「村上華岳と曽我蕭白」
藤村良知展が順調に始まった一日、なんとしても見ておきたかった二つの展覧会を見に京都へ遊んだ。5月11日のことです。山の緑が微妙なハーモニーで眼を楽しませ、風が薫り、陽が肌を柔らかく射るそんな日でしたが、ウィークデーとはいえ両会場とも人出に恵まれていました。
村上華岳は花隈に居寓されていたこともあり、いつも興味をもっていたのですが、散発的にしか作品に出会うチャンスがなく、その高い評価と私自身の感覚にずれがあって、今回のポスターにも使われた華岳32才のときの「裸婦図」もピンと来ないのです。だから華岳の生涯をたどるこの展覧会(京都国立美術館)は絶対に見逃せないのもでした。華岳の3大画題は「観音」「山岳風景(六甲山)」「花(牡丹)」で、これは藤村良知(本名の良一に由っている)も変わりません。結論だけ言えば、52才で亡くなった華岳、最晩年の昭和14年(晩秋11月11日に花隈で没)の一連の作品が素晴らしい。絶筆の「牡丹」や「拈華観音像」「巌山松樹之図」「羅漢」など3大画題の全てにおいて広大な宇宙感、華岳のいう神知の世界に至ったのではないか。その神知とは、描くべき対象と、天地の気と、自らの精神(こころ)が合一した境地と言っていいかと思います。それは決して悟り、澄み切った境地という静謐なものではなく、善悪を抱擁した朦朧の世界を超えた深い世界に到達したと感じました。これからが村上華岳から神知(たぶん本名の震一に由っている)の独断の世界を描かれたであろうと思うと残念です。
それほど最晩年の作品群は素晴らしい。
続いて「曽我蕭白展」{京都国立博物館}へ行った。「無頼という愉悦 円山応挙が、なんぼのもんじゃ」の副題が凄い。伝統的な水墨画の技法、美を踏まえながら、その技も凄いけど反骨、風刺を超えた憤激、挑発の無頼ぶりが、ぼくには気持ち良い。ようやるなと喝采している。極北の拗ね者ぶり、まさにアバンギャルド(前衛)である。この中の人物に平成中村座の「夏祭浪花鑑」の笹野高史演ずる舅義平次の壮絶な殺し場面の面影をみて密かに笑ったり、毒素満溢の「寒山拾得図」にど肝を抜かれたりしました。
伊藤若冲が、同じ奇相・異端の画家であっても両家のおぼっちゃんで、穏やかな人柄であったのに対し、蕭白は京都の商家に生まれたとはいえ、素行も奇矯、無頼の逸話に事欠きません。その生涯は謎に包まれ、没後は完全に忘れられ、フェノロサなどによって主要作品はボストン美術館など海外へ渡ってしまったのでした。
副題の「円山応挙が、なんぼのもんじゃ」の意味は蕭白は応挙の3才上の同時代人。第一者と謳われた応挙の絵を、蕭白は「絵図」と言って認めなかったのです。図鑑のごとき細密さといえばいいでしょうか。その先の写生、対象の本質を表し、先に触れた「神知」の境地を蕭白も目指したのです。もっとも蕭白は狂気、毒素をたっぷりと盛っていますが。
異端の絵師と言えば、松村光秀さん(蕭白に遅れること200年)を連想せずにはおれません。今回、東京芸術大学所蔵で、めったに見ることの出来ない蕭白の「柳下鬼女図屏風」を見ることが出来ました。激しい風の逆立つ髪の表現、老若が一体となったような異様な女性像は、今回、出品されていなかった蕭白の美人図(奈良県立美術館)と松村先生の「狂女」に愛欲嫉妬の表現として通じ、蕭白の女の長い指、長い足、肉感的に長く伸びた足指なども共通するものです。平家物語「宇治の橋姫」伝説にある 嫉妬の鬼に変身し「髪は逆様に立ち、口広く、色赤うなり、目(まなこ)大きに面さし入りたる」とある姿に重なるのです(注)。しかし松村作品は自身の体験(それは梁石日<ヤンソギル>の名作「血と骨」の世界のごときものなのですが)を踏まえたもので決して蕭白に倣ったイメージではありません。
曽我蕭白51年の生涯。村上華岳は蕭白のほぼ100年後に生まれ、ほぼ同年を生きました。かたや世間の様々なものを爆破し、拡充し、広大な世界を手中にしようとし、かたや自己の内面に降りて行き、内的宇宙を絶対的なものとしようとしたのでしょうか。 (注)畏友、林進さんの「絵画の深意―日本近代絵画の図像学」を参考にしました
今回の藤村良知展で様々な出会いや、再会が生まれました。華岳先生のお孫さんに当たる村上伸さんがお見えになられ貴重な写真をいただき、また藤村家の華岳関係の資料が村上家へ渡ることとなりました。