2004.12「あっという間の10年。あっという間の5年です。」

「あっという間の10年。あっという間の5年です。」

 目の前のことを淡々と、心を込めてと自然体で、人からなにを言われようが大切なことだけをしようと、何もかも断りまくっているのに、何故か忙しい、忙しすぎる日々が流れていきます。でも、こうして大好きなことを精一杯出来ることは、本当に幸せなことです。

 昨年は、いろんなことがありました。ギャラリー島田DEUXが軌道にのってきました。ギャラリー島田TROISも大事な役割を果たしはじめています。サロンも100回を超え、展覧会もサロンも内容が充実してきました。本を書かせていただいたのは大変貴重な経験でした。ひとりよがりではなく、大切なことを易しく書くことを学びました。生き方も自在に柔軟に、しかし強くありたいものです。そんな思いで過ごしていると、なんだかどんどん孤立していく気もします。透明人間になったように、周囲に馴染めなかったり、自分から融和を求めないので、暗い洞窟に住んでいるような気持ちになり、いよいよ蝙蝠の本質に近づいてきたのでしょうか。

 私が幸せであっても、世の中は決して幸せな状況ではありません。社会全体が病み、平和が脅かされ刻々と状況は悪くなっているとしか感じられません。限られた時間、許された時間のなかで自分が何が出来るのかを考え続けています。いままでいろんなことをしてきました。まちづくりや体制に抗する運動にも関わったこともあります。悩んだあげくの現在の心境は、あくまでも芸術の力を信じ、自分の持ち場であるギャラリーとアート・サポートセンター神戸の活動を通じて、人々を幸せにし、生きる力を分かち合い、共に困難な時代を生き抜いてゆくことに全力をつくそうと思っています。内田洋一さんが分析してくれたのは50代からの私の生き方ですが、その道は一貫していて、さらにある焦点を目指しているように思えます。ここまでくればわが道をゆく以外しかたがないのですね。

「平和」ということ

 加藤周一先生をお招きして 憲法第9条やイラクのことなどを中心に勉強会を持ちました。現代の知の巨人も85才。でも交流会を入れて延べ7時間、ほんとにお元気で、至福の時を持ちました。だんだんと危険な方向へと向かっていることは疑いないのですが、何をなすべきなのか、単に勉強をすることでもなく、デモをすることでもないような気がします。平和であることこそが稀有なことであり、それは闘いとるものであって、待つものや、与えられるものではないのかもしれません。「平和ボケ」こそが、平和を崩していくことに繋がっているのでしょう。

 でも「平和」を言い立てる人にも、エゴが潜んでいないかを疑ってみなければなりません。戦争に巻き込まれれば数限りない人が殺し、殺されます。平和を言うなら、その言葉と等価の身の処し方を問われているということです。私の自戒を込めていいますが、ジュニア新書「神戸」に紹介したポートアイランド南公園の「平和公園」は荒れ果てています。ぼくには平和を大切にしていない象徴に見えました。いつか草刈りに行きましょう。(家人には家の庭の草ひとつぬいたことないのにといわれそうですが)

 J・F・ケネディーの演説に感動し、アメリカの文化に憧れたこともあるのに、いまや行きたくもない、ブッシュやネオコンの顔など見たくもないです。悲しいですね。

2004.11「嫌なこと聞いたら、その耳を洗え」

嫌なこと聞いたら、その耳を洗え

 新聞も、TVも、見たくないこと、聞きたくないことばかりですね。人の幸せよりも不幸が好きなのも世の常で、ゴシップや大衆迎合の記事を書くメディアを、むかしはイェロー・ジャーナリズムと呼んで、ちゃんとしたメディアと区別していたのですが、イェロー・ジャーナリズムが死語になってしまいました。みんなその範疇になってしまったから。  嫌なことといえば、東京の画家NSさんから相談を受けました。ある企画公募展に応募したけど、展覧会も開かれず、作品も返却されない、なんとかして欲しいとのこと。よく聞くと、怪しい企画だ。「なんでこんな怪しい企画にのったの?」と聞くと「推薦者に灰谷健二郎、審査員に窪島誠一郎の名前があったから」とのこと。たしかに公募の用紙に故・山本芳樹さんの名前もある。でも灰谷先生の名前が間違っている。お二人に確認すると、勝手に名前を使われて不愉快だと、早速、アクションを起して下さった。主催者の西宮に家がある画家の名前も判明した。あとは作品を取り戻す手はずだ。  私のところにも鶯さんのところにも怪しげな詐欺商法の葉書がまいこんだり、おれおれ詐欺が横行している。眼に余る卑劣な振る舞いである。皆さんご用心。私に関しても色々言われているらしい。忠告して下さる方もあります。でも、関わりあっている暇がありません。信じる道を行くほかありません。
    いやなこと きいたら
      その“みみ”をあらえ
    いやなものをみたら
      その“ひとみ”をあらえ
    いやしいおもいわいたら
      その“こころ”をあらえ
    そして  あしは どろあしのままで
    どろあしのままで  いきてゆけ
      Go With Muddy FeeT! 

2004.10「肩書きのない生活」

肩書きのない生活

 まったく肩書きのない、個人としての存在に憧れてきた。そして55歳くらいから、着々と肩書きという上着を脱いできた。そして最後の一枚を先日、脱いだ。 10年以上務めた「神戸モーツアルトクラブ」会長を退任した。  画家さんは「これで画廊に専念してくれるやろう」、他の人は「アート・サポートの仕事を本格的にやるんやろう」、家人は「少しは家のことも考えて」。 個人というのも厄介なもので、自由な時間があるだろうと、余計に頼まれ事が多いのだ。収集がつかない。  肩書きがなくなれば、楽になるというのは、甘かった。私の「頼まれれば断れない」というこの性格こそが、忙しさの元凶だったのだ。   

文士気取りで… II

 執筆に追われている日々である。岩波書店のジュニア新書編集部から執筆依頼がきて驚いた。震災後の神戸を若い人に写真と文章で紹介する本を作るという。私の手に余る仕事で、都市民俗学の専門家で修学旅行生の受け入れに取り組んでいる旧知の森栗茂一さんを引っ張り込んで共著とすることとなった。全く違う個性で、どう纏めるか、なかなかスリルがあったが、ゴールは見えてきた。神戸の歴史を勉強し、歩いた2ヶ月でした。  あまたの「神戸本」「ガイドブック」と違う、私なりに若い人の「街を見る視点」を書いてみましたが、さて、どうでしょうか?  「神戸―震災を超えて」 11月20日発売です。みなさん、よろしく。

2004.9「平和」ということ

「平和」ということ

 ふたたび9月11日が巡ってきた。いうまでもないNYのテロのあった日だ。それから全てが軋みだした。ギャラリー島田では昨年に続いて「セプテンバーコンサート」を企画した。誤解を招き易い企画で、テロの死者を哀悼し、アメリカの立場寄りであると誤解する人もいる。勿論、そうではない。戦争そのものを冷静に見つめ、憎悪の連鎖から「平和」のリンクに変えていく訴えである。
 今回、「平和へのメッセージ(神戸宣言)」を発表することになった。経緯は、林同春さん(前・華僑総会会長)から、CODE(海外救助市民センター)副理事長である村井雅清さんに宛てられた一通の手紙である。今の時代の危機感を訴え、平和への取り組みをとして「神戸宣言」を出すように強く訴えられた。私は村井さんからの依頼で声明の草案つくりや、呼びかけ人、賛同者への声かけなどを取り纏めた。 ギャラリー島田のメールマガジンで呼びかけたところ、こうした声明自体を疑問視する声を含めて、多くのご意見、ご指摘などをいただいた。一方で、強いエールもいただき、これがもっと大きな力として発展することを期待する声もあった。
 でも私が、こういった動きをリードすることはない。それは、自らの生き方を厳しく律している人が発言してこその説得力である。私は無力を承知で小石を投げている。 いつか、一緒にコンサートをしようと約束していたジャズピアニストの板橋文夫さんのライブが実現するが「戦争はイヤだ!!」というテーマは板橋さんが決めたものだ。
 私自身は「平和」は小声で、何度も声を出す。みんなが「Do Something」、自分で出来ることを探すきっかけとなればいい。自分にとってはこのギャラリー島田で、このサロンで出来ることに全力で取り組む。
   9・11を目前にマイケル・ムーアの「華氏911」(Fahrenheit 9/11)を見てきた。かれの勇気に敬意を表する。いつも真実は隠されている。この神戸においてもだ。若い人も含めて多くの人が見ているのもうれしかった。そして、愚劣さに笑い、泣いた。終わってもなかなか席を立てなかった。画面に次々と文字が流れた。最後にマイケル・ムーアのHPアドレスが出て、その上に、小さく「Do Something」と 出ていた。 この通信を書く参考にインターネットでムーアさんについて調べていたら小沢健二さんが、次のように書いていた。 今のアメリカではなんと「リベラル」というのは蔑称なんだそうだが(日本もどうやらそうなりつつある)、彼は「リベラルであること」に強い誇りと確信を抱き、そのことをけっして隠そうとしない。そして、強い腕力もお喋りな口も持ってはいないけれど、ほんとうのことがわかっている、ごく普通の人々に対して、あなたがたが考えていることはぜんぜん間違っていない、声の大きさと正しさはまったく関係がない、でも口に出さなければ、それはどこにもないのと同じことになってしまう、だからほんの少しだけ勇気を出してみよう、と語りかけるのだ。
「Do Something」というメッセージに全面的に賛同する。
  以下 メッセージ 主文のみ 呼びかけ人  

「平和」と妹尾河童さんのこと

 妹尾河童さんが林五和夫さんとギャラリーを訪ねてくれた。ある用件で河童さんとやりとりしていて、ちょと行き違いがあった。それを気にして河童さんが私を訪ねてくれた。 ほんと面白い人で、「注意魔」である。そしてそれがまた当たっている。「平和」や「戦争反対」は、それをストレートに言ってはいけないのだよ。「そうだ、そうだ」という仲間確認か、そっぽを向く人かに分かれるだけだから。その言葉を使わずに、その思いを拡げていかないといけないんだよ。だからぼくは「少年H」を書いたのだよ。この本は300万部売れ、その4,6倍の人が呼んでいるそうだ。1400万人。凄いなあ。
文士気取り

 ともかく書き物に追われてトッピンシャン。なんて冗談言ってる場合ではありませんね。PCの画面を1日に4~5時間は、眼薬差しながら睨んでいます。息抜きにオリンピックのTVを見、映画の画面を見(一本だけ)、書類を読みと、眼を酷使しきって、いまはほとんど朦朧状態です。関わっている本が4冊、頼まれ原稿が色々。もっとも関わっているといってもプロデュースするだけのものもあるので、自分が書くのはせいぜい、5万字くらいなのですが、不得手分野でもあり、書き直しを何度もするので、15万字は書くことになるでしょう。思わせぶりを止めて白状すれば、関わっているのが岩波本2冊、県の検証本、市民検証研究会の検証本です。それにASKサロン100回を記念して小さなブックレットを計画しています。全部を書くものはありませんが、それでもね・・・・
 画家の皆さんから、もっと画廊の仕事に専念してよとの声が聞こえてきます。もちろんお客様からも。そういえばこのごろサッカーにも熱を上げているな。浮気者め!  本業の方も力を入れてますよ。勿論、だから削るものとしたら自分の時間と財布しかないのです。
日産の「MURANO」のCMの舞台に

 ひょんなことから日産の新車のCMの撮影にギャラリー島田が選ばれて10日、撮影が行われました。別にギャラリーに車が持ちこまれた訳ではなく、「MURANO」で颯爽とギャラリー周りをするという設定です。ちょうど「わたなべゆう展」の初日で、ゆうさんの作品も数点紹介されます。10月8日ころからWeb上の「MURANO」のCMに登場します。誰でもご覧になれますので、覗いて見て下さい。

2004.8「忙中旅あり 続編」

「忙中旅あり 続編」

 前回、確か「髭の島田」と書いたような気がする。しかし、今、髭はない。賛否、いろいろ。でも案外、面倒くさいのが止めた第一の理由だ。
 カンポはとても楽しかった。なかなか出来ない経験だった。さて、丁寧に書いていたらきりがない。画廊の通信だから、今回、巡り歩いた美術館をまずは列挙しておこう。

1 プラド美術館
2 ソフィア王妃芸術センター
(3) ティセン・ボルネミッサ美術館
4 王立サン・フェルナンド・美術アカデミー
(5) ゴヤのパンティオン(サン・アントニ・デ・フロリダ聖堂)
  以上はマドリー
(6) エル・グレコの家と美術館(トレド)
7 ピカソ美術館(バルセロナ)
(8) バルセロナ現代美術館(同)
9 タピエス美術館(同)
10 ルーブル美術館(パリ)
11 ポンピドー芸術センター(同)
12 ピカソ美術館(同)

 あとはアルハンブラ宮殿、メスキータ(コルドバ)、アントニオ・ガウディーが目的であった。新しく見たのは (3) (5) (6) (8)だけだが、どこも繰り返し見ても、まだまだ見切れない。

ゴヤとピカソ

 この二人は新しい視点で見ようと思っていた。 今回はマドリーからバスでトレドへ行った。半日ツアーにしようかと思ったのだけど、ホテルで相談すると、30分に一本くらいバスが出ているというので、それにした。なにしろ料金がツアーだと¥7000くらいがバスだと往復¥1100と全く違う。じっくりとエル・グレコを見た。でも書くときりがないので、今回はゴヤについて書く。
怪物 ゴヤ

 ゴヤは天才と崇めるよりは、複雑怪奇な巨人と言ったほうがピッタリする。ゴヤといえば本名フランシスコ・ゴヤ・イ・ルシエンテス。「裸のマハ」「カルロス4世の家族」があるかと思うと「戦争の惨禍」「1808年5月8日」など戦争を直視した作品があり、最晩年の「我が子を食らうサトュルヌス」「黒い巨人」などの黒い絵のシリーズがある。
 異常なまでの出世欲と、歩くペニスと陰口を言われた男。彼もまた歴史の荒波に翻弄された人生であった。

 さてスペインとは英語で、この国の人はエスパーニャESPANAという。「日の没する国」という意味だそうで、ヨーロッパの地形からいうとスペインは西の涯である。そのヨ―ロッパもギリシャ語のEUROPEで西の涯の意らしい。
 パリからスペインに入るにはピレネー山脈を越える。昔、そこは独特の文化をもつ別世界であった。そして時にハプスブルグ家の、時にはブルボン家の支配下にありながら、スペインの風土病といわれる内戦を繰り返してきた。しかし、それを言えば日本という国も長い戦国時代の歴史をもっているのだ。そうした複雑な王政の歴史を背景に1746年3月30日、スペインでも最も貧しい寒村フェンデトードス(共同井戸村)に生まれたのがフランシスコ・ゴヤ・イ・ルシエンテスだ。日本の最も貧しい農家のような家がゴヤの生家だったようだ。ゴヤ7歳の時にサラゴーサに移り画才を認められ、27歳の時にアカデミーの先輩フランシスコ・バイエウの妹ホセファと結婚。ゴヤが宮廷に入り込んだのは、この義兄のお陰である。バイエウの作品もプラドで見ることが出来る。下世話な興味があれば探してみるといい
。  ゴヤはもちろん心惹かれる画家でプラドに限らず、数多を見てる。でもその疾風怒濤、波乱万丈の人生を踏まえてみたのはこれが初めてのことだ。話題に事欠かないゴヤ。たとえば  出世欲、性欲、梅毒、聴覚を失ったこと、「裸のマハ」のモデルに関する諸説、アルバ公爵夫人との出会いと別れ(聴覚を失っていた全聾な49歳のゴヤを33歳の財産の有り余ったアルバが誘惑。40歳で亡くなったアルバには犬猿の仲だった王妃マリア・ルイーサの毒殺説がある)、フランスに半ば亡命し、ボルドーで亡くなったゴヤの墓から盗まれた頭部(ちなみにアルバの墓からも両足首が紛失していた)。などなど。「カルロス4世の家族」の登場人物のその後の数奇な運命と、全てを見通したかのようなゴヤの洞察力と筆力。そうした能力に恵まれたがゆえに、きわめて辛らつに人生を観察し、時代を洞察し、それがもとで孤独地獄と奇怪な妄想(洞察と妄想とは紙一重である)に落ち込んでいくゴヤ
。  ベラスケス、レンブラント、ゴヤのスケールの大きな生き方はドラマ顔負けである。本来は心豊かな老年を送るべき人たちが立ち向かわねばならなかった晩年。そして画家であるがためにそうした現実を直視し表現したレンブラントの自画像、ゴヤの黒い絵など前で、共感をもって佇まずにおれません。
 黒い絵は73歳のゴヤが「キンタ・デ・ソルド(聾者の家)」とよばれる別荘に移りすみ、そこの漆喰の壁に油彩で描いたもので存命中には、その存在はほとんで知られていなかったことから考えて、まさに自分のために、それゆえに一層、ゴヤの深層心理までを曝け出した作品として深い思索に落ちてゆく自分を止めようがないのです。人間の抱えた闇、それを凝視する索漠たる自分。ゴヤの闇と凡々たる人生を生きる自分の闇は等価とはとても言えないけれど、想像することは出来るし、すれば辛い、とても・・・
。  プラド美術館は、スペイン絵画の宝庫なのですが、こうして作家の生涯にわたる作品を系統的に眺めれば、当然のこととして、作家の人生そのものを覗き込むこととなり、その時代との関わりを考えることになります。私は正規の美術史など勉強したことがなく、こうして書くことなど「恥をかく」ことなのですが、ともかく絵を見るのが好きで、飽きず見てしまううちに、なんとなく視覚的に世界史を感じるようになってきたのです
。  多分、私にも静かな老後は訪れることなく、生きるジタバタを最後まで繰り返すことでしょう。 簡単にピカソについても触れておこう。いまさら私がピカソの天才や、作品解説をしても仕方がない。ピカソ美術館だけでもバルセロナ、パリを合わせて5度は足を運んでいる。なのに、何故、今年もピカソなのか。それは飯田善国さんの名著「ピカソ」(岩波現代文庫)を読んで、氏の分析を自分の目で確かめたかったに他ならない
。  以前にもセザンヌに対する私の疑問について書いた。あの豊かな色彩の諧調による「サンクト・ヴィクトワール山」の連作。視点をずらしながら構成された確固たる「林檎のある静物」たち。それはいい、でもセザンヌの裸体画、とりわけ「大水浴図」が、なぜ美しいのか、革新的なのか、今でも分からない。 引用して説明すると長くなるだけだから、興味がある方はこの本を是非読んでください
。  問題点だけを整理すると

1 印象派が「一瞬、一緒に変化していく光」を描くことによって対象を捕まえられると考え
2 セザンヌは、光そのものの表現ではなく、光を透かして視られ、現れる自然や物質の存在感そのものを表現しようとした
3 主題、人物、静物、風景の諸部分において、どれもが固有の生命、性格、輝きをもっており「すべての物体は等価である」
4 セザンヌは、自然を雑多な外観に惑わされることなく本質的な構造、構成として見る。自然は球体、円錐、円筒の集合である。
5 セザンヌの追及によって19世紀の遠近法が消滅し、事物の固有性を解体してしまった。
6 ピカソはセザンヌに導かれて感傷的詩人としての「青の時代」を経て、立体派(キュビズム)に至る。
7 人体を記号として扱い、今まで画家が必死に求めてきた平面に奥行き、立体感などをゼロにした。
 まあ、要約してもきりがないのだけど、歴史に残る画家たちは、みんな時代と密接であり、同時代の絵画を革新した人たちであることが良く分かってまことに面白い。
 飯田さんは、こうした分析から入って、理論的、分析的キュビズムから、また人間の情感あふれる作品へもどっていくピカソを、その女性遍歴を交えながら見事に解析してくれている。知的興奮を味あわせてくれる。
ガウディーのことなど

 バルセロナは熱く燃えていた。13年前とは違うまちへきたのかと思うほどであった。こう書いてみて、待てよと思った。私が海外へ5月から10月の良い季節に行くようになったのは最近のことだ。それまではいつも陰鬱な1月に旅をすることが多かった。そうしたことを勘案してもバルセロナは変わった。
 ランブラス通りからコロンブスの塔のある港周辺へ降りていくことは、前回は少なくとも「夜は危険」であった。今は、ウォーターフロントは見事に整備され現代的な建物が並ぶ。夜遅くまで、ごった返すような賑わいである。大好きなタピエス美術館が古びて、荒れて感じられたのに対して、旧市街の中に、現代美術館が颯爽と現れた。リセリュー劇場(オペラハウス)の隣には大きな市場があり、活気に溢れ、13年前と同じように逞しい女性たちが仕切っていた。ぼくは市場を見るのが大好きなのだけど、日本ではどうして再開発したときに本来の市場の雰囲気を壊してしまうのだろう。
 さてガウディーである。聖家族教会(サクラダ・ファミリア)もだいぶ工事がすすんで、古い部分と新しい白い部分がはっきりと分かれている。色彩豊かなモザイクも施された。これだけの世界遺産に指定され、観光客が絶えることがないこの教会建築の工事が入場料収入だけで進められているんだってね。
 好き嫌いは別にしてガウディーのオリジナリティーは凄い。よく日本人のガウディー好きを言われるが、そんなことで死後わずか100年の作品が世界遺産に登録されたりはしない。とんでもない造形にみえても合理的思考に基いていることも証明されている。
 最大の理解者、グエルとの仕事であったグエル公園のプロジェクトが失敗して以降、サクラダ・ファミリアの仕事に専念し、みすぼらしい身なりのガウディーは電車に轢かれて死んでしまう。様々な思いに独創的フォルムその人生。好きだなあ。

後は、ガルシア・ロルカ、アルハンブラ宮殿、パリでのエジプト体験、パントマイムの沖埜楽子さんのリサイタなどを報告したいことは山ほどあるけど、書く時間がない。

2004.6「ヨルゲン・ナッシュ逝く」

ヨルゲン・ナッシュ逝く 2004年5月17日。 85才だった。

 ヨーロッパの前衛美術運動COBRA(1948~1951年)のリーダーだったアスカー・ヨルンの実弟で“北欧の反逆者”と呼ばれたヨルゲン・ナッシュ氏と夫人で同じく現代美術家であるリス・ツビックさんを初めて日本に招いたのが1988年5月。海文堂ギャラリーとポートアイランドの画廊ポルティコで展覧会をして、東京へ巡回させた。昨年6月にスウェーデンのナッシュ美術館とアトリエを尋ね15年ぶりの再会を喜び、作品も買わせていただいた。中島由夫さんを除いて最後に会った日本人となった。最後までやんちゃ坊主の面目を失っていなかった。ご冥福を祈る。 

わたなべゆうさんを訪ねて

 9月に個展をお願いしている、わたなべゆうさんのアトリエを訪ねる約束を1年も前にしていながら、山梨・河口湖、“遠い”ということで延び延びになっていた。いろんな用事を束ねて上京し、翌日を河口湖行きとした。東京では楽しみにしていたステーションギャラリーの難波田史夫展が終わったところで、がっくり。出たとこ勝負のアバウトな性格は死ななきゃ直らないみたいだ。夕刻には、みゆき画廊でギャラリー島田の作家である根垣睦子さんが個展を開催中で、そこで大学時代からの親友、竹野君と落ち合うこととなっている。それまでの4時間、銀座界隈の画廊を漂った。 銀座は広いし、またせ狭い。足は棒になったけど、なんとギャラリー島田にゆかりの画家三人とお出会いすることとなり、先方もビックリ。でも大手といわれるN画廊、F画廊などは、全く見るべきものは無かったですね。みゆき画廊は笹田敬子、日下部直起、稲垣直樹などうちの縁の画家の拠点。この真向かいのビルの4階に「しらみず美術」があり、ここは藤崎孝敏、木下晋、松浦孝之など、うちの作家と重なる。みゆき画廊では、どこから私の動向を聞きつけてきたのか画家の西村宣造さんが現れ、しらみず美術のオーナーが挨拶にこられ、さらに6月に神戸で絵本「地震のことはなそう」の原画展のヘルプを頼まれていて、其の件で電通のS氏、共同通信のN氏と協議、時ならぬ仕事場と化したのでした。 夜は竹野君のもてなしで根垣さん、宣造さんと鴨づくしでしたたか飲みまた語った。
 ホテルを8時にはチェックアウトし、新宿へ。9時10分の中央高速バスで約2時間、 河口湖へ。生憎の雨模様で、新緑も疎ら、富士山も全く見えない。本も読めない、景色も見えない、いきおい想いは自分へと向かっていく。震災から9年、独立から3年半。時代の中の座標。仕事の中の座標。漂っているのは我なのか彼なのか。朦朧とした視界。 駅からタクシーで湖畔を半周、指定された場所に下りると、わたなべゆうさんが迎えに来てくれていた。初対面だけど、ゆうさんは白い髭とキャップ(帽子)が目印だといい、私は白いジャケットが目印だと電話で話したのだけど、雨で人影もない湖畔では間違えようもなかった。ゆうさんについて100メートルも歩けば倉庫のような大きなゆうさんのアトリエだった。この日は5月だというのに肌寒くストーブを焚いてくれて、初対面のゆうさんの話を聞いた。重厚で巨大な作品に囲まれながら、もう何度も会っているかのように話した。若い時に、ここ川口湖畔の実家をでて、5年間くらい日本中を住所不定で放浪し、捜索願が出されたという。その理由は知らない。私は、他人の事情に踏み入らない。こじ開けない。分かる時を待つ。他人をそう簡単に分かった気になってはいけない。近くの蕎麦屋で昼食をとってまた話し込む。
 ゆうさんの作品は、氏が歩き、踏みしめ、感じた「風土」というシリーズと、自然の恵み、身の回りの風物をテーマにした「Small Collection」というシリーズがあり、手間ひまかけ、納得のいくまで削り、塗りを繰り返したもので、マティエールは氏自身の生の歩みのごとく重層的であり、複雑である。その優しさの中に揺るぎない重い核がある。
3時のバスは満席だった。新宿、東京、神戸と乗り継いで10時半帰宅。
再び、東京へ

 16日からの海外への旅を前に大童(おおわらわ)の日々。11日に上京予定。今年11月に松村光秀展を企画していただく兜屋画廊へ松村先生をお連れし、しらみず美術での藤崎孝敏展に立会うためである。それにベン・ニコルソン展も見たい。兜屋さんは、昨年から決まっていたのですが、場所が移転し、かつスペースも小さくなったので迷っていたのですが、前回、新しい場所を拝見し、折角のお誘いですので、予定どおりお願いしました。 藤崎展では、藤崎さんを撮ったドキュメンタリー「たれそかれ」(高原浩人監督)が発表されるのが楽しみです。
PC真理子機嫌なおる

ご心配をかけたPC真理子が、専門家二人の往診を得て、生き返った。やれやれ。

乾千恵さんの書

坪谷令子さんの個展「いのちからいのちへ」の時に一人の車椅子の少女があらわれた。重度の障害を持ちながら書を書く。それが素晴らしい。千恵さんの書が「こどものとも」(福音館)から「月・人・石」と題してでている。素晴らしい。谷川俊太郎さんの文、川島敏生の写真も感動的。千恵さんが、墨を滴らせた大筆を持った後姿の写真が圧巻です。静かな勇気を貰いました。どれが気に入ったと書こうと思って見直したけど、どれも好きだ。こんな素敵な本が¥410とは信じられない。(ギャラリー島田で販売中)

2004.5「真理子の反乱」

「真理子の反乱」

 今回の日記は、散々である。最近、腹が立ったり、情けなかったりすることばかりで鬱積している。このことを通信原稿に書いた。ところがである我が自宅のPC・真理子が私の余りの憤激ぶりに恐れをなしてデータを全て消去した上に、メールでの受送信も不可能にしてしまった。休日一日を使ってご機嫌を伺ったけど直らない。ギャラリーへ出勤すると”鶯”さんから慣らし運転を終えた高いさえずりで「今日中に原稿を完成させて下さい」と追い立てられる。 ぼくはギャラリー島田DEUXに籠もって必死に原稿を書いた。来客の対応を捌きながら。突然、携帯が鳴って仰天する依頼を受けた。あるシンポジウムへのパネリストとしての参加依頼で、しっかりした筋からである。他のシンポジストを聞くと石破防衛庁長官と片山鳥取県知事だという。ぼくは腰が抜けた。丁重に辞退し、他の方を推薦する約束をして、しばらく茫然とした。気が付くと目の前のPC画面が消えている。
 ほぼ完成した原稿を探すと、どこにも見あたらない。焦ったけど駄目である。ヴィッセル神戸の三連敗、真理子の謀反、石破氏とのシンポジウム、2度にわたる完成原稿の消失。とても現実とは思えない。
かくして、遅い残業の疲れを酒精でごまかしながら涙の原稿を書いているのだけど、とてもイラク人質事件、自己責任論、マスメディアに対する怒り、年金法案、未納問題などの憤激をもう一度書く気力が無くなりました。でも言っておきますが、マスコミの論調とは違いますぞ。

注)真理子…島田が愛するパソコンにつけられた名前です。 

「コウモリ的日常」

 汗ばむほどの陽気の3月16日。
 京都へ行ってきた。
ボリビアの作家、フェルナンド・モンテスさんの展覧会―東西の超克―がアートフォーラムJARFOと遠藤剛熈 美術館とで同時開催されていた。モンテスさんとは長い付き合いだけど、今回はモンテス夫人も同伴来日、私は奥様とは初対面。JARFOの石田浄さんは実に芯の通った丁寧な仕事をされていて、心服している。私はこうは出来ない。
 その後、北大路にあるギャラリー「器館」で寺井陽子陶展を見る。寺井さんの、伸びやかな感性と不思議なフォルムが好きだ。そしてその後は、京都五山の大徳寺を松籟(松林を渡る風の音)を聞きながらゆっくり散歩。烏が鳴き、松の花が咲いていた。既に拝観時間は過ぎていたが、須田剋太の「大燈国師」や雄渾な書「乞食」を思い出しながら、外人さんと立ち去りかねていた。
 地下鉄で京都駅へ。タワーの横の道を入ったところにある「へんこつ」という私にふさわしい名の居酒屋へ入る。坪谷令子さん、超博さんが行かれた話を読んで興味を持ったのがきっかけで、よく来るようになった。折角の京都なので京料理か鮨と思うけど財布と相談すると「やめとけ」と言いよる。「へんこつ」名物は「テール(牛の尾)の煮込み」、私は「サルベージ(底)」という煮込んだ鍋の底に沈んだ肉片を掬い上げてもらうのをもっぱら注文する。でも、この店、ほんま賑わっています。美味いのです。別に露悪趣味ではないが、前回は屋台での「豚足」を書いたなあ。イメージ悪いかなあ。
 新快速で神戸に戻り、元町を中心に繰り広げられた「ひと アート まち展」の打ち上げに最後だけ参加。

「ぼくの第九」

 京都への電車の中では、詩人の玉井洋子さんから送られてきた詩誌「ア・テンポ」を読みふけった。とりわけ君本昌久さんの追悼特集に。今も鮮やかに君本さんの風貌、声、所作が蘇る。酔っ払った氏に何度も困惑させられたことも、今は笑って思い出せる。ぼくの書棚から「君本昌久自選詩集」「デッサンまで」「ぼくの第九」、三冊の詩集を取り出してみた。詩というのは面白い。手にした気分で、受け取りも様々である。懐かしく詩句を繰る。「ぼくの第九」は君本さんの9冊目の詩集という意だが、ベートーヴェンの第九を意識してのことだろう。この本を出して5年後の1997年3月22日、69才で亡くなられた。ぼくが最後に言葉を交わしたのは、元町駅を少し北へ上がった酒場だった。偶然隣合わせになり、「マリンバの凄い子がいる。是非、応援して!」と熱心に話された。それが名倉誠人さんのことだった。「ぼくの第九」の最後のフレーズは
 おもしろうて やがてかなしき/金色の水 とめどなく/はるかな はてしれぬ
時の流れに 冴えわたり/ 夜は 煌々と更けゆく

2004.4「文豪たちの大喧嘩」

「文豪たちの大喧嘩」

 私の数少ない趣味はといえば、本を買うことである。元町にある本屋(海文堂書店)をしていた時は幸せであった。広大な書庫を持っているようなもので、読みたいときに手にすることが出来た。しかし、今は、本屋に行く時間がない。あれば必ず行く。新聞や雑誌の書評欄を胸を躍らせて読む。 「買うのが趣味」と書いたが「読むのが趣味」と書けなかった。読みきれずに積まれていく本の方が多いからだ。 最近読んだ本では谷沢永一の「文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遥・樗牛」が面白かった。25年前、開高健が谷沢さんにけしかけて、1981年から「新潮」に「近代文学論争譜」の隔月連載がはじまり、中断をはさんで、昨年、ようやく単行本として刊行された。なりふりかまわぬ文豪たちの攻守転々、三つ巴の大喧嘩を、これまた歯に衣をきせぬ怖いものなしの谷沢さんが切って捨てるのだから、ほんまに面白い。  とりわけ医者で大文豪・鴎外がエリートの尊大さまるだしで「説諭・訓戒・叱責」を垂れる化けの皮が引き剥がされていく様。鴎外が噛み付いた坪内逍遥を弁護する論陣を張った俊英・高山樗牛が、こんどは逍遥に挑んでいく戦法が、また鴎外のように自分のイデーを絶対として、一刀両断しようとするが、懐の深い逍遥に阻まれた上に、死後、言葉を尽くして粉砕される様など、後世からみれば、それぞれのまことに人間くさい「素顔」が見え、論争の中身より、喧嘩のしかたの方が、よほど面白いのである。    鴎外は桁外れの勉強家、エリート・教養人であったが、嫌味な人でもあった。官吏の道と文藝の道の両方で頂点を極めようとし、様々に画策する。私など、もっとも嫌いな種族に属する人で、その尊大なエリート意識が、文学としての豊かな人間的情感、想像力を発達させず、もってして衒学的(ペダンティック)な歴史小説へ走らせ、漢語、漢詩の羅列のごとき長大な史伝を書かせたと、私は勘ぐる。    吉村昭の「白い航跡」は、海軍軍医、高木兼寛の伝記なのだけど、ここに高木の敵役としての鴎外が登場する。  高木は日本海軍の脚気発生の原因(白米食偏重)を突き止め、それが日清戦争の諸海戦,そして日露戦争の日本海海戦の圧勝の大きな原因でもあった。海・陸軍人戦病死の最大原因と恐れられた脚気の予防法確立に生涯を捧げ,かたわら東京慈恵会医科大学を創立した人類愛にみちた人物なのだが、  鴎外は陸軍軍医の立場から、高木の説を無視、圧殺し、それがために日露戦争において陸軍では戦死者よりも戦病死者の方が遥かに多かった。  鴎外が逍遥に美学の訓戒を垂れるのは水戸黄門の印籠のごとき「ハルトマン美学」であり、高木兼寛には「西欧医学にかかる証明なし」という、西欧絶対視であり、どちらも鴎外が間違っていることが後世に証明されていく。

2004.3「母からのDNA」

「母からのDNA」

 友人のTさんが、別荘を建て、お招きにあずかった。明石海峡が目前に広がる海沿いにあり、その眺望とお酒とご馳走と極上の会話に時を忘れた。Tさんは父親を早く亡くし、母親の寵愛を一身に受けて育ったという。そしてお母様が亡くなられる前の一年間は献身的にお世話をされたそうだ。
 先ほどまで薄日がさしていた空から雨が落ちてきて、外は一気に夕闇に包まれた。ぼくは母のことを思い出していた。ぼくが、ぼくであることを分からなくなってしまった母のことを。硝子を伝った滴(しずく)が、海峡を渡る船の灯りを滲ませ、心に染みとおった。
 私の親や息子達に対する距離感は普通よりも遠く、親孝行とも子煩悩とも無縁であったことを少しの痛みを伴って思い出した。
 もの心ついたころから母はずっと「幼児生活団」という教育の奉仕活動を続けていた。 震災後、母の家で書棚の「東北セットルメントの記録~昭和9年―昭和14年」という本を拾い読みして、若き日の母の姿をはじめて知った。
 羽仁もと子の自由学園に学んでいた母は、東北大飢饉が起こった時に、自ら志願して秋田県の農村に入ったという。そこは上野駅から東北本線黒沢尻へ、そこから何度も乗り継いで、一昼夜を要する生保内(おぼない)という村であった。母がまだ10代の、昭和10年から12年にかけて、まだボランティアという言葉がない時代のことである。
 母は記憶を失ってからもベートヴェンの第九“合唱”をドイツ語で諳(そら)んじて歌うようなモダンな人だったので、この事実には驚いた。
 どうしても社会人、組織人としての枠に納まりきれずに、世間との関わりを求めていく原点を探れば、母のこのDNAにたどり着くことを痛切に感じる。思えば、彼女の生き方は一貫していて、それに気付かぬままに、私もまた同じ軌跡を辿っているのだった。碌に見舞いにも行かずに世間様を優先してしまう不肖の息子を母は許してくれるだろうか。
(去年より神戸新聞に毎月1回、エッセイを連載してきました。これが最終回なので、通信に再録させていただきました)

蝙蝠日記II

「神戸魂 世界へ」

 ヴィッセル神戸の激励会へ行って来た。今までと打って変わった熱気に包まれた会だった。このところ縁があって、ハシェック監督、パベル・コーチがギャラリー島田を訪ねてこられたり、レストランで三浦泰年、知良さんと隣り合わせになってご挨拶したりした。 ヴィッセル神戸の新しいオーナーである楽天社長の三木谷浩史さんとも何度もお会いしたり、やりとりしている。すべては父君の三木谷良一(神戸大学名誉教授)さんとのお付き合いからである。
 ヴェンチャーの旗手、三木谷浩史さんには、さすがに凄いオーラが出ている。 「ヴッセルで神戸が元気になればいいですね」とメールをいただいたが、ほんとにそうですね。ところでヴィッセル(Vissel)とは、どういう意味だろう。 Victory(勝利)とVessel(船)との合成語だそうである。
「今年は、上位に」「来年は初優勝」『三年目には常勝チームに」との明確な目標を掲げての船出である。
 初戦の逆転勝ちには感動しました。
「夜会・ぼたんの会」も、このビッセルを応援する熱気あふれるパーティーとなります。 三木谷浩史さん、統括マネージャーの三浦泰年さん、神鋼ラガーマン、元全日本代表の林敏之さん、平尾誠二さん(予定)。ヴィッセルのプレイヤーも。(イルハンは来るか…?) おもてなしゲストも歌手の深川和美さんをはじめとする豪華ゲストです。 詳しくはチラシをご覧下さい。今すぐご予約を

2004.2「まこちゃんから、あやうく「馬鹿ちゃん」へ」

まこちゃんから、あやうく「馬鹿ちゃん」へ

 お正月は、長男夫妻が孫の響子(1年9ヶ月)を連れて帰ってきて、賑やかでした。 響子に私のことをどう呼ばせるか、最初が大切だと「まこちゃん」と呼ばせることに成功しました。
でも、ときどき「ばかちゃん」と聞こえる。しかも「こ」と「か」にアクセントがついて、おかしいのです。でも本当に「馬鹿ちゃん」になってしまうところでした。 というのも前回の通信で悲痛なお願いをした「天満敦子メモリアル・コンサート」が、一週間前のチケット販売の読みでは200枚しか読めず、これでは赤字だ、収益をイラン地震の復興支援に寄付するなどと大きなことを言いながら赤字では、大嘘つきだ「馬鹿ちゃんだ」と真っ青になったのでした。
でも信じられないことに、お願いも効を奏したのか、当日は400名を越える皆さんに聴いていただきました。天満さんの演奏も入魂のもので、西宮市大谷記念美術館からお借りした津高和一先生の100号の大作が凛と舞台を絞め、客席と一体となった快い緊張感に酔いました。
約48万円の収益を「しみん基金こうべ」に5万円、43万円を「CODE海外災害救助市民センター」を通じてイラン震災復興支援の一助としていただきます。

震災当日の17日は天満さんと東遊園地の震災モニュメントに献花、夜は兵庫県公館 での竹下景子さんの「詩と音楽によるメモリアルコンサート」に出席。 16日は童女・天満さん、17日は聖女・竹下さんの横に座って食事といううれしい日々。20日には東京から8名の演者をお迎えしてギャラリー島田で「詩劇的朗読流寓・神戸レクイエム」を上演。超満員。24日には「人と未来の防災センター」での「メモリアルコンフェレンス」で摩耶はるこさんのコンサートをお世話。フィニッシュ。 ドッと疲れがでて、後はヘロヘロ。年齢を考えずに限度を超えたことをやってしまう私に家人も鶯嬢(スタッフ)も「お馬鹿チャン」と内心思っているに違いない。

間違って「ばかちゃん」と声をかけそうになりました…。ということはありません。 が、久々に、エネルギーのリチャージを!早く!でも時間がない!という空気だった のは確かですね。しんどい時でも、まだまだ頑張れるばかちゃん、いやまこちゃん、 続いた企画がみな、たくさんの方のコンビネーションがあって素晴らしいものにな って良かったです。まだまだいけるんじゃない?まこちゃん。(鶯)

間違って「ばかちゃん」と声をかけそうになりました…。ということはありません。 が、久々に、エネルギーのリチャージを!早く!でも時間がない!という空気だった のは確かですね。しんどい時でも、まだまだ頑張れるばかちゃん、いやまこちゃん、 続いた企画がみな、たくさんの方のコンビネーションがあって素晴らしいものにな って良かったです。まだまだいけるんじゃない?まこちゃん。(鶯)

君は「ビッグイシュー」を読んだか?

 雑誌「ビッグイシュー日本版」をご存知ですか。「そんなん本屋に売ってない」 そうなんですね。売ってないんです。私も滅多に見かけないのですが、気がつけば毎号買っています。この雑誌は身分証明書を着けたホームレスが街角で静かに掲げて販売しています。1冊200円で、そのうち110円が販売者の収入です。内容は、私のようなおじさんよりもっと若い人向けですが、このシステムと、買った時の、販売者のうれしそうなお顔が、またうれしくて、出会えば買っています。ともかく買って損はない内容です。
 私たちが取り組んでいる「ぼたんの会」は、いわばこの雑誌の企画編集から、販売までを神戸のNGO/NPOがやっているようなものです。
 さきほどのヴァイオリンの天満敦子によるメモリアルコンサート「祈り」もチケット販売に協力した団体が50%を活動資金として受け取るものですが、今回はイラン地震への復興支援に全額寄付されました。

 3月20日(金)には永六輔さん、灰谷健次郎さんの協力でこの方式による講演会「今、一番言いたいこと II」をラッセ・ホールで開催します。
(詳細はチラシを参照下さい)  

 そして4月23日(金)には昨年、大変好評だった「夜会・ぼたんの会」を北野ガーデンで。
震災十周年にあたる来年、1月17日には女優の竹下景子さん の「詩と音楽によるメモリアルコンサート」を行います。こうした人の心の繋がりで創っていく喜びは重大な中毒症状を呈します。