2003.12「心惹かれる忌」

「心惹かれる忌」

 私にとって気になる、もう一つの新しい忌がある。今年1月23日に亡くなられた詩人、多田智満子さんの「草風忌」である。多田さんが病床において綴られ、ご葬儀で参列者に配られた簡素にして瀟洒な句集「風のかたみ」は
“獅子座流星雨果てて蟹座の病棟へーcancer すなわち蟹また癌―”に始り  
“草の背を乗り繼ぐ風の行くへかな”
で閉じている。「草風忌」は、この終句に縁っている。
 その後、私の友人の詩人、季村敏夫さんたちが創刊した文芸誌「たまや」の冒頭に掲載された多田さんの句「人知れずこそ―ざれうた六首」のうちの”御政道批判すなわち打首の昔を今になすよしもがなー現代の権力者―”に触れて胸がつまった。多田さんが病床に就かれるころ、ある政治的な活動を共にした。それは前回の神戸市長選のことである。その凛とした姿勢は、私たち文化に携わる者への勇気ある伝言であった。
 権力に対する批判・抵抗は江戸時代であれば打ち首、昭和前半であれば治安維持法違反、現代においてはさすがに、そんなことはあり得ないが「存在しない者」として扱われるのである。

「さようなら西村功先生」

 訃報を聞いたのは12月1日午前8時、ご長男の泰利さんからの電話であった。 あとで携帯電話の留守電をチェックすると午前3時50分に既に連絡が入っていたけど、ぼくは就寝中は勿論、朝にも気がつかなかったのだった。先生が亡くなられたのは3時5分のことだった。
 多くの方に愛された先生らしいご葬儀にしようと西村家の皆さんと話し合ってきた。 危篤を聞いたのは3週間前であったけど、強靭な生命力で、持ち直され、少しの安堵感が漂った時で、やっぱり、という思いと、無念という思いが交錯した。
 仏式(禅宗)のしきたりの中で、先生らしさを出すことは中々難しいことだった。生前に十分な準備も憚れるからだった。
 長らくの闘病で、ご親族は勿論のこと、親しい皆さん方は、ある程度この日を覚悟されていて、通夜、告別式を通じて、愁嘆場はなく、なにか透明な哀しさ、平明な安らぎが会場全体を覆っていて、これこそが功先生をお送りするのにふさわしいと、ぼくの心も落ち着いたのでした。
 ぼくはべたべたの人間関係がもてない性質(たち)で、「愛」も「憎」も苦手で、「信」あたりが一番落ち着く中庸人間で、よって創作には向いていないことを自覚しています。
 西村家とも長い、多様なお付き合いですが、かと言って、知り尽くした仲でもありません。そんな関係が西村家の気風とも通じたのではないでしょうか。
 西村家をイメージするとき私はいつも「聖家族」という言葉を思い出します。それは主として功先生を支える久美子ママのイメージでもあるのですが、それがそのまま、泰利さん、娘さんのみどりさん、泰利さんの奥さんで画家でもある、ようさん、その二人のお嬢さん留依さん、真依さんにも同じ気質が流れているのです。功先生はハンディキャップを持ちながら、心に一点の曇りも感じさせないほど明るくていらっしゃったし、病身のようさんもおられ、普通であれば尋常でない状況の中でも、確かなつながりで明るさを失わないご家族を、ぼくはただ畏敬の気持ちで心をいっぱいにして眺めてきたのです。
 激しい言葉や、覚悟や、主張を一口も言わずにまったくの自然体のままに「生きることってこんなことなんだよ」と教えられるのです。
 お疲れでしたでしょうと、多くの方からぼくもねぎらいの言葉をいただきました。でも 先生のオーラがお手伝いいただいたすべての人を包み込み、ぼくは、実際はただ立っていただけのようなもので、すべてが順調に推移したのです。すべてが。
 でも、ぼくにはまだ、功先生のことで、やり残したことがあります。そのことを胸に秘めて、新しい年に向かいます。

西村功追悼展のお知らせ  
2004年2月11日――3月4日まで。  
西村功先生の初期作品から晩年の作品まで。デッサン、水彩、挿絵など。  
画家・西村功としての完全な資料も整理するほか、単なる作品展を超えた追悼展を考えています。

「来年の企画について」

さらに充実した仕事を心がけ身を引き締めています。  
新たにギャラリー島田に登場する作家は  
山崎つる子(具体)、チェコの写真家ヤン・ピクウス、稲垣直樹、清原健彦、  熱田守、ベルギーから帰国の下原義雄、水村喜一郎、武内ヒロクニ、坪谷令子、 山梨から安井賞作家のわたなべゆう、元永定正の各氏。菅原洸人氏は自伝の出版を準備 中で出版記念回顧展となります。  
ギャラリー島田DEUXには  
笛木信哉、東京から室越健美、細井健二、グループ667,奈良から許田静子、大阪から中村一雄 などが初登場。  
それ以外にも、いい作家、いい作品をご紹介いたします。ご期待ください。