2003.7「忙中旅あり2003」

忙中旅あり2003 北欧とイタリアへの旅

 すこし早い夏休み、というよりは梅雨休みをいただいてデンマーク、スウェーデン、イタリアの11日間。旅程は伊丹―成田―ミラノーコペンハーゲンースウェーデン・ヘルシンボルグーコペンハーゲンークレモナーベネチアーミラノー成田―関空でした。北欧とイタリアというと怪訝な顔をされますが、フライトでわずか2時間です。
 今回の旅の大きな目的は二つ。長年の中島由夫さんのお誘いに応えてのアトリエ訪問。 50回目を迎えるベネチア・ビエンナーレを見ることでした。
 ホテルはインターネットで調べてファックスで予約。ベニスの人気のレストランだけは日本から電話で予約しました。あとは家内と二人の気侭旅。分らないことが楽しい、すべては経験と思っていますから不安はありません。ミラノ・マルペンサ空港で荷物が行方不明になりましたが、そのクレームから、ゲットするまで、これもいい経験です。

白夜のニューハウン(コペンハーゲンにて)

 ここでは6、7月は4時間ほどしか太陽が沈まない「白夜」となります。長く、厳しい冬を耐えた、自然も、生物も、人も、一斉に陽を浴びて生き生きと蘇ります。私たちのホテルは港まちで運河沿いにレストランのならぶニューハウン地区。金曜日のまだ3時ごろというのに、驚くほどの人々が陽を浴びながらジョッキを傾け、ビール瓶をラッパ飲みし、そこここでパフォーマンスや演奏で賑やかな事。ぼくも早速、仲間入り。ここは「よっぱらい天国」です。ほろ酔いで三宮センター街のごとき「ストロイエ」を歩けば、突き当たりがチボリ公園です。実は私はここは2度目で、11年前に、神戸商工会議所の都心商業青年協議会の研修旅行で、当時、神戸流通科学大学の助教授であった吉田順一さんをコーディネーターに、私が団長というコンビで来たことがあります。古傷を触るようですが、前回の市長選で、市政を改革しようという同じ志ながら違う陣営に分かれてしまい、二人とも失脚してしまいました。
 ツボルグというビールを、コペンの酔いどれに倣って、運河べりに座って飲みながらほろ苦く思い出したりしました。
 ニューハウンといえば童話の王様アンデルセンが20年にわたり住んでいました。1837年に書かれた「人魚姫」にちなんだ銅像が海沿いの公園にあり、第一の観光名所なのです。でもこの人魚の像は背丈125センチと案外小さく、別に見に行く必要もないのですが、今回、わざわざ立ち寄ったのは訳があります。この人魚姫、なぜか様々な受難の身、首を切られること2回、手を切断されたり、ペンキを塗られたり。私が今から会いに行くデンマークを代表する画家の一人である、暴れん坊、駄々っ子のヨルゲン・ナッシュ氏が1964年の首切り犯人ではないかと思われるからです。それは後ほど。
 例によって朝早く起きて散歩。そして10時に中島由夫さん、息子のアンデス君が迎えにきてくれて出発。
 デンマークは地図でみるとドイツと陸続きのユトラント半島とロシアと陸続きの北欧三国(フィンランド・スェーデン・ノールウェー)がバルト海を湖のごとくに抱え込んで、ボトルの栓のごとくに首都コペンハーゲンのあるシェラ島があるのです。
 私たちはコペンハーゲンからエアスンド海峡沿いに北上し、途中にあるアルケン現代美術館を見て、お目当てのルイジアナ美術館へ向かった。アルケンは展示換え中で何も見られなかったが建物がユニークで帆船をイメージしていて、ちょと神戸の海洋博物館を思い出した。規模は芦屋市立美術館程度。ここにデンマークを代表する画家のひとりアスガー・ヨルンの壁画大作がある。すこしややこしいけど、北欧の重要な美術運動「コブラ」について触れておこう。1948年、デンマークのアスガー・ヨルン、ベルギーのG・コンスタンとC・コルネイユ、オランダのK・アペルらがパリで「コブラ(Cobura)」と称する新しい絵画運動を組織し(翌年P・アレシンスキーが加入)、これらの作家の出身地コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダム3都市の頭文字を組み合わせて自らのグループ名とした。幼児のごとく素朴で極端な激しいフォーブ的表現で知られ、その名に毒蛇の意味を重ね合わせている。運動そのものは3年間の短命であったが、それぞれの作家がその後もそのスタイルを崩さずに活動した。私が今から訪ねるヨルゲン・ナッシュはこのアスガー・ヨルンの実弟で、生前は兄弟仲がわるくナッシュはこの運動に加わっていなかったが、アスガー亡きあと、ナッシュこそがコブラの継承者と言われ、中島由夫さんはナッシュの盟友としてこの運動の影響を受けながら創作する唯一の日本人作家ということになる。私は15年前の1988年にナッシュ氏と夫人のリス・ツビック氏を神戸に招いて海文堂ギャラリーとポートアイランドの画廊ポルティコで展覧会をした。それ以来の再会を楽しみにしている。
 ルイジアナ現代美術館ですといわれて車を降りたけど、入り口は普通の民家にしか見えない。電車でくればコペンハーゲンの中央駅から電車で6駅目。中に入って驚いた。噂にはきいていたが、第2次世界大戦以降の現代美術が見事なまでに勢揃い。樹齢豊な古木に囲まれた広大な自然公園に配された建物をたどり、ときにはミロやエルンストのオブジェのある芝生に憩い、また辿る。昼食をカフェで注文して庭に出ると眼下には真っ青なエアスンド海峡が広がる。カルダー、ヘンリー・ムーアのオブジェで子供が遊んでいる。
 多くの人がゆったりと、時間を忘れて美術と自然と時間と人との触れ合いを楽しんでいる。日本人の作家では関根伸夫のオブジェが三対とオノサト・トシノブの平面を見た。 アメリカやヨーロッパの近代美術館と違うのは、やはりコブラ派作家のコレクションが充実していることでしょう。
 こうした常設展のほかに企画展示が二つ。ポンピドー芸術センター(パリ)や関西国際空港を設計したレンゾ・ピアノと写真家アーノルド・ニューマンの展覧会である。じつに多くの人がこの美術館を楽しんでいるのに羨ましく思った。日本ではこうはいかないと嘆息したのだが、このごろ日本の状況も変わりつつあるらしい。(鶯さんが報告します)
 ここから5分も走るとヘルシンゴーのフェリー乗り場へ出る。ここから対岸のスウェーデンまでわずか5キロ。港を出るときにエアスンド海に突き出るように立っているのがシェイクスピアの「ハムレット」の舞台となったクロンボー城である。僅か20分ほどの船旅なのに皆、忙しそうに買い物をしている、聞くと、税制の関係でデンマークはスウェーデンに比べてお酒の値段が半額くらいで、買い溜めをしているとのこと。アンデス君も僕のためにビールを買い込んだ。
 中島さんが昨年、アトリエを写したヘルシンボルグの中島由夫アートセンターは、敷地約1000坪。Arusという分りやすく言えば兵庫の立杭焼のような古窯の工房の跡で、なんと窯と職人ごと中島さん一家が買ってしまったのです。
 奥様とアンデス夫人の紅子さん、茉莉ちゃんのお出迎えを受けて、再会を祝しました。なんと言っても中島先生一家とは1985年の初個展以来の長いお付き合いです。その間、エネルギッシュな仕事に惚れこんで画集(編集・大橋洋子)、「DOCUMENT1940-1994」(編集・佐野玉緒)を作りました。しかし、最近は日本での発表のあり方について、かなり厳しく苦言を呈してもきたのです。それは「北欧の太陽の画家」というレッテルを剥がして、本来のヨーロッパ・スタンダードの作品で日本でも勝負して欲しいということに尽きます。今回のアトリエ訪問はその確認でもありました。コペンハーゲンで朝の散歩をしていて偶然、素晴らしい画廊を見つけたのですが、それが中島さんが発表している「Brich」で、あくる日ここの美しいオーナーにも紹介されたのですが、一級のコレクションを持っています。
 紅子さんの心のこもったおもてなしと、アンデス君の配慮の行き届いた案内で、中島さんのマルモ国立博物館の中庭にある「自由の鳥」のモニュメントや、今秋に大きな中島由夫展が企画されている国立の文化センターの会場などを周り、美しい港町や、お伽の国のような村などを案内してもらい一歳半の茉莉ちゃんに遊んでもらい、野兎や野鴨と出会う朝の散歩などスウェーデンライフを満喫したのでした。
旅日記後半、イタリア編は次回
尚、「忙中旅あり  北欧・イタリア編」はスライド約100枚を駆使して
  第71回 火曜サロンとして 8月12日(火)にお話いたします。