声、とりわけ「わかった、わかりました」とにっこりと 笑ったお顔、目には、少年のように澄んだ瞳、街角に座り込んで一心に描く姿などが、懐かしく蘇ります。
 先生のご葬儀を、あたかも西村家の家族の一員として、お手伝い出来たことは、私にとって大きな喜びでした。
そして、その直後に西村先生が過ってお住いだった西宮市の大谷美術館さんに大作を納めさせていただき、そのご縁で神戸新聞社が 企画されたこの展覧会へと繋がっていったのです。

お亡くなりになられた時にギャラリー島田が出した追悼文集の最後は次のように結びました。 

今、私には確信が沸いてきました。
また、きっと「やあ、やあ」と功先生と握手できる日が来ると。

意外にその時は早くやって来ました。きっと会場で功先生が私たちを握手で迎えてくれるはずです。

私の願いは
一人でも多くの方に先生の作品をご覧いただくことです。ご招待券を差し上げます。お誘いあわせ下さい。 

■大谷記念美術館にて
西村功展 -パリを愛した画家- 4/15(土)~5/21(日)

■ギャラリー島田にて
西村功展 -みんなに愛された画家- 4/29(土)~5/10(水)

2006.3「2006年1月1日(4日目)」

2006年1月1日(4日目)
いつもなら正月はゴロゴロしながら駅伝やサッカーなどのTV観戦で酒呑んでるんですが、2006年の幕開けをNYで迎えるなんてね。 

9:00出発
 メトロでワールド・トレードセンター・グランド・ゼロへ。
地上へ出ると300m四方がぽっかりと空洞のまま。フェンスから覗き込むと蟻の穴のように見える地下層。アメリカの威信を賭けた地上600m(世界一)を目指す再開発も頓挫しているそうだ。世界一を目指したホリエモンもあっというまに転落したがワールド・トレードセンターの崩壊も十数秒だったそうだ。ここを発信源とする憎悪の連鎖、品性の感じられないアメリカ政府首脳部。今年はグローバリゼーションの負の遺産―格差増大、拝金主義、虚業化、資源の消尽、等々―が顕になる気がします。グランド・ゼロは「原点回帰」のシンボルゾーンのはずなのに、覗いてはいけない、とんでもない人間存在の漆黒の闇をみてしまった。あの空洞が私の内部に巣食ってしまったようで怖い。
 過去に3回、NYを訪問しているけど自由の女神を見ていない。一度は見ておくかと新年で静まりかえったウォール街、シンボルである雄牛のブロンズ像の横を通ってスタテン島行きのフェリーに乗った。
スタテン島はマンハッタンの真南、メインハーバーの先にある島です。マンハッタンの南端、バッテリーパーク(Battery Park)から出航するスタテン島フェリーで25分。なんと無料なのです。このフェリーからニューヨークの摩天楼と自由の女神を眺めようというわけで、スタテン島へ着くと、多くの人がそのまま折り返しの列へ並ぶのがおかしですね。でもただで50分の観光はうれしい。
昼はユダヤレストランKatzでアパソラミ・サンドとピクルス。昔ながらの食堂といった感じでナポリのピッツェリア「ダ・ミケーレ」を思い出しました。剛がジューイッシュのことにしばしば言及し、ここへ連れてきたのもNYではこのことが避けてとおれない現実に触れさせるためでした。もうすこし食べようと中華街へ。もの凄く込み合った店でパリッと焼きあがった鴨肉の腿が丸ごと乗ったような麺が実に美味。
 そのあとシティーホール・パークを通ってブルックリン・ブリッジを歩いて渡りました。
田村孝之介先生がここを描いた大きな作品を持っていたことがあって懐かしい。
摩天楼を振り返りながら30分。天気もよく気持ちがいい。渡りきって地下鉄にのりpratt institute brooklyn campus へ向かう。陽がどうしても見たいというヘルシンキの現代美術館などを手がけたスティーブン・ホール設計の建築を見るためである。この大学に造形学科があるらしくキャンバス内に面白いオブジェが様々に置かれている。目的の建物はアネックスでようやく探し当てるが、中は見せてもらえなかった。古い建物を現代風に改築したらしいが、あまりピンとこない。
地下鉄でSOHOに戻り散歩とショッピング。15年以上前はこの辺りが倉庫街で、広いスペースを低い家賃で借りることが出来、多くのギャラリーが集積した。そこにアーティストやクリエイティブな人たちが集まるようになってきて新しい商業集積を呼び込み、家賃が上がってギャラリーは今度は、倉庫や工場があって衰退していたチェルシー(CHELSEA)へと移っていったのです。夜はコリアンタウンでまたまた超混み合っている韓国レストランで山賊の酒盛り。 

1月2日(5日目)
 雨。午前中は5番街などでショッピング。私は一人でMoMAへ再び。
今回はクロークのお世話にならないようにして、すんなり入場。相変わらずの人ごみ。
前回、見られなかったフロアを中心にゆっくり見る。3Fでオディオン・ルドン展「Beyond the Visible」。ルドンのモノクロの異教的で病的な幻視のイメージは萩原朔太郎の詩や田中恭吉の絵の世界へとつながり、色彩溢れる花だってルドンの手にかかると「咲き誇った今」においてすら「枯れ死」を内に含んであることに気づく。MoMAの100点にも及ぶ比類のないコレクションに脱帽。6Fの特別展「Safe design take on risk」というのをやってました。Tunamiというコーナーもあり震災を思い出してしまいました。それと[Elizabeth Murray]展はさっと見ただけ。入場料は20$と安くないけど2万点に上るフィルム・メディアのコレクションが毎日二つの劇場で上映され、ショップも充実していて、知的遊園地として凄い。谷口さんの建築に注意を払いながら見て歩き、ショップで買い物をして、寒く、暮れなずむ街をぶらぶら歩いて、ホイットニー美術館によって帰宅。
 夜は恵美さんの手料理を美味しく食べて、徒歩5分のジャズクラブ「iridium」へ。
90才の伝説的ギタリストでエレキギターの父と呼ばれるLES PAULとHIS QUARTET
のライブへ。50$のうち30$が飲食代だそうだ。すべてを剛がやってくれるので、楽ちん極まりない。ステージそのものは70分くらいで軽妙なトーク(ほとんど分からないが下ネタらしい)に笑いころげながら見事なものでした。どこの国を旅しても単語羅列英語で通してきたのに本場英語が分からない。先方は英語が出来ないということは想定外だからね。

1月3日(6日目)
 昨日は気分よく寝る。ふと眼が覚めると外がやけに明るい。家人に「何時?」と聞くと、時計を見て「7時半」という。いつもより寝過ごしたなと「風呂に入ってくるわ」。頭も洗っていい気分。部屋に戻ると家人と陽がクックと笑っている。なんと時計を逆さまにみて、まだ 1時半だという。寝直し。
夢のようなNYも最終日。
10:00
チェルシーのギャラリー回り。チェルシー地区は、9番街から西側23丁目下から14丁目あたりのことをいいます。ギャラリーが集まっているのは、10番街と11番街の間、下は19丁目、上は27丁目付近。この地域にはゲイのアーティストが多く、ゲイの街、アートの街としても有名だ。11番街24丁目角のガゴシアン(GAGOSIAN)やメアリーブーン(Mary Boone)はお休み。残念。空いていても展示替えも多い。規模が大きいので展示も重機が入っていたりして、それはそれで興味深々。ほとんどが映像を含めた現代美術。どのように経営を成り立たせているのだろうか。ギャラリー島田で取り入れるべきところを学ばせてもらった。
こうした場所に建築空間としても面白いコム・デ・ギャルソンの店があったり(ジャケットを買う)、高架下商店街のような場所を入っていくとチェルシー・マーケットといって古い市場の建物をモダンに改装し、現代美術と融合させながら北野工房の大規模版を展開。ちょうどお昼時で大変賑わっていました。確かにアートが街を変えていき、価値を高めているのです。
先日、行ったDIA:BEACONの本拠もここにある。そしてNew Museum of Contemporary Art / Chelseaへ。SHOPには荒木経惟や奈良美智が目立つ。入り口に建築模型が置いてあって見ると、ここの新しい美術館を建築ユニットSANNA(妹島和世・西村立衛のコンビ)が手がけるらしい。SANNAといえばガラスで囲まれたUFOのような金沢21世紀美術館を思い出すが、バレンシア近代美術館(スペイン)そしてルーブル美術館分館(フランス)も任されるというから谷口吉生さんといい、日本の建築家は凄いですね。ガラスを多様した空間は外と内の境界を感じさせない、隔たりを越えていくという現代的なコンセプトを感じます。

16:30帰宅。
 夜はメトロポリタンオペラへ
せっかく初めてメットのオペラを見るのに「ヴォツェック」とはね。私が名乗っている喜歌劇「こうもり」だって見られたのですが。このオペラのストーリーといえば全く徹頭徹尾救いがないのです。貧しく無学な兵卒ヴォツェックが、生活苦や内縁の妻の不貞が原因で狂気に陥り、とうとう彼女を殺して自分も死んでしまうという悲惨なもの。作曲家アルバン・ベルク(1885~1935)が1914年に詩人ビュヒナーの戯曲を見て感動し、そのオペラ化を決意してから11年半もかかって初演が実現しました。しかも無調音楽でメロディーらしいものも皆無。ほとんで幕間なしの90分。高いお金を払って行くには短いのです。
 初演は1925年。惜しまれつつ亡くなったカルロス・クライバーのお父さん、エーリッヒ・クライバーが指揮しました。初演にいたるまでなんと137回の入念な練習が重ねられた、とも言われています。
 こんなに悲惨で難解なオペラが傑作として何度も上演されるのは、やはり現代と正面から向かいあって、無調でありながら叙情性から劇的表現に至るまでドラマと緊密な必然性を感じさせるからです。ウィーンフィルとクラウディオ・アバトのLDを持っているのですがこれも名演です。今回はジェームス・レバインの指揮。見終わって、やはりこの不条理なオペラに涙したのです。
メトロポリタン・オペラ劇場はフィリップ・ジョンソンの設計。優雅にして機能的。でもデジカメも禁止。盗み撮りしました。
 10:30に帰宅。驚いたことに響子が起きて待っていた。オペラに行く前に、明日は早いからと、お別れをしたのだけど、頑張って起きていたようだ。改めてグッドバイ。
1月4日
 朝5時にタクシーを呼んで空港へ。チェックインが手際が悪い。早く着いたのでなんとかなったが、そうでないとハラハラするだろう。ダラスまで3時間のフライト。乗り継ぎガ50分。これもぎりぎり。とうとう荷物は積み替えされずに二日遅れでの日本帰国となりました。

NYで感じたこと
ぼくにとってNYもTOKYOも別世界である。いつの時代も「豊かさ」の象徴であり続けるNY。すべてが頂点へ向かって昇っていかねばならないという強迫観念が摩天楼やグランド・ゼロ再開発となる。NYですら周辺に衰退地区を抱えながら一極集中をしていく。人間てなんてバランス感覚の悪い生き物なのだろう。
今日(1/28)「ボーイングを捜せ」という映画をみた。9・11がアメリカの自作自演と疑われるのです。ありうることだ。アメリカを中心にして世界は暗転していくように思われてなりません。お金、権力、地位への欲望の連鎖。ひたすら昇りつめる虚飾の世界の象徴。片や3秒に一人づつ貧困のうちに死んでゆく現実。そこをどう生きるのか自分に問いかけねばなりません。ぼくはMoMAが大好きなのだけど静かなMIMOCA(丸亀市立猪熊弦一郎現代美術館)も土門拳美術館だって大好きです。(どれも谷口さんの設計ですが)。
 豪華なメトロポリタン・オペラで貧しさと狂気の不条理な「ヴォツェック」を見て感動し、ギャラリー島田での板橋文夫のジャズライブ「祈り」に感動する。その落差のなかで
自分が生きていく座標軸を確認しなければ、この感動は「ひと時の快楽」ということすぎません。息子や孫のお陰でNYにも来る気になれました。狭窄気味の視野が多少、広がりました。

一緒に行った陽のNY紀行は、島田陽設計事務所のブログで写真付でご覧頂けます。