2004.1「京都に遊ぶ」

 銀閣寺のお花方・佐野玉緒さんのお誘いで総本山・相国寺で開催された国際的な研究会「日本的知的資産の活用」に出席してきました。昨年末12月24日のことです。玉緒さんの妹さんの陽子さんがパリの日本文化センターに勤めておられて、そのご縁で実現したものです。 相国寺は「そうこく」ではなく「しょうこく」と読み、正式名称は萬年山相國承天禅寺といいます。1382年(永徳2年)足利義満によって創建されました。金閣寺、銀閣寺を末寺とする堂々たる大寺で当時の敷地が40万坪、現在でも4万坪といわれます。寒さの緩んだ境内をゆっくり散策しました。

 承天閣美術館で、お目当ての江戸の鬼才絵師、伊藤若冲の襖絵「芭蕉図」「葡萄図」などをゆっくり眺めましたが、釈迦、文殊、普賢の極彩色の三菩薩図が見られないのが残念。でも、なんといっても長谷川等伯の「竹林猿猴図屏風」(六曲一双)と出会えたことがうれしかったです。ちょうど一年前に東京出光美術館で等伯の「松林図屏風」(六曲一双)と対面してえも言われぬ韻律、韻動に満ち、芒洋、朦朧としながら、何一つ明晰で無いものはなく、描かれていない空気の流動、笹の共鳴、地の温度、遡っていく時間まで感知され、立ち竦んだのでした。それ以来、ひそかにこの「猿猴」とも対面を望んでいたのですが「おお、おまえはここのいたのか」と竹林で遊ぶ三匹の猿猴に話しかけました。京都にお住まいの、現代の絵師・松村光秀さんとご一緒しましたが、松村さんの描く親子猿猴図>も、私の大好きな絵で、男手一つで娘さんを育て上げられ、お孫さんを得た、松村さんの喜びと希求、寂しさのない交ぜになった心情が滲みでて、心うたれる名品です。

 さて研究会はフランス国立社会科学高等研究院のベルク教授が「日本文化の空間学」を和辻哲郎の「風土」論を基礎に哲学的に話されました。国際的な研究会だというので、日本語しか解せないので言葉を心配していたのですが、ベルク教授は日本滞在も長く、流暢な日本語の語彙は確かに私に勝っていました。 ベルク教授の難しいお話を要約すると

空間には三つある。1.精神的空間  2.物理的空間 3.社会的空間  こうした空間が近代空間、抽象空間となるにつれて、風土性が否定されていく。 そうした中で日本的空間を生きる三つの原理として ? 自由だが、人生そのもののような秩序をもって日本的空間を生きる ? 歴史の偶然性 一期一会の、場面を大切にする ? 感性文化 感じる能力、感覚を大切にする   ことを強調されたと思います。

続いて延藤安弘先生は日本的空間としての「縁側文化」「路地文化」を大切にしたコミュニティー作りの例としてコーポラィブ住宅、コレクティブ住宅を幻燈上映(スライド)で90分にわたり講談調に楽しく紹介されました。その一例が神戸真野地区で、私の友人が次々登場してうれしかったのです。 あとの交流会を含め、誠に贅沢な知性のご馳走でありましたが、最後に延藤先生の次の言葉が印象的であったので紹介いたします。

「出会いのデザインとは」

 人びとが空間を共有しつつ、発語(つぶやき)、対話、ふるまい等の出来事を分かち合い、絶えざるサンスSENSE(感覚、意味、方向、おもむき)の創発と交流がおこる。ヒト、モノ、コトが相互にもてなしあう、一期一会の物語が生成する開かれたプロセスをいう。

この二ヶ月の間には3回上洛しました。

一回目は、料理人・中東久雄さんの「草喰 なかひがし」で食事をして、銀閣寺で冨岡鉄斎の襖絵、佐野さんの慈照寺の花、立て花を見せていただいた。銀閣寺は正式には東山・慈照寺(とうざん・じしょうじ)といい、相国寺を開いた足利義満の孫、義政が1489年に創建したものです。
中東さんは、京都・大原の里の山菜を毎朝摘んで料理するなど食材と味に拘り、メーインディッシュはメザシの焼きものと、おくどさん(釜戸)で炊いたご飯である。私が書けば変哲もないが、予約がとれない人気店なのです。 2回目が南座の「顔見世歌舞伎」で、今回が3回目です。豊な時間を過ごさせていただいてます。

つぶやき

 自ら草摘みをし、料理する中東さん。山中に入り、野の花を採り、情感を削ぎ落とし、自然が自ずから立ち上がり、小ぶりながら凛と空間へと浸潤していくような佐野さんの室町時代 慈照寺の立て花。そしてベルク先生の風土としての日本空間論には通底するものがあり、そしてその場が京都であることもトポスがもつSENSEとして実感されたのでした。

差し上げます。銀閣・慈照寺の生花季刊誌「同仁」第3号。ギャラリー島田にあります。

西洋と日本の狭間で<クアトロ・ラガッツィ>

 小さいときから、西洋風に育ってきた。母は羽仁もと子の自由学園育ちで、クリスチャン。何故か、幼少の頃は須磨の西洋館に住んでいた。別に金持ちであったわけではなく、そこが会社の社宅であったに過ぎないが、ベッドで寝ていた。家庭にはクラシック音楽があり、西洋文化への憧れのなかで育った。
 そのことに何の疑いもなく、絵画といえば洋画のことであった。足しげく欧米へ旅した。 しかし、最近、日本人として西洋の芸術に精通することの意味を自分に問い直すことが必要であると漠然と考えるようになった。そのことがアジアに目をむけ、日本の文化をもっと良く知りたいと思い始めた契機である。歌舞伎、能、俳句、日本画などをすこしづつ学んでいる。
 それは、ナショナリズムと無縁のもので、日本人としての自分を確認しながら、東洋、西洋とを融合した、個人としての生き方を模索していきたいと考えていた。
 そうしたときに若桑みどりさんの大著「クアトロ・ラガッツィ・天正少年使節と世界帝国」と出会った。 12月の忘年会シーズンに、ぼくはベッドで、この本を抱えるようにして読み、そして眠った。ある時は数ページ、あるときは数十ページと。そして大晦日の前の日に読み終えた。2段組550ページでの大航海であった。クアトロとは4人、ラガッツィとは少年の意味である。重く感動した。

その本は次のエピローグから始まる。

 「なぜ今、そしてどうして私が、4百年以上も前の天正少年使節の話などを書くのだろう」 若桑みどりさんは「カラバッジオ」などの著書で知られる美術史家である。 「日本では信長がその権力の絶頂で明智光秀に討たれ、秀吉が天下をとって全国統一をなしとげようとしていたころに、九州のキリシタン大名三人がヨーロッパに派遣した四人の少年は正式な使節として遠く海をわたっていった」 若桑さんはイタリア美術史考証家として日伊、とりわけカトリックの一次資料にあたりながら、少年使節を軸に見事に西欧と日本の最初の文明と文化の激突を描き、それをまさに現代の私たちの問題として提起している。

若桑さんはこの本を書いた動機を次のように言う

 「1995年、敗戦の50年め、ある夜、私はこういう声を内心に聞いた。“東洋の女であるおまえにとって、西洋の男であるミケランジェロがなんだというのか?”」 そして若桑さんはほんとうの自分のテーマを探すために大学に1年間の休学を申し出てこのテーマに出会う。その後7年間あたためたのが「クアトロ・ラガッツィ」である。 「人類は異なった文化のあいだの平和共存の叡智を見出すことができるだろうか。それとも争い続けるだろうか?それこそがこの本の真のテーマなのである」

島田のモノローグ

 秀吉、家康時代のキリスト者の容赦なき弾圧、迫害はナチスのユダヤ人迫害「ジェノサイド」「ホロコースト」を思わせる。権力の恐ろしさと、市民の無力さに慄然とするとともに、今、危険な道に足を踏み出している事への焦燥感が憂鬱にさせる。私に即して言えば、権力者側ではありえず、殉教か隠れキリシタンか。

若桑さんは最後のエピローグを次の言葉で締めくくる

 「時代の流れを握った者だけが歴史を作るのではない。権力を握った者だけが偉大なのではない。ここには権力にさからい、これと戦った無名の人びとがおおぜい出てくる。これらの少年たちは、みずから強い意志をもってそれぞれの人生をまっとうした。したがって彼らはその人生においてヒーローだ。そしてもし無名の無数の人びとがみなヒーローでなかったら、歴史をたどることになんの意味があるだろうか。なぜならわたしたちの多くはその無名のひとりなのだから」

異兄、梅野隆氏(梅野絵画記念館館長)は「美の見える男になりたい」と願ってこられた。私は「人が見える人でありたいと」願っている。この物語に登場する、歴史のなかで消えていこうとしている人々にまさに人をみた。そして権力の力と、それと結びついた時の宗教の力に恐れを感じた。 そして、謙虚でありたいと思った。なぜなら、今、開催中の岩島雅彦先生と一夜、語り合うことがあり、先生から「貴方は気障で、得体の知れない不気味な人だと思っていた」と言われた、それは、そうなんだろうとぼくも思うのです。でも、ほんとうに気持ちよく飲んだのです。

誤解されることは恐れない。でも誤解することは恐れます。他人を断罪しない、相手の立場に立って自分を振り返りたいと思います。