2005.12「こんな、ミュージアムはいらない」

 朝のシャワシャワとした冷気を感じながら開け放った窓から山の木々をみると、夏の名残の強さと、秋のはしりの内へ沈んでいく愁いを含んだ緑がせめぎあい、だんだんと紅に染め上がっていく気配です。今日の空は、どこかへサラッと抜けるような青さに紗を曳いたような戸惑いを見せています。ゆっくりと下っていくのでしょうか。鳥たちの囀りを聞きながら、ぼんやりと今日のこと、明日のことなどを考えています。 時間を追い越すように生きてきて、昂ぶった神経にうっすらと皮膜が取り付いたような疲れが取れない。草いきれのする道や、暮れなずんでゆく西の空が刻々に奏でる壮大な光彩のシンフォニー、ゆっくりと蒼穹を覆いつくし、眼を凝らせば見えてくる星々。そうした休止符が、余白が大切なのですが、でもぼくの頭には、もう何年も、通奏高音と呼ぶような耳鳴りが住み着いているようで、安息には至らないのです。
「こんな、ミュージアムはいらない」
 見事な秋晴れの一日。10月1日にオープンしたばかりの兵庫陶芸美術館に遊んだ。肌にあそぶ陽も心地よく、虚空蔵山の深い緑に黒瓦白壁のゆったりとした建物が映える。
 でも私は緊張しきっていたのです。その日、ここのセミナー室で関西の美術館博物館関係者45名を前にして「こんなミュージアムはいらない」という講演の依頼を受けていたからです。日本博物館協会近畿支部の研修会なのでした。話は兵庫県美から頂いたのですが、美術館巡りが趣味の私は、はじめ「こんな美術館に行きたい」と演題を出しました。しかし、冬の時代を迎えたミュージアムの危機に際し超辛口で、というリクエストを受け、「こんなミュージアムはいらない」に決まったのです。
 キイワードは「儲からん美術館はいらない」。関係者の痛いほど白い視線を浴びながら、言いたい放題の一時間と活発な質問。まあ楽しくやりました。勿論、単純に収入を上げろという話などではありません。逆説です。危機こそがチャンス、自らを鍛えるのです。でも、愛情溢れる話になってしまいましたね。「儲かった一日でした」と感想を頂きました。

兵庫陶芸美術館 JR:福知山線「相野駅」下車。兵庫陶芸美術館行きバス
079-597-3961  HPは http://www.mcart.jp

野見山暁治さんのお話

 風月堂さんのサロンで野見山さんのお話を聴いた。野見山さんとは窪島誠一郎さんとのご縁で、一緒に飲んで、踊ったことがある。もっとも踊ったのは野見山さんで、ぼくと窪島さんは、あっけにとられて見ていただけのような気がするが、踊ったかもしれない。ギャラリー島田のハンター坂を下りて左手に「グラン・ミカエル・イ・ダーコ」というチリ・レストランがあり、そこのママがうんと若い頃、スペインで野見山さんと親しかったそうで、イ・ダーコでしたたか飲んだのです。  

名エッセイストとしても知られていますが、お話も同様、飄々としながら、理屈でなく自然は恐ろしいがゆえに美しい。西洋絵画における自然は完璧に構成されたもの、東洋においては一瞬の美を気韻といったもので捉えるなどを分かりやすい言葉で納得させるのはさすがです。「四百字のデッサン」や「一本の線」などのエッセイも楽しいですが、ここでは新川和江(詩)とのコラボレーション「これは これは」(玲風書房)から野見山さんの素敵な絵を無断借用します。

ふーむの歌 

ふ-む ふーむ 花の中にもふーむ 

けむりの中にもふーむ

空にも 海にも 陸地にも ふーむは どっさり住んでいる  

2005.11「楽しかったワーグナーの喜劇」

楽しかったワーグナーの喜劇 美しかった横浜美術館の床

 オペラ「ニュールンベェルグのマイスタージンガー」(ワーグナー)をNHKホールで見てきた。ミュンヘン・オペラ(バイエルン国立歌劇場)の引越し公演、トーマス・ラングホフによる新演出。指揮はズービン・メータ。ドイツの国民的オペラを現代に置き換えた新演出で、舞台美術も話題。何しろ午後4時に始まり、終わったのが9時45分。途中35分の休憩が2回あるにしても、まことに長い。しかも劇的で、手に汗するドラマが展開するわけでもなく、どちらかと言えば喜劇。とはいっても全く退屈することなく堪能しました。  
 ワグナーがハンス・ザックスという実在のマイスタージンガー(職人兼詩人兼音楽家)をモデルに「ドイツ国民への尊敬とドイツ芸術の精華を讃える」ために自ら脚本を書いた。  
 職人とは、当時の階級制度の中で貴族、騎士に対する市民を代表するものだと思う。現代で言えば企業経営者にして芸術家、例えば堤清二=辻井喬のようなイメージだろうか。  このオペラはヒットラーのお気に入りでドイツ精神の鼓舞のために利用されました。確かに終幕の高揚感は圧倒的で、劇場全体が一体となって沸き返りました。当時のドイツであれば、またドイツ人であればなおさらのことでしょう。オペラという総合芸術の力と同時に危険性も実感しました。  
 ただ面白いのは、ワーグナーは1848年のパリ2月革命に呼応してドレスデンで無政府主義者バクーニンなどと共に蜂起、首謀者としてスイスに亡命を余儀なくされる経歴を持っています。このオペラも国家を賞賛するよりも芸術の力を讃えるものなのですが、ヒットラーによって悪用されたのです。  
 手元に阿部良男著の「ヒットラー全記録 20645日の軌跡」2段組み700Pの大部があります。丹念に見ていくと確かに毎年バイロイト音楽祭に出かけてワーグナーを聞き、ワグナー家と親交があったことが確認できます。この阿部さんは神戸北野の方なので、一度お話を聞きたいですね。
 実は新演出のトーマス・ラングホフはの父親も演出家で、ナチスに捕えられ、強制収用所に送られ、スイスに亡命した人。指揮者のメータはインドのポンペイ生まれ。音楽によって世界を融和していく活動に積極的に取り組む人。その二人による新演出にとても興味がありました。事前に脚本を精読していったので集中して聴けました。イメージしていたより素敵だったのは狂言回し的敵役ベックメッサーを演じたアイケ・ウィルム・シュルテ。ネオナチらしき若者が大勢登場するシーン、めでたしめでたしの大団円から一人はずれてベックメッサーにスポットが当たっていたところに注目しました。舞台を現代に移し、危険性をも警告しながら「芸術の力への賛歌」に惜しみない拍手を送ったのです。

横浜トリエンナーレ  

 オペラの前に原美術館で開催の展覧会「やなぎみわ 無垢な老女と無慈悲な少女の信じられない物語」をゆっくりと楽しみ、翌日は「横浜トリエンナーレ」と「李禹煥(リ・ウファン) 余白の芸術展」を見てきました。横浜は10時オープンと同時に入りました。JR石川町駅から懐かしい横浜元町を歩いて南へ。どこにも看板やポスターがないので、たまたま来た二人の巡査さんに道を聞いたのだけど「聞いたことがない」という反応。見当をつけて歩き出し、信号待ちでたまたま横にいた巡査に似た制服のガードマンに聞いたら「すぐ前の公園を南に」と教えてくれました。会場では音声ガイド(¥500)が便利、何度も足を運ぶなら別だけど私のような3時間コースでは不可欠。作家の肉声や意図を短く説明してくれる。多文化、多表現の中で俯瞰的な視点をくれる。 堀尾貞治さんと現代芸術集団「空気」の皆さんと会う。12月18日まで、ほとんど毎日、会場で制作するそうです。堀尾さんにとってはこうした行為、あるいは生きている、呼吸している総体がアートそのもの。とはいえ朝から黙々と作業を続ける「堀尾組」は凄い。総合ディレクター川俣正の理念を最も体現しているのが堀尾さんだろうと思いました。ワーク・イン・プログレス「増殖」「変化」「工事中」などのイメージ、あるいは「体験」「参加」などがキーワードになっていることが実感されます。ベネティアビエンナーレなどの圧倒感、威圧感には遠く、もっとナチュラルで「鉄・石」のイメージよりは「風・竹」といったアジアの匂いを強く感じました。堀尾さんの「100円均一絵画」「1000点 1000円絵画」、巨大壁面を毎日、塗り替えていく作業などは、理念型の仕事と対極にあり、パフォーマンスのように見えて、実はしっかりとしたアートへの根源的な問いかけが内在されているのですね。1000円均一を1000点とも買おうかと思ったのですが、そういうのは野暮というもので、やめました。でも30点くらいは欲しいな。
「李禹煥 余白の芸術展」  

横浜美術館での「李禹煥 余白の芸術展」も良かった。李さんの作品はもともと好きなのですが、白いカンバスに白をたっぷり含んだグレーの太筆。ほとんど余白。あるいは自然石に鉄板。それを囲む白い壁。たっぷりとした余白。たっぷりとした余韻、沈黙。気がつくと美術館の床に無数の文様があり、小さな記号や色の変化がある。地平面を支える安定した床と静かな饒舌。縦の白い平面と地平のコンクリートの調和がなんとも美しい。本来の床を覆っていたカーペットを剥がし、接着材の跡が露になったというわけ。仮に、この床が完璧な白であったり、木目の床材をイメージしてみると、これほど李禹煥の世界に惹きこまれただろうか、と思いました。

登紀子「情歌」に酔いしれる   

 翌日には多可郡中町のベルディホールでの加藤登紀子「ほろ酔いコンサート」に招かれて行ってきた。車で90分。このホールとのご縁は深い。前館長の奥村和恵さんに大変お世話になった。加藤さんはこのホールに14回目。地域の人たちとのすっかり馴染んでいい雰囲気。語りを交えながら、だんだん盛り上がっていきました。加藤さんの多くのオリジナル、そして選ぶ曲には一本のしっかりとした筋が通っていて凛として美しい。単なる恋歌ではなく「真実」がある。後半になって歌われたシャンソン「さくらんぼの実る頃」は1871年のパリコミューンを背景にしているし、その後に歌ったのが「レボリューション」、そして「絆」。加藤さんのご主人、藤本敏夫さん(2002年7月逝去)は元全学連委員長。でも単純な政治メッセージではない。加藤さんの「生きてこられた姿」そのものが歌に込められて、心を揺さぶるのです。加藤さんと獄中の藤本さんの往復書簡は素晴らしい大人の「恋文」ですね。お二人の生きる佇まいの美にこちらも身を正す思いです。なるほど、この地平から唄は立ち上がってくるのだと腑に落ちたのです。
加藤さんの隣に座って、この日のために中町が発売した純米吟醸「情歌」(命名もラベル文字も加藤さん)にしたたか酔って奥村家を辞したのは、もう日付けが変わろうとする頃でした。

2005.10「イタリア紀行2005最終回」

イタリア紀行2005 最 終 回

6月に行った旅の紀行も今回が最終です。 旅の第一の目的はカラバッジョ。そして美術館巡り。そして料理、音楽、観光といったところ。知らない街を地図を片手にさ迷い、目的の一枚の絵を求め、その絵の前に立ち尽くす。そこに至るプロセス全体にワクワクする。期待感が高まって、まだ会った事のな い恋人との出会いのように気持ちが高揚しているので冷静に見られているかどうかは分かりません。
今回の旅ではローマ、ナポリの13箇所にあるカラバッジョ作品を探して歩くわけなので迷路遊びみたいでもありました。

帰れソレントへ  

 様々な思い出のナポリとお別れ。ナポリ中央駅からヴェスービオ周遊鉄道で1時間10分。ソレントへ。ここから南へと海岸沿いを、ポジターノ、アマルフィーと下って行くのですが、さしたる美術館もなく、完全なリゾート地で、景色はまさに絶景です。

ポジターノでの失敗   

 ソレントからポジターノへはバスで2時間ほど。でも山際の階段状の町 らしく、バス停からホテルまで重い荷物を持って上り下りが大変だろうと、 思い切ってタクシーをチャターした。素晴らしい景色を見ながら、ルンル ンの気分。ところが運転手がホテルを間違えた。
ここは細い道の一方通行。どんどん山の上に上がっていき、迂回したあ げくに元の道へ。「この下がホテルだ」。
ぼくの頭は????????????。
家人と荷物を残して、100段もの階段をどんどん下りると目指すホテルが あったので、また階段を上がり、重い荷物を抱えて降りると、ホテルのマ ダムは「まあまあ、こんな重い荷物を持って。言ってくださればポーター に取りに行かせますのに」と笑っています。  
 「予約票」を出すと、マダムが気の毒そうに「貴方たちの予約は入っていない」という。何故?何故?何故? 実はこのホテルは「VIAMARE」、私が予約したのは「MONTEMARE」。旅行社が最初にメールで添付してきた地図が間違っていて、最終的に送ってきた地図と取り違えてタクシーに指示したのが真相。
 馬鹿なことに、又、重い荷物を100段も持ち上げたのでした。そこから目的のホテルが近かったのは不幸中の幸いでした。これが山の上だったりしたら「離婚の危機」に見舞われたかもしれません。
 お金持ちはこんなリゾート地に大きな荷物など持ち込まないし、持ち込むとしてもポーターを手配するか、ホテルに連絡して迎えに来てもらうでしょう。当たり前や。こんな階段を大汗かいて自分で荷物を運ぶなんて、ほんまにアホや。

アマルフィーへ
 ここへもタクシーか、バスか船かの選択肢がありました。ポジターノで賢くなったので、船で行くことにしました。港からそんなに遠くないようなのでタクシーかホテルに迎えに来てもらうか、どうにでもなると考えました。ここのホテルは修道院を改装した一級のLUNA CONVENTです。
ポジターノではポーターを呼んで港まで荷物を運んでもらいました。そして快適な船旅40分。その後のいきさつについては8月号に書きました。ここではプールで泳いだり、夜はワーグナーが夏の別荘として愛し「パルジファル」を作曲した山の上の町、ラベッロの野外コンサートを聴きに行ったり、ホテルの中庭でゆっくりビールを飲んだり。偶然だけど、
この修道院の中庭で1927年に和辻哲郎氏がお茶を飲んだことが「イタリア古寺巡礼」(岩波文庫)に書いてありました。 
 それにしてもサルトルが座っていたカフェ・マゴに座り、和辻が座ったアマルフィーの修道院でお茶を飲んだけれど、私の知性が改善される気配は…?

そして、帰国

 鉄道駅のサレルノへ出て、ナポリへ。空路、ミラノへ。ミラノで一泊。関空へ。
 行きは良い良い帰りは怖い。関空は国際空港なのか?ローマ直行便がない。しかたなく変な無駄なルートで行き来しました。日航と共同運航のアリタリア航空。行きは日航中心でサービス満点、しかも3席を独り占めで寝ていきました。帰りは満席でイタリアのサービス。ワインサービスは食事の時、一回きり。これはないよ。
 私たちの旅は手づくりです。だから事前にいろいろ調べたり、想像したり。行ってみて確認したり、ハラハラしたり、がっかりしたり。旅が終わってからも牛の涎のようにこうして旅行記を書いたり。たった2週間足らずの旅を半年以上楽しんでいることになります。習うよりも慣れろ。旅は面白い。アッ、もう次の旅の準備をしなければ。今年の年末年始は厳寒、厳戒のニューヨークです。

2005.9「イタリア紀行 200/PART II」

イタリア紀行 200/PART II

ローマ歩き

  前回のようなペースでイタリア紀行を書いていたら1年かかります。かくして私は年がら年中、遊びほうけているように思われるのです。急ぎましょう。
 カラバッジョの作品「キリストの磔刑」を見るために地下鉄でヴァチカンを目指しました。ヴァチカン美術館の開館30分前に着くように行ったのですが、地図を見ながら階段を上がっていって驚きました。目の前を長蛇の列をなして人が行きます。私達が合流しようとすると女性が何やら大声で非難の声を上げます。別にロープが張られているわけでもなく、だだ、道が合流しているだけなのにね。大分と後ろへ回って、それでも列に割り込むように、ぞろぞろと20分ほど歩きました。ようやく入り口が見えてきました。ところが行列は、その前を通り越してはるか彼方から折り返しているのです。諦めて列を離れてヴァチカン広場からサンタンジェロ城へ抜けました。この城は私はプッチーニのオペラ「トスカ」の舞台として馴染んできました。素晴らしいアリアがたくさんあり歌姫トスカの「歌に生き、恋に生き」や、恋人で政治犯カバラドッシが歌う「星は煌きぬ」などは空で歌えるほど熟知しています。
 トスカは、何処から飛び降りて、何処へ落ちたんだろうと眺めながらテヴェレ川にかかるサンタンジェロ橋を渡ってナヴォーナ広場を目指しました。この近くのサンゴスティーノ教会とサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会にあるカラバッジョを見るためです。 ここでも迷いました。路地が迷路のようですし、教会と周囲の建物が判然としないからです。カフェで一息ついて、地図で確認。この「迷う」ということも旅の大事な要素なのです。初めての土地ですから、迷っているうちに天啓のように全体が見えたりします。ガイド付きの旅では味わえない魅力です。

ナポリへ  

 この列車のチケットを買うときに大きなミスをしました。いや、買うのは簡単でテルミニ駅の窓口でメモを渡して1st Classと言っただけで、クレジットカードで決済したのです。次の買い物の時にカードがないことに気が付いて青くなりました。きっと駅に違いないと慌てて戻りました。幸運なことに、気が付いたのが、早かったので、切符を売ったおじさんがまだ窓口にいて、事情を説明すると「ああ!君だ」と声を上げて「待って」といって事務所に入っていき、帳面とぼくのカードを持って戻ってきました。パスポートのコピーを見せ、無事受け取ったのです。親切な人でよかった。
 ナポリへは早いICを予約しました。でっかい鉄道駅でホームが18本くらいあるので、まるでエアーポートのような電光掲示板をみて自分の列車を確認するのです。アナウンスもないし、改札もない。自己責任なのです。ぼくらのICは、なんと45分も遅れたのです。これなら定刻発車のローマ発の普通列車の方が早く着いたことになります。
 実は帰国するときのナポリーミラノ間の飛行機も30分以上遅れたのです。待ちくたびれた時に機長が何やら事情説明をして、機内がドット沸き、万歳のポーズをする人もいました。家人は「50%」と言ったから払い戻すと言ったのよ、という、半信半疑で、どうして戻すのかななどと思っていたが、ローマに着いても、皆、何事もなかったように散っていく。後で旅行社の人に聞くと「機長のリップサービスでしょう」。
 こうした時の外国での対応の鷹揚さは見習いたい。数分の遅れを取り戻すべく爆走させて痛ましい惨事を引き起こす国に住むものとして。

タクシ・ドライバー マッシモ   

 サンタルチア港を散策し、ヌオーボ城と市立美術館を見て、取り敢えずホテルへ戻ろうとタクシーに乗った。体のでっかいサッカー選手のようなドライバーが、話しかけてきた。英語である。何処から来たか。ナポリは初めてか?イタリアは?何処を見たいか? 「明日はポンペイに行く」と言うと、ならば俺が案内する。3時間で100ユーロ、それだけでいい。あとは行きたいレストランまで送り届ける、という。ならば、とお願いする。降車してホテルまでの料金を払おうとしたら、これは俺のプレゼントだと受け取らない。まあ陽気なナポリ野郎で、散々、ナポリ自慢をして「でも大きな問題がある、それはナポリターノだ、これが頭が空っぽで何も考えてない」という。
 ナポリの交通事情は悪い。運転は荒く、無秩序。とんでもない割り込みがあるとマッシモは「これがナポリターノだ」と大げさに嘆く。
 翌朝9時にマッシモがホテルに。サッカーの話題で盛り上がり、カンツォーネを一緒に唄った。ポンペイへ行ったが、11時までスト。「これがナポリターノだ。何を考えているのだ。外国から沢山の人が見にきているのに」。
 79年8月24日のヴェスヴィオ火山の噴火で埋没。ブルボン家のカルロ王によって1700年の眠りか蘇った。町並みは紀元前5世紀くらいに出来たものである。日本はようやく稲作と金属器の弥生文化が北九州に生まれたころである。暑い日差しの中を古代ローマ人になった心境で歩く。22年前にギリシャへ、9年前にシチリア島のアグリジェントの古代遺跡を歩いた。だからと言って何ほどのこともないが、体内に歴史時間軸を体験として持つのは大切なことかも知れない。
 ポンペイから、もう一つの古代都市エルコラーノ寄ってミラノに戻ることにした。すっかり気の合ったマッシモを昼食を奢るからと誘う、何処が良いかときくと「ダ・ミケーレのピッザが最高だ、美味くて安い」という。
 もう2時を回っていたけどミケーレの前は行列が出来ていて番号札を貰うらしい。マッシモが貰ってきて「俺は外で待ってる」と聴かない。テイクアウトの人も多く5分待ちくらいで順番が来た。ここのピッザはマルガリータ一本槍である。南京町の豚饅「老祥記」をイメージすれば分かり易い。これが実に美味しかった。ナポリのピッザは生地に特徴があり、周辺を高めにつくり、パリッと焼き上げるよりは、もっちゃりとした感じで、モッツァレラチーズと南伊の陽光を一杯に浴びたフレッシュトマトがミックスされてシンプルだけど情熱的なカンツォーネのようでした。ビールを飲んでお勘定が4.5ユーロ(約600円)くらい。
 待っていたマッシモに「カポディモンテ美術館へ」というと「あそこへ行くならカラバッジョだ」という「勿論だ、ずっとカラバッジョを見る旅をしている」と答える。 ホテルまで送ってもらって7時間にわたるマッシモとの旅は終わった。180ユーロ。
 これにはさらに後日談がある。あくる日は船でカプリ島へ渡った。まあ観光地で、どうということはなし。夕方、サンタルチア港へ帰りつき、タクシー乗り場へ行くと、なんと向こうでマッシモが手を上げている。彼にホテルまで送ってもらう。マッシモ両手の親指と人差し指で円を繋げて不思議な縁で結ばれていると笑い、固い握手で別れた。(つづく)

2005.8「私に出来る小さなこと」

私に出来る小さなこと 「Do Something」

 戦後60年の夏が巡ってきました。戦争と平和を巡る様々な論争が行われるでしょう。 でも、お茶の間評論、居酒屋評論を超えて、私たちの未来のために、続く若い世代のために、殺し合いのない世界を構築するための煉瓦を黙々と積む作業をしなければなりません。私に出来る小さな提案です。
Do Something

  私がDo Somethingという言葉を知ったのはマイケル・ムーア監督の映画「華氏911」のエンディングの字幕が下から上へと水の泡が立ち上ってくるように流れて行くのを見ていて、小さく書かれたDo Somethingというフレーズが心の隅にひっかかりました。
 そして昨年9月11日のセプテンバーコンサート「平和への祈り」、12月23日にはギャラリー島田でジャズピアニスト・板橋文夫さんのライブ「戦争は嫌だ!」を開催、そこでコメントを求められて、小さな石を投げる「Do Something」と呼びかけました。
 これらのコンサートの会場におられた歌人・画家の南輝子さんが歌集「ジャワ・ジャカルタ百首」のあとがきで「Do Something」の波紋をさらに広げて下さったのです。
 5月24日に「ソウル国際文化フォーラム」で大江健三郎さんが、エリオットの詩句「われわれは静かに静かに動き始めねばならない」と題した講演をされ、その訥々とした語りのなかで「ほんのわずかなこと」に希望を託すと語って、大きな感動を与えたそうです。(6月12日日経新聞 蓮實重彦)
 Do Something=ほんのわずかなこと でも確実に、日々、言葉でも振る舞いでも。みんなで。

怒りをこめて振り返れ  

という、J,オズボーンの旧作を思い起しております。  そこから「闘い」に走っても朝はこない。別の「表現」を持ち寄りましょう。  「灯」を持ち寄れば「星」になる。「星」が集まれば「天の河」です。

湯布院の中谷健太郎さんからの手紙です

戦争はなくならないか   

 20世紀は戦争の世紀と呼ばれました。しかし、それ以前の世紀だって、至るところ血塗られた歴史です。イタリアを旅しながらイタリアの歴史を読んでいました。
 日本の戦国時代が終わり一応の日本統一の基礎ができたのが16世紀末、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が、サルディニアからシチリア島までのイタリア半島に散らばる小国を統一したのは1859-70年、ほんの150年前のことです。そして20世紀の2度にわたる世界戦争の歴史を踏まえての現在があります。日本人同士、イタリア人同士が殺し合う時代に戻ることは今や、想像できないでしょう。EU諸国間でも同様です。
 歴史の歩みを逆戻りさせないためには、みんなが「ほんのわずからこと」「灯をかかげること」「Do Something」を静かに、しかし確固として始めねばならないのです。

私の関る「Do Something」 平和を考える
■(1)映像とトーク「戦争を学ぶミュージアム/メモリアル」

講師:笠原一人「メモリアルすることの困難」
   寺田匡宏「戦争メモリアル、アジアを歩く」
■日時:2005年8月2日(火)午後6時半より8時半まで
□場所 ギャラリー島田
■会費:1,000円
(会終了後、出版を祝う交流会を行います。席に限りがありますので要予約。)

この6月、笠原一人さんと寺田匡宏さんが、戦争、平和について考える旅のガイドブックを岩波ジュニア新書として上梓しました。二人は高校時代を神戸で過ごしましたが、当時つきあいはなかったそうです。そんな二人が出会うきっかけをつくったのが阪神大震災です。ガイドブックが目指すものは何かを、スライドを上映しながら語って頂きます。フリートークの部では、季村敏夫が聞き手となって裏話なども伺います。

●笠原一人さん「メモリアルすることの困難」
広島平和記念公園、ベトナム戦争メモリアル、ユダヤ博物館などをスで紹介しながら、戦争を記憶すること、表現することの難しさを語ります。

●寺田匡宏さん「戦争メモリアル、アジアを歩く」
アジアの近隣諸国との関係が現在おもわしくありません。昭和の戦争に密接に係わった土地に建てられたナヌムの家、南京大虐殺記念館、731部隊陳列館などについて語ります。

■(2)「映画 日本国憲法」 監督 ジャン・ユンカーマン 

8月20日~9月2日  前売 ¥1,200
神戸アートビレッジセンター KAVCシアターにて期間中に戦後60年を振り返るトークイベントを予定
上映時間など詳細は神戸アートビレッジセンターにお問い合わせ下さい。
Tel:078-512-5500

■(3)「セプテンバー・コンサート」 9・11に世界の平和を祈るコンサート  

第3回となりました。今年はがギャラリー島田斜め向かいのライブ・ハウス「クレオール」も加わります。
東京では庄野真代さんが中心になって大規模にスタートします。
9月11日(日) 17;30~19;00 クレオール
19;00~21;00 ギャラリー島田 
地元の音楽家多数が出演いたします。
入場はいずれも無料
終了後、交流会(参加費¥1,000)

■(4)板橋文夫ジャズ・ライブ  「震災メモリアルと平和へのメッセージ」

昨年のライブ「戦争は嫌だ!!!」に続いての開催です。思えば、私の「Do Something」は、このライブに始まり、大きな波紋となって、またここに帰ってきました。南輝子さんの個展(ギャラリー島田1FDeux)のオープニングに合わせての開催です。
板橋さんの渾身のライブは魂を揺さぶります。
2006年1月15日(日) 18:00~ ギャラリー島田
前売り ¥2,500  

2005.7「イタリア紀行2005」

イタリア紀行2005
「23回目の海外旅行」

 1963年に神戸高校合唱部の米国ツアーに同行して以来、23回目の海外です。グループ旅行にも、それなりの楽しみ方があるけど、基本的に群れることを好まない性格は直らないもので、お互いの興味に干渉し合わない、旅のルールを決めて家人との旅を重ねてきました。中学生程度にも満たない英語力だけで、18カ国を巡ってきた。恐るべき度胸というか、単なる旅なれですが。
 今回の旅行は、ローマ三泊、ナポリ三泊、ソレント、ポジターノに各一泊、アマルフィ二泊、そして関空に直行するためにミラノ経由で帰国というものです。前半は、ともかく美術館巡りとオペラ。後半は南イタリアの陽光をふんだんに浴びて、イタリア料理のベースである、美味しいフレッシュトマトのように生き返ろうという魂胆です。

カラバッジョを訪ねて

 カラバッジョ(1571-1610)は本名をミケランジェロ・メリジという。巨匠ミケランジェロ・ブエラローティが亡くなって9年後にミラノから東へ40?の田舎町カラバッジョに生まれた。カラバッジョ村のミケランジェロ・メリジ、すなわち本名はミケランジェロ・メリジ・ダ・カラバッジョ。ヴィンチ村のレオナルドがレオナルド・ダ・ヴィンチであるのと同じです。建築家であった父が巨匠にあやかってつけた名前だが、結局、村の名前が残った。
 10才で孤児になるが、今回、私が見たローマのサン・ルイージ・ディ・フランチェージ聖堂の礼拝堂装飾を任されたのが24才であるから、若くして頭角を現していた。しかし、私生活はとんでもなく、男色趣味、賭博、喧嘩、女性関係のトラブル、告訴、逮捕、投獄を繰り返したあげくに1606年5月29日、友人たちと球技を楽しんでいて喧嘩になり剣で相手の胸をつき殺してしまう。
 前歴が前歴なので死刑。逃亡。潜伏。マルタ島ではその絵が評判になり栄誉ある騎士団に迎えられるが、破廉恥殺人犯であることがばれて教皇庁警察とマルタ騎士団と両方から追われる。ようやくローマから恩赦の知らせが届きナポリへ戻る途上、あと一歩のところで船上で警察に誤認逮捕され、再び釈放されたものの、よろよろと熱砂の砂浜を歩いていて熱病で倒れる。(ただし行き倒れではなく修道院で看取られて亡くなった)享年39才。
 こんなとんでもない人生を送った画家が、時代を革新し、同時代の画家に大きな影響を与え、多くの追随者(カラバッジェスキ)を産んだのです。

 ルーブル美術館や、フィレンツエのウフィツィ絵画館やミラノ・ブレラ絵画館などでカラバッジョを何点も見てきて興味を持っていたのですが、宮下規久朗(神戸大学助教授)さんと出会い、氏がカラバッジョの研究家であり、かつカラバッジョが平成に蘇ったのではないかと思うほど、似ていた(性は粗暴にあらず)ので、親しくなり、2002年2月にギャラリー島田の火曜サロンにて「鬼才 カラバッジョの生涯」と題してお話して頂きました。その後、日本でも、宮下さんが関って大規模な「カラバッジョ展」が開催され、大変な話題になりました。昨年12月にはカラバッジョ研究の「聖性とビジョン カラバッジョ」(名古屋大学出版部刊)を出版されました。今回、それを読ませて頂いたのを機会に、たくさんの作品がある、カラバッジョが暮らしたローマ、ナポリを訪ねることにしました。カラバッジョの作品は、ローマには24点が11箇所に別れてある。ナポリに2点、ミラノに3点だろうか。
 僕らの世代というか、私の性癖というか、何か目標を立てないと動けない、ただボケーーと旅したとは言えないところがあって、自分に大義を必要とする。このところの大義は一貫して「美術館巡り」。畏兄・伊藤誠さんには足元にも及ばないが(「海外美術館を巡り歩く」の著書あり)、私のホビーなのです。ローマは1983年以来 、22年ぶりの再訪。ローマへの道は一日にしてならず。  
ローマ空港から

 列車でテルミニ駅(中央駅)へ。長い長いホームを出て、駅から5分のホテルを予約してある。
 翌朝5時に眼が覚めて、一人で散歩に出る、ぼくは何処へいっても街がようやく動き出そうとする朝が好きだ。公園の掃除が始まったり、足早に出勤する人、路上生活者の朝。今朝は肌寒い。
  7時に朝食を済ませ、早速、近くのチンクェチント(5百人)広場公園へ。このあたりは206年に完成した3000人を収容する大浴場(テルメ)の遺跡だ。市民の政治への不満をそらすために劇場、スポーツ施設なども備えた一大歓楽センターであったというから、いつの時代も同じだね。日本はまだ卑弥呼の時代なのにローマは、その1000年も前に下水道設備を備えた都市づくりをしていたのだから、その重層的な文化の厚さには驚きます。 この公園の一角に、古代遺跡の石壁をそのまま利用したサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会があります。最晩年のミケランジェロが設計。ミケランジェロは彫刻家、画家であるとともに建築家としても優れた仕事をたくさん残しています。

閑話休題 旅と服装  

 夏の旅はスーツというわけにはいかない。ともかく歩くので、カジュアルなシャツ、Tシャツにパンツ、サンダルである。もちろん、オペラや夜のディナー用にそれなりの服と靴も持って行く。この教会の前に6台くらい、クラシックな雰囲気の長さ5mはありそうな超高級車が並んで、パリッとスーツをきた男たちがたむろしていた。その車を興味深く見入っている、お金がありそうな人にはパンフレットが渡されていた。私たちは無論、無視された。
 アマルフィのホテル、ルナ・コンベルトは四ツ星。船で着いて格好よくタクシーで乗り付けるつもりで、重い荷物を押して汗だくでタクシー乗り場を探し、10分くらい待って、ようやく乗ろうとしたら、「歩いていけ」と500m先を指す。なるほど近い。石畳の坂をまた汗だく。ようやくフロントに着きチェクインの手続き。彼等は素早く客の服装、とりわけ足元に視線をやる。このフロントのお兄ちゃん、私たちの服装を見て、少し見下したニュアンスの対応をした。さっぱりとシャワーを浴びて、着替えをし、靴に履き替えて、ローマで買った真っ白のボルサリーノの帽子をかぶってサングラスをして(まるでイタリアンマフィア)エレベーターに乗ろうとしたら、その兄ちゃんとばったりと鉢合わせした。彼は一瞬、私を見つめ、足に眼をやり「ボ、ボ、ボンジョルノ」と慌てて挨拶をよこした。昔から「足元を見る」とはよく言ったものだ。この格好で髭を伸ばしてギャラリー島田に出勤したら法橋さん、井上よう子さんはギョとしていました。

今回訪ねた美術館

カラバッジョ
ローマ ボルゲーゼ美術館
6点
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
2点
サンタ。マリア。デル・コンチェティオーネ聖堂
1点
バルベリーニ宮国立古代美術館
3点
サンタゴスティーノ聖堂
1点
ドーリア・パンフイーリ美術館
3点
カピトリーノ美術館
2点
サン・ルイジ・ディ・フランチェージ聖堂
3点
コルシーニ美術館
1点
ナポリ 国立カボディモンテ美術館
ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア
ナポリ市立美術館(カステル・ヌオヴォ内)
1点
1点
ソレント ソレント美術博物館
                     

国立ローマ(テルメ)美術館

  ここが9時から開くので共和国広場を散歩して、開館と同時に入る。ここはテルメの中心部と、それに接していた修道院付属の建物、中庭、回廊が整備されたもの。ローマとその周辺から発掘された彫刻、モザイク、フレスコ画などが収集されている。ミケランジェロの回廊で、庭園の噴水を見ながら休憩。
 ここで家人と別れて、私はカラバッジョ探しに。地下鉄でバルベリーニ広場へ。地下鉄の乗り方は、どこの国でも標準化されているのか、簡単だ。チケットは入り口付近のタバッキ(売店)で買う。これも日本のように細かく料金設定されていなくて、どこまで乗っても1ユーロ。一日乗り放題5ユーロ。

バルベリーニ国立絵画館

  さてバルベリーニ駅で地上に出て、うろうろ。チェザ・ディ・サンタ・マリア・デッラ・コンチェティオーネに「瞑想の聖フランチェスコ」があるらしい。日本の地図では骸骨寺となっている。周辺をぐるりと回っても分からない。この近くバルベリーニ国立絵画館がありカラバッジョが3点ある。二人の警察官が話していたので「ムゼオ ナショナーレ」と聞くと、二人で話し合っていて「アバンテ アバンテ」と言って左を指す。まっすぐいって左だ。また元の位置に戻る。街を歩くお婆さんに聞く。しばらく考えて指を差した先には大きく「バルベリーニ」と屋上看板。これはホテル。 ホテルの一部が美術館か?と入り口を一周。
 困惑していると、人が上がっていく階段がある。プレートを見るとチェザ・ディ・サンタ・マリア・デッラ・コンチェティオーネとあるではないか。中へ入るとまさに骸骨寺。なんという悪趣味だろう。壁も天井も人骨で装飾されている。いろんなところでカタコンベ(地下墓地)は見たけど、ここはちょっとね。でも、ここにあるはずのカラバッジョの「瞑想の聖フランチェスコ」は何処にもない。受付で聞いても「ない」と言うだけ。そんなことで出鼻をくじかれた。ようやくバルベリーニ国立絵画館へたどり着く。
  ここで「ナルキッソス」「ユディットとホロフェルネス」「瞑想の聖フランチェスコ」の3点と対面。前の2作品は27才くらいの作品。フランチェスコは1606年、35才の頃。男色のナルシスト、残虐性、宗教性とカラバッジョの三つの特性系譜を表す代表作である。時間がないので、タクシーを拾ってボルゲーゼ公園の中にあるボルゲーゼ美術館へ。(カラバッジョの印象については、後でまとめて記す)

「ボルゲーゼ美術館にて」

 西村功先生の名作に「ボルゲーゼ美術館にて」があり、有名なアントニオ・カノーヴァのバオリーナ・ボルゲーゼ(大理石彫刻)の裸婦像が描かれていた。今回、この美術館を訪ねるのは大きな楽しみでした。このバオリーナは皇帝ナポレオンの妹でボルゲーゼ家に嫁した。当時の上流階級婦人としては異例の裸婦像だそうだが、裸になるのを厭わなかった奔放な女性であったらしい。夫が見せるのを嫌がって、少数の友人にだけ、月の光と1本の蝋燭の灯りで見せていたというが、かえって嫌らしいではないの。それにしてもこのベッドシーツの表現、蜜蝋をひいた肌の肌理の細やかさには驚嘆しますね。
 ミラノのブレア美術館の入り口に、同じカノーヴァの、皇帝ナポレオンを シーザーに見立てた裸像が立っている。カノーヴァの前で兄妹が裸にな ったという訳だが、兄の方はこの像に閉口していたという。 そしてローマの至るところで見られるベッリーニの彫刻の真迫性。
 ボルゲーゼ卿は早くからカラバッジョの才能を認めていたので6点のコレクションがある。20代の作品には怪しげな微笑を浮かべ、もろ肌を脱いだり、しどけない格好をした美少年(自画像?)がリュートや花や、果物籠を抱えた一連の不思議な絵がある。その系譜の「果物籠を持つ少年」「病めるバッカス」と、「瞑想する聖ヒエロニムス」「蛇の聖女」「洗礼者ヨハネ」といった宗教的な画題による作品がある。ともかく、どれもが物議を醸しそうな異教的な雰囲気で、敬虔にして禁欲的なキリスト教徒が見たら仰天するような絵なのだが、何故か人気があるのです。例えばこの「洗礼者ヨハネ」などは、全裸の美少年がこちらを憂いを含んだ眼差しで見つめているし、あとで見たカピトリーノ美術館の「洗礼者ヨハネ」などは可愛いオチンチンまで見せて、こちらに向かっていわくありげに笑っているからたまらなく変で、ヨハネのイメージがガタガタと崩れ去ってしまうのです。そして「蛇の聖女」は聖母マリアが幼きキリストに、邪教の象徴である蛇を踏みつけることを教えている図なのですが、最初ヴァティカンに飾られる予定だったのが、マリアの胸が肉感的に大きく開いているため、受け取りを拒否されたという、いわくつきの作品なのです。
(つづく)

2005.6「村上華岳と曽我蕭白」

「村上華岳と曽我蕭白」

藤村良知展が順調に始まった一日、なんとしても見ておきたかった二つの展覧会を見に京都へ遊んだ。5月11日のことです。山の緑が微妙なハーモニーで眼を楽しませ、風が薫り、陽が肌を柔らかく射るそんな日でしたが、ウィークデーとはいえ両会場とも人出に恵まれていました。
 村上華岳は花隈に居寓されていたこともあり、いつも興味をもっていたのですが、散発的にしか作品に出会うチャンスがなく、その高い評価と私自身の感覚にずれがあって、今回のポスターにも使われた華岳32才のときの「裸婦図」もピンと来ないのです。だから華岳の生涯をたどるこの展覧会(京都国立美術館)は絶対に見逃せないのもでした。華岳の3大画題は「観音」「山岳風景(六甲山)」「花(牡丹)」で、これは藤村良知(本名の良一に由っている)も変わりません。結論だけ言えば、52才で亡くなった華岳、最晩年の昭和14年(晩秋11月11日に花隈で没)の一連の作品が素晴らしい。絶筆の「牡丹」や「拈華観音像」「巌山松樹之図」「羅漢」など3大画題の全てにおいて広大な宇宙感、華岳のいう神知の世界に至ったのではないか。その神知とは、描くべき対象と、天地の気と、自らの精神(こころ)が合一した境地と言っていいかと思います。それは決して悟り、澄み切った境地という静謐なものではなく、善悪を抱擁した朦朧の世界を超えた深い世界に到達したと感じました。これからが村上華岳から神知(たぶん本名の震一に由っている)の独断の世界を描かれたであろうと思うと残念です。
 それほど最晩年の作品群は素晴らしい。
 続いて「曽我蕭白展」{京都国立博物館}へ行った。「無頼という愉悦 円山応挙が、なんぼのもんじゃ」の副題が凄い。伝統的な水墨画の技法、美を踏まえながら、その技も凄いけど反骨、風刺を超えた憤激、挑発の無頼ぶりが、ぼくには気持ち良い。ようやるなと喝采している。極北の拗ね者ぶり、まさにアバンギャルド(前衛)である。この中の人物に平成中村座の「夏祭浪花鑑」の笹野高史演ずる舅義平次の壮絶な殺し場面の面影をみて密かに笑ったり、毒素満溢の「寒山拾得図」にど肝を抜かれたりしました。
 伊藤若冲が、同じ奇相・異端の画家であっても両家のおぼっちゃんで、穏やかな人柄であったのに対し、蕭白は京都の商家に生まれたとはいえ、素行も奇矯、無頼の逸話に事欠きません。その生涯は謎に包まれ、没後は完全に忘れられ、フェノロサなどによって主要作品はボストン美術館など海外へ渡ってしまったのでした。
 副題の「円山応挙が、なんぼのもんじゃ」の意味は蕭白は応挙の3才上の同時代人。第一者と謳われた応挙の絵を、蕭白は「絵図」と言って認めなかったのです。図鑑のごとき細密さといえばいいでしょうか。その先の写生、対象の本質を表し、先に触れた「神知」の境地を蕭白も目指したのです。もっとも蕭白は狂気、毒素をたっぷりと盛っていますが。
 異端の絵師と言えば、松村光秀さん(蕭白に遅れること200年)を連想せずにはおれません。今回、東京芸術大学所蔵で、めったに見ることの出来ない蕭白の「柳下鬼女図屏風」を見ることが出来ました。激しい風の逆立つ髪の表現、老若が一体となったような異様な女性像は、今回、出品されていなかった蕭白の美人図(奈良県立美術館)と松村先生の「狂女」に愛欲嫉妬の表現として通じ、蕭白の女の長い指、長い足、肉感的に長く伸びた足指なども共通するものです。平家物語「宇治の橋姫」伝説にある 嫉妬の鬼に変身し「髪は逆様に立ち、口広く、色赤うなり、目(まなこ)大きに面さし入りたる」とある姿に重なるのです(注)。しかし松村作品は自身の体験(それは梁石日<ヤンソギル>の名作「血と骨」の世界のごときものなのですが)を踏まえたもので決して蕭白に倣ったイメージではありません。
 曽我蕭白51年の生涯。村上華岳は蕭白のほぼ100年後に生まれ、ほぼ同年を生きました。かたや世間の様々なものを爆破し、拡充し、広大な世界を手中にしようとし、かたや自己の内面に降りて行き、内的宇宙を絶対的なものとしようとしたのでしょうか。 (注)畏友、林進さんの「絵画の深意―日本近代絵画の図像学」を参考にしました  

 今回の藤村良知展で様々な出会いや、再会が生まれました。華岳先生のお孫さんに当たる村上伸さんがお見えになられ貴重な写真をいただき、また藤村家の華岳関係の資料が村上家へ渡ることとなりました。

(2005.5) 「拗(す)ね者の生き方」

「拗(す)ね者の生き方」

 先月の日記で、自分の生き方を拗ね者と書きました。そんな風には見えないねとおっしゃる方もいます。何処が変なのでしょう、一例を。仕事が、大企業、小企業から個人へ。どんどん肩書きが無くなって、ゼロへ。その全てが、自分で選択してのことで、いわば逆行しているのですね。世間に背を向けながら「社会を良くする」などと大口を叩いているのですからいい気なものです。(注)
 海文堂書店が「林哲夫 装幀も仕事!」というオリジナルブックフェアをやっていました。そこで数冊求め、その縁で林さん夫妻と出会い、来年2006年の秋に、画家・林哲夫の個展をすることになりました。私が佐本進さんの遺稿集「天の劇場から」を風来舎から出版した時に、装幀をしてくれました。それが彼の最初の装幀の仕事だったそうで、ご縁があるのです。
 そのフェアで買った本の1冊が「古本極楽ガイド」(岡崎武志)で、それに触発されて ぼくがほとんど買ったことがない漫画本「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」(高野文子)に出会いました。そしてその又つながりで「ユリイカ 詩と評論 2002年7月 高野友子特集」を読んだのです。漫画もアートだなあと新鮮な発見(今頃、こんなこと言って、遅れていますね)でした。
「ユリイカ」で高野さんが「AKIRA」の大友克洋さんと対談していて、これが面白いのです。大友さんが高野さんに「高野の正義を見せてくれよ」と挑発し、「おう、お見せしましょう」と、この72Pの「黄色い本」を書くのに3年もかけたのです。
 高野さんは読書は楽しむのものではない、「馬鹿を治すために読む」などと言う。
まあ、つげ義春、白土三平など「ガロ」につながる思想としてのマンガですね。漫画界における拗ね者とも言えます。 煉瓦積み職人です。私にとっては、今の仕事が、私の思想であり、自己表現です。こんな拗ね者に、付き合って、支えてくださる皆様に、感謝いたします。

*拗ね者とは、自分では本道を歩み、本音を語っているつもりだが、他から見れば異端として扱われる者のことである。(注)このあたりのことを「半どん」144号に2000字で書きました。(未刊)

2005.4「我、拗ね者として生きる」

「我、拗ね者として生きる」

 新聞の書評に興味ある本を発見した。ノンフィクション作家の本田靖春さんの自伝的ノンフィクションである。 本田さんは讀賣新聞の花形社会部記者であった。退社後は講談社ノンフィクション大賞を受けるなど大活躍をして、昨年12月4日に亡くなった。両足切断、右眼失明、肝臓癌、大腸癌と闘っての壮絶死。71才であった。 その書名が「我、拗ね者として、生涯を閉ず」。
 この本を古巣、海文堂書店に注文すると、かつての部下が笑いをこらえていた。私のことを同類であると感じたからに違いない。私は、全くの市井人で本田さんとは較ぶべく何物もない。でも共感するところ大であった。照れずにいえば「社会を良くしたい」「改革したい」という思いと、だから衝突しても言わずにおれないという性癖である。本田さんは、遺言としてこの本を書いた。第一にジャーナリストを任ずる人へ矛先が向かい、権力におもねる人を撃つ。実名入りで、その切り結び方は壮絶である。
 日本は、もう駄目だと思う。何故かを箇条書きにしかかったけど止めました。余りに当たり前すぎて変なのです。でも、この当たり前のことが、放置されて病状が進行して、手遅れなのです。でも希望がなくては人は生きていけません。
 先月、「湊川隧道保存友の会」の総会で話をする機会があり、そのための勉強に「水の記憶」というイベントに石井一男さんを誘って行ったことは先月の通信で触れました。新開地が出来たきっかけである湊川の付け替えの時に作られた水のトンネルは1901年に完成しました。
600mの隧道は、450万個もの煉瓦を手積みして完成しました。それを見た時、わたしも煉瓦積みの職人であろうと思いました。この隧道の名を刻んだ大倉喜一郎、小曽根氏などの実業家ではない。一個、一個黙々と煉瓦を積んでゆく職人です。文化を支えるとは、そうゆう営為だと思うのです。
 今の日本には、あるいは神戸には即効性のある対症治療などはないと思います。あるとすれば目くらましでしょう。
 本田さんが自らを「拗ね者」と称して信念を貫いた、その爪の垢を煎じて、こつこつと。

2005.3「冬の標(しるべ)」

「冬の標(しるべ)」

 陽春かと思えば、キーンと冴え月。東大寺の「お水取り」までは、やはり寒暖の定まらぬ日々。小西保文展の最終日は淡雪が舞い、奈良吉野に帰られる先生を案じましたが、お別れ難くワインを飲んでいました。まもなく櫻の開花です。山際の我が家にも、ギャラリーにも「鶯」が春を告げています。そして“いかなごのくぎ煮”が全国へ春の便りを届けます。こんな話をしているとオーナー(家人)が「山も笑ってる」といいます。皆さんには遅ればせながら「天音堂」さんにならってギャラリー島田も家人がオーナーで、私がボスと呼ばれることになったのです。  震災10年や執筆で、心も感情も揺れる日々でした。すべてが自分への問いかけとなり、嘆息ばかりです。音楽も美術も文学も、私にとっては慰めに遠く、時に刃です。 3月1日発行のWeb Magazine『論々神戸』に「11回目の冬。震災関連行事を鳥の目と虫の目で観る」を寄稿した時に、私の文の前に編集長の渡辺仁さんが「読者の皆様に」と題して、50代の知人、三人の死に触れた文を書いていました。何か切迫した気配があって記憶の片隅に留まったのです。その中にジンさんの好きな作家として乙川優三郎さんの名がありました。
 それから数日して元町の大きな古書店にふらっと立ち寄ったら、比較的綺麗な状態の乙川さんの本が2冊、目にとまったので、迷わず2冊とも買いました。最初に読み始めたのが「冬の標(しるべ)」で、これが良かった。   
 幕末の小藩の武家に生まれた明世という女性が勤皇派、保守派の政治的対立を背景に、封建的な因習に翻弄されながら画家を志して生きる姿が、明世が描く墨絵を見るような情感溢れる文章で綴られていきます。人物模様それぞれに魅力的ですが、やはり、女性が絵を描くというだけで白眼視される時代に、最後は家を離れ、家族を捨てて孤独な絵の道へと旅立っていく姿が、凛として美しいのです。   
 乙川さんはひたむきに生きることの切なさ、辛さ、哀しさ、であるがゆえの美しさに溢れています。  
 時代を今と重ねてみても、事態は危機的な状況にあることに変わりはありません。豊かになった分、眼を逸らすことが出来、その分、魅力的な人が減り、絵画も色褪せてきたということでしょう。絵の道で迷い暮れている画家の皆さんも是非、読んでいただきたいと思います。